私は、あの日の事を繰り返し夢に見る。魔法少女、更紗帆奈。暗示の魔法と魔女を使って私達の人生を弄んだ、狂気の少女。今から丁度一年前に起きた魔法少女昏倒事件の犯人であり、私達は多くの魔法少女と共に彼女と戦った。結果として私は更紗帆奈に勝利した。ソウルジェムを破壊する直前まで彼女を追い詰めたが、私は自身の理性によって殺人を犯すことを免れた。彼女は私が止めを刺さなかった事に憤慨し、発狂し、そして自身のソウルジェムを破壊した。更紗帆奈は最後まで自分勝手に行動を続け、そして死んでいった。
「……あたしはあんたの反対側にいるんだよ……。でもね、いずれこっちに来る……」
最期の時、彼女は妙に冷静な声でそう言う。私の目の前で、この世の全てを諦めたような目で嗤う少女は、私に見せ付けるように自分のソウルジェムを掲げて、そして……。
命の砕ける幻聴で、ななかは布団から飛び起きた。夜明け前の真暗な部屋の中に荒い息遣いが溶けていった。額に流れる嫌な寝汗を寝間着の袖で拭い、しばらく座ったまま息を整えていると、壁掛け時計の音がやけにはっきりと聞こえた。寝付いてからまだ二時間と少ししか経っていなかった。布団から立ち上がるときに軽い立ち眩みを感じた。脱水によるものだろうと考えて、音を立てないように台所へと向かった。寝静まった家の中はななかの心内の原初的な恐怖を駆り立て、板張りの廊下が軋む音に一々神経が逆立った。冷たい水道水を一杯喉に通すといくらか気分が落ち着いた。ななかはコップを持ったまま寝室に戻り、縁側に腰掛けた。夜明け前の晩春の空は暗く、少し雲がかかっていた。
「嫌な夢ですね、ほんとうに……」
独り言を呟いて、もう一口水を飲んだ。ななかはあの日から何度も更紗帆奈を夢に見ているが、最近は殊更酷いものだった。ここ数週間は毎日のように悪夢に魘されるお陰で目の下には立派な隈ができてしまっていて、学友に無用な心配をされる始末であった。ななかは肌に当たる涼風を気持ちよく感じながら、左手の中指に嵌められた運命を空に翳した。赤い椿の花に似た色の宝石が素知らぬ顔で輝いていた。ななかは暫くそれを眺めていた。こんな物が命の実物であるなど、それこそ夢の中の話であって欲しいものだった。ふと思い立って、寝室に置かれた引出しを開き、掌に収まる大きさの小袋を取り出した。そしてその中身を左手の上に載せた。深い紫色の欠片が軽い音を立てて、寂しげに煌いた。この世の物とは思えないほどに澄んだ宝石は、ななかが他の誰にも伝えていない秘密。かつて更紗帆奈の命だったものを、小さな掌で包んだ。それは最早何の魔力も持たないただの石だったが、しかしななかには更紗帆奈の遺志が確かに其処に宿っているような気がしていた。更紗帆奈は最期の時、確かに何かを伝えようとしていた。それを彼女の口から聞くことは出来ないが、突き止めなければならないと思っていた。やがて朝日が昇り、ソウルジェムが光を受けて輝くまで、ななかは縁側に座っていた。寝汗はすっかり乾いて、少し身体が冷えてしまった。意識を沈めるとまた悪夢が呼び覚まされてしまいそうで、ななかは睡魔に抗い続けていた。
朝になって、ななかはいつもの通学路を歩いていた。動もすれば倒れてしまいそうな身体を律しながら歩く道は、高所訓練のような息苦しさすらあった。規則正しく配列された煉瓦道は果てが無く、すっかり葉桜となった木々が道行を迷わせた。ななかは目眩に似たふらつきで歩いていられなくなり、バス停に設置されたベンチに倒れるように腰掛けた。一日分の教科書を入れた通学鞄と頭上から降り注ぐ日光とが俯いた身体を苛んだ。背後に路線バスが停まったが、動こうともしないななかを暫く待った後に発車していった。
「……あれ、ななか?」
声をかけられて顔を上げると、心配そうな顔をした志伸あきらがいた。座ったななかと視線を合わせるために屈みこみ、鞄の中から水筒を取り出した。あきらが水筒の蓋にスポーツドリンクを注いでいる様子を、ななかは虚ろな顔で眺めていた。
「大丈夫? ほら、これ飲んで」
差し出されたスポーツドリンクを受け取ったまま、ななかはその水面を見つめていた。暗色の蓋の上に浮かぶ少女の顔は酷く憂鬱そうで、心配されるのも無理は無いと思った。ななかはそれを一息で飲み干した。そしてはっきりと前を向いた。あきらはななかと目が合って、その眼の下にできた隈をしげしげと眺めていた。
「……すみません。気を使わせてしまって」
「そんなこといいって。それより、寝不足?」
ななかは何だか自分の今の状況を話すことに気恥ずかしさを感じた。
「……ええ、まあ」
あきらの視線に居心地の悪さを覚えて、ななかはふいと目線を逸らした。バス通りは相変わらずの交通量で、銀色の群れが視界の端から端までを埋めていた。車が通る度に少し湿気た空気がななかの頬を不快に撫でた。珍しいこともあるもんだなあと妙な感心をしているあきらを横目に、ななかはゆっくりと立ち上がった。一瞬足元がふらついたが、ベンチに置いた通学鞄の取っ手を掴んで誤魔化した。
「ホントに大丈夫? あんまり無理しないでよ」
困ったような顔をしていたが、あきらはそれ以上理由を聞かなかった。ななかはそれが彼女なりの気遣いなのだろうと感じていた。2人で歩く通学路はいつも通りに無機質だった。
「そういえば、最近は美雨とも会ってないなあ」
世間話の続きで、あきらがそう口に出した。ななかにはあきらの言うような美雨への人恋しさはなかったが、それは定期的にメールでやり取りをしているからだった。
「美雨さんも、今は蒼海幇の方が忙しいみたいですから……」
本業が忙しいから暫くは顔を出せない……という旨の一週間前の日付のメールを見せると、あきらは納得したように、少し寂しそうな顔をしてみせた。
「どうせなら、ちょっとは頼ってくれればいいのに……」
学校は、そう遠くはなかった。
午前中の授業は恙無く終わった。ななかは変わり者の国語教師がテクストを音読している間、じっと窓の外を眺めていた。神浜の街は初夏の日差しの中に沈んでいた。そこには何も無かった。街の片隅で生死を懸けて戦う少女達も、何処かで産まれている筈の希望を願った愚かな少女も、街の何処にも見当たらなかった。道を行き交う人々は、奇跡と魔法が溢れるこの街のことなど何一つとして知らないのだ、と思うと、ななかの心には深い霧が立ち込めてくるような思いだった。マギウスとの戦いは終わった。多くの魔法少女が死んだ。自分たちが一人も欠けることなく生き残っているのは、ただ単に運がよかっただけだ。けれど、これから今までと同じ顔をして生きることなど、ななかにはとてもできなかった。視線の先にキュゥべえが居た。キュゥべえは何も言わず、じっとななかを見つめていた。風が吹くたびに自然に揺れる大きな尻尾が、ななかの苛立ちを刺激した。
「……キュゥべえさん」
キュゥべえとは、言葉を発さなくてもテレパシーで会話ができる。そんな基本的なことすら忘れ、自然に口を開いていた。キュゥべえは僅かに首を傾げるのみで、無感情な瞳から覗く深淵に覗かれている気持ち悪さだけが募っていった。
「常盤ななか」
キュゥべえの無感情な声は、公衆向けのアナウンスのような無機質さがある。自分の名前が呼ばれているのに、自分に言葉が向けられていないようにすら感じられた。
「グリーフシードの貯蓄がないみたいだね。魔女を倒さないと」
言葉だけは優しいのだ。見た目だけは可愛らしいのだ。ななかは幾度かの体験を経て、魔法少女が理想的な存在ではないことを知った。ソウルジェムを命とし、超常の怪物を討ち倒す存在。それは小説の中に描かれる正義の味方ではなく、魔女からグリーフシードという報酬を求める怪物だ。それを生み出すキュゥべえもまた、魔法の国から遣わされた神秘的な存在などではないことを、ななかは憶測として感じていた。ななかのソウルジェムに宿る『敵を見定める』力が、マギウスとの戦いが終わった後に再びキュゥべえを指し示すようになっていることも、その根拠のひとつだった。
「貴方はそればかりですね」
「それが僕の使命だからね」
「……どうして私を魔法少女にしたのですか」
「君がそう望んだからさ」
「意味が違います」
「それなら、君に才能があったからさ」
キュゥべえとの押し問答も、数えるのをやめた程にはこなしていた。キュゥべえはその度に、表情の無い顔で嫌な顔一つせずに同じ返答を繰り返す。逃れられない現実を刻み込んでくるように。
「そう、ですか」
ななかは少し目を閉じた。外から入る太陽の光が眩しかった。次に目を開けた時には、キュゥべえは蜃気楼のように消えていた。
