マギウス事変、その後   作:遠名 彬

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鈴蘭

 魔法少女の世界では、人が死ぬ事は日常茶飯事だ。魔女と命懸けの戦いを繰り広げる中で、頻繁に誰かが行方不明となり、次々と顔見知りが消えてゆく。それは因果を超える奇跡を願った代償だと、キュゥべえは素っ気なく答えるだけだ。それを当然と取るか理不尽だと取るかは、きっと叶えた願いによるのだろう。現実から逃げ、逃げた末に自殺を図り、図々しくも奇跡によって死からも逃げ出した僕にとっては、魔法少女の運命は驚くほど理不尽でもなければ、そこまで悲観的になるようなものでもなかった。魔法少女としてこの世の悪意の具現である魔女を討伐し、無辜の人々を護る事が出来るのならば、一度捨てた自分の命を喜んで捧げよう、と。魔法少女になった癖に、無様にも終わりの無い悪意に絶望した僕を救い出した君。そのお陰で僕はようやく、自分の生きる意味を見出す事ができた。

 魔法少女が魔女になる、という事実を知ったのは、神浜市が信じられないくらいに平和な時だった。伝聞によって知った時は、同席していた全員、誰一人として信じることはなかった。丁度その頃はドッペルと呼ばれた現象……今となっては明らかに魔女の解放であるそれが発現していた。後にマギウスと呼ばれていたことを知る魔法少女達の暗躍など露知らず、問えば真実を語るキュゥべえにも会えず、僕達はそれが当然だと思い込んでいた。魔法少女はいずれ死ぬ。それは仕方がないことだ。誰もが戦いの中で死んでいくものだと、僕は無邪気に思い込んでいた。

 神浜から奇跡が消えた日のことは、今でも昨日のように思い出せる。地下に潜り姿を見せなかったローブ姿の魔法少女たちが、同胞に対して牙を剥いた。何の前触れもなく起こった事態に、何も知らない魔法少女達は大混乱に陥った。ローブ姿達は躊躇なく魂の器を狙った。不意を突かれて、もしくは数の暴力に圧されて、多くの魔法少女が死んだ。ローブ達も、反撃にあって沢山死んだ。僕は何人かの仲間と共に逃げて、隠れた。騒動が収まった頃には、神浜市はずいぶんと静かなところになってしまっていた。魔女と戦うわけでもなく、魔法少女が魔法少女と戦って、死んでいく。後にキュゥべえに聞くところによれば、神浜市外ならば珍しい話でもないという。しかし呆れるほどの平和の中で生きてきた僕達にとって、その陽炎のような戦場はあまりにも過酷だった。心を病んでしまった魔法少女も多くいた。この頃から、僕は魔法少女として何の為に戦うのか、まったく分からなくなってきていたように思う。さらに悪いことに、神浜市にかかっていた奇跡は、騒動の間にいつのまにか消失していた。心を壊し、ドッペルによって強引にソウルジェムの穢れを浄化しようとしていた見知らぬ魔法少女には、そんな不都合な真実など知る由もなかった。神浜市から奇跡が消えた日、僕達は真実を目の当たりにした。

 それからの日々には、魔法少女という言葉が持ち合わせるような輝きなど微塵も想起させないような、暗澹たる雰囲気が纏わりついていた。憩いの場だった相談所は、いつの間にか商店街から撤去されていた。違う学校に通う同類とはめっきりと会うことが無くなり、同学であってもかつてのように笑顔ですれ違う事すらも叶わなくなった。世界から消えていたキュゥべえを再び目にするようになり、右も左も分からない魔法少女を久方ぶりに目にするようになった。それでもその頃は弱い魔女が多く、延命のためのグリーフシードの調達には困らなかったことが唯一の救いであった。魔法少女同士の諍いも表立つことが少なく、表面上は平和な日常が、無情に流れ続けていた。

 禍福は糾える縄の如し。そんな諺が真をついているのだと思い知ったのはその頃だった。キュゥべえが曰く、希望と絶望は等価であり、奇跡、そして魔法という身に余る希望を手にした少女達の運命が絶望に彩られていくのは、この世界の当然の摂理だそうだ。現実の世界がキュゥべえの予言するとおりに絶望に堕ちていく様を目の当たりにしている僕には、もはや魔法少女という存在の何が希望に沿っているのかすらも分からなかった。僕や他の魔法少女が実感するような身近な世界の希望など、キュゥべえが平然と嘯く宇宙のスケールの中では誤差程度の話でしかないのかもしれない。僕の心の中にはそんな先行きの見えない絶望が緩やかに敷地を広げていた。きっとそれは僕だけではなかった。希望の象徴とも言えた君も、僕たちの面倒を見てくれていた先輩達も、内面に優しい絶望を飼っていたに違いない。魔法少女達はみな内側から喰われていた。段々と減っていくグリーフシードの供給に反比例するようにソウルジェムの濁る速度が増していたのがその証拠であった。キュゥべえが子飼いの家畜に多くを語らないのは、もしかすると彼らなりに優しさを表現していたのかもしれない。そんな錯誤的な思考すらも、鑢にかけられていく感情の上では真に思えてしまうような気さえした。

