現実は非情だ。
里見灯花は咲かない桜の木の下に立つたびに、幾度となく反芻する。
万年桜。運命の時が来るまで絶対に咲かない桜。かつて1人の魔法少女が具現化させた、空想の産物。その魔法少女は既に死んでいるというのに、この桜だけはその形を失うことなく、ずっと同じ場所に存在し続けている。灯花にはそれが、親友がまだどこかで生き続けている証左なのだと信じたかったが、目の前でその命を使いきり、冷たくなったその体を腕に抱いた記憶が、現実から逃げることを許さなかった。
「……やっぱりここにいたのねぇ」
獣道をかき分けて来たのか、いつのまにか灯花の後ろに八雲みたまが立っていた。学校の帰りにそのまま来たのか大東学院の制服を着たみたまは、振り返った灯花の顔を見て、そして柔らかく微笑んだ。
「そんなに想ってもらえるなんて、ねむちゃんも幸せものね」
「……ふん。そーいうしゃこーじれーはいらないよ」
「あら、そういうつもりじゃないんだけれど」
そう言ったみたまの肩に、どこからともなくぴょこんと小さな影が乗った。
「やあ。こんなところで何をしてるんだい?」
「お墓参り、みたいなものねぇ」
「キュゥべえに言っても分かんないよ。たぶん、死ぬっていう概念もないだろうし……」
「そうだね。君たちでいうところの死は、僕たちにとっては個体の機能停止にしかすぎない」
淡々と喋るキュゥべえを無視するように、灯花は桜に背を向けて歩き出した。
「調整屋さんがここに来たってことは、準備できたんでしょー?」
「……そうだけれど……。もういいの?」
「いーの。さっさと行くよー」
灯花は振り返らずに、1人で病院へと向かう獣道を歩き出した。その背中を目で追っていたみたまは、せっかく来たのだから……と、少し姿勢を正して、桜の木に向かって手を合わせた。数秒そうして黙祷を捧げた後、自分も病院へと向かって一歩を踏み出した。
歩くことしばらく。2人と1匹は、新西区にある里見メディカルセンターに到着した。神浜市の中でもかなり大きなこの病院は、多くの患者たちで賑わっていた。灯花とみたまは受付を無視し、迷わずに関係者用のエレベーターに乗り込んだ。大東の制服を着たみたまは、通りすがりの人々に見られていることには気付いたものの、もはやそんな程度のことは気にも留めなかった。
エレベーターの中では、2人はずっと無言だった。雰囲気は険悪ではないとはいえ、みたまには黙りこくった灯花にかける言葉を見つけるのは難しく、かといっていつものようにふざけた調子で話しかけようものなら、不安定な灯花の見えない地雷を踏み抜いてしまうかもしれなかった。数日前に怒り狂った灯花によって病院から追い出された経験を持つみたまには、さすがに二の舞を演じる気は起きなかった。
一般病室とは隔離された関係者用の個室は、物音ひとつない静寂に包まれていた。絨毯が敷かれ、古めかしい調度品が並ぶ豪奢な病室の中には、死んだように眠り続ける1人の少女のためのベッドがあるのみで、それ以外には延命用の機器も、病人用の設備も一切が存在しない。灯花はその部屋の中をゆっくりと歩き、ベッドの脇に置かれたアンティークの椅子に腰掛けた。
「うい……」
ぺたりと額に手のひらを当てても、人肌の温度が伝わってくるのみで、環ういからの反応はない。あの日……神浜市から奇跡が消えた日から、ういは一度も目覚めることはなく、こうして誰にも触れられない病室で眠り続けている。彼女が魔法少女であることの証明となるソウルジェムは綺麗な薄紫色を輝かせ、サイドテーブルに丁寧に置かれている。その内側には一点の穢れもなく、ういの恐るべきほどに純真な内面を表しているかのようであった。
「……始めてもいいかしら?」
「…………うん」
いつのまにか灯花の後ろには、魔法少女としての姿に変身していたみたまが立っていた。椅子を立ち上がった灯花の代わりに座り、ういのソウルジェムを手に取った。少しでも力を入れてしまえば粉々になってしまいそうなそれを、眠り姫の胸の上に慎重に置いた。みたまがその上に手を翳すと、少女の魂が共鳴するかのように淡く光を放ち始める。慎重に、慎重に少女の中に入り込み、乱れようとする流れを正していく。他人の魂に干渉できるみたまにしかできない施術を、灯花はただ見守ることしかできない。
かつてういが世界の記憶から消え、エンブリオ・イブという半魔女と化したのは、彼女の持つ強力すぎる「回収」の力の暴走が発端だった。うい自身がその身に宿す因果の量はまったく多くはなかった。それ故に彼女は契約によって手に入れた、その身に余る奇跡を扱いきれなかったのだ。イブを中心としたマギウス事変の顛末によって、──あくまで“キュゥべえ曰く”だが──ういの身には、神浜の地に纏わる凄まじい量の因果が生まれた。皮肉なことに、彼女は契約に伴う暴走の
みたまが定期的に訪れているのは、まさにその奇跡の制御の問題であった。ういはかつて、神浜全域を覆う広さの範囲において、ありとあらゆる穢れを「回収」していた。イブの外殻を失った今となっては、それほどの力を使うことはできない。しかし、眠り続けるういの意識とはまったく関係のない場所において再び「回収」の奇跡が暴走を始めることは、灯花にとって無視できないリスクであった。ねむも、アリナもいない神浜において再び同じ事故が起きれば、ういが無意識のままに魔女と化してしまうことすらもあり得る話だった。灯花にはそれは絶対に許容できない事態であり、それを未然に防ぐためには、唯一他人の魂に干渉し、改変できるみたまの力が必要だった。それだけの話である。みたまとしても、マギウスに深く加担していたことによって神浜の魔法少女コミュニティから事実上の放逐状態であり、自らの力を提供できる場所があるということは悪い気分ではなかった。調整屋を閉じ、魔法少女たちからグリーフシードの提供を受けることができなくなったみたまにとっては、仕事の報酬として灯花から与えられるグリーフシードという実利はまさしく命綱であり、頼らざるを得ない状況でもあった。はぐれ者二人の関係は、あくまで利害の一致によって成り立ったのである。
「ふぅ……こんなとこかしらねぇ」
みたまはソウルジェムから手を離し、ゆっくりとひとつ深呼吸をした。そのまま変身を解除し、大東学院制服の姿に戻ると、ういのソウルジェムをサイドテーブルに再び戻した。美しい宝石は気にかけられているのを知ってか知らでか、いつも通りに淡い輝きを放ったままであった。
「今のところは安定してるし、大丈夫だと思うわ」
「……うん」
「相変わらず、だね。本当に不思議だよ、彼女の存在は」
それまで黙りこくっていたキュゥべえが、唐突に話し出した。いつのまにか窓辺に陣取り、眠り続けるういの顔をちょうど上から覗き込むようにしていた。
「一度魔女になりかけた魔法少女が契約の奇跡もなしに元に戻るだなんて。僕たちが観測できなかったのが本当に惜しいよ」
「……キュゥべえなら、ういが起きないりゆーも知ってるんじゃないの?」