クラスメイトの騒めきで教室に引き戻されたななかは、そこでとっくに授業が終わっていた事に気付いた。溜息を一つ吐いて、通学鞄の中から持参の弁当を取り出した。丁度その時、教室の扉が開かれる音を聞いた。
「常盤さん、います?」
クラスメイトの視線が一斉に向けられて、ななかは少し不愉快だった。扉の向こう側には見慣れた同学年の女生徒が立っていた。遊佐葉月が学内で声を掛けてくるのは珍しい事だった。ななかはポーカーフェイスの葉月に連れられて、誰もいない空き教室へと連れられて行った。隣の教室を通る時に不思議そうな顔であきらが見ていたので、ななかは心配ないのだとアイコンタクトを送った。
誰もいない教室の中で二人は向かい合って座った。誰にも聞かれない為に連れて来たのなら、きっと魔法少女の話だと考えていた。先に切り出したのは葉月だった。彼女はニコニコと笑う鉄面皮の裏から当たり障りの無い社交辞令を引き出していた。ななかは葉月がそういう人間である事は理解していたが、しかしこの魔法少女が何を話したいのかが分からなかった。
「……それで、何の用ですか?」
会話の流れを断ち切って、ななかは単刀直入に聞いた。葉月は少し詰まって、それから直ぐに仮面を付け直して話し出した。
「近いうちに、アタシらは引っ越すことになったんだ」
「引っ越す?」
葉月達は、暫く前に神浜の外から来た魔法少女の三人組である。更紗帆奈による一悶着に巻き込まれた後は、神浜の魔法少女としてななか達とは共生関係にあった。
「このはが決めた事なんだよね。最近はこの辺の魔女も減って来てるし、やりくりも厳しくなってるでしょ?」
「それは……そうですが」
「それに、またあのマギウスみたいなのが現れないって保証もない。……って建前なんだけど」
葉月はそこで言葉を切った。葉月の目線が僅かに下がったのを、ななかは見逃さなかった。
「このはは、何かを気にしてるみたいなんだよ。アタシにもあやめにも何も言ってくれないんだけど、何かを……」
ななかにはそれだけで、葉月の向こう側にいる静海このはが何を考えているのかが分かるような気がした。
「……葉月さん。ひとつ、聞いても?」
葉月は頷く。
「“魔法少女が魔女になる”……という噂を、ご存知ですか?」
「聞いたことは。でも、そんなのありえっこないよ」
「何故?」
「アタシ達魔法少女は、魔女を倒すのが使命でしょ。そのアタシ達が魔女になるなら、そんなのは唯のマッチポンプ。キュゥべえもそんな馬鹿な事はしないよ」
葉月は手をひらひらとしながら、噂を一笑に付した。そうして次にななかが口を開くより前に、葉月が先に動いた。
「そんなことより。アタシ達の引越しのことを伝えて欲しいんだよね。ななかのとこのかこちゃんに」
「かこさんに……」
「ほら、かこちゃんはうちのあやめと仲がいいじゃん。今日は勉強会をするから会うって話だけど、多分あやめは伝えられないから……さ」
今迄見てきた中で一番寂しい顔をする葉月を見て、姉共々子煩悩な一家だな、とななかは思った。結局、ななかと葉月はそれ以上の話をすることはないままに、昼休みの時間を終えた。昼食を食べ損ねたことに気付いたのは、次の授業を受けている最中だった。
何度かのメッセージのやり取りを経て、ななかは翌日にかこと会うことになった。画面を消したスマートフォンを鞄の中に仕舞うと、それに合わせて隣を歩いているあきらが口を開く。
「いや~、あの三人が引越しかあ」
ななかはあきらの地味な気遣いには好感を持っていた。夕暮れの通学路は思ったよりも薄暗く、眼鏡の硝子越しにあきらの横顔は上手く見えなかった。
「……彼女たちなりに、気を遣ったみたいでしたけど」
「グリーフシードくらい、言ってくれれば譲るのになあ。なにも出てくことも……」
彼女はそういう人間なのだ。ななかは心内で反芻した。
「このはさんって、ちょっと心配性が過ぎるところ、あるよね……」
そう言って、あきらは晩春の空を仰いだ。黄昏の空は雲ひとつない快晴だった。ななかは適当に相槌を打っていると、ふと独特な気配を感じた。歩道と車道を隔てるガードパイプの上に、キュゥべえがちょこんと座っていた。
「やあ、ななか。元気そうだね」
相変わらずの平坦な声で社交辞令を飛ばすキュゥべえは、ななか達と同じ速度で器用にガードパイプの上を歩いた。真っ直ぐ前を向いていても視界の端に入ってくるキュゥべえの大きな耳が、ななかには少し目障りだった。
「……何か用ですか?」
キュゥべえの方を見ずに、ななかは少し棘のある声を出した。キュゥべえはななかの問いかけには答えず、しかしななかの視界の隅から外れることもなく、じっと隣を歩いてきていた。
「ななか、どうしたのさ」
あきらに肩を叩かれて、ななかははっとした。車道を走る車の走行音が、はっきりと聞こえた。歩道と車道を隔てるガードパイプの上には、何かがいた痕跡すらもなかった。
「いえ、キュゥべえさんが……」
「キュゥべえ? どこにいるのさ」
あきらは立ち止まって周りをぐるりと見回したが、キュゥべえの特徴的な白い影はどこにも見当たらなかった。
「いえ、確かに今そこに……」
そこには何もない。確かにななかはその声を聞き、その姿を見た筈だった。柄になく挙動不審なななかを見かねて、あきらはもう一度声をかけた。
「ななか」
「……はい」
「しばらく休んだほうがいいよ。無理はよくないし」
あきらのその言葉にも、その目にも、軽蔑や軽視のニュアンスは何一つ含まれていない。純粋な心配なのだということは、ななかには痛いほど分かっていた。けれど、ななかには不思議とその心配を両手を広げて受け止めることができなかった。
「……ええ、そうさせてもらいます」
ななかは、あきらにまた嘘をついた。
陽が没した後、魔法少女は活動を始める。常盤ななかもまた、闇夜に蠢く悪意の権化たる魔女を狩る魔法少女の一人であった。神浜市はマギウスの騒動以降めっきりと魔女の数を減らしていたから、一人では魔女を見つけるのにも一苦労だった。それでも何とか魔法少女たちのソウルジェム事情が成り立っているのは、ただ魔法少女の数が目減りしてるだけだというのが、不都合な真実として聳え立っていた。普段はあきらかかこと一緒に魔女探しをしていたななかは、久しぶりに夜の街に一人で繰り出した。街灯の光に照らし出される街角は不気味な静寂と背筋をなぞる冷気に包まれていて、一人とはここまで心細いものだったのか、とひとりごちた。未だに少し肌寒い街に羽織ってきた上着を引っ張り、そのポケットの中に入れた小袋を優しく握った。魔法少女だった欠片はがしゃりと軽い音を立てるだけで、それがまたななかの心に不安を灯した。先の見えない世界の中では、いつ自分がこうなってしまうか分からない。だからこそ自戒と自律を込める意味で持ってきたのだったが、これは失敗だったな、と少しだけ後悔した。魔力反応を探しながら歩いているうちに、ななかは背後に気配を感じて振り返った。
「やあ、ななか。こんなところまで出てくるなんて珍しいじゃないか。魔女探しかい?」
ななかはキュゥべえを正視した。少し首を傾げたその獣は、どこからどう見てもこの世界に実在しているように見えた。けれど、ななかはその姿と声を無視して再び歩き出した。
「どうしたんだい、ななか。無視かい? 僕は君に嫌悪されるような行動をした記憶がないのだけれど」
無断で後ろをついてくるキュゥべえを無視しながら、ななかは歩き続けた。今のななかには、自分の認識を信用することができなかった。それが死線を潜り続ける魔法少女にとってかなり危険な兆候であることは薄々感づいていたが、それでもななかには心の中に燻り続ける焦りのようなものがあって、あきらの言う事を聞いて休むという選択を取ることはできなかった。
「……魔女だよ、ななか。僕の事は無視してもいいけど、くれぐれも気を付けて」
足を止めると同時に、キュゥべえがそう言った。ななかは無言でソウルジェムを取り出し、和装の魔法少女へと変身した。二振りの長さの違う日本刀を鞘から抜き放ち、混沌とした魔力の漏れ出る結界を切り裂く。魔力はそこまで大きくなく、ななか一人でも苦労なく討伐できそうに感じられた。境界の向こう側、乾いたコンクリートの床にしっかりと地に足をつけると、夜の帳が不自然に打ち払われ、どこか歪な青空が広がった。落下防止用の金属製の柵に、コンクリートに乗った給水塔。どこかの建物の屋上のような世界に、不似合いな何かが佇んでいた。巨大なカメオブローチに脚が付いたような体、周囲に浮くアドバルーンチックな物体には鋭利な針が付いている。コンクリートに打ち付けられた杭に足が縛り付けられている魔女は侵入に気付いているのかいないのか、結界の中に吹くそよ風に揺られるがまま、そこにいるだけだった。ななかは刀を構え、その魔女と向かい合った。ななかは経験上、積極的に襲いかかってくる魔女よりも、搦手を使う魔女の方が厄介であると感じていた。一つのミスが命取りになる魔法少女の闘いでは、不意を突かれればそれだけで死ぬのだから。