 ある日、僕は寝坊をした。理由は単純明快で、前の日に夜更かしをしたからだった。その頃は夜になると胸がざわついていた。形のない不安が魂を襲って来るような気配を感じて、居ても立っても居られなくなってしまうのだった。僕は毎夜のように家を抜け出して、魔女を探すのだと自分に言い聞かせながら夜道を歩いた。野良の犬やら猫やらが鳴き声を響かせる道路の上で空を見上げると、決まって星々は排気ガスに遮られてその輝きを霞ませていた。そうして暫く恍惚と夜風に吹かれていると、不思議と胸中の雑音が落ち着いたのだった。

 ともかく僕はそんな夜の儀式のせいで、この世で最も価値があると思える君との約束に見事に寝坊をした。サイレントモードの解除を忘れた携帯電話には、君からの着信とメッセージがあった。それを拾い上げた時、恥とか後悔とか自己嫌悪とかで、僕の頭は怒涛の勢いで漂白された。文面も覚えていない弁明を打ち込み、慌てて外出の準備を進めた。朝食を尋ねる母の声に適当に返事をし、冷たいドアのノブを回して家を出た。末端に伝わる痺れで手袋をするのを忘れたことに気付いたが、それを取りにもう一度家の中に帰っていくような余裕はなかった。今にも雪が降り出しそうな寒さの街を急ぎ足で歩いた。道中送られてきた君からのメッセージに、僕は笑いながら許してくれる君の姿を幻視した。けれど僕はたとえそれでも、自分の失態に恥を感じずにはいられなかったのだった。ショッピングモールの自動ドアに映った僕の顔が赤かったのは、寒さのせいだけではなかった。思い返せば、その日の約束を初めに言い出したのは先輩だった。普段は大抵君か相談所の彼女が予定を作り上げるのだが、その時だけは不思議と先輩が提案をした。クリスマスの時期だから買い物に付き合ってほしいと言ってはいたが、きっと重苦しい現実の空気に辟易していた僕達の雰囲気を見抜いていたのだろう。先輩のそんな気配りができるところとか、その小さな身体に見合わない器の大きさとかは、僕を含め誰もが認めているところであった。その上で運命とは全く見当違いな所で叶わぬ片思いに奔走している姿には、一種の小動物的な愛玩を感じずにはいられなかった。

 待ち合わせ場所のベンチは満席で、知り合いは誰も来てはいなかった。不安に苛まれていた僕の心は、それだけで酷くささくれ立った。探せば居るだろうと思い立ち、休日で人がごった返すモールの中をふらふらと歩き回った。携帯電話には僕の到着報告がずっと未読のまま残っていた。そのうち足が疲れてきて、僕の目線は無意識的に座れる場所を探して彷徨いだした。大勢の人の波に揉まれているうちに、まるで船酔いのような感覚が僕を襲い、前後不覚のまま流されていった。そのうち僕は、関係者用の通路に続く扉の前に立っていた。鉄の扉からの反射を見て、僕は自分のソウルジェムの明滅に気付いた。殺気を感じるという表現はこういう気持ちのことを指していたのか、などど妙に冷静な自分が、僕の不安な気持ちに被さっていた。誰もいない従業員用の通路は自分の足音がよく響いて、反響する耳障りな音が背筋をなぞった。穏やかでない僕の心内を反映したフィルターの向こう側では、薄暗い通路の中は灰色だった。通路の奥、バックヤードに続く扉の向こうからは、今までで一度だけ感じたことのある、あの冷たく激しい戦場の空気が漂っていた。僕は恐る恐る扉に手をかけ、そして思い切り開いた。鼻を鋭く突く人間の血の匂いが僕の顔を襲った。数歩先の足元には赤黒い湖が口を開いていて、その中心に人間大の何かが堆積していた。綺麗な緑色と赤色が補色のコントラストを発揮しているそのオブジェクトの脇には、もう一つの血溜まりがあった。魔法少女になってからこっち、人間だった物の死骸を何度も見ていた僕の頭は、この異様な光景を前にしてもパニックを抑えることを可能にしていた。双子の湖の向こう岸に誰かが立っているのに気付いたのは、扉を開けてからたっぷり数十秒が経った後だった。二人組だった。すらりとした体躯で射殺さんばかりの目を僕に向ける魔法少女と、露出の多い衣装の白を赤く染めたまま立ち尽くす魔法少女だった。背の高い方の魔法少女は、べったりと赤い絵の具で塗装されたようになったグリーフシードを握っていた。左手に持った蝶の意匠のある長物を呆然と立つ僕に向けて構えようとした時、隣の魔法少女がそれを手で制した。2人はテレパシーで何かを話したように見えた。その後、彼女達は何も言わずに背を向けて去っていった。目線を下ろした時、視界の端に君の姿が見えた。君は血の池の淵に力なく座り込んでいた。きっと何か声を掛けなければいけないと僕は冷徹に思案したが、鼻腔を圧迫する血液の芳香が言葉を紡ぐことを許さなかった。僕は注意深く血の臭いを肺に入れないようにしながら口で呼吸をした。君は何も言葉を発さず、俯いたままその細い肩を震わせていた。君の押し殺したような啜り泣きの音が耳に入ったあたりで、僕は漸く自分の頰に涙が伝っていることを知った。