「さあ、そのことは僕らにも分からない。彼女のソウルジェムは、僕たちの観測できる範囲ではしっかりと安定しているし、肉体とのリンクが切れているわけでもない。肉体の方に何か問題のある可能性もあるけど……」
「それはないよ。ここでちゃーんと検査をしたけど、なーんの問題もなかったもん」
椅子に座りなおした灯花は、ういの右手をそっと持ち上げ、手首を軽く押さえながら言った。
「僕らの方でもいくつかのアプローチをしているけど、依然として目覚めない理由は分からないままだ。僕らでも、魔法少女が持つソウルジェムのことは完全に解明できているわけじゃない。扱う奇跡についても、ね。だからういの存在は、僕たちにとっても興味深い存在なんだ」
「まったく。肝心なところで役立たずなのねぇ……」
「今のういの抱えている因果は、他の魔法少女たちとは比べ物にならない。僕たちとしては、彼女が目覚めないまま魔女になってくれてもいいんだけど……」
「……キュゥべえ」
「まあ、君たちがいる以上それは望むべくもないかな」
灯花に睨みつけられても、キュゥべえはいつもの調子を崩さないままだ。感情がないというのはキュゥべえの自称だが、しかしそれもきっと嘘ではないのだろう、と灯花は改めて感じていた。そうでもなければ、いくら宇宙の為という大義名分をもってしても、刎頚の友を見殺しにしろなどと言えるわけがない。無感情が故の無神経さと厚顔無恥こそがキュゥべえであることはよく理解しているつもりではあるが、それでも灯花の腹の中には沸々と湧くものがあった。そんな幼さが表に出てくる寸前、乾いた拍手の音で灯花は気を逸らされた。
「……さあ、この話は終わり。わたしはそろそろお暇しようかしらねー」
帰る準備を整えたみたまが、灯花を見かねて茶々を入れた。それで灯花はすっかり拍子抜けして、大きなため息をつくに終わった。みたまは左手に鞄を持ったまま窓際に歩み寄り、座っていたキュゥべえの首根っこを掴んだ。抗議するように暴れるキュゥべえを無視して、そのまま外へ続くドアへと歩いていった。静かに睨みつける灯花の目線が背中に突き刺さるのを感じながら、みたまは病室のドアを後ろ手で閉めた。
「……あんなこと言っちゃダメよ、キュゥべえ。灯花ちゃん、だいぶ参っちゃってるんだから……」
病院の廊下を歩きながら、みたまは肩に乗せたキュゥべえに話しかけた。すっかり大人しくなったキュゥべえは、肩の上で体制を直しながら体を揺すった。
「キュゥべえはもうちょっと、女の子の心の機微を理解する努力をした方がいいと思うわ」
「僕には、努力をしても理解できるものではないと思うけれど……」
「分らない
キュゥべえと話しながら、みたまは病院の玄関を出た。外はすっかり暗くなっていた。自然が豊かな土地に建てられた病院だからか、歩道を照らす街灯には大小様々な虫が集っていた。静寂の中、みたまは新西の駅に続く道をゆっくりと歩いていた。煉瓦で舗装された道を歩むたびに遠くなっていく病院の明かりを、少し名残惜しく思った。灯花は1人でもしっかり感情を処理できるのだろうか。みたまは漠然とそんな不安を抱き始めた。そんな自分を俯瞰して、まるで母親のようではないか、と気付いた。調整屋が繁盛していた頃は、多くの魔法少女の行く末を勝手に案じては、1人で不安になっていた。マギウス事変が起こってからはそんなことを気にする余裕はなくなってしまったが、少し余裕ができればすぐにこんな考えが頭の中に巡り始める。自分は生粋のお人好しなのかもしれない。そこで、最近とんと姿を見かけない魔法少女の顔が浮かんだ。散々お節介だと小馬鹿にしていたが、みたま自身も実際は似た者同士に思えてきて、誰もいない夜道で一人吹き出した。突然笑い出したみたまの姿にキュゥべえはきょとんとしていた。妙に心配そうに聞こえるキュゥべえの声が余計に可笑しく思えて、みたまは一人で笑っていた。
──────
そこは、開かれた病室だった。その真ん中に立ち尽くして、仲睦まじげに話す3人の少女を眺めている自分を、灯花はふと、発見した。里見メディカルセンターの一般病室。本来は四人部屋のところを、ベッドを一つ減らして3人で使っていた。3人の話す声は、灯花には聞こえない。まるで強化ガラスで仕切られた向こう側から観察しているような、そんな感覚だった。笑顔が溢れる3人の会話を眺めていると、ふと、真ん中にいる少女がこちらに気づいたような素振りを見せた。灯花はそれで、朧げでぼんやりした少女たちの輪郭をくっきりと認識した。喧嘩っ早い2人の間を取り持つ少女。その笑顔はこの世の誰よりも優しくて、その声はどんな音楽よりも耳触りがよかった。いつだって穏やかに笑っていて、けれど譲れないところでは妙に頑固で。天才2人に挟まれた凡才でありながら、その底なしの慈愛は間違いなく天賦の才であった少女。
「うい……」
灯花は、これが夢であることを認識した。認識した瞬間から、病室が世界から隔離されていった。この病室は、外の世界と地続きではない。灯花の記憶。灯花の世界。砕けて散った幸せな追想。悪魔に魂を売り渡し、穢れてしまった少女の追憶。環ういは綺麗なままで、外側から眺める魔法少女に向かって手を振った。その動作だけが、全てが曖昧な夢の世界から浮かび上がっていた。
「うい……」
呟きには何の意味もない。再び曖昧の中に溶け込んでしまったういに、その声は届かない。やがて消える幸せな情景を、灯花はただ眺めることしかできなかった。いつかの記憶であるはずなのに、この記憶がいつの過去なのか、灯花にはまったく思い出せなかった。環ういが世界と記憶から消え去ってから、灯花は完全に過去の記憶を取り戻せたわけではない。ぼんやりとした過去の幸せな日々を、断片的に、印象的に留めているにすぎなかった。それでも目の前に広がる世界はあまりに眩しく、現実の陰鬱な世界とは隔絶された楽園として映っていた。
灯花は自然と、涙を流していた。目の前の視界がぼやけて揺れて、目に手を当ててはじめて、目元が濡れていることに気付いた。灯花は夢中で目を擦った。泣いている場合ではなかった。現実に立ち向かい、魔法少女として生き抜いていかなければならない自分が、夢の中に逃げて泣いているということが、あまりにも情けなかった。なんでもできる天才が、こんなところで足踏みをしていてはいけない。そう決心を反芻して顔を上げると、灯花を取り巻く世界は大きく変わっていた。
そこは、病院の駐車場だった。つい数瞬前まで暖かく輝いていた太陽は冷たく浮かぶ月にすり替わり、星々が煌々と輝いていた。既に診療の時間は終わっているからか、駐車場にはほとんど車は止まっていなかった。堂々と駐車スペースに立つ4人の少女と1匹の使者の姿を、灯花は一歩離れた場所から眺めていた。相変わらず世界に音はなく、キュゥべえに向かって質疑を繰り返す見覚えのない過去の自分たちを観察する以外、灯花にはできることがなかった。
場面は進行していく。やがて病院服の3人は決心を固めたのか、顔を合わせて頷き合う。3人よりもひと回りもふた回りも背の高い、どこか狂気的とまでとれる好奇の光を瞳に宿した少女……アリナ・グレイが、一歩引いたところでそんな3人と1匹を俯瞰し、観察するように傍観していた。