「屋上の魔女、その性質は夢想。……この程度の魔女なら、一人でも大丈夫だね」
無断で付いてきていたキュゥべえが、独り言のように言った。魔女の体の影から、緑色の手に脚が生えたような姿の手下が、ひょっこりと姿を現した。それは指に引っ掛けた鍵束をくるくると回して耳障りな音を立て、それを合図に大量の同じ見た目の手下がぞろぞろと姿を表し始めた。
「これは……」
「囲まれているね。気を付けて」
全方位から金属の擦れ合う不愉快な騒音を立てながら、手下たちはななかの様子を伺っているようだった。不協和音は鳴り止まず、それはななかの耳には不快な嗤い声のように聞こえていた。
「……煩い!」
ななかは魔女に向かって踏み出しながら、手近にいた手下を一刀のもとに斬り捨てる。手下の指が脚から離れ、黒い靄になって消滅する。手下たちは外的に向かって飛び出し、それぞれが持つ鍵束を武器として襲い掛かる。小刀で弾き、長刀で両断する。手下の一体を他の手下に向かって蹴り飛ばし、鍵の叩きつけを避けたそのまま本体を刺し貫き、投げ捨てる。ただ数だけが多い手下たちはななかの前に文字通り手も足も出ず、次々と消滅していく。魔女の暗く淀んだ魔力が周囲に漂い、ななかは胸の内に重いものを感じて苦い顔をした。不意に背中から襲う手下に気を取られ、ななかは魔女から目を離した。普段のななかなら、その直前に魔女本体がこちらに向けて動いていたことに気付けたはずだった。手下を斬り伏せたななかが振り返った時には、魔女のアドバルーンに接続された針が目の前に飛んできていた。
「ななか!」
右肩を腕の太さほどもある針で貫かれながら、ななかはキュゥべえの声を聞いた。苦悶の声が思わず漏れた。凶悪な返しが付いた針は肩を易々と貫通し、そのまま身体ごと空中へ引っ張られていく。肩が千切れ飛びかねない痛みに意識が持っていかれ、手下が投げた鍵束を避ける余裕はとうに失っていた。腹筋に鋭い痛みが走り、見下げた腹には着物の帯を貫通するように鍵束の鍵が突き刺さっている。赤い色合いの着物は既にどこから出ているのか分からない血の色で赤黒く染まり始めていた。
「離、せぇ!」
振りかぶった小太刀が魔女の針とかち合い、金属同士が擦れ合う甲高い音が鳴り響いた。筋繊維が千切れる生々しい断裂音が身体を伝い、自身で起こした衝撃が骨を震わせた。ななかは痛覚を誤魔化す咆哮と共に左手を振り抜き、肩を貫く針を両断した。僅かに宙に浮いていた身体が地面に落ち、受け身を取れずに背中をコンクリートに打ち付け、背骨に鈍い痛みが走った。右肩は何とか千切れずに済んだものの、神経が駄目になっているのかブラブラと力なく垂れ下がっていた。荒く息を吐くたびに、腹にぶら下がった鍵束ががしゃがしゃと喧しい音を立てた。魔女は針を斬られた程度ではダメージにもなっていないようで、相変わらずどこを見ているのかゆらゆらと揺れていた。周囲の手下は再び襲い掛かろうと様子を窺っているように見えた。ななかは怪我の割に痛みを感じていない身体を無理矢理奮い立たせ、魔女を正面から見据えた。魔女はそこまで強くはない。動きも素早くなく、手下達の統率も取れているとは言い難い。ここまでダメージを受けている原因は偏にななかの動きが鈍いからであるのは、自覚せざるを得ない事実だった。
「……後悔先に立たず、か……」
足を動かす度に、血の池が不快な水音を立てながら靴の裏にへばり付いていった。魔女がその身体をゆっくりとななかの方へと向けるのを、霞み始めた視界の中で見つめていた。視界の端で、手下の一体が跳ねた。父の顔が、意識の中に自然と浮かんできた。それから、復讐とか、同盟とか、事実がぐしゃぐしゃのまま頭の中を走り抜けていった。これが世に聞く走馬灯というものなのか、と不自然に冷静な自分が俯瞰していた。
「私は……」
思わず呟いた言葉は、そんな意味のないものだった。瞬いたななかは耳を劈く風切り音を聞いた。目の前まで迫っていた手下に特徴的なスペード型の矢尻が突き刺さっていることに気付いたのは、背中から声をかけられた時だった。
「そこの人! 大丈夫ですか!?」
どこかで聞いた声だった。ななかの足元から地を這う炎が燃え上がり、壁になるように周りを包んだ。人肌に包まれているような、優しい炎だった。
「みと、カバーして! せいかは魔女を!」
「わかってる……よ!」
襲い来る手下達が次々と狙撃されていく中で、少女がななかの隣に降り立った。赤い着物がななかに少し似た少女は長髪を靡かせながら、へたり込んだななかの横で屈んだ。
「……あれ、ななかさん!?」
「あなたは……確か……そう、れいらさん、でしたね……」
左手に大きな盾を付けた伊吹れいらが、意外そうな顔でななかを見つめていた。
「とりあえず、話は後です。立てますか?」
ななかは左肩を支えられて、なんとかその足でもう一度立ち上がった。れいらの魔法なのか、身体中の傷は多少ましになっているように感じられた。意識も徐々にはっきりと戻ってきていて、それに伴ってじわじわと傷の痛みも戻ってきていた。
「ええ、なんとか……。ありがとうございます」
「一旦引きます。せいか! よろしく!」
「……うん!」
いつの間にか活発に動き出していた魔女のアドバルーンを捌いていたもう一人の少女が、手に持った鞭のような長物を地面に叩きつけると、乾いたコンクリートの地面から、水飛沫が上がった。鞭を振り回すと、その水が次々と宙に飛び散り、それらは霧雨のように、そして霧のように広がっていく。魔力によって生まれた霧が辺り一面を覆い尽くすのにはそこまでの時間はかからず、それはななか達の姿をすっかり隠してしまった。
「みんな、こっちだよ!」
「みと、ありがと。こっちです」
しっかり退路を確保していた小柄な三人目の少女に連れられて、ななか達は無事に結界を脱出した。
れいらの魔法で治療を施されている間、ななかはぼうっと夜の街を眺めていた。彼女達に助けられなければ自分は死んでいたのだろうという実感が、今更ながらに魂を揺すって、ななかは自分の子供のように震える肩を抱いた。
「あ、ごめんなさい、痛かったですか?」
「……いえ」
僅かに首を振る以外、何も出てこなかった。ふと顔を上げて見ると、れいらが神浜市立大附属の制服を着ている事に気付いた。もう時間は十九時をとっくに過ぎているはずである。私服を血で汚すわけにもいかず、ななかは時計を探して見回すと、れいらの腕に巻きついたかわいらしい腕時計を発見した。
「れいらさん、今、何時ですか?」
その言葉でれいらも時間を意識しだしたようで、あわてた顔で腕時計を見た。
「……そろそろ八時、ですね。やっちゃった……」
「どうしてこんな時間に制服で……?」
「えーっと、ですね……。三人で帰り道にお茶してたんですけど、ついお喋りしてたら遅くなってしまって。そうしたらキュゥべえに呼ばれたんですよ、魔女だって」
「キュゥべえさんに……?」
れいらが自然に向いた方には、魔女の結界を監視している桑水せいかがいた。そしてその肩にちょこんと乗ったキュゥべえが、その大きな尻尾をゆらゆらと揺らしていた。
「皆さんは、大東の方でしたよね」
「そうなんですけど、みとが引っ越して今はこの辺りに住んでいるんです。学校からはこっちの方が近いので」
「なるほど……」
すっかり体の痛みは引いていた。コンクリートには少しだけ赤黒い跡が残ってしまったが、かなり失血したというのに不思議とななかの意識ははっきりと戻っていた。それで、この辺りが新西区に近い場所であることにようやく気付いた。前後不覚のまま歩いているうちに、随分と遠くのほうまで来てしまったようだ。とはいえ住所上は参京区のはずで、この三人は小洒落たなカフェにでも行っていたのだろうか、などとどうでもいい事を考える余裕さえ出てきていた。
「……もう大丈夫です。ありがとうございます」
念入りに治療しようとするれいらの手を退けて、ななかは変身を解きながら立ち上がった。ちらりと左手に見えたれいらのソウルジェムは、ななかの治療のためなのかうっすらと濁りを湛えていた。ななかは小さく息を吐いてポケットを探ったが、あるのは例の小袋だけで、グリーフシードの持ち合わせは無かった。指が触れる度にかさかさと鳴る雑音が自分を嘲笑っているようで、思い切り袋ごと握り締めた。視界の端ではれいらの横に駆け寄ってきた相野みとが、少し焦った様子でグリーフシードを手渡していた。