 君が魔法少女の衣装のままだったことは、ある意味で幸運だった。君のほとんど色のない洋服は一滴の血液に触れることもなかったから、帰路ですれ違う人々の目は僕達を見逃した。モールの駐車場に内包されたバス停でバスを待つ間も、僕と君は一言も口を開かなかった。目の前を通り過ぎていく乗用車はみな銀色だった。水垢と鳥の糞で汚れた雨除けの向こう側には、泣き出しそうな暗色の雲が圧迫感を持って広がっていた。不快な排気ガスを撒き散らしながら到着した路線バスに乗った僕達は、示し合わせたように優先席に座った。それから目的地に着くまでの間、僕は足元に広がる黒い空をじっと見つめていた。視界はずっと揺れていた。そうしているうちに空っぽな腹の中から何かがせり上がってくるような感覚に見舞われて、僕は思い切り顔を上に向けた。喉元まで来ていた胃液が喉を焼いていた。終点だった。僕達は黙ってバスを降りた。支えていないと直ぐにふらりふらりと倒れてしまいそうな君の軸になりながら、僕達は住宅街を黙々と歩いた。きっと今頃モールでは大騒動が起こっているに違いない、と思った。君の住処のマンションに辿り着いた時には、僕はすっかり疲労困憊だった。何か聞き取れない譫言を呟く君をエレベーターに押し込んだ後で、僕は人生で一番大きな溜息を吐いた。それで胃の中で大人しくしていた虫が再び活動を始めてしまい、自動ドアの前の花壇に胃液を吐いた。土の上から立ち上る湯気と異臭が僕を果てしなく不快にさせた。しばらくしゃがみ込んだ後、落ち着いてから僕は自分の帰路についたのだった。相当酷い顔をしていたらしいが、母親は内向的な僕が質問に答えないことを熟知していて、何も口にせずに部屋に通してくれた。

