マギウス事変、その後   作:遠名 彬

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幸福

 

 いつもと変わらない一日だった。バラエティ番組がきりよく終わり、元気のいいコマーシャルが流れ出したテレビと、笑いながら一緒に見ていた友達と別れて、環ういは一人で個室に戻った。後ろ手でドアを閉めたういの目線の先には、ベッドの上でぬいぐるみに紛れたキュゥべえがいた。大きな尻尾をゆらゆらと揺らしながら、キュゥべえは瞬きもせずにつぶらな瞳をういに向けていた。

「おかえり。楽しかったかい?」

「うんっ! キュゥべえも一緒に見ればよかったのに」

 白い猫のような体をしたキュゥべえは、この家の中ではういしか見る事が出来ない存在だった。病院のベッドで目覚めた何も覚えていないういに色々なことを教えてくれたキュゥべえは、今ではういにとっての一番の友達だった。たまに何を考えているのか分からないけれど、可愛らしい体には似合わないしっかりとした言葉の多くが、ういには不思議と懐かしく感じられた。

「他にやることがあったのさ。うい、君にも関係することなんだよ」

「わたしにも?」

 キュゥべえの隣に腰掛けたういは、両手をベッドにつきながら首を傾げた。 キュゥべえがよく口にする、魔法やら魔女やらといった概念は、ういにとっては別世界か物語の中の話のようで、あまり真剣に捉えたことはなかった。けれど、病院のベッドの上で気が付いたその瞬間から今まで肌身離さず身に着けている左手中指の指輪が、何か得体のしれない不思議なものであることは、ういも薄々気付いていた。

「この神浜には、うい以外にも魔法少女がいる。その話はしただろう?」

「う、うん……」

「その内の一人が、是非ともういに会いたいって言ってるのさ。ういにとっても、魔法少女について先輩に教えてもらえるまたとない機会だ。どうかな?」

 キュゥべえの大きな赤い瞳が、にこりともせずにういを見ていた。その向こう側に魔法少女という肩書を持った誰かの視線を感じて、胸の辺りがきゅっと締まった。

「もちろん、無理にとは言わないけど」

 前足で顔を洗うような仕草が、変な緊張をしたういの目には奇妙に映った。ひとつ深呼吸をして、無意識に胸に当てていた手を引きはがす。

「わかった。わたしも、会ってみたいな。その人に」

 キュゥべえはゆっくりとまばたいた。笑っているような気がした。

「よかった。それじゃあ、会いに行こうか」

 身軽なジャンプで器用に窓枠に飛び移ったキュゥべえを見ても、ういは言葉の意味がうまく飲み込めなかった。

「……えっと、今から?」

「そうだけど、どうかしたのかい?」

 住み始めた時から部屋にある壁掛け時計を見やったが、思った通り短針は左上を指していた。もう一度キュゥべえに視線を向けると、窓際で不思議そうに首を傾げていた。

「今日は、その、遅くない?」

「だからさ。魔法少女はみんな、魔女を見つけやすい夕方から夜にかけて仕事をするのさ」

 キュゥべえは当然のようにそう言いながら、前足を器用に使って窓の鍵を開けた。暗闇から冷たい空気が流れ込んできて、厚めの寝間着でも鳥肌が立った。ういは急いでクローゼットから外行きの上着を取り出して、久しぶりに袖を通した。

 初めて歩く夜中の街は、夜風の吹く音ばかりが響いていた。街灯の明かりだけでは心もとない足元に注意を凝らしながら、軽い足取りで先導するキュゥべえの後ろをういは慎重に歩いていた。道行く家々はどこも明かりが消えていて、昼間に同じ施設の友人たちと歩いた時に見た街並みとはまるで変わって見えた。遠くから時折聞こえてくる車の走行音と、夜風が隙間を通る時の風切り音と、街灯のじりじりと焼けるような音の中で、キュゥべえと自分の足音だけが浮いて聞こえていた。

 キュゥべえが飛び移ったのを見て、それが公園の車止めであることに気付いた。銀色に街灯の光が反射してぎらぎらとした金属のアーチの上で、キュゥべえは大きな尻尾を揺らしながら公園の方を眺めていた。

「……ここ?」

 夜の公園を見るのも初めてだった。友達とたまに見る真昼の公園を見知っているういには、ただ時間が遅いというだけで異世界のように見えた。所々に置かれた電灯が物寂しい空間を照らしていた。木枯らしが吹いていた。何もない広場の真ん中に、二人組の人影が見えた。そのどちらも黒っぽい学校制服を着ていて、片方はういと同じくらいの背丈だった。ういが二人に向かって歩いていくと、その横をキュゥべえが小走りに抜き去って、背の高い方の少女の肩にするすると登った。鋭い目の片方が髪で隠れた彼女は、そんなキュゥべえをうざったそうに一瞥した後に、ういの方を見た。和泉十七夜だった。