「れいら、これ使って!」
「え? あはは、まだ全然大丈夫だよ。ほら」
れいらが笑って出したソウルジェムにみとが無断でグリーフシードをかざすと、さすがのれいらも驚いて変な声を出してしまう。それで少し離れているせいかの肩がびくりと跳ねたのを、ななかは穏やかな気持ちで眺めていた。
「ちょっと! 勿体ないでしょ!」
「……ほら! さっきの魔女、ななかさんがやられちゃうくらい強いんだし、ちゃんと回復しておかないと! ね!」
半ば強引に押してくるみとを抑えながら、れいらは申し訳なさそうに笑っていた。ななかはそれですっかり和んで、思わず笑みを溢してしまった。
「少し油断していただけです。三人がかりなら余裕で勝てる相手だと思いますよ」
「ななかさんは、少し休んでてください。私たちがやっつけちゃいますから」
そう言って笑うれいらの顔が眩しくて、ななかは思わず顔を逸らしてしまった。隣にいたみとと目が合った。みとはやけに不安そうな顔をしていたが、ななかの方を向いているれいらは気付いていないようだった。
「……そう、ですね。そうさせてもらいます」
「私たちはまだグリーフシードに余裕がありますから、もしこの魔女が落としたらななかさんに譲ります」
れいらは事も無げにそう言って、そして軽く会釈をした後に二人を伴って結界の中へと消えていった。ななかは暫く座り込んだままだったが、結局戦いの決着がつく前にその場を後にした。
「よかったのかい? グリーフシードを譲ってしまって」
どこからともなく、キュゥべえの声が脳内に響いた。ななかはさり気なく周囲を見回したが、目に見える範囲にあの憎たらしい白い影はなかった。けれどキュゥべえの声は続いていた。
「君のソウルジェムも、少し穢れてきているようだよ」
無意識に視界に入ったソウルジェムは、魔女と戦う前よりも濃い色をしている。三人組とは既にかなりの距離が開いていた。角を曲がった先も無人だった。まばらな街灯が不安定な足元を照らしていた。今頃三人はあの魔女と戦っているのだろうか、などと詮無い事を考えながら、ななかは黙って歩を進めていた。そうしている間にも、キュゥべえの声は追うことをやめてくれない。
「折角の魔女を譲ってしまうなんて……。これから先の当てはあるのかい?」
「……黙れ」
堪えかねて、ななかは鋭く呟いた。その時だけは静かになったような気がしたが、すぐに頭の中にあの声が響き始めるのだ。
「無駄だよ。君も分かっているだろう?」
「僕は現実的な提案をしているだけだよ。今ならまだ間に合うだろうし」
「危機感は持っている筈だ。現状が不安なんだろう?」
「グリーフシードは確保できる時に持っておくべきだ」
「魔女を倒さないと。それが使命なんだから」
「ななか、君は魔法少女なんだから」
「黙れ!」
閑静な街に、虚しい怒声が吸い込まれていった。視界の端を動く白いものを目に捉えようとしても、何度やっても上手くいかなかった。
「私に話しかけるな!」
右手は空を切った。異常性を自覚したところで、状況は改善しなかった。
「グリーフシードを手に入れるんだ。それが君の使命だ」
「グリーフシードを……」
「魔女を倒すんだ。そうすれば手に入る。分かっているだろうけど」
その日、ななかは一睡もすることができなかった。目を閉じると頭に響く無機質な声で、呪いのように心を蝕んでいく感覚ばかりが膨らんでいった。ななかは家の縁側から日の出を見た。美しい光景を目にしても、ななかの心内は晴れなかった。これが自分の不安に起因しているのだろうという詮無い考察ばかりが、ぐるぐると頭の中を回っていた。
一日の授業中に何度も寝落ちかけるのも、生まれて初めての体験だった。同じ行動も行う人間によって評価は変わるもので、周りからの心配な目線が居心地の悪さばかりを増幅させた。ホームルームの終わりとともに、ななかは逃げるように一人で学校を出た。
かことの待ち合わせは少し時間に余裕があったが、ななかは家に帰る気も起きず、先に夏目書房へと向かうことにした。かこの通う神浜大附属は新西区にあるが、夏目書房は参京区にあるので、ななかが着くころにはまだかこは帰っていないようだった。店番の青年に話を通した後、ななかはぼうっと古本の山を眺めていた。教科書の中で見慣れた活字たちが埃を被って眠っていた。僅かに焦点が合わない視界の中でわらわらと騒ぐ漢字たちを見ていると、ふと美雨のことを思い出した。彼女とは一週間前にメールのやり取りをした後は、一切の連絡をしていなかった。スマートフォンを取り出してメールボックスをチェックするが、当然新着メールはなかった。送信ボックスの先頭には、返信の付かなかった最後のメールが表示されていた。ななかは心内に湧き上がってきた妙な焦燥感に駆られるままに、美雨に近況を尋ねるメールを出した。「送信完了」の文字が出たその時、ななかの手元に影が落ちた。
「お待たせしました、ななかさん」
神浜大附属の白い制服に身を包んだ夏目かこが、相変わらずの優しそうな笑顔を湛えていた。ななかは何故だかばつの悪い気分になって、急いでスマートフォンを鞄の中に仕舞った。
「かこさん、お疲れ様です」
「ありがとうございます。それで、話というのは……?」
内向的な見た目に反して意外と社交的な彼女の単刀直入な質問が、ななかに妙な安心感をもたらした。
「……あまり聞かれたくはない話なので。よろしければ、かこさんの部屋にお邪魔しても?」
一も二もなく快諾したかこに連れられて、ななかは書店のすぐ近くにある住居へと向かった。やけに機嫌が良さそうなかこの背中を見ていると、消えたはずのざわつきが再び湧き上がってくるようだった。
「ごめんなさい、あまり片付いてなくて……。お茶持ってきますから、その辺に座っててください」
「いえ、気遣いは……」
「いいんですよ。今日のななかさんはお客様なんですから!」
かこの部屋は、本人が言うよりずっと小綺麗だった。綺麗に巻数順に並べられた本棚には一箇所だけ歯抜けがあって、それはきっとかこが外に持ち出して読んでいる本なのだろう。学習机の上はとても綺麗とは言い難い状況であり、床には綺麗に積まれた本が散見されたが、それを加味してもあきらの部屋にお邪魔した際に見たあの煩雑な女児部屋よりは随分とましである。簡素な見た目の掛け時計は午後の五時半近くを指していた。大きめの南窓からはもう太陽は見えず、蛍光灯を点けなければ薄暗くなっている時間であるとはいえ、夏が近付いて日が長くなっていることには季節感も感じられた。
「お待たせしました」
内開きのドアを開けたかこは、片手でコップの二つ乗った盆を支えていた。ななかは立ち上がって手伝おうとしたが、ドアを後ろ手で閉めているかこにやんわりと断られた。盆と一緒にフローリングの床に直に座ったかことななかは向かい合った。空調の効いていない部屋は少しだけ蒸していた。
「相変わらず、本が好きなんですね」
何気なくななかが手に取った本は、少し埃の乗った植物図鑑だった。
「ななかさんが気になるなら、オススメの本を貸しますよ?」
かこも手近にあった本を手にとってぱらぱらと捲っていた。ハードカバーの分厚い翻訳本だった。
「お気持ちだけ、受け取っておきます」
ななかは手に持った図鑑を本の山に戻した。そしてかこが持ってきてくれたガラスのコップに入った麦茶を一口飲んだ。普段は緑茶を飲んでいるから、少しだけ違和感のある味だった。
「……話というのは、あやめさんの事です」
「あやめちゃんの……?」
ななかの口からその名前が出た途端に不安そうになったかこの顔は、やはりななかの心をちくりと刺した。
「あの三人が神浜の外から来た魔法少女だったということは、もちろん知っていますよね」
「はい」
「神浜に魔女が集まっていたことで、彼女たちは神浜へとやってきました。しかし、今の神浜は魔女が減っています」
「そう、ですね……」
「……静海このは、遊佐葉月、三栗あやめ。三人は、神浜を出て行くそうです」
「えっ……」
そうなんですか、と呟くかこはすっかり顔を伏せてしまっていた。あの三人組が神浜に溶け込むことができたのは、かことあやめの関係があったからだと言っても過言ではないだろう。同じ年齢だというだけの理由で友達になってしまったかこの行動力には目を見張るものがあるが、その分繋がった後の仲もかなり良いものだった。似たような経緯で交流を結んだ深月フェリシアと三人で遊んでいる姿を、ななかもよく目にしていた。そんな友人が突然居なくなってしまうのだ。こうして伝言係をやっているななかでさえ、あの三人が居なくなるという話には未だに現実味を感じられていないのである。どうやって二の句を継ごうかと思案しているななかの目の前で、かこはいつの間にか顔を上げていた。