 その日の夜、部屋にキュゥべえが訪れた。僕は日課である日記を書いている最中で、ちょうど赤い色鉛筆を鉛筆削りにかけている時だった。キュゥべえは相変わらずの無感情で形だけの挨拶をしながら、多くの少女達の尊厳を踏み躙ってきた短い足でキャビネットに降り立った。つらつらと口上を述べる姿を眺めていた僕は、この少女受けが良さそうな外見も試行錯誤の結果なのかもしれないな、と考えていた。そのうちキュゥべえが姿勢を少し正し、比較的真面目なトーンで僕に語りかけてきた。それは僕に最も近い魔法少女、つまり君のソウルジェムが限界に近づいている、という旨の話だった。魔法少女が魔女になることは周知の事実だとして、何故そうなるのかという原理的な話においてはキュゥべえは無能だった。例えそれを僕が理解できたとしても何の役にも立たないことは分かっていたが、その質問をするたびにいつもはしたり顔で分かったような口を利くキュゥべえの困った弁明を聞けたので、僕はそれだけで少しの満足を得ることができた。僕は鈴蘭の描かれた鉛筆箱に色鉛筆を戻し、机の下に隠した外履きを取り出し、家族に気付かれないように窓から夜の街に繰り出した。予報では明日から降ると言われていた雪はまだ上空で、肌を刺す冷気が僕を責めた。屋根伝いに街を移動しながら、ソウルジェムの反応を確かめた。ここのところは魔女の数もめっきり減ってしまい、グリーフシードの余裕は全くなかった。たとえ君が緊急事態に陥っていたとしても、とりあえずはグリーフシードを確保してからでないといけない。僕の思考はずっと平坦だった。感情が魔法少女の力ならば、僕はきっと非力な存在だろうと思えるほどに、僕の心は固まってしまっていた。そうでもしなければ、この残酷な世界の現実に柔らかい心を引き千切られて、今頃この世界には生きていないだろうと思えた。これは一種の生存戦略であって、適応とか進化とかと呼んでも差し支えない事だった。部屋から飛び出して十分と経たないうちに、僕は反応を捉えた。僕の家がある新西区から、君の家がある中央区に向かう道中だった。地理的に言えばちょうど参京区と水名区の間あたり、閑静な住宅街を絵に描いたままの場所だった。とにかく早くグリーフシードを確保しておきたい僕にとっては、この場所に魔女が居たのは僥倖だった。誰かの家の屋根から降りて、反応が強まっていく方向に歩いていく。ソウルジェムを使って魔女を探している時には、魔女の放つ独特の感覚を頼りにせざるを得ないが、僕はその感覚が厭だった。魔女が悪意を振り撒く存在だというのはキュゥべえの受け売りだが、世の悪意の根源を魔女に求めた僕はきっと間違ってはいないと思えた。それは魔法少女が魔女になるということ、魔女は必ず元々魔法少女だった誰かであるという事実を知った後でも変わらない思想であった。とにかく何かに原因を求めずにはいられない不安定さがあることは否定しないが、それ以上に魔女に殺されていく一般人を目前にし、魔法少女がこの世を呪って魔女と化していく過程すらも目前にした僕にとっては、相変わらず魔女は最上の敵対者であり続けたし、倒すべき敵としての使命を感じる対象でもあり続けた。僕にとってはグリーフシードを得ることは大した目的ではなく、やはり魔女を根絶することこそが至上命題だった。

 ふと、魔女の反応が消えた。それと同時に、弱いながらも魔法少女のいる気配を感じた。僕はゆっくりと曲がり角の向こう側を覗いた。そこには魔法少女がいた。道の真ん中にへたり込み、肩で息をしている魔法少女だった。その後姿を見た瞬間、僕の頭の中には日中の光景がありありと蘇ってきた。傍に転がった蝶の意匠のある長物。髪型、服装、そのどれを取っても、やはりあの魔法少女だった。脳を焼く血の幻臭を感じて、僕の頭の中はすっかり火が回ってしまった。目の前にいる魔法少女があの殺人犯なのだという確信を持った。僕はゆっくりとその後姿に近づいていった。余裕がないのか、蝶の魔法少女は気付いた様子もなかった。彼女を挟んだ少し向こう側に、グリーフシードが落ちているのが見えた。ちょうど魔女を倒したところなのだろう。僕は無意識の内に、口の中でとある一節を復唱していた。

「魔法少女を殺す為には……」

 かつてマギウスの翼と呼ばれた魔法少女たちは、不意打ちによって魔法少女を殺した。その凶行の現場を、僕は何度か見たことがあった。翼達は決まって、不意打ちの際にはまず初めに頭を狙った。後々にキュゥべえに聞いたところによれば、魔法少女はシステム的にどんな身体的外傷を受けても死なないらしい。刺突、斬撃といった攻撃では、いくら不意を突いたとしてもそのまま一方的に殺すことはできない。自分に伝わってくる感覚すら自由に操作できる魔法少女にとって、致命傷でないダメージはさしたる問題にすらならないのだ。但し、あくまで動かしているのは人間の身体である。個々人のソウルジェムの位置が不明な状況で、最速かつ一撃で人体が機能を停止するような攻撃を与えるためには、頭を狙うことが最も良いのだそうだ。キュゥべえもそれは認めていた。僕はキュゥべえに教わった事実を何度も何度も頭の中で復唱した。

「魔法少女を殺す為には……」

 今目の前で死刑囚のように座り込んでいる魔法少女は、罪の無い魔法少女をグリーフシード欲しさに殺害した犯人である。それは悪だ。私欲に溺れることは、人間の中に潜在する悪意の最も典型的な顕在方法であり、また最も許されざる心理であった。