「環君、夜遅くに呼びつけてすまない」

 あまりすまなそうではない声に聞こえたが、ういにはそれより隣に立つ同い年くらいの少女の方に気を取られていた。十七夜とは病院で一度だけ会ったことがあった。

「十七夜さん、こんばんは」

 とりあえず頭を下げると、十七夜は少し緩んだ顔で頷いた。そして同じ制服を着たもう一人の少女の背中を片手で押して、

「今日は同い年の魔法少女を紹介しようと思ってな」

 と促した。厚着の少女は少し恥ずかしそうに、しかししっかりとういの目を見た。

「あの、千秋理子っていいます。よろしくおねがいします!」

 他人行儀なお辞儀だった。ういはその声量に少しだけびっくりした後、姿勢を正して、

「わたしは環ういです。理子ちゃん、よろしくね!」

 元気の良い挨拶とともに綺麗なお辞儀をして、理子はそれをニコニコと受け取った。

 

 

 ういが魔法少女として活動を始めてから、一週間が経った。小学校に通いながらの魔法少女稼業は少し大変だったが、人を脅かす魔女を退治する魔法少女という仕事はテレビアニメの中のヒロインそのままのようで、ういはすっかり舞い上がっていた。下手を打てない危険な行為であることは十七夜から何度も念を押されてはいたものの、ここ数回の実戦では怪我ひとつしなかったういはそんな忠告などすっかり忘れ、放課後が訪れるのを今か今かと待ちわびていた。耳に入ってこない教師の話を聞き流していると、ついに待ちわびた終業のチャイムが耳を鳴らした。ういはそそくさと荷物をしまって、最近付き合いが悪くなった同級生からの微妙な視線を受けながら教室を飛び出した。階段を駆け下りて校門から飛び出す時には、周りにはすっかり誰もいなくなっていた。

「うい、今日もやる気だね」

 校門の外に座っていたキュゥべえが、走るういに並走してきた。四本の短い脚を動かしてういと同じスピードで走っている姿を見て、あの体でどうやってその速さが出ているのかと不思議に思っていた。

「うん! 今日は大東区の方で、理子ちゃんと会うんだ」

 飛び出しにならないようにしっかりと左右を確認してから、交差点を横切る。いつのまにか肩口に乗っていたキュゥべえの心地よい重さを感じながら、ういは小走りで街を抜けていく。

「ねえ、キュゥべえ」

「なんだい?」

「魔法少女って、楽しいね!」

「それは何よりだよ」

 他愛ない会話に声を弾ませながら、横断歩道を渡っていた。ういは魔法少女になってから、様々な事を知った。世界の裏側で人々を苦しめる魔女の存在。そしてそれを倒す魔法少女。初めての魔女退治は弱っちい手下相手だったけれど、実際に目の当たりにした瞬間に、今まで絵空事のように聞こえていたキュゥべえの話に急激に現実感を覚え始め、浮ついていた足元がしっかりとした土台を得たような、そんな感覚があった。ういは、自分が何を願い、どうして魔法少女になったのかを覚えてはいなかった。けれど、誰かのために魔女退治に精を出す今の自分は、記憶を失ったまま目覚め、何も分からないままに過ごしていた以前の自分とは決定的に違うのだ、という確信と安心があった。

 理子の家は弁当屋で、ういは一度その弁当を食べたことがあったけれど、普段施設で食べている食事とは比べ物にならないほど美味しかった。それから千秋屋の近くに来ると、店先に漂う匂いを嗅いだだけで、口の中に涎が溜まってきてしまうのだった。千秋屋の軒先には見慣れない女性が立っていて、店番をしていたらしい理子と何やら話していた。ういが歩いていくと先に気付いた理子が声を上げて、それで女性もういの方へと振り返った。

「あ、ういちゃん!」

「……ういちゃん?」

 二回りほど背の大きな女性は首から大きなカメラをぶら下げていて、右腕のところに何かの腕章を付けていた。手に持ったメモ帳を閉じてから、ういを見定めるように眺めまわしていて、ういは少しうろたえていた。