「それなら、お別れ会をしなきゃいけませんね!」
妙にやる気のありそうなその言葉を聞いて、ななかはひとつ、溜息を吐いたのだった。表面に結露ができた麦茶をもう一口飲むと、今度はするりと喉を通っていった。
「……それと、もうひとつだけ」
かこの顔が、一気に引き締まった。
「これは連絡ではなくて、個人的な相談事なんですが……」
「……相談、ですか? ななかさんが、私に?」
素っ頓狂な声を上げた。はい、と相槌を打ちながら、ななかは喉に微妙な突っかかりができた気がした。
「最近、妙な夢を見るんです」
「夢……」
「更紗帆奈という名前を、覚えていますか?」
息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「……忘れるわけ、ないですよ」
更紗帆奈の名前を聞いてここまで純粋に悲しむ顔ができるのは、きっと彼女くらいのものだろうと思っていた。だからこそだった。
「分からないんです。何故彼女の夢を見るようになってしまったのか……」
「それは、いつ頃からですか?」
「……マギウスを名乗る魔法少女たちを退けた後から、です」
それは数週間前の話だった。かこはななかの顔を正視して改めてそのやつれ具合を認識したようで、考え込むように目線を下げてしまう。
「急に見るようになったということは、やはり何か原因がありそうですね」
「それが分かれば苦労はないんですが……」
「そう、ですよね……」
暫く考えて、
「夢が、何かを暗示しているとか……?」
独り言のように呟いた。そうしてすぐにはっと顔を上げて、緩く首を振りながらまた俯いた。そうして暫く、二人とも黙りこくっていた。無意識に触れたコップは結露がひどくなっていた。
「……もしかしたら、ですけど」
少しの沈黙の後、かこは口を開いた。
「何か、更紗帆奈さんに関係のある事に出会ったのかもしれません。それが無意識に夢として出てきている、とか……」
自信無さげなかこの言葉に、しかしななかは覚えが無いのだった。
「夢の中で、彼女はいつも同じ事を言うんです」
『あたしはあんたの反対側にいるんだよ。でもね、いずれこっちに来る』。その言葉の意味は、ななかにも分からなかった。更紗帆奈が言うように、ななかは彼女とは正反対であったという自覚はあった。ななかには理性があり、自制心があり、そして何よりも仲間が居た。ななかが更紗帆奈のようになるというのは、到底考えられないことだった。
「大丈夫ですよ。根拠は、無いですけど……」
「……ありがとうございます」
その言葉だけで、何かが救われるようだった。深く突き刺さっていた不快な楔が、ほんの少しだけ緩んだような感覚だった。網戸越しの風がふわりと室内に入り、レースのカーテンが窓側に座るななかの背中をなぞった。
それから、ななかとかこは他愛の無い話をいくつかした。共通の知り合いの話や、学校での話。ななかは自分が現実逃避をしようとしている事に気付いていたが、それを止められるほどの残酷さを持ち合わせてはいなかった。かこもそれには気付いているようだったが、不思議そうな顔から進展することは無かった。お互いのコップの中身が空になる頃には、窓の向こう側は街灯が道路を照らしていた。ななかはおもむろに立ち上がって、通学鞄の中からスマートフォンを取り出した。見知らぬ番号からの不在着信が一件入っていた。
「それでは、私はそろそろ……」
「ななかさん、今日の夜も魔女探しに行きますか?」
そう聞かれて、ななかは曖昧な首肯を返した。かこは妙に嬉しそうな顔をして、それからいつもの調子でこう続けた。
「それなら、今夜は私に付き合ってもらえませんか?」
ななかが家に帰る頃には、すっかり闇が空を覆っていた。一通りの雑事を終えた後でも、かことの待ち合わせの時間には十分な余裕が残っていた。ななかは部屋の中で、じっと待ち受け画面を眺めていた。不在着信は何度見直しても知らない番号だった。夕方に美雨へと送ったメールには、返信は付いていなかった。逡巡していた親指は、ようやくリダイヤルをかけた。耳が痛くなるような静寂の中に、不穏なコール音が何度か響いた。ちょうど五回目のコールで、電話は繋がった。
「……もしもし」
「あんた、常盤ななかって名前か?」
返ってきたのは男の声だった。
「……貴方は誰ですか?」
電話先では数人の男と女の話し声が聞こえてきていた。少しして、もう一度男が出た。
「俺たちは蒼海幇だ」
「ソウカイヘイ……」
ななかの背筋に、嫌な予感が走った。
「美雨さんのいる蒼海幇、ですよね。南凪区の」
「やっぱりか……」
「どういう意味ですか?」
「なあ、あんた。常盤ななか、だっけ。あんた、美雨が今どこに居るのか、知ってるのか?」
電話越しの声が、明らかな剣幕を見せた。ななかは思わず姿勢を正した。体が無意識に震えていた。
「まさか、美雨さんは」
「頼むから答えてくれ。美雨はどこに居るんだ」
徐々に鬼気迫ってくる男の圧で、一気に息詰まるのを感じた。美雨が……魔法少女が行方不明になっている。それは、つまり──。
「……知りません」
「なに?」
「私は何も知りません!」
その勢いのまま通話を切断した。抑えられていた筈の胸騒ぎが心臓を打った。背中を這い上がる不快な緊張に居ても立ってもいられず、ななかは家を飛び出した。夜の街を走っている内に、今自分が夏目かこに会いに行っているのだと思い出した。焦燥感は収まることを知らなかった。今すぐにでも美雨を探しに行こうかと考えたが、何一つ当てなど無かった。夜の中で自分を待っているかこに向けて連絡をしようと考えたが、引っ掛けてきた上着にはスマートフォンは無く、代わりに不快な音を立てる小袋が入りっぱなしになっていた。無駄な思案を重ねている間にも刻々と時間は進んでいた。ふと誰かに呼ばれた気がして、ななかは周りを見回した。少し離れた待ち合わせの場所には先客がいた。特徴的な長い耳を風に揺らし、闇夜に浮かび上がる赤い目が不気味に煌めいていた。
「やあ。随分と焦っているようだね」
暢気な声だった。
「今日は魔女探しかい?」
ななかはついと視線を逸らした。外した視界の中にも、大きな尻尾のシルエットが浮かんでいた。
「それとも、純美雨を探しに行くのかい?」
不快な小動物を意識から消そうとしても、それは常にななかの視界の中に座っていた。声は脳裏に直接響いた。目を閉じ、耳を塞いでも、しかしそれはななかの意識の中に確かに居た。
「行方不明の魔法少女を探しに行くのは、無駄だと思うけどなあ」
目を閉じても、瞼の裏を歩いていた。耳を塞いでも、鼓膜の前に座っていた。
「美雨の事は諦めた方がいい。それよりグリーフシードだ」
「自分のソウルジェムが濁っているのには、勿論気付いているんだろう?」
「相野みとは、何故あんな必死に穢れを浄化していたんだろうね」
「魔女を倒さないと。君の使命だろう」
「君は君自身の意思で魔法少女になった。運命を受け入れないと」
ななかは、やがて声を聞くことを諦めた。それから、どれくらいの時間が経ったのか。ふと、待ち合わせの場所でただ立ち尽くしている自分を認識した。キュゥべえも、魔女も、周りには何もなかった。疎らに立った街灯が、足元を薄ぼんやりと照らしていた。ななかは自分が異常な状態にある事を薄々自覚していたが、いよいよ不味いことになって来たのだと自認せざるを得なかった。そんな自己認識を整理している内に、遠くから小走りで駆けてくる足音が迫ってきていた。初夏の装いに相応しい薄手の上着を羽織ったかこは、制服を着ているよりも幾分か幼く見えた。
「お待たせしました、ななかさん」
ぺこりと頭を下げる少女の姿には小動物的な可愛らしさもあるな、とななかは場違いな感想を抱いていた。
「今日付き合って欲しいのは、魔女退治じゃないんですけど」
と言いながら、かこは何処かへ向かって歩き始めたので、ななかは半歩後ろを歩いていった。向かっている先は新西区の方らしいと気付いたのは、通り過ぎるバス停の名前を覚えていたからだった。新西区は参京区よりも都会的で、夜中の大通りを我が物顔で走り回るトラックの騒音で溢れていた。しかしそれもひとつ脇道に逸れれば無いようなもので、閑静な住宅街の中には僅かな残響が残るだけだった。二人は黙々と歩いていく。普段は自分から交流を図ることが多いかこは、今日は不思議と黙り気味で、ななかはそんなかこの横顔を時折覗いては、また足元へと視線を落としていた。