「私たちを、魔法少女にして」
はっきりと、ういの声が聞こえた。キュゥべえがその長い耳を広げ、3人の少女を迎え入れる。少女たちの祈りは形を持った奇跡として、胸中からその姿を現わす。その光景を見守っていたアリナと灯花の視界は、少女たちの覚醒と同時にホワイトアウトする。世界は数瞬だけ、奇跡の光に包まれる。それが消えていった先には、3人の魔法少女が立っていた。西洋メルヘンの世界に迷い込んだようなドレスに身を包み、赤いフリルが映える白黒の日傘を持った里見灯花。角帽をかぶりマントを翻し、小脇には豪奢な装丁の施された分厚い本を抱えた柊ねむ。その長い髪をリボンで幾つにもまとめ、スカートの丈に揃えられた上着を羽織り、特徴的な凧を侍らせた環うい。その願いは、3人でキュゥべえに成り替わること。環ういの姉……環いろはに科せられた魔法少女の運命を覆し、そして全ての理不尽な宿命に囚われた魔法少女たちを解放すること。天才が揃えば、できないことなど何もない。この時この瞬間、3人は無邪気にその言葉を信じ込んでいた。希望を抱いていた。インキュベーターとしての機能を奪われデータリンクから切り離された小さなキュゥべえが、モキュモキュと意味のない鳴き声を発していた。
「そうだ……。わたくしは、どうしてこのことを忘れてたんだろ……」
魔法少女になった天才たち。協力者として立つアリナ。その光景はまさしく灯花が数ヶ月前に経験した過去そのままで、ぼんやりとしていた過去の情景をはっきりとさせていった。映像の解像度が上がっていくように、曖昧な細部が書き込まれていく。夢が夢だと主張する要素が削られていき、現実と区別がつかなくなっていく。過去の現実は今、灯花の中に生まれていた。
「モキュ、モキュ!」
どこからか聞こえてくる可愛らしい鳴き声が、スクリーンの向こう側にいるはずの小さなキュゥべえのものだと気付いた。映画の中から立体映像のようにキュゥべえだけが浮かび上がり、灯花の方に何かを伝えようと話しかけてきているような気がした。無感情な瞳の向こう側で、誰かが笑っているような気がして──。
「……うい!!」
勢いよく上体を起こした灯花は、座っていた椅子が後ろに傾いてひっくり返りそうになるも、後ろの足でバランスを取りなんとか元に戻した。窓の外はすっかり暗闇で、小さな常夜灯の明かりだけが部屋の中を照らしていた。灯花はベッドの脇に椅子で座り、そのままういの寝ているベッドにうつ伏せになって眠ってしまっていたのだった。キュゥべえもみたまも出て行った後の病室は静かで、灯花は椅子から立ち上がり、明かりも付けずにしばらく立ちつくしていた。夢の記憶と過去の記憶が、灯花の頭の中を公転していた。それらはやがて直列周期に至り、過去と現在、夢と現を美しいまでに繋ぎ合わせた。
「……小さいキュゥべえ!」
環ういが目覚めない原因。ソウルジェムも、肉体も、全部が揃っているういに足りないものは、たったそれだけ。あの時……ホテルフェントホープの戦いにおいて、環いろはにくっ付いていた、アリナの結界の内部において唯一存在を許されていたインキュベーターの特殊な個体。小さいキュゥべえには環ういの心が封じ込められているという事実に、灯花はようやく思い至った。灯花は大急ぎで携帯端末を取り出し、震える指で電話帳をスクロールする。その中にある目当ての名前を見つけ、タップした。たった数回のコールの時間が、灯花にはとてつもなくもどかしかった。
「もしもし、灯花ちゃん? どうしたの、こんな時間に……」
「小さいキュゥべえだよ! 思い出した!」
「え? 一体なんの話……」
「あーもう! ういだよ! ういの目を覚ますために、小さいキュゥべえがひつよーなの!」
夜中に突然呼び出されたみたまは灯花の要領を得ない説明に困惑していたが、小さいキュゥべえという単語には耳聡く反応した。
「小さいキュゥべえって……いろはちゃんが拾ってきてた、あの?」
「そう! お姉さまが連れてた小さいキュゥべえの中には、ういの魂がふーいんされてるんだよ!」
「なんでそんな大事なことを、今更……」
「思い出したの。……ううん、違う。ういが、わたくしに教えてくれた」
「ういちゃんが?」
「だから、わたくしは小さいキュゥべえを探さなきゃいけないんだよ。でも、一人だとこーりつが悪いでしょー?」
「そうね。……でも、わたしは人集めなんて協力できないわよ? 調整屋も閉じちゃったしねぇ……」
「わかってる。それでも、いまういのことを頼めるのって、みたましかいないんだよ」
「……」
「嫌なら嫌でいいよ。わたくし一人でも探すから」
数秒の沈黙。
「……わたしも手伝うわ。ういちゃんのことだもの。明日、調整屋に来て。それと、今日分の報酬も貰ってないわ」
「うん、おーけーだよ」
それだけ言って、電話を切った。薄闇の中に浮かぶういは安らかな顔で、静かに寝息を立てていた。灯花はういの額を愛おしそうにそっと撫でて、そして病室を後にした。
みたまは電話を置いてからはじめて自分の背に冷や汗が伝っているのに気付いた。電話越しの灯花の声は信じられないくらいに真っ直ぐで、不安定で切迫していた今までの灯花とはまるで別人のようであった。その声に、どんなに犠牲を払いどんなに敵を作ろうとも自分の我儘を貫く、あのマギウスとしての意志の強い目を幻視した。ただ目を合わせただけで、自分の運命から目を背ける者を射殺してしまいそうなあの目。幼い姿には不釣合いな強すぎる意志を宿した、天才を名乗る少女たちの目を。調整屋としての中立を破ってまでマギウスと内通していたのは武力による脅迫が原因ではなく、あくまでみたまの意思だった。ここまで大きな騒動になるとは予想していなかったが、彼女たちマギウスがいずれ大きな犠牲を出すことは分かっていた。それでもみたまはあの目に酔った。無謀な少女たちの蛮勇の結末を、その目で見届けたいと思った。そして今は、戦後処理に揺れる神浜の中で、唯一の必要とされる居場所を守ることに必死だった。調整の際に垣間見た記憶の通りであれば、何も分からないままに魔女と化した環ういという少女に対して、みたまなりに情が湧いてもいた。
「さあて、誰が協力してくれるかしらね……」
携帯電話の電話帳をスクロールしながら、一人ひとりの魔法少女の姿を思い浮かべる。みたまはそのうち、一人の名前を見つけた。ふと思い立った。時計を見ればもう眠っていてもおかしくはない時間だが、魔法少女である。夜の街に繰り出していても不思議ではない。特に彼女は今とても忙しそうであるし、まさか呑気に眠っているということはないだろう……。そこまで考えて、みたまは電話をかけることにした。きっちり2回目のコール音が終わる時だった。
「八雲か。久しいな」
「十七夜、久しぶりね。今ちょっといいかしら。お願いがあるんだけど……」
ひと月ぶりに聞く旧友の声は相変わらず凛としていて、それだけで姿勢が正される思いだった。
「……悪いが無理だ。これから別の魔法少女と会わねばならん。それに……、八雲の立場のこともある。今の難しい状況で迂闊な行動は取れんのだ」