「魔法少女を殺す為には……」

 僕は自分の手の内に杖を出現させる。それは僕の魔法少女としての武器であった。魔女との戦いでは魔力の弾を撃ち出すことで攻撃をしている僕だったが、今日この時はそれをしなかった。魔力を集中させ、杖の頭に弧を描く刃を出現させる。それは鎌だった。死装束のような魔法少女衣装を着た僕が鎌を持っている姿は、血の気の薄い顔色も相まってまるで死神だ。その格好は僕に粘ついた勇気を与えた。僕は自分の顔が上気しているのを自覚した。足音を立てないようににじり寄っているその数秒が、これまでの人生全てよりも長く感じた。呼吸音で悟られないように息を止めると、左胸の内で鳴り響く警鐘が頭を打った。僕の視界には蝶の魔法少女以外何も無くなっていた。彼女はまだ気付いていないようだった。僕は緩やかに鎌を掲げた。吸い込まれるように刃は少女の首筋を捉えた。杖を握る手に柔らかい感触がじっと伝わってきた。魔力で作られた鋭利な凶器は、少女の首を豆腐のように切り裂いた。頭だった球体が僕の足元に転がった。僕はほんの少しの間、綺麗な首の断面を見詰めていた。すると直ぐにその肉片から勢いよく血液が吹き出し、僕の顔を間も無く真赤に染めた。少女の身体はそのままうつ伏せに倒れ、吹き出す血液で赤い水溜りを作り出した。僕は暫くの間、そのままの格好で立ち尽くしていた。

 血溜まりの中から濡れた真紅の果実を拾い上げたのは、何分かが経った後だった。放心状態だった僕を目覚めさせたのは、夜空から舞い降りた雪だった。僕はグリーフシードを確保した後、悪人の死体を仰向けにした。頭の無いその少女だった肢体は何の抵抗もなく地面に倒れた。ちょうど左の腹の辺りがごっそりと抉れていて、内臓が少し見えていた。吐き気に耐えながら全身を観察していると、左手の甲に輝く宝石が嵌め込まれているのが見えた。僕はその傍に立った。人間の悪意を消滅させる方法を、僕は何度も考えたことがある。かつてこの身に宿っていたドッペルの力はその役割を完璧に果たすことができたが、現在の僕にはその力はもう無い。僕が実行できる行動の中で最も現実的に人間の悪意を根絶する方法は、一つしかなかった。僕は杖を強く握った。そうして先端を死体のソウルジェムへと向けた。これしかない、と僕は何度も頭の中で反芻した。いつもやっているように杖の先に魔力を集めて、撃つ。呆気ないことだった。命の割れる音はあまりにも軽かった。僕は抜け殻をその場に放置して、君の待つマンションへと足を向けた。僕はその日初めて、自分の手で人を殺した。

 何度も通った道を進んでいるのに、僕の心持ちは全く穏やかにならなかった。夜の空を彩る星々の光は厚く重なった雲の向こうに追いやられ、しんしんと雪が空から溢れていた。君の住んでいるマンションに到着した頃には、僕の両手はすっかりと冷え切ってしまっていた。僕は手の中に収めた魔女の卵をもう一度握り直した。手のひらは血液でべったりと赤く汚れてしまっていた。マンションの外側をぐるりと周り、僕は君の部屋を見つけた。窓際の君の部屋からはまだ明かりが漏れていて、カーテン越しにも君の気配を感じることができた。僕は魔法少女としての身体能力を存分に発揮して、君を隠す塔を外側から登っていった。ベランダに降り立った僕が窓を叩くと、君はカーテンを少しだけ開けて顔を出した。君は酷く憔悴した様子で、僕の顔を見て目を丸くした。少しだけ開けてくれた窓から、僕は君の部屋へと侵入した。君は僕を暖かい濡れタオルでもてなした。真白なタオルは僕の顔を拭うたびに赤く穢れた。僕は君に浄化されながら、この部屋を訪れた理由を述べた。緘黙症を患っている僕の口が吃音と共にそれらを言い切るまでの長い時間を、君はただ黙って待った。いつだか一緒にワークショップで作成した鈴蘭のハーバリウムが机の上に飾られていた。僕は血に塗られたグリーフシードを君の前に置いた。君はそれを見ても僕を責めなかった。ただ寂しそうな目をしていた。僕達は部屋の中で静かな時間を過ごした。僕は君に今すぐソウルジェムを浄化して欲しくてやきもきしていたが、君は一向にそれをしようとはしなかった。きっと君の頭の中には今でも先輩達のことが巡っているのだろうと思った。そして君ほどにそれを思えない自分が恥ずかしくなった。それを思い始めると止めどない自責の念が湧き始め、僕を支配し始めた。僕は不意に、先輩達の仇を討ったこの功績を君に褒めて欲しくなった。そうする事で僕は自分の感情を綺麗に整理する事が出来るような気がした。けれど君は僕には何も言わなかった。責めも褒めもしない君の態度は僕をこれ以上ないほど不安定にさせた。僕は自分の行為が何の意味を持つのか分からなくなるような錯誤を得た。せめて何かしらの感情を僕にぶつけてくれれば、僕は君の色に染まる事ができた。今の僕に色は無かった。雰囲気に耐えられなくなった僕は、君の部屋を出ようと窓を開けた。君はその時になって漸く一言を呟いた。僕の耳にはそれがはっきりと聞こえた。僕は夜の街に溶け込んだ。