「もうすぐです」
歩き始めてそう経たない内に、かこが口を開いた。ななかが顔を上げると、少し遠くのほうに大きめな建物が見えた。ななかも何度か見たことがある、神浜市立大学附属の校舎だった。
「ここは……」
「何も言わずに、付いてきてください」
かこはそう言って、閉め切られた正門を魔法少女の身体能力によって軽々と飛び越した。ななかは一瞬唖然とした風に固まってしまったが、しかし何も言わずに後に続いた。勝手知ったるといったようにすいすいと校舎の外壁を登るかこの後ろに続きながら、あの夏目かこが不法侵入の常習犯だったという事実におかしな衝撃を受けていた。屋上に到着する頃にはそれまでの悩みなどどこかに行ってしまい、目の前でひょこひょこと動いている少女があどけない見た目で何か悪事を働いているのではないかと気が気でなかった。
校舎の屋上は、どこかで見た屋上とは雰囲気を異にしていた。遠くから聞こえていた車の走行音は、地面に立っている時よりもずっと小さくなっていた。夜の闇を払う人工の明かりもここまでは届かず、それでもしっかりお互いの顔を認識できるくらいに明るく、それはひとえに月明りによるものだった。
「今日は、満月でしたね」
空を見上げるななかの横で、かこが少し残念そうに小さな溜息を吐いた。
「ここは、綺麗に星が見えるんです。今日は、あまり見えないですけど……」
ごめんなさい、と言いたげなかこの目を制して、ななかは徐に屋上の床に寝転がった。かこは少しだけ呆気に取られて、それからいそいそと隣に寝転んだ。視界には夜の闇と、それを過剰な光で塗りつぶす満月だけがあった。
「月が綺麗ですから。月見には少し早いですが」
そんなことを呟いた。そうですね、と隣で安心したように微笑むかこの声が聞こえた。
「ななかさん」
「はい?」
「あんまり、一人で抱え込まないでくださいね」
その呟きは、強烈な寂寥感と共にななかの鼓膜を揺らした。かこはじっと夜空を眺めていた。
「……そう、ですね」
かこは、ななかよりも交友関係が広かった。その分失ったものも多かった筈だというのに、ななかはかこから相談を受けたことは無かった。きっと誰にも言っていないのだろう、と思った。曖昧なななかの返事は、誰にも届かずに消えた。
結局、かこに美雨の事は伝えられなかった。気掛かりを一つ増やしたまま、ななかは重い足取りで学校へと向かっていた。昨夜帰宅したななかは、大量の不在着信に怯えてスマートフォンの電源を落とした。夢の中の更紗帆奈はいつも通りにななかを責めた。今日は弁当が無く、どこかで昼食を調達しなければならなかった。ななかはただ歩を進めていた。自分が何も考えられないようになっていくのを感じていた。それが何故なのかを考えるような気力は既に無かった。
「ちょっとななか、大丈夫?」
声をかけられるまで、あきらが後ろから歩いてきていたことにも気付けなかった。ゆっくりと振り向いたななかの顔はそれは酷い有様で、あきらは思わず半歩引いた。
「……あきらさん。おはようございます」
声も平坦で、いつもは怜悧な光を宿している目も焦点が合っていないようだった。あきらは一昨日より数段酷くなっているななかを見かねて幾つか質問を飛ばしたが、しかしその殆どはただ曖昧な相槌が返ってくるだけだった。
「ななか、ほんとに休んでるの?」
「あきらさん、私は大丈夫です」
明らかに大丈夫ではない状態のななかにそう断言されて、あきらは足を止めてしまった。隈の酷い目元には厭なギラ付きばかりが目立っていた。ななかは隣で心配そうに声をかけるあきらを、どこか客観的に眺めていた。
「ななか、ちゃんと誰かを頼ってよ。ボクでダメならかこちゃんでも美雨でも……」
「美雨さんなら、行方不明ですよ」
あきらの口から出た名前に、ななかは無意識的に反応してしまった。しまった、と思った時には、もうその言葉はしっかりと届いてしまっていた。
「……え?」
どさり。鞄が地面に落ちる音で、ななかは我に返った。あきらは信じられないような目でななかを見ていた。その唇はわなわなと震えていた。ななかはあきらの肩越しにキュゥべえを見た。彼は相変わらずの無機質な瞳で俯瞰していた。
「美雨が……行方不明……?」
あきらの声は、今までに聞いたことが無いほどに震えていた。肩に掴みかかるのを堪えているようにも見えた。キュゥべえはその大きな尻尾を不規則に揺らしていた。葉桜が風に揺れて大きな音を立てていた。
「メールで、ちゃんとやり取りしてるって」
あきらはじりじりとななかの方へ近づいていた。ななかは妙な威圧感に襲われて一歩も動けないまま、ただぼうっと正面を見ていた。車道を大型のトラックが走り抜けていって、その風であきらの短髪を揺らしていた。
「嘘を、ついたの?」
ななかは弁解を試みたが、言葉は喉につっかえていて、ただ無意味に口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。あきらは震えたままの目でじっとななかを見詰めていた。そしてななかが何も口にしない事を悟ると、ふいと目を逸らして、地面に落ちた鞄を拾い上げた。ななかはその目に宿った明らかな失望の色が急に恐ろしくなり、咄嗟に声を出した。
「あきらさん」
「……ボクは美雨を探しに行くよ」
そう呟いて背を向けたあきらの肩に、キュゥべえが乗っているのが見えた。ななかはその背中を見詰めたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。やがて角を曲がってその姿が見えなくなったとき、ななかは自分が独りで通学路に立っていることに気付いた。このままあきらを一人で行かせてはならないと、根拠の無い不安ばかりが募っていた。
「あきらなら、南凪区の方へと向かったよ」
どこからともなく現れたキュゥべえが、そ知らぬ顔でそう言った。ななかの足は自然とあきらの後を追っていた。すれ違う参京院の生徒達が不思議な顔でななかを見ていた。挨拶を返せるほどの余裕も無かった。
平日の昼間に南凪区へと行くのは、酷く久しぶりだった。見慣れない街を歩きながら、ななかはソウルジェムを使って魔力を探知していた。肩に乗ったキュゥべえも耳やら尻尾やらを忙しなく動かしながら、あきらの魔力反応を追っているようだった。視界の端にちらちらと映るそれはななかには邪魔でしかなかったが、降りろと言う気にもなれなかった。
殆どの魔法少女が学校に行っている時間だからか、街中に魔法少女の反応は殆ど無く、それ故にあきらの反応はすぐに見つかった。あきらも魔女を探しているようだったが当ては無いようで、目的も無く南凪区を歩き回っていた。路地の曲がり角で鉢合った二人は、暫くの間お互いを観察していた。先に口を開いたのはあきらだった。
「ななか」
「あきらさん、ごめんなさい」
ななかは素直に頭を下げた。
「騙すつもりは無かったんです。ただ、その」
「……うん、ボクもごめん。いきなりだったから、ちょっとビックリしちゃって」
「……はい。美雨さんが行方不明というのは本当です。昨日、蒼海幇の人から電話が来ました」
「ななかの所に? なんでだろう」
「分かりません。ですが美雨さんの事です。何かあったときは私に連絡を取るように手を回していたんでしょう」
「魔法少女だから、か……」
魔女と戦う魔法少女だから、いつ非常事態に陥るかは分からない。あきらはその意味を飲み込めずにいた。
「美雨を探そう。まだ、魔女と戦っているかもしれないし」
「……あきらさん、恐らく、美雨さんは……」
ななかの言葉を、あきらは聞かないふりをしていた。理解していることと納得することは別だということは、痛いほど分かっていた。
「義を見てせざるは勇なきなり。美雨が困ってるなら、助けてあげないと」
あきらもまた、ある程度の現実逃避を持って現実と立ち向かっているのだと、ななかは一人で納得した。
「とにかく、魔女を探しましょう。ここはテリトリー外ですから、下校時間までには済ませないと。かこさんを呼ぶのは止めておきましょう」
「わかった。手分けして探そう。ななかは何か当てはあるの?」
「いいえ。ですが、蒼海幇の仕事にかかりっきりだったのは事実です。……私も、決心がつきました」
リダイヤル。数コールの後、電話は繋がった。
「……常盤ななかです。美雨さんの件で、聞きたいことが」
「何も知らないんじゃなかったのかよ」
「ええ。ですが、私達なら美雨さんを見つけられるかもしれないんです」
「何だと?」
「美雨さんが最後に目撃された場所を教えてください。できれば、その日の予定も」