十七夜が東の魔法少女たちを取りまとめていることは有名な事実である。かつては西を担当していた七海やちよと梓みふゆがマギウス事変の際に失踪し、それ以降表舞台に姿を現していない現在では、西と東の魔法少女の争いは形を変えて激しさを増していた。かつてマギウスの翼として戦った魔法少女たちと、それに加担せずに戦った魔法少女たちの間には、深刻な断絶が生まれてしまった。翼に属した魔法少女たちの多くが実力も立場もない弱い少女たちであったことも相まって、元翼の魔法少女に対する迫害が横行してしまっている。その結果として弱い魔女が大量に発生し、現在の神浜がある意味で魔法少女の「楽園」になっていることは確かである。十七夜はマギウス事変に関わった人間としてその火消しに走り回る立場であり、みたまもそれは承知していた。
「分かってるわ。それでも……」
「他ならぬ八雲の頼みだ。聞いてやりたいのだがな……」
「……困ったら頼れって言ったのは、十七夜じゃない」
思考よりも先に、口が動いていた。電話越しの十七夜の息を飲む音が、いやにはっきりと聞こえた。
「分かってくれ。今の状況からこれ以上、二次災害の被害者を増やすわけには……」
それ以上の弁明は聞きたくはなかった。何かを話す携帯電話の終了ボタンを押して通話を切断すると、それをそのままベッドに放り投げた。それから何度か携帯電話は振動したが、机に突っ伏したまま眠ってしまったみたまが気付くことはなかった。
──────
新西区の外れ、建設計画の中止に伴って放置された建物群の一角。立ち入り禁止の看板を越え、雑草が好き放題に蔓延る道を歩いて行った先に、無骨なコンクリートのまま放置された建物がある。かつては多くの魔法少女で賑わった調整屋は、今では誰も寄り付かない廃墟同然の場所と化していた。朝早くそこに辿り着いた灯花は記憶を頼りに歩き回り、目当ての扉を見つけ出した。以前と同じような朽ち果てそうな扉には、「調整屋」という手書きの看板がぶら下がっている。錆びたノブを掴み回すと、扉は悲鳴をあげながら内開きに開いた。かつては瀟洒なステンドグラスや洒落た調度品に彩られていたその場所は、見る影もないほどに荒廃していた。ステンドグラスは割れランプは倒され、ソファは破れて綿の残骸がそこらに散らばっている。カーテンはレールから引きちぎられて床に落ち、チェストは引き出しを抜かれて寂しげな表情を見せていた。荒らされた室内の空気はいやに澄んでいて、耳が痛いほどの静寂だけがその部屋に居座っていた。
灯花は、足元に光るものを見つけた。身を屈め、床に落ちたものを拾った。かつてマギウスの翼が身につけていた、そしてウワサによる洗脳の触媒となった、曰く付きの金色のペンダント。留め具が壊れて落ちたそれは所々派手にメッキが剥がれ、特徴的な一対の装飾の片方が折れてしまっていた。朽ち果てようとしていたそれを灯花は掌で転がし、そしてポケットにしまった。
みたまが来るまでに何をしようかと考え始めた時。ぞわり、と形容しがたい不快感が背筋をなぞった。全身の産毛が逆立った。魔力の波動。しかし魔法少女ではない。憤怒悲嘆憎悪遺恨怨嗟……ありとあらゆる負の感情を煮詰め、凝縮し、混ぜ合わせた絶望の波動が、灯花の魂を乱雑に揺さぶった。粘っこい暗色の泥が飛び散り、心に張り付いてくるような感触。穢れた空気に慣れきった灯花ですら不快感を催すような感覚。灯花は扉を乱暴に跳ね飛ばし外に駆け出した。調整屋を飛び出すと、既に外は手遅れだった。踏み出した足は不自然なくらいに柔らかい何かに着地した。足元には芝生のような緑と青の地面が広がり、意思を持っているかのように脈打つ青い繊維のようなものが這い回っていた。空は暗く、暗闇に開いたチャックの口の向こう側には薄気味悪い眼球がぎょろぎょろと蠢き、こちらを観察するように、興味なさそうに世界を俯瞰していた。振り向けば調整屋は影も形もなく、地平の果てまで幻覚的な空間が広がるのみであった。極めて冷静に魔法少女の衣装を身に纏った灯花は、ゆっくりと周囲を見回す。分度器のような頭に民族衣装チックなボロ布を身に纏った手下たちが、あちこちで何か作業をしていた。彼らに見つからないように灯花は姿勢を低くし、起伏のある地面にうまく身を隠しながら歩き回る。そうして歩いていると、小高い丘の陰に見慣れたローブを着た誰かが倒れている姿を発見した。手下の目を盗んでその肢体に近づき、隣に立った。倒れている少女の背丈はみたまより少し低いくらいで、ローブの下には神浜市立大附属の制服を着ていた。フードの部分を除けると、眠るように瞳を閉じた少女の顔が曝け出された。灯花はその顔に見覚えはなかった。マギウスの翼の構成員はみふゆや天音姉妹にスカウトを任せていたから、顔を覚えている構成員など指折り数えるくらいのものであり、灯花が知らないのも無理のない話であった。灯花はその少女の、まだ少し暖かい頰を撫でた。そして腕を組ませ、まだ固まっていない手を開かせて、ポケットにしまっていたマギウスのペンダントをその手に握らせた。
「……これも、わたくしの責任」
独りごちて、灯花はゆっくりと立ち上がった。周りの手下たちがその姿を認めて、手に持った角笛を盛んに鳴らし始める。
「死ぬのは、イヤだもんね。魔女として生きるのはもーっとイヤ」
結界の中に鳴り響く耳障りな音の中で、灯花は手に持った傘を広げた。丘陵の向こう側からも続々と集結する手下を気にしながら、足元に転がった少女の抜け殻をもう一度見た。
「……魔法少女の運命は……」
独り言は、嗤い声と笛の音にかき消された。
みたまがキュゥべえを連れて調整屋に到着した頃には、灯花は扉の外で立ち尽くしていた。足元にはグリーフシードがひとつ無造作に落ちているだけで、周りには灯花以外の人影も気配もない。朝のさわやかな日差しの中で、灯花はゆっくりとみたまの方へと顔を向けた。
「おはよー。みたまが早起きしてくるなんて、めずらしー」
「ちゃんと寝れなかったのよぉ。まだ眠くって……」
そう言いながら、大きなあくびをひとつ。灯花は足元のグリーフシードを拾い上げて、そのままみたまへと投げ渡した。大きく伸びをしていたみたまはそれに気付いて、あわててそれをキャッチ。勢いあまってキュゥべえが振り落とされそうになるところを、必死で前足で肩にしがみつくことで耐えた。ひどいわよ……と少し不機嫌なポーズをしてみせるみたまをくすりと笑って、灯花は調整屋の扉を開いた。
「あらぁ、これは、ひどいわねえ……」
荒れ果てた室内を見て、みたまは呟いた。2人は座れそうな椅子とテーブルを見繕い、向かい合わせになって座った。脚の1つが削れているのか少し不安定なテーブルに、キュゥべえが器用にバランスを取りながら飛び移った。
「小さいキュゥべえだけど、キュゥべえは探せないのかにゃー?」
「僕かい? 残念だけど、それは無理だね。そもそも僕たちは君たちの言うところの小さいキュゥべえという存在を観測したことすらないんだ。確かに神浜市で僕たちのリンクから切断された個体はいくつか存在するけれど、アリナの結界が張られていた中で起きたことは観測しようがなかったし」