「ふぅん……君が、環ういちゃん?」

「は、はい」

「私は南凪自由学園の、観鳥令。魔法少女さ。よろしくね」

 魔法少女。そのフレーズを聞いただけで、目に映ったその女性が不思議と優しく見えてきて、ういは伸ばされた手を取った。

「よ、よろしくお願いします」

「早速だけどういちゃん、ちょっとお話、いいかな?」

 気さくに話しかけてきているようで、その目は獲物を狙う狩人のような鋭さを持っていて、ういは言葉に詰まった。ぐっと唾を飲み込んで、それから理子の方を見た。カウンター越しに様子を窺っていた理子は、不思議そうな目でういを見返していた。ういはゆっくりと頷いた。

「いいですけど、お話って、どんな……?」

「そんな身構えなくてもいいよ。まあ、ちょっとした注意喚起ってやつかな」

 注意喚起。ういは口の中でその物騒な雰囲気を持った言葉を反芻した。

「最近、変な事を言う魔法少女がいるんだよ」

「あ、それ、たぶん知ってます。ちょっと噂になってる人ですよね。この間、十七夜さんから聞きました」

 理子も聞いたことが無いようで、興味津々といった様子で会話に加わってきた。キュゥべえはいつのまにかういの肩から降りて、千秋屋のカウンターの上から奥に並べられた弁当を、大きな尻尾をゆらゆらと左右に揺らしながら眺めていた。

「そうだね。十七夜さんも注意喚起に回ってる。常盤ななか、って名前、聞いたことあるかな」

「……いえ、ないです」

「彼女もいい魔法少女だったんだけどね。最近は、他の魔法少女に怪しげな話をして回ってるんだよ。なんでも、魔法少女の事を人々に知れ渡らせようとか、なんとか……」

 それの何が悪いのか、ういには皆目分からなかった。考えてみれば、魔女と闘う魔法少女は人々の為になる事をしているというのに、キュゥべえも他の魔法少女も、魔法少女の事を普通の人に知らせるのを妙に渋るのだ。ういも何度か同じ施設の仲間にその話をしようと考えたことはあるが、その度にキュゥべえに止められていたから、渋々従っていたのだった。

「ななかの行動には、僕も迷惑していてね」

 話を聞いていたキュゥべえが、不意に口を挟んだ。

「魔法少女の事を知らしめたところで、ななかにはなんの利益もないというのに、何度言ってもやめないんだ。人前で変身して魔法を使ったところで、誰も信じてはくれないというのにね」

「関係ない人を魔法少女の事情に巻き込むのは、とても褒められた事じゃない。だから、もし彼女に出会って何か言われても、できるだけ相手にしないようにしてほしいんだよ」

 ういはしばらく考えて、元気よく返事をする理子の後で、ゆっくりと口を開いた。

「……みんなに魔法少女のことを知ってもらうのの、なにが悪いんだろう」

「ういちゃん?」

「わたし、思うんです。みんなに魔法少女のことを知ってもらえば、もっと魔法少女はいろいろやりやすくなるし、それに、魔女のことも……」

「それは、駄目なんだよ、ういちゃん」

「どうして、ですか?」

「もし皆が魔法少女と魔女の事を知ったら、自分の娘が魔法少女になってた親御さんは、どう思う?」

 ういはそう問われて、何を言えばいいのか分からなくなって黙ってしまった。ういには両親の記憶は全くなかった。あの病院で目覚めるより前の話は何も覚えていなかったし、その後は保護者が不在のまま施設に入って過ごしていたから、そもそも親族がいるのかどうかすら知らなかったし、そのことを疑問に思ったこともなかった。

「えっと、それは……」

「世の中には、知らない方がいい事も沢山ある。魔法少女の事も、そうなのさ」

 令のその言葉に、ういも理子も何も言えずに、じっと黙り込んでしまった。

 

 

 ういがその魔女の結界を見つけたのは全くの偶然で、それが何度か相手をした魔女よりも強い魔力を持っているものだということに、ういは気付けなかった。一人で結界に足を踏み入れたういは、普段とは明らかに雰囲気の違う空気を肌で感じて、背筋にじわりと冷や汗が浮かんできていた。今日はキュゥべえとも一緒ではなかったし、振り向いても結界の出口はとうにどこかに消えてしまっていて、奥へ奥へと進んでいく以外に、ういができることは何もなかった。時折出会う魔女の手下たちは、ういのことなど興味もなさそうにふらふらと霧の中を歩いていて、戯画のような現実感のないその姿が余計にういを不安にさせた。じっとりと纏わりついてくる霧が髪を濡らして、べたついた長い髪が首筋にはりついてくるのを鬱陶しそうに払った。まだ先は長そうだった。