「何の根拠があって、見つけられるって言ってるんだ」
「……美雨さんは、何かあったら私に連絡を取れと言っていたんですよね」
「……そうだ」
「それが理由です。私を……いえ、美雨さんを信じてください。彼女は私なら何とかできると信じて、そう言ったんです」
沈黙。数秒の後、大きな溜息と共に紙を捲る音が聞こえた。
「あの日、美雨は南凪区の再開発地域のほうへ向かってた。俺達もそれ以上は知らないが……」
ななかは頭の中に地図を思い浮かべた。南凪区は南側が海に面しており、今でも埋め立てと再開発が頻繁に行われていた。
「……俺達じゃあ、どれだけ探し回っても手掛かり一つ見つからなかった。お前なら、見つけられるんだな?」
「見つけます。美雨さんは、私の──友達ですから」
隣では、あきらが真っ直ぐな目でななかを見ていた。ななかは静かに頷いた。
「行きましょう。美雨さんを探しに」
「うん、行こう!」
蒼海幇から提供された情報を元に、ななかとあきらは再開発地域へと向かった。南凪区の南側は埋立地を利用したテーマパークであるミナギーランドが有名だが、それ以外の場所でも多くの埋め立てや開発が行われており、立ち入り禁止に指定されている区画も多い。電車を降りたななかたちが向かった先も、やはり未だ開発途中の区画であった。神浜市全体が新興都市として急激に開発されていく中で、どうしても取り残される場所も存在する。かつての調整屋はそういった放棄地を根城にしていたし、帰る場所のない魔法少女達の格好の寝床でもあった。
「このあたりですね」
立ち入り禁止の立て看板を悠々と無視しながら、ななかはその場所に足を踏み入れた。あきらは少し躊躇した後に、虚空に向かって謝りつつおずおずと後に続いた。
「これは……」
建物の中に踏み込んだななかは、即座に魔法少女の姿へと変身した。異様なまでに濃い魔女の魔力が満ちていた。あきらもすぐに異変を察知した。
「魔女、ですね」
「うん。……でも、何か変だ」
目の前に結界があった。しかし、結界から漏れ出る魔力は決して多くはなかった。だというのに、まるで既に魔女の結界の中にいるかのような濃密な気配が、打ちっぱなしのコンクリートに染み込んでいた。
「恐らく、この魔女はずっとこの場所にいるんだろう。だから、周囲の環境が変化してきているんだ」
いつの間にか、二人の足元にはキュゥべえがいた。
「魔女の結界を構成する魔力に長く当てられて、現実の物質が魔女の性質に引っ張られてきているんだ」
「そんなことがありえるの?」
「仮説でしかないよ。でも、そう考えるのが一番自然だ。やがてこの魔女はこの一帯を結界へと作り変えていくだろう」
訳知り顔で滔々と語るキュゥべえを無視して、ななかは結界を切り裂いた。現実の光景が切り裂かれ、その裂け目から異世界が覗いていた。
「倒せば済む事です。行きましょう」
無遠慮に結界の中に入り込んだななかの目に留まったのは、結界の柔らかな地面に沈んだままの数人の男達、そして少し奥でもぞもぞと動く謎の塊だった。魔力の波長からその塊が魔女そのものであるということは容易に分かったが、丸まっているのか遠目から全体像を把握することは困難だった。後から入ってきたあきらは一目散に倒れている男達に駆け寄り、「眠っているだけだ」と安否を確認していた。
「……あれ、これは……」
「あきらさん?」
男達を守りやすいように一箇所に運んでいたあきらは、結界の中に打ち捨てられた鞄を見つけた。それが中央学園のものだ、と分かったのは、鞄の側面中央に縫い付けられた校章があったからだった。魔女はななか達が結界を踏み荒らしているのに気付いているのかいないのか、ただその場に蹲っているだけだった。鞄の中には何冊かの教科書と、筆箱、そして時代遅れのガラパゴス携帯が入っていた。ななかはその小物達を見た瞬間、恐ろしい直感を得た。しかしそれを口にする前に、あきらは無造作に教科書を手に取ってしまった。
純美雨。几帳面に全ての教科書に、そう名前が刻まれていた。ななかはその場で固まったあきらを見ていられずに、魔女のほうを向いた。幸いにも、魔女はこちらが手を出さない限りは襲う気が無いようだった。
「……美雨が、この結界の中に居るんだ!」
あきらがそう言った。
「この人たちみたいに、結界の中に!」
ななかはそれを信じられなかった。けれど、無言で頷くしかなかった。理性は美雨の死を考えていたが、感情は未だに美雨の生を願っていた。あきらはやる気満々といった風に一歩前に出た。ななかはその背中を眺めていた。
「魔女を倒そう、ななか!」
少し震えた声は、自分を鼓舞する為のものにも聞こえた。
「あきらさん、気をつけてください。あの手の魔女は何をしてくるか分かりませんから」
向こうから積極的に襲ってきたほうがやりやすい、と無責任なことを考えた。わかったと元気良く返したあきらは、魔女に向かって走った。それは後詰のななかを信頼しているからだった。あきらの一歩が魔女へと向かったその時、魔女の塊がもぞりと動いた。
「……あきらさん!」
「やられちゃえ、このっ!」
その塊の、一際色の濃い部分を、あきらは全力で殴りつけた。妙に柔らかかった。あきらはそのまま魔女を蹴飛ばして、反動で少し後ろの地面に着地した。重ねた布を殴ったときのような、不気味な手応えのなさだった。魔女は殴られたことなど意に介さないようにむくりと起き上がった。あきらが殴った場所はちょうど頭部だったようで、体は芋虫のような円筒形だった。足がなく、蛇のような姿のその魔女は、鎌首を擡げてななかたちを見下ろした。
「タオルの魔女、その性質は安眠。どうやら彼女の眠りを妨げてしまったみたいだね」
結界の中について来ていたキュゥべえが、独り言のように呟いた。ななかがそれに聞き返すよりも早く、魔女はその大きな口を開いた。
「ななか、」
「何を──」
咆哮。魔女から放たれた金切り声は、魔女から少し遠ざかっていたななかすらも音圧で突き飛ばした。一瞬飛んだ意識をなんとか取り戻し、ななかはしっかりと地面に足をつけた。妙に静かだ、と思ったが、頬を伝う血液に気付いて、自分の鼓膜が破られたのだと本能的に理解した。ふらつく体に心内で叱責を飛ばしつつ、正面から魔女に気を戻した。何かを言いかけたあきらに気付いて、ななかは魔女の下に目線を移した。あきらもなんとか意識を保っていたが、その影がぐらりと揺れた。
「あきらさん!」
咄嗟に声が出た。既に鼓膜は魔法で修復されていた。ななかは前に踏み込んで、倒れかけるあきらの横に割り込んだ。
「しっかりしてください!」
「美雨だ……」
頭を振ったあきらは、もう臨戦態勢に戻っていた。
「あの魔女のところに、美雨がいたんだ!」
ななかの手を振り払うようにして、あきらは再び魔女へと猛進していく。ちらりと見えたあきらのソウルジェムが妙に黒ずんでいることを、ななかは見逃さなかった。
「駄目です、無策では!」
「美雨を離せ!」
あきらの一撃は、しかし魔女には大したダメージにはなっていないようだった。そして闇雲に頭を狙おうとするあきらに、魔女は体の一部を細く固め、鞭のようにしならせて打ち付けた。柔らかな布であっても、固く絞り遠心力をつけて打ち付ければ、十分な攻撃となる。頭に血が上っていたあきらはそれを避けられない。
「ぐっ……このっ!」
あきらはしかしそれを耐えた。そして鞭を両手で掴み、一本背負いの要領で一気に引っ張る。魔法少女としての全力の自己強化が乗ったあきらの怪力は、自身の何倍も巨大な魔女の体を見事に投げ飛ばした。
「ななかっ!」
その巨体は、ななかに大きく影を落とした。ななかは長刀を両手で構え、降ってくる長大な魔女の体の、模様が継ぎ接ぎされた境目に狙いをつけた。
「──今!」
呼吸を整え、僅かに不安定な足場を蹴って跳ぶ。数メートルの距離を軽々と跳躍し、ななかの魔力を乗せた刀は易々と魔女の体に突き刺さる。その勢いのままに刀を引ききり、魔女の体に大きな切断面を作り出した。魔女は体制を崩したまま地面に打ち付けられ、再び甲高い金切り声を上げた。半分千切れかかった魔女の体からは何重もの布地が血のように流れ、苦しそうにもがいていた。
「今の内、に──」
あきらは再び走り出そうとして、その足を地面に取られて転んだ。立ち上がろうと地面を付いた手は小刻みに震えていた。
「あ、はは……さっきので、ちょっと、ガス欠かも……」
左手の手甲に飾られたソウルジェムには、輝きを覆うほどの穢れが蠢いていた。芋虫のような体を引き摺って結界の奥へと逃げていく魔女を、ななかは追えなかった。
「あきらさん、グリーフシードは」