 翌日、僕は朝早く起きた。日の出前の暗い街の中を、君に向かって歩いていた。あれからキュゥべえは現れていない。けれど僕にはそれが君の安全を保障する意味を持たないと思えた。僕は君に色付けをして欲しかった。そうでなければ僕は何の為に生きて行くべきかを判断できなかった。君のいるマンションの前に辿り着いたのは、ちょうど日が出る直前だった。僕は花壇の縁に座って、人工的な灯りが照らすエントランスを眺めていた。君が今すぐこの塔から飛び出して、僕の指針になってくれることを期待した。僕にはそれ以外に生きる術がないのだと感じていた。けたたましい音が僕の真後ろから聞こえたのは、僕が花壇のあたりに座り込んで船を漕いでいる時だった。慌てて振り返った僕の目に、ガラス片で乱反射した朝日が刺さった。道路の真中に倒れていたのは少女だった。寝間着のままで髪も結わず、昨日見たままの格好の君が、半分潰れていた。その脇にはハーバリウムの牢獄から解き放たれた鈴蘭が、その実に見立てた赤い粒と共に落ちていた。僕はじっとそれを見詰めていた。君は起き上がることはなかったし、僕に何かを語りかけてくることもなかった。エントランスから飛び出してくる人々に見付からないように、僕はこっそりと現場を離れた。物陰から君の両親が出てくるのを見た。二人とも絶句していた。そのうちに母親がよろよろと君の身体に近付いていった。マンションの外壁を登る僕の耳に、この世を呪う絶叫が聞こえた。君の部屋は窓が開け放たれたままだった。机の上にはグリーフシードが放置されていて、その隣には君のノートが開いたまま置かれていた。それは遺書だった。感情のままに書き殴られた文字は延々と謝罪を連ねていた。先輩達の事の後に、多くの知己の名前の中に僕の事も書かれていた。それを隅から隅まで読み通した僕は、静かにノートを閉じた。君は善意に殺されたのだ、と僕は思った。悪意は簡単に人を殺す毒薬だが、善意も過剰摂取してしまえば毒になり得る。君が書いたように先輩達の死が原因だったとしても、君を殺したのは僕なのだ。僕の善意が君を殺した。そう思うと、幾分か僕の心を蹂躙し続けていた黒い霧が和らいだ。僕はどこまでも自分勝手だった。まさに目の前で生きる意味を失ったというのに、僕の心は不気味なほどに凪いでいた。きっと僕には、とっくのとうに感情など消えていたのだろう。僕自身が世界の悪意の根源である魔女と同種の存在であるという事実を受け入れるために、感情という高い対価を支払っていたのだ。僕はずっと自分の中で燻っていた疑問に、そう結論を付けた。グリーフシードをポケットの中に入れた時、僕の魂に絶望の波が押し寄せた。それは僕の絶望ではなかった。僕は急いでベランダから身を乗り出して外を見た。エントランス付近の人集りが、不自然に皆消えていた。君の魔女だった。結界の目前で、僕は君の魔力に立ち竦んでいた。その顔を見てしまったら戦えなくなってしまうという確信があった。頭の中に君の声が響いていた。