 同じような景色の中をどれだけ歩いたか忘れる頃、ういは不穏な魔力の波動を感じて立ち止まった。幸運なことにういはただの一度も戦いをすることなく、結界の最深部に辿り着いていた。深部へと歩いていくにつれて手下の数がどんどんと減っていき、彼らが皆一様に同じ方向に歩いていくのを、ういは不思議そうに眺めていた。朱色に塗られた橋が途中で途絶えていた先に、あまり経験のないういでも一発で分かってしまうほどの大きな反応が鎮座していた。無意識のうちに唾を飲み込んでいたういは、ひとつ小さくガッツポーズをして気合を入れて、情けなく震え始めた足を無理やり前に動かした。白い霧が意思を持つように流れていった。いつの間にか広場の真ん中に立っていたういの目の前で、蹄鉄が硬い地面を蹴る音が鳴った。魔女が、そこに立っていた。手下と同じ戯画のような雰囲気を纏いながらも、馬によく似た下半身と、赤い派手な衣装を羽織ったような人型の上半身とが歪に繋がり、蝋燭の炎が顔の代わりとばかりにゆらゆらと燃えていた。手に持った巨大な槍のような長物を器用に振り回し、それはういに対して構えた。

「え、えっと、ツバメさん!」

 咄嗟に出したういの魔法の凧が、突き出された槍を紙一重で躱しながら魔女を襲う。中心に集められた魔力が光線となって放出され、魔女の槍を持った腕を貫いた。

「やった……!」

 一瞬の油断だった。貫いたはずの魔女の服には腕などなく、周囲の霧と馴染むようにぼやけるだけで、次に見た時には何事もなかったかのようにすっかり綺麗になっていて、その巨大な槍を軽々と振り回し、本体であるういに向かって勢いよく振り下ろしてきていた。

「きゃあ!」

 反射で飛びのいた瞬間、それまで立っていた地面が粉々に砕け散り、その衝撃で吹き飛ばされたういは背中をしたたかに地面に打ち付けて、飛び散った瓦礫で頬を切った。土煙の向こう側にゆらゆらと揺れる炎だけがうっすらと見えて、ういはその灯りから目が離せなくなっていた。背中に薄ら寒いものが走って、立ち上がろうと地面についた手にうまく力が入らずに、何度も立ち上がろうとしては転んだ。次第に目頭に熱いものがこみあげてくるのを感じて、今にも決壊しそうになったその時、ういはぴたりと動きが止まった。

「うい」

 声が聞こえた。聞いた覚えのない声だった。優しそうな、女の子の声だった。それはゆらゆらと燃える魔女の炎の方から聞こえてくるようだった。

「……だれ?」

 脱力したままふらりと立ち上がったういは、晴れていく煙の中から段々とはっきり見えてきた魔女の姿を、ぼうっと眺めていた。何かが見えるような気がした。そこに立っている誰かがういを呼んでいるような気がして、彼女のもとに行かなければならないと、そう思った。馬鹿みたいに震えた足でも、不思議としっかり歩けたから、ういは一歩、また一歩と、魔女の袂へと歩いていた。誰かがそこにいた。懐かしい、かけがえのない、誰かが。

「どっせーい!」

 突然背後から聞こえた威勢のいい掛け声と共に、魔女とういの間に勢いよく何かが墜落してきた。それは魔女の一撃にも劣らない破壊力で地面を削り飛ばし、衝撃でよろめいたういはいつのまにか背後に来ていた少女に受け止められた。

「大丈夫ですか?」

 優しい声だった。ういが顔を上げると、ういより少し背の高い女の子が、心配そうに見下ろしていた。特徴的な装束と、右手に持った長い武器が、彼女もまた魔法少女であることを示していて、ういは思わず息を呑んだ。そうしてもう一度魔女の方を見た。出来の悪いコラージュのような魔女は相変わらずゆらゆらと揺らめいていて、しかしそこから聞こえてくる気味の悪い嗤い声は、決してあの優しい少女のものではなかった。

「う、うん……」

「フェリシアちゃん、こっちは大丈夫!」

 その可愛らしい声に似つかない鋭い息遣いだった。靄の中から姿を現したもう一人の少女は、自分の背丈ほどもあろうかという巨大なハンマーを軽々と振り回し、視界の邪魔を振り払った。

「あいよ! かこ、援護頼むぜ!」

「ちょっとだけ待っててね。もう大丈夫だから」

 足にうまく力が入らずその場にへたり込んでしまったういに優しく声をかけて、かこと呼ばれた少女は毅然とした立ち姿で魔女に相対した。既にフェリシアは魔女へと飛び掛かり、槍とハンマーによるスケールの大きい殴り合いを始めていたから、かこは静かに自前の長物に魔力を通して、その先端を輝かせていた。かこのそんな背中がとても頼もしく見えて、ういは一息つこうと座ったまま溜息を吐こうとして、けれどそのまま意識は息と一緒に闇の中へと抜けてしまった。