「それより、美雨を……」
あきらが指差したほうには、確かに誰かが倒れていた。ななかは立ち上がり、その人影へと歩み寄った。仰向けで、静かに目を閉じて倒れていたのは、間違いなく。
「美雨さん……」
ななかはその傍らに跪いた。そうして、その体に触れた。同盟を誓い合ったその少女は、柔らかな地面の中で冷たく横たわっていた。息も、脈も、何も無かった。ななかは左手を見た。美雨は左手を軽く握っていた。死後硬直で硬くなったその指を開くと、彼女の小さな手のひらの中には、砕け散った紺碧の欠片があった。ななかは何も言えなかった。美雨の服が不自然に濡れた。足元のタオル生地が徐々に崩壊していくのを、ただ無言で見詰めていた。やがて周囲の風景がコンクリートに戻ると、ななかは立ち上がって後ろを振り向いた。苦しそうに息を吐くあきらが、無機質な柱に身を預けながらななかの方を見ていた。
「美雨は……」
ななかは、静かに首を振った。あきらは一瞬目を見開いて、そして俯いた。ななかは美雨をその場に残して、あきらの前に座った。ソウルジェムは相変わらず黒く濁っていた。
「グリーフシードの予備は」
「……無いよ。困ってる子がいたから、あげちゃった」
あはは、と情けなく笑うあきらの頬には、一筋の涙が伝っていた。
「大丈夫だよ。ちょっとドッペル出せば、すぐ綺麗になるからさ」
あきらのその言葉で、ななかははっとした。ドッペル。魔法少女のソウルジェムが穢れきった時に発現する、最後の切り札。ドッペルを発現させると、ソウルジェムから穢れが綺麗に消える。しかしそれはおかしいのだという事に、ななかは天啓のように気付いてしまった。
「最近はこの辺の魔女も減ってきてるし、やりくりも厳しくなってるでしょ?」
遊佐葉月は引越しの理由を建前だと一笑に付した。しかしななかには、やはり静海このはにとって、それは縁を切ってまで土地を離れるような理由になるのだと思えて仕方が無かった。魔法少女は、魔女を倒してグリーフシードを手に入れる。そして消費した魔力をグリーフシードによって回復することで、再び魔女と戦う為の力を得るのだ。穢れきることでドッペルが発動するのなら、魔法少女はグリーフシードを集める必要など無い。
「ちゃんと回復しておかないと!」
記憶の中の相野みとが、妙に必死にグリーフシードを翳した。強い魔女と戦うのなら、なおさら強力なドッペルを戦力として換算するのが有効なはずである。戦闘前にわざわざ穢れを取り除いてしまっては、それはただの無駄遣いだ。みともそれが分からないほど愚かではない筈だ。
「魔法少女は、魔女になる」。俄かに神浜市に溢れた噂。「魔法少女の解放」。殺人集団として現れたマギウスの翼が唱えていた理念。「魔女を倒すことが、魔法少女の使命」。キュゥべえの言葉。ななかの頭の中に、多くの言葉がぐるぐると回った。
「ななか……」
あきらが、魘されるように呟いた。ドッペルが本当に魔法少女の切り札ならば、今まさに目の前で苦しんでいる魔法少女は何なのだ?
「ソウルジェムが、私達の命そのもの……」
目の前で命を砕いた更紗帆奈がフラッシュバックする。美雨は、砕けたソウルジェムを握ったまま死んでいた。顔を上げたななかの視界に、キュゥべえが我が物顔で居座っていた。復讐の為の力が、キュゥべえに向いている意味は。
「まさか……」
「ななか……?」
ぱきり、音が聞こえた。恐る恐る目線を下げると、あきらの穢れきりそうなソウルジェムに、僅かな亀裂が走っていた。
「ななか……ごめん……なんだか怖いんだ……」
「あきらさん、しっかり」
「ボク、死ぬのかな……」
ソウルジェムが穢れきると、死ぬ?
「なんだか、変なんだ……寒くって……」
ぽつり、ぽつりとあきらが言葉を紡ぐ度に、ソウルジェムの亀裂は徐々に大きくなっていく。
「……キュゥべえ!」
ななかは、思い切り声を張り上げた。ただそこにいるキュゥべえは、ななかの目を見ていた。
「まさか、魔法少女は……」
「魔女に成る、のですか」
ななかの言葉に、キュゥべえは特に驚いた様子も無かった。
「そうだよ」
ただ、それだけだった。
「……ななか、助けて……」
か細い声だった。崩壊は止まらない。穢れを取り除けるのはグリーフシードだけだ。今の魔女はまだ近くにいるが、しかし討伐していては絶対に間に合わない。ななかは無言で、解いていた変身を再び纏った。そして、鞘に収められた短刀を抜いた。白昼の陽光に照らされた刀は、妖しい光を落としていた。
「ななか、何をする気だい?」
短刀を、あきらのソウルジェムの亀裂に這わせた。そしてその切っ先を、垂直にソウルジェムへと立てた。
「ななか……?」
不安げなあきらの言葉も、ななかは聞こえない振りをした。震える右手を左手で押さえ、両手で柄を持ち直した。乱れた呼吸を整えようと深呼吸をしたが、何度やっても鎮まらなかった。キュゥべえはじっと黙りこくっていた。ななかはもう一度、深呼吸をした。あきらの顔が視界に入らないように、ソウルジェムと短刀の接触面だけを注視していた。これしかない。自分に何度も言い聞かせた。
「…………あきらさん、ごめんなさい」
そして、両手にぐっと力を入れた。既に割れかけていた宝石には、それで十分だった。肉を断つ感触が柄を握る掌から伝わってきた。ななかはきつく目を閉じていた。地面につけていた膝に、生暖かい液体が触れた。
「……あきらさん?」
無意識的に呟いた言葉は、ただ建物の中を反響して消えた。返答はなかった。恐々と開いた視界の中では、あきらが静かに柱に凭れていた。光を失った目はただじっとななかを見詰めていた。半開きになった口からは、息も何も出てくることは無かった。
「もう少しで魔女に成っていたのに。勿体無い事をするなあ」
ゆったりとあきらの体に近づいたキュゥべえは、その前足で無遠慮に触った。どう刺激されても、あきらが自発的に動くことは無かった。
「……何故、教えてくれなかったんですか」
「聞かれなかったからさ」
淡白な返事だった。キュゥべえにとっては、なんでもない事のようだった。
「……ふふっ、そう、ですか。聞かれなかったから。あはは、そう、なんですか……」
ななかの口からは、不思議と笑いが零れていた。ただ、キュゥべえに聞かなかったから。一言質問をしていれば、こうなる前にどうとでも対処が取れたのだろう、と思うと、何もかもが馬鹿らしく思えてきた。
「じゃあ、さっきの魔女も……」
「君達が探していた、純美雨だね」
「やっぱり、そう、なんですか。あはは」
ななかは笑った。そうして一通り笑い終えると、ふと、自分の足元を見下げた。足元には、あきらが手の甲から流した血が溜まっていた。ななかはその上に立っていた。
「キュゥべえさんは、どうして私達を魔女にするのですか」
「魔女にしたいわけじゃない。グリーフシードを集めてほしいって、普段から言っているじゃないか」
「結果として、魔法少女は皆死ぬか魔女に成る」
「そうだね」
「何故、魔女に成る魔法少女を生み出しているのかと聞いているんです」
「端的に言えば、宇宙のエネルギー問題を解決するためさ。君達魔法少女が魔女に成る際に発生するエネルギーを僕達が回収することで、この宇宙の延命に繋がっているんだ」
その後も、キュゥべえはつらつらと宇宙の問題について語っていた。ななかはそれを聞いてはいなかった。ななかの頭の中で回っていたのは、彼女の魔法少女としての根源的な衝動だった。キュゥべえこそが倒すべき敵であり、そしてキュゥべえは今目の前で自身の目的を語った。
ななかは自身の鞄を探ると、家に置いてきていたはずの小袋が、当然のような顔をして入っていた。ななかはその中身を、コンクリートの床にぶちまけた。宝石が固い床に当たる耳障りな音と、乱反射する日光によって、殺風景な室内は絢爛に彩られた。
「もういいです。ありがとうございます」
ななかは説明を続けるキュゥべえに背を向け、魔法少女の変身を解き、建物を出た。太陽は南中を少し過ぎたあたりで、日差しがななかの背を焼いた。
「どこへ行くんだい?」
「貴方に言う必要はありません」
ななかはそれだけを言い残して、立ち入り禁止区画を後にした。その後姿を、キュゥべえだけが見詰めていた。
ななかが見えなくなった頃、取り残されたキュゥべえは、徐に美雨へと歩み寄った。そうして動かない美雨の制服を無遠慮に弄り、スカートの左ポケットから使われていないグリーフシードを取り出した。尻尾でそれを器用に弾き、背中に開いた孔の中に放り込むと、陽光の差す神浜市へと消えていった。
志伸あきらと純美雨の死体が発見されたのは、その日の夜、結界から救助された男達が目を覚ました後だった。