「そのイレギュラーな個体を探したりもできないの?」
「魔女の結界が高密度で張り巡らされている今の神浜市で何の痕跡も残さない個体を捜索するなんて、例えるならばジャングルで何の目印も付いていない昆虫の一個体を探し当てるようなものだよ。僕は魔力を持った魔法少女や魔女を探すことならある程度はできるけれど、さすがに観測したこともない存在を見つけるのは無理だ」
「推測を立てることも……、無理だよねー。そもそもどーいうこーどーげんりに基づいて動いてるのかもわかんにゃいし……」
「ういちゃんの心が宿ってるのよね? それなら、ういちゃんの魔力から見つけたりはできないの?」
「その個体に環ういの魔力が付随しているならば、それこそ僕が見つけ出しているよ。この問題で一番厄介なのは、小さいキュゥべえの個体に僕や魔法少女が利用できる目印となる要素が何一つとして存在しないことなんだ。そもそも、その小さいキュゥべえがまだこの神浜市で活動しているという根拠も証拠もない」
「確かに根拠もしょーこもないけど、わたくしには確信があるんだよ」
「みたまに話したという夢の話かい? 僕にとっては、あの話は信用に足るとは言いがたい。ういが夢を操る魔法少女だという話ならともかく……」
「でも、魔法少女は奇跡を起こす存在よ。キュゥべえが言ったことじゃない」
「……確かに、魔法少女は条理を超えた存在だ。ありえないと断言できる事象は無い」
「わたくしはういを信じてるもん。きっとねむだっておんなじ事言うよ」
「そうかい。情報の真偽はともかくとして、小さいキュゥべえを探すのならやはり人手を募るのがいいだろうね」
「わかってるよそんなこと。わたくしたちにしんよーがないのが問題なの!」
「マギウス解散からこっち、頼れる人も味方もいないものねえ……。今なんてグリーフシードも溢れてるから、報酬で釣るって手も無理そうだし……」
「お願いされたら断れなさそうな魔法少女とか、いにゃいの?」
「そうねえ……」
ももこは連絡が取れないし……と、しばらく考え込んで、
「わたしは、わたしの伝手を辿ってみるわ」
「ふーん。じゃあわたくしも、てきとーに当たってみるかにゃあ……」
灯花はテーブルの上に座ったキュゥべえの長い耳を引っつかみ、椅子から飛び降りた。
「キュゥべえは借りてくよ。レーダーくらいにはなるし」
抗議の声をことごとく無視されながらずりずりと引きずられていくキュゥべえの後姿を眺めながら、みたまは次に会いに行く旧友の事を考えていた。
──────
街頭に設置されたデジタル時計が、ちょうど正午を指し示していた。灯花は人の少ない新西区の通りを歩きながら、時折ソウルジェムで魔力を探していた。
「ねーキュゥべえ、ほんとーにこのへんにいるの?」
「そのはずだよ。魔女の結界が多いせいで、あまり精度の高い探索はできないんだ」
無感情な声を肩から聞きながら、灯花は路地を曲がっていく。
「魔力がこんがらがっちゃうからってことー?」
「そうだね。魔女の結界から発せられる魔力が、ノイズになってしまうんだ」
「ふーん……その魔力探索システム、ちょーっとポンコツなんじゃないの?」
「そんなことはないよ。ここまで魔女結界が乱立している神浜市が特殊なだけだ」
ずん、ずん、と魂に響くような魔力の波動を感じた灯花は足を止め、裏路地の方へと体を向けた。キュゥべえも垂れ下げていた尻尾を立てて右へ左へと揺らし始めていて、表情には出ないものの何かを感じていた。
「……今の、魔法少女?」
「恐らくは。だけど、様子が変だ」
肩から降りたキュゥべえを確認して、灯花は路地へと足を踏み入れた。湿ったコンクリートの地面を一歩ずつ進んでいく。室外機の稼働音にかき消されて魔法少女の声は聞こえない。しかし背筋を不快になぞるざわめきは、進むたびにだんだんと強まっていた。排気音の間を縫って響く金属がぶつかり合う音に、灯花はひどく聞き覚えがあった。
「……あれは!」
地面のキュゥべえが気付くのと、灯花が前に駆け出すのは、ほぼ同時だった。魔法少女が一人、鼓膜を貫く爆発音と共に曲がり角から転がり出てきたのだ。耳障りな金属音と特徴的な魔力の震えは、灯花に状況を理解させるには十分だった。即座に変身した灯花は一切の迷いもなく魔法少女の前に立ち、その手に現れた豪奢な日傘で飛来してくる剣を弾き飛ばした。
「……え?」
背中で間抜けな声を出す魔法少女には一瞥もくれず、路地に立つ三人組を睨みつけた。
「マギウス……!?」
3人揃いの黒いローブは、数週間前までは見慣れていたものだ。袖口から垂れ下がる鎖も、コンクリートに突き刺さった剣も、やはり灯花たちが作り上げたものに違いがない。
「今更どの面下げて……」
「おい、ここは退くぞ。私たちじゃマギウスには勝てない」
「なんであんたが生きてるの! あんたなんて……あの時死んじゃえばよかったのに!」
突然目の前に現れたマギウスの姿に戸惑いながらも、3人組のうちの1人は灯花に向けて怒鳴った。リーダー格に見える1人がそれを押さえながらゆっくりと後ずさり、ある程度の距離まで離れたところで3人揃って一気に走り出し、路地の向こう側へと消えた。
「……わたくしは、死なない。ういも死なない。死なせない……」
瓦礫の中で徐々に冷たくなっていく身体。目の前で命が失われたあの感覚。灯花は回想に囚われそうになる心をなんとか押しとどめ、強く瞬いた。
魔力が感じられなくなった後で、灯花は変身を解く。呆然としたままの魔法少女に、ゆっくりと語りかけた。
「記者さん、ちょっとお話があるんだけど」
首からカメラをぶら下げた観鳥令には、首肯する以外の選択肢はなかったのだった。
近場の喫茶店に入店した2人は、人のいない店内で向かい合って座った。砂糖を3つは入れた甘いアイスカフェオレをストローで一口飲んで、灯花は令の言葉を待った。気になることがある、と言って去っていったキュゥべえのことなど、灯花の頭の片隅にも残っていなかった。
「今の神浜市の状況を、いったいどこから話せばいいやら……」
「知ってること、ぜんぶ」
「全部、ねえ」
ストローでかき混ぜられたアイスコーヒーは、氷がぶつかり合ってからからと涼しげな音を立てた。
「……マギウスがいなくなってから、神浜市は元どおり、西と東で縄張りが作り直された。東の頭領はご存知の和泉十七夜、西は十咎ももこが受け持つ形でね」
「ふーん……ベテランさんじゃないんだ」
「七海やちよは……あのフェントホープの戦いからこっち、とんと姿を見せないのさ。ともかく、そういう形で私たちは日常に戻った。でも、新しい問題が出てきた」
令は一口アイスコーヒーに口をつけて、テーブルに置いたカメラに手を置いた。
「観鳥さんみたいな、元マギウスの翼の魔法少女たちのことさ。魔法少女に大きな犠牲を出した戦いに納得してない魔法少女も多くて、そこの間で色々と事件まで起こるようになった」
「……でも、羽根の格好も魔法も隠してたはずだよね? どーしてバレちゃったの?」
「……さあね。それに関しては、観鳥さんにもよく分からないんだ。ただ、どこからか羽根として参加した魔法少女の名簿みたいなものが出てきたらしくて、それで一気に噴き上がった」