「おいアンタ、何やってんだ?」

 横合いから声を掛けられて、僕はゆっくりと顔を向けた。初めて顔を見る魔法少女が立っていた。真赤な衣装を身につけた彼女は長い槍を肩に担いで、奇妙な目を僕に向けていた。無言のままの僕を赤い魔法少女は無遠慮に押し除け、言葉もそこそこに君の結界へと踏み込んでいってしまった。僕は君の魔女が討伐されるまでの推移を、ただ結界の外側で見ていることしかできなかった。君の結界から出てきたのは赤い魔法少女とグリーフシードだけで、そのまま結界の反応は消失してしまった。君の身体も、君の両親も、君を囲んでいた人々も、誰一人として結界の中から戻ってくることはなかった。赤い魔法少女はグリーフシードを拾い上げると、その様子を見詰めていた僕の方を見て怪訝な顔をした。僕が結界に囚われた人々の事を聞くと、入った時には死体しかなかった、とあっけらかんと答えた。嘘だな、と僕は思った。特に根拠はなかった。けれど赤い衣装の裾を赤黒く汚す血の跡とか、グリーフシード以外には用はないと言わんばかりのその態度とかが、僕に疑心を与えた。彼女が悪意を持った魔法少女かどうかは分からなかった。魔法少女は皆グリーフシードを求めるものだし、それ自体が悪とは言えない。欲に溺れ手段を選ばない事が悪なのだ。とはいえ僕には、君の魔女を事務的に処理してしまったこの魔法少女に善意の心があるとは到底思えなかった。赤い魔法少女は何も言わない僕を見限り、どこからか取り出したスナック菓子を齧りながら歩いて行ってしまった。僕は晴天の下に取り残された。

 僕はもう間も無く魔女になるだろう、とキュゥべえが言った。僕が魔法少女になってから、もうすぐで二年が経とうとしていた。一般的な魔法少女の寿命は一年もないらしい。その観点で言えば、神浜市に住む魔法少女は殆ど全員が長寿と言えた。僕は君の部屋から拝借したグリーフシードを眺めながら、その説明を聞いていた。こびり付いた血はすっかり固まっていて、まるで肉付けがされているような印象だった。しかし、と前置いて、キュゥべえはもう一度話始めた。どうやらキュゥべえによれば、僕には特筆すべき感情があるらしい。それは、世の悪意に対する怨みだった。辛みだった。そして、それは怒りだった。現実への絶望に感情の多くを食われた僕に僅かに残った希望は、尽くが負のベクトルを有していた。今となってはキュゥべえにとっての魔法少女としての僕は、その感情を抜きして価値がある存在ではないと言った。正直なものだと僕は少しだけ感心した。キュゥべえを憎む魔法少女は多いが、僕はそこまでキュゥべえの事を恨んではいなかった。魔法少女にならなければ、僕はとっくの昔に自殺を遂行していただろうし、そのお陰で君にも出会えたのだ。それを思えば多少の説明不足程度でキュゥべえを責める気にはならなかった。僕はふと思い立って、キュゥべえにあの赤い魔法少女の事を聞いてみた。キュゥべえはすらすらと彼女の名前と出身を述べたが、僕が聞きたいのはそんな情報ではなかった。キュゥべえは赤い魔法少女の事を、よく居る平凡な魔法少女である、と答えた。元々縄張りとしていた街から離れ、様々な場所を点々としながらグリーフシードを集めているのだそうだ。その為ならば手下を放置し、人を食わすことも厭わない……一般的な魔法少女。僕はそれが一般的だとはとても思いたくなかった。思いたくはなかったが、それが井の外の世界であることを理解せずにはいられなかった。僕は三度魔法少女となった。契約の時、君に救われた時、そして君が死に、現実を思い知った時。僕は自分の無価値な命を、悪意の根絶に使う事を決心した。君を殺し、そのグリーフシードを私欲の為に使い潰すあの赤い魔法少女が、今の僕には悪意の権化に思えた。キュゥべえはいつの間にか居なくなっていた。僕は一人きりの部屋の中で、くすんだ色のソウルジェムを日が沈むまで眺めていた。

 夜になると、魔女が活発に動き出す。僕は半ば遺書の様相を呈してきた日記を書き終え、色鉛筆を鈴蘭のケースに仕舞った。君はよく僕の事を鈴蘭に喩えた。「純粋」という花言葉がよく似合うのだと君は笑いながら言った。君は僕の事を誰よりもよく分かっていた。有名な毒草である鈴蘭を選んだのも、きっと偶然ではないのだろう。僕は君を善意という毒で殺した。その認識は今や僕の身体の隅々まで行き渡っていた。その自責は僕の精神を規定した。そう思い込む事で理不尽な現実に君がすり潰されてしまった事を忘れることが出来た。その夜、僕は今まで感じた事が無い焦燥に駆られていた。自分の魂の底から冷たい瘴気が立ち上るのを感じていた。キュゥべえに説明されなくとも、それが本物の絶望であり、僕を悪意の底に引き摺り込み魔女へと変態させる猛毒だと理解できた。鈴蘭の毒に沈んで自家中毒になってしまう前に、何としてもあの魔女より邪悪な赤い魔法少女を見つけ出し、その魂を砕かなければならないと思った。キュゥべえは親切に赤い魔法少女が根城としているホテルの事を教えてくれた。昨日の焼き回しのような雪が降る中で、僕は迷わずに目的地へと向かった。

 そのホテルは夜の帳の中で一際目立っていた。草木も眠る深夜において、案内板の蛍光灯が眩しく光っていた。中に入る為には動かない自動ドアを何とか通り抜ける必要があったが、僕はその道を選ばなかった。そもそも件の魔法少女がどの部屋に居着いているのかすら分からないので、中に入るだけ徒労だと思った。それに、魔女の蠢くこの夜更けにグリーフシードを求める魔法少女が部屋の中で呑気に寝ているとは思えなかった。僕は魔女の反応を探して、ホテルの周辺を虱潰しに回った。その途中で心内に込み上げる黒い穢れが予想以上の速度で侵食を始めたので、堪らずグリーフシードを使ってソウルジェムを浄化した。酸化した血液の黒い塊はグリーフシード本来の黒と同化して、その血肉を魔女が取り込んでいる風に感じられた。まだ一回くらいは使えそうなそれを仕舞い、僕は探索を再開した。一時間としないうちに、僕は赤い魔法少女と路地裏で鉢合わせた。それは都合の良い偶然だったが、僕にとっては必然だった。不運の後に幸運がやって来るのは世の理だと信じた。棒付きキャンディーを口に入れたまま、赤い魔法少女は行儀悪く喋った。僕には彼女の言葉一つ一つが不愉快だった。無言で魔力を纏った僕を見て、赤い魔法少女も何かに気付いたようだった。不意打ちは出来ないな、と判断して、僕は杖に魔力を込めた。赤い魔法少女は未だに戸惑っているようだったが、一度僕と目を合わせた時には性悪そうに口角を上げた。僕の放った魔力の弾は、赤い魔法少女を目掛けて飛んだ。しかしその悉くは避けられ、地面に抉れた跡を残すだけだった。一瞬で距離を詰められ、突き出された槍を杖で受けた。何度も槍撃を受け、受けきれずに肩口から血が迸った。僕は直ぐに痛覚を遮断した。僕は何とか反撃しようと何度も弾を撃ち出し、杖を変形させた鎌で攻撃を仕掛けた。しかし赤い魔法少女はそれを軽くいなし、避けて、徐々に僕を追い詰めていった。実力の差は圧倒的だった。神浜の魔法少女程単純な力が強い訳ではなかったが、それ以上に対人戦闘経験の差がそのまま結果に直結していた。握っていた杖を弾き飛ばされ、僕は勢い余って地面に尻餅をついた。眼前に槍が突き出され、僕は動くことができなくなってしまった。僕はいとも簡単に負けた。赤い魔法少女は呼吸を乱してもいなかった。僕は肩で息をしていた。彼女は僕に二、三の質問をしたが、僕はそのどれにも答えることができなかった。彼女は僕の緘黙と吃音を前にして会話を諦めたようだった。彼女は僕の胸倉を掴んで持ち上げ、僕の懐にあった使いかけのグリーフシードを強奪した。そして地面に放り投げると、背を向けて歩き出した。そんな赤い魔法少女の態度は、正に創作の中で定義される悪意を持った暴漢そのものだった。僕の心の中の猛毒が、急激な勢いを伴って噴き上がった。それは僕の視界を真赤に染めた。僕は僕の心を制御する事が出来なくなった。僕は床に落ちた杖を拾い上げ、背中を向けた赤い魔法少女に向かって突撃した。思い切り鎌を振り上げた僕の脇腹に、赤い魔法少女の槍が深々と突き刺さった。彼女は苦々しい顔で槍を引き抜くと、その穂先で僕を袈裟に切り捨てた。僕はそのまま仰向けに倒れた。赤い魔法少女は無言のまま僕の上に立った。舞い降りる雪が僕の上に積もり始めた。それは僕に触れると真っ赤に染まった。僕の身体から溢れ出す不浄の血が、色の無い雪を穢していた。赤い魔法少女の悪意を凝縮した槍が、僕の魂の上にぴたりと乗った。僕は此の期に及んでも抵抗しようとしたが、出血の激しさからか身体に全く力が入らなかった。赤い魔法少女は目を閉じていた。僕にはそれが何か宗教じみた祈りに見えた。僕はもしかすると彼女は悪意に呑まれてはいないのかもしれない、とその時に初めて思った。彼女は何事かを呟きながら、その槍を勢いよく振り下ろした。雪の降る深夜に、ガラスの割れるような綺麗な音を聞いた。それきり僕は目覚めなかった。

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