灯花はマギウスとその翼の面々を一周頭で巡らせたが、羽根の名簿を付けるような魔法少女には思い当たらなかった。一番そういうものに通じていそうなみふゆでさえ、翼の状況を完全に把握してはいないと言っていたことを思い出す。
「それで、元翼の子達が襲われたりして、一時期は大変だったんだ。そうこうしているうちに十咎ももこもいなくなって、西側は完全に無法地帯になっちゃってる」
「それじゃあ、さっき襲われてたのは……」
「あの子達も、生きるのに必死なんだよ。だから観鳥さんみたいなそこまで強くない魔法少女を集団で襲って、グリーフシードを強奪してる。西側は魔法少女の数が多いから、いつ魔女が枯渇するかもわからないし、グリーフシードは持てるだけ持っておきたいんだろうね」
「生き延びる、ため……」
魔法少女はやがて魔女になり、死ぬ。片翼のエンブレム。脳裏にちらつくイブの幻影を、頭を振って消した。
「……大丈夫。ういは死んでない。魔女になんかなってない。わたくしが助ける。だから大丈夫。ういはまだ大丈夫だから……」
俯きながらぶつぶつと独り言を呟く灯花の姿はかなり異様で、令はこの小さな天才について来てしまったことを後悔した。元々情緒不安定ですぐに機嫌を損ねる印象はあったものの、それは幼さゆえだと納得できた。背中に伝う冷や汗を、背もたれに押し付けた。
「じゃあ、観鳥さんはもう行くよ。お金は払っておくから」
そう言って、立ち上がりながら伝票を取り上げようとした令の腕を、灯花が掴んだ。昏く濁った指輪の宝石が、視界の端で鈍く光った。
「待って」
「……まだ、何か?」
「座って」
見上げる灯花の威圧的な眼力に押し負けて、令はゆっくりと椅子に座りなおした。灯花が離した腕には、しっかりと手の形の痣ができてしまっていた。
「小さいキュゥべえを探してるんだけど、しってる?」
令は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……は?」
「小さいキュゥべえ。存在は知ってるでしょー?」
令はしばらく考える素振りを見せた。そして何かを思いつき、テーブルの上に置いてあるカメラを手に取った。保存されている写真データを一つ一つ順送りしていく。カチ、カチと規則正しくボタンを押す音が響く中で、令の指はぴたりと止まった。
「見かけたよ、小さいキュゥべえ。珍しいなって思ったから、場所もよく覚えてる」
「案内して、今すぐ!」
テーブルに身を乗り出す灯花の眼前で、令は苦い顔をした。
「……悪いけど、もうこれからは、観鳥さんとは関わらないでくれ」
懐から取り出したメモ帳にペンを走らせながら、令はそう呟いた。
「希望を見せてくれたマギウスには、個人的には感謝してる。けど、観鳥さんも神浜で生きていかなきゃならないんだよ」
簡単な地図を書き上げたメモを千切り、座り直していた灯花の前に置いた。
「……それなら、協力してくれてもいーじゃん」
店を出て行く令の後ろ姿には、灯花の声は届かなかった。
──────
神浜市、大東区。新西区や水名区と比べると寂れた住宅街を、みたまは一人、歩いていた。調整屋を出て大東区に着いたころには既に昼下がりで、下り始めた太陽が人気のない大通りを照らしていた。東側は西側と比べマギウス事変によって行方不明となった少女が圧倒的に多く、活気の失い方も一際深刻なものだった。元々治安が良いとは言いがたかったものの、天気のいい日の昼間に公園で遊ぶ子供が一人もいないという状況は異常なもので、時折通り過ぎる車の走行音が不気味なほどに響いていた。
ソウルジェムに魔力を集め、周囲の魔力を探索する。探し人の所在はある程度推測できる分、歩き回る距離は少なく済んだ。
「……魔女」
大東区に乱立している団地の一つに、魔女の反応を見つける。活気を失った大東団地群は、昼間でありながら異様な雰囲気を漂わせていて、魔女が巣食うのも当然に思えた。結界の入り口は団地の外、ちょうど別の棟との間に敷かれた道路にあった。魔女の魔力は不安定で、既に中で戦端が開かれているようであった。魔法少女二人分の魔力の内に、目当てのものはあった。
ものの五分とかからずに、魔女の魔力が大きく減退する。結界の入り口が揺らぎ、境界が曖昧になっていく。車止めのアーチに腰掛けていたみたまは、狭間から降り立つ二人の少女の背中を視認した。黒い大東学院の制服と白い神浜大附属の制服が、対照的に映えていた。
「大丈夫か?」
「あ……はい。ありがとうございます、十七夜さん」
「記憶に違いがなければ、伊吹君は普段桑水君と相野君と一緒の筈だが……、今日は1人か?」
「えーっと……。今日はみとがちょっと用事があって、せいかが付き合ってるんです。この辺りで会う予定だったんですけど、魔女を見つけて、つい……」
「そうか。魔女は弱くなったとはいえ、油断は禁物だぞ。何かあってからでは遅い」
「ごめんなさい……」
「だが、戦いの筋は悪くない。相手の形態や動きをよく観察して……」
かわいらしいメロディの着信音が、十七夜の言葉を遮った。伊吹れいらは慌てて鞄を探り、ストラップのついたスマートフォンを取り上げた。
「せいかだ……ごめんなさい、ちょっと。もしもし? ……うん、うん。え? あー……。うん、わかった。じゃあ今からそっちに行くね」
れいらが電話を始め、手持ち無沙汰となった十七夜はなんとなしに周りを見回した。公園の方を向いた時、じっと2人を見つめていたみたまと目が合った。十七夜の顔が引き締まるのを、みたまはただずっと見つめていた。
「えっと、十七夜さん」
「行ってやれ。用心するんだぞ」
みたまから目線を外さないまま、十七夜は素っ気無く答えた。2人の異様な光景にれいらは一瞬たじろいだ。何か関わり合いになってはいけない関係だと悟り、頭を下げながら2人の間を駆けて行った。
先に沈黙を破ったのは、十七夜だった。
「……八雲。何をしに来た?」
昔馴染みに取るには、ひどく冷たい態度だった。
「場所を変える。ついて来い」
返答を待たずに、十七夜は踵を返し、人気のない団地の中に入って行った。無人の部屋を魔法によって解錠すると、錆びついた鉄の扉は悲鳴を上げながらゆっくりと道を開けた。
「……ここなら、誰かに見られることもないだろう」
見捨てられた一室はがらんどうで、むき出しの窓から差し込む日差しだけでは少し薄暗かった。淀んだ空気が重々しくのしかかり、みたまは思わず窓を開けそうになる。
「……八雲。どうした?」
今度の十七夜の声には、少しだけ心配そうな色が混ざっていた。
「十七夜、一つ聞かせて」
「何だ?」
「十七夜は、まだ神浜の歴史を破壊しようと思っているの?」
疑惑のニュアンスを隠そうともしないその声に、十七夜は即座に返答を返そうとして、しかし喉が詰まった。自分の中で何かが引っかかる。かつて自分は、東に理不尽な差別を強いる神浜の歴史を破壊しようと志した。その気持ちは、相当の時間と出来事を経た今でも昨日のように思い返すことができる。しかし、今自分が行っていることは、本当にその為の行動なのか? そんな疑問が自己の中に湧き上がってきた。
「……やっぱり」
ほんの僅かな沈黙だけで、みたまは全てを見透かしているようにそう呟いた。俯いた視線を上げ、十七夜の顔を正視した。
「十七夜に、お願いがあるの。今の神浜を守ろうとする貴方にしか、頼めない話」
十七夜は何も言わず、続きを促すようにみたまを見守っていた。みたまは一拍おいて、切り出した。
「今、灯花ちゃんが動いてる。イブの核だった環ういちゃんを救うために、ね」
「環うい……というと、環君の妹か」
「そうよ。そのために、小さいキュゥべえを探してる」
その言葉に、十七夜は少しだけ疑問を浮かべた。
「小さいキュゥべえを? それに、八雲は何故それを知っている」
「……協力を頼まれたからよ」
「まさか……」
「ええ。……わたしが協力をしなくても、灯花ちゃんはきっと小さいキュゥべえを見つけるわ」
断言。
「でも、問題はその後。神浜中が敵の灯花ちゃんは、ういちゃんと一緒には暮らせない」
「……そうだな。今は魔女が飽和しているが、それもすぐに収まる。そうなれば、また生きるためのグリーフシードの取り合いが始まる……」
「魔法少女1人分の食い扶持を確保するのだって厳しくなるかもしれない。そんな状況で、新人を抱えて2人っきりだなんて、いくら灯花ちゃんでも……」
そこまで来て、十七夜は苦い顔をした。
「……環ういを預かってほしい、ということか」
みたまは静かに首肯した。
「だが、里見灯花の庇護を受けないとなると、どこで生活をするんだ。確か環君の家は神浜市外だろう……」
「ういちゃんは世界から忘れられてたのよ。向こうのご両親が今ういちゃんの事を覚えてる保証はない。それにいろはちゃんの話によれば、ご両親は今海外にいるわ。面識もないわたしたちが、どうやって連絡を取るの?」
返す言葉もなく、十七夜は背を向けた。考えれば考えるほど、環ういの状況は深刻だ。たとえ目を覚ましたとしても、このままでは待っているのは何もわからないままの、酷い結末だ。里見灯花と行動を共にさせるわけにもいかなければ、ただ放り出すわけにもいかない。今の神浜を魔法少女のコミュニティに属さないまま生き抜くのは、新人にはあまりに酷だ。
「……十七夜、お願いよ。これ限りでわたしを見限ってもらってもいい。わたしは2人を助けたい」
その上、かつての同志が必死な声でこんな事を言うのだ。困っている人間をただ見捨てるのは寝覚めが悪い。しかし、抱えている東の魔法少女たちのこともある。マギウスに手を貸したと吹聴されれば、東もまた西と同じ道を辿ることも十二分に考えられた。善意と責任の板挟みに、十七夜は深いため息をついた。
「取り込み中のようだけど、ちょっといいかい?」
場違いに平坦な声が、2人の脳内に響く。部屋の隅の暗闇に、いつのまにか現れたキュゥべえがいた。
「キュゥべえ……」
「何の用だ。貴様に構っていられる時間はない」
「そんな邪険にされても困るな。今回は君たちにとって有益な情報を持ってきてあげたんだよ」
無感情な瞳で2人の反応を確認したあと、キュゥべえは再び切り出す。
「里見灯花が、環ういを見つけたよ。彼女は目的を果たした」
──────
月明かりだけが、辺りを照らしていた。万年桜の木の下で、灯花は小さなキュゥべえを抱えたまま、立ち尽くしていた。
「ねむ……。もうすぐ、ういが起きるんだよ。やっと、やっと……」
小さなキュゥべえの頭を撫でながら、幼い子供に語りかけるような声で、ゆっくりと口を動かす。窮屈そうに小さなキュゥべえが身じろぎをしても、灯花はその体を離さない。ただゆっくりと、思いを馳せるように目を閉じる。長かった旅の終わり。結局、四人で過ごせる世界は実現しなかったけれど、それでも。
「お姉さまも、見守っていてくれるよね」
星々の煌めく夜空を見上げて、灯花は呟く。天国なんて、本当は信じてはいないけれど。それでもあの2人だけは、天国で一緒に暮らしていればいいな、なんて。今だけは、灯花もそんな妄想に縋りたい気分だった。
「灯花ちゃん……」
少し現実を離れていた灯花は、いつのまにか背後に来ていたみたまの存在に気付かなかった。声をかけられて後ろを振り向いた灯花の顔は、今までにないほど晴れやかだった。
「……みたま、どーしたの?」
いつになく深刻な顔のみたまを見て、灯花は可愛らしく首を傾げた。ういは目を覚ます。もうみたまには関わる理由などないはずなのだ。
「……どうしても、聞いておきたいことがあるの」
夜風が2人の髪を揺らした。木々の揺れる音と土の匂いが、灯花の心の中に不快な騒めきを生み出した。
「灯花ちゃん。ういちゃんが目を覚ましたら、それからどうするつもりなの?」
「どうするって……。一緒に過ごすんだよ? わたくしと、ういで」
何故そんな当たり前のことを聞いているのか、灯花には理解できなかった。その為にこれまで手を尽くしてきたことは、みたまも十二分に承知しているはずなのに。
「ういちゃんとは、離れて暮らした方がいいわ」
「……え?」
ざわり、ざわりと、不快に木々が音を立てる。
「……なに、それ」
力を込めて抱き締められた小さなキュゥべえが、苦しそうな声を上げた。
「ういちゃんがイブだったってことは、あの時フェントホープにいた何人かしか知らない。でも、灯花ちゃんがマギウスだったってことは、神浜の全員が知ってる」
「それが何? そんなくだらないことで……」
「……はっきり言うわ。灯花ちゃんが隣にいたら、ういちゃんは魔法少女としては生きられない」
「……」
「今の神浜の惨状を作り上げたのが、マギウスだから。魔法少女たちは多かれ少なかれ、みんなマギウスのことを……、灯花ちゃんのことを恨んでるわ。そんな状況で、魔法少女のことを何も知らないういちゃんがあなたの隣に現れたら、どうなると思う?」
「それ、は……」
“もうこれからは、観鳥さんとは関わらないでくれ”……。頭の中で、言葉が反響する。“あんたなんて、死んでいればよかったのに……”。自分が生きていることが望まれていないことくらい、分かっていた。少し考えれば、その矛先がういに向かってもおかしくないことくらい、すぐに分かっていたはずだった。灯花は今ここに至ってようやく、自分の思考が無根拠な楽観に支配されていたことを理解した。
「……ういちゃんの安全のためにも、わたし達は離れるべきよ」
……違う。
「病室に行きましょう。そこでこれからの話を……」
「……嫌だ」
「え?」
「嫌だ!」
俯いていた灯花が突然叫んだ声に、みたまはたじろいだ。
「わたくしは、ういと一緒じゃなきゃ嫌だ!」
「わがままもいい加減にして! ういちゃんがこんなことになってるのも、神浜がこんな状態になったのも、全部あなたのわがままが原因なのよ! それを……!」
「うるさい! 黙って!」
先に手が出たのは灯花だった。抱きしめていた小さいキュゥべえを放り投げ、みたまを思い切り突き飛ばした。ひと回り以上の身長差など、魔法少女にとっては大した差ではない。
「そっか……。みたまは、わたくしの邪魔をするんだ。わたくしとういが一緒に暮らすのを、邪魔して……」
みたまを見下ろしたその瞬間、灯花はある確信を持った。それは、何の根拠も裏付けもない、独りよがりな決めつけ。灯花の心が導き出した、絶対的な確信だった。
「自分ひとりじゃ、なんにもできないくせに……!」
倒れたみたまの鳩尾を、灯花の右足が蹴り上げた。鋭い痛みと呼吸困難によって、みたまは声にならない悲鳴を上げる。
「天才の、足を引っ張って! このっ!」
抵抗できないみたまを、怒りに任せて何度も蹴りつける。大東学園の制服は泥に汚れ、後ろでまとめた長い髪も何度も踏みにじられる。怒りと衝動で息を切らしながら、ボロ雑巾のように横たわったみたまを見下ろした灯花は、投げ出された左手の中指で光る指輪に気付いた。
「……っ! とうか、ちゃ……」
息も絶え絶えのみたまは、自分の左手から指輪が抜き取られることになんとか気付いた。しかし、それに抵抗することもできず、ただ地に伏したまま灯花の姿を見上げることしかできなかった。
「……みたまはもう、いらない」
「え……」
「わたくしの邪魔をするみたまなんて、もういらない!」
灯花は叫び、右手に握ったソウルジェムの指輪を振りかぶった。
「ゃ……やめ……」
みたまのか細い声は、灯花には届かない。足元に転がった石に向かって、灯花は思い切り指輪を投げつけた。指輪は宝石の側から勢いよく石にぶつかり、甲高い音を立てた。指輪に付いた黒く濁った宝石は、あっけなく、無残に砕け散ったのだった。
「はぁ……ふう……」
息を整えながら、灯花はただ、八雲みたまだったものを眺めた。つい数分前まで立って歩いていた調整屋は、咲かない桜の木の下で泥に塗れていた。
灯花は辺りを見回して、木の陰から怯えるように様子を見ていた小さいキュゥべえを見つけた。
「……ういを、助けなきゃ」
灯花は歩いて近づき、小さいキュゥべえを拾い上げる。小さな声で鳴く環ういを大事に抱えて、灯花は病院への道を歩き出したのだった。
──────
「む、遅かったな」
ういの眠る特別病室の中で、十七夜は椅子に座っていた。髪も服も大きく乱れ、尋常ではない様子で入室してきた灯花を見て、十七夜は眉を顰めた。
「八雲はどうした。呼びに行ったはずだが」
椅子から立ち上がりながら、十七夜は灯花を見据えた。灯花は焦点の合わない目で十七夜の方を見るばかりで、質問に答えることはなかった。
「……和泉十七夜。なんで、ここに」
呆然とした様子の灯花は、震えた声でそんなことを聞いた。
「自分は八雲に頼まれてな」
「みたまに……」
ぼとり、と小さなキュゥべえが床に落ち、小さく悲鳴を上げた。
「じゃあ、お前も……」
灯花は黒く濁ったソウルジェムを具現化し、魔法少女の衣装を身に纏う。ぐらり、視界が歪んだ。
「お前も……わたくしの邪魔を、するな!」
勢いよく踏み込む。変身もしていない十七夜に向けて、殺意を乗せた傘を振りかぶる。感情のままに振り下ろされる傘を軽く避け、十七夜は鋭く足を払う。バランスを崩した灯花を後ろから押し倒し、右手で頭を抑えつけた。
「落ち着け。話を聞きたいだけだ」
「離せ! この……!」
なんとか逃れようと体を動かすが、十七夜は抑えつけを緩めない。
「八雲はどこだ。答えろ」
極めて冷静に問う十七夜の声を無視して、灯花は必死にもがき続ける。変身までして魔力を使っているというのに、十七夜の体はびくともしない。
「答えろ!」
埒があかない状況に苛立ち、十七夜は声を荒らげた。2人以外に動く人間はいない病室の中に、十七夜の怒声が響いた。その反響が収まる頃には、灯花は抵抗をやめていた。
「……なんで……」
絞り出すような声だった。
「……なんで……わたくしの思い通りにならないんだ!」
「……」
「ねむも、フェントホープも奪っておいて、ういまでわたくしから奪うつもりなの!?」
「奪う……だと」
「ふざけるな……。ふざけるなふざけるな!」
ぞわりと背筋を駆け上る悪寒に、十七夜は無意識のうちに身震いをした。魂を震わせる不快な波動は、十七夜も何度も……何度も経験した、終わりの鼓動。
「そうだ……全部お前たちのせいだ……どいつもこいつも……わたくしを不幸にする……!」
灯花を中心として発生した魔力の波動によって十七夜は派手に吹き飛ばされ、背中から床に叩きつけられる。十七夜はすぐに変身し、灯花がいた場所へと向き直った。顔を上げた時には、世界は一変していた。無機質な機械の残骸が、辺り一面に転がっていた。絨毯敷きの床は硬質な金属に変わっていて、一面に統制のとれていない幾何学模様がめちゃくちゃに刻まれていた。
「こんな……なんにも思い通りにならない……こんな世界なんて……!」
暴風の中に立つ里見灯花は、虚ろな目を虚空に向けていた。具現化したソウルジェムには悍ましい穢れが蠢き、既に魂の殻に亀裂を生み出していた。そこから漏れ出す心を蝕む瘴気にあてられて、十七夜は苦虫を噛み潰した。
「……くそっ」
何人も、目の前で魔女になる魔法少女を見てきた。何度経験しても、眼前で魂が失われていくその壮絶な様は、とても正面から受け入れられるようなものではないのだ。そうだとしても、孤独な心のまま死にゆく少女の前にいるたった1人の魔法少女として、その様を見届けなければならないというような、奇妙な同情とでも言える感情が生まれていた。
「君はいまから、この宇宙のために死ねるんだ。それは、君の価値観で言えば「実に光栄な」ことなんだろう?」
いつの間にか、十七夜の横にはキュゥべえがいた。何の感情も宿さないその冷徹な双眸が、ただ真っ直ぐに里見灯花を見据えていた。
「僕としても、君が魔女になってくれることはとても助かる。君はみたまを殺してしまったけれど、その分を含めても十分なエネルギーを提供してくれる」
「八雲を、殺した……?」
「そうだよ。灯花はここに来る前にみたまを殺している。みたまも魔女になりかけだったから、彼女の分のエネルギーが回収できなかったことは残念だよ」
淡々と説明するキュゥべえからは、とても残念がっているような空気を感じることはできない。
「わたくしが……魔女に……?」
まるでいま初めてその事実を知ったかのように、灯花はひとりごちた。見開いた目から大粒の涙を流すその顔を見て、十七夜はまるで憑き物が落ちたようだ、と感じた。そこにいるのはマギウスでも魔法少女でもなく、死を恐れるただの少女であった。
「あぁ……いやだ! しにたくない! 魔女になんて……!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、灯花は自分のソウルジェムを掴んだ。穢れに満ち、撫でるだけで崩れてしまうそれは、もはやソウルジェムと呼べるようなものではなかった。かろうじて保っていた外殻はいとも簡単に砕け散り、その中に留めていた穢れを一気に解放する。魂は新たな形を得て、里見灯花だった肉体はただの物質として地面に落ちた。
「おめでとう、里見灯花。君が大好きな宇宙の役に立てたんだよ」
心を燃やし、虚ろな翼を得たその魔女は、美しい星空の下で甲高い産声を上げた。