 

 ゆっくりと目を開けると、空はすっかり真っ黒に染まっていて、結界に足を踏み入れる前にいた路地裏の隅で、ういは鞄を枕にして丁寧に寝かされていた。

「あ、起きました?」

 目を開けたまま少しぼうっとしていると、隣に座っていた少女から声をかけられた。首だけを回して横を向くと、文庫本の半分辺りを指で開いた少女が、にこやかにういの顔を見ていた。結界の中でういを受け止めた少女だった。

「……えっと」

 紡ぐべき言葉が見当たらなくて、ういは戸惑ったまま息を吐いた。それで少女は少しだけはっとしたようになって、いそいそと本に栞を挟んで閉じた後、座ったままういに向き直った。

「わたしは、夏目かこっていいます。あなたと同じ魔法少女で……、お名前、聞いてもいいですか?」

「え、っと、わたしは、環ういです」

「環……?」

 名前を聞いたかこは、顎に手を当てたままういの顔をまじまじと眺め、それから訝しむような眼をした。

「うい、大丈夫かい?」

 ひょっこりと物陰から顔を出したキュゥべえが、空気を読まずに歩いてきたものだから、かこもびっくりして少し肩を跳ねさせながら、キュゥべえを恥ずかしそうに睨んだ。

「わっ、びっくりさせないでください」

「キュゥべえ……。うん、わたしは大丈夫だよ。助けてくれたから」

「そうかい、それはよかった」

 ちっとも嬉しくなさそうなキュゥべえのいつも通りの平坦な応答も、今のういにはなぜだか安心できるものだった。そうして路地の方に目を向けたういの視線の先で、もう一人の影が建物の陰から街灯の明かりの下に現れてきて、光を背負って影が落ちた顔が不安感を煽った。

「お、起きたのか」

 思ったよりも幼い顔をしていた。ういより一回り大きいその少女は日本人離れした端正な顔立ちで、腰に手を当てた大股な立ち姿でういを見ていた。

「あ、フェリシアさん。どうでした?」

「この近くにはもういねーな。……ん?」

 フェリシアはかこにそう伝えた後に、もう一度ういの顔をまじまじと見て、それから顎に手を当てて思案顔をしていた。自分より年上に見える少女のその行動が妙に幼く見えて、ういは首をひねっていた。

「オマエ、どっかで見たことある顔してんなあ。名前は?」

「環うい、です」

「ふーん……って、環ういって、オマエが!?」

「ちょっとフェリシアさん、声が大きいです!」

「あ、ああ、わりぃ……」

 窘められてばつが悪そうにするフェリシアの顔に、ういは見覚えは無かったし、かことフェリシアの名前にも聞き覚えは無かった。

「えっと、どういうことですか?」

「オマエ、いろはの妹のういだろ」

「妹……? わたし、お姉ちゃんがいたんですか?」

 首をひねるういの前で、かことフェリシアは怪訝そうに顔を見合わせることしかできなかった。

 

 

 翌日、中学校を抜け出してきたらしい、施設に押しかけてきたフェリシアに連れられて、ういは平日の昼間から新西区の街頭を歩いていた。慣れた足取りで道をずんずん進んでいくフェリシアと違って、ういは見慣れない街並みを目的地も知らされずに歩き回っていると、先の見えない迷路に迷い込んだような気持ちになって来たが、しかしその出口は思いの外早く現れた。

「よし、ついたぞ」

 冬先の冷たい空気を肌で感じながら、ういはフェリシアが立ち止まった場所を見上げた。近くに並ぶ他の一軒家よりもひと回りもふた回りも大きい建物が聳え立っていて、その入り口にあたる扉の前に二人は立っていた。三日月荘、と書かれた金属の看板が、錆びついたまま壁に張り付いていた。

「えっと……ここは?」

「オレんちだよ」

 それだけ言うと、フェリシアは慣れた手つきで扉を開き、中にういを招いた。恐る恐る垣根を超えると、ういは一瞬顔を顰めた。玄関先にはゴミ袋が二、三積み上がり、酸っぱい臭いを放っていた。土間に乱雑に散らばった靴の間を爪先立ちで歩いた後、少し空いたスペースに靴を脱いで、見失わないように上り框に一番近いところに揃えて置いた。埃だらけの廊下を歩いて行くと、先に上がっていたフェリシアが、引き戸の前に立っていたから、ういも倣ってその隣に立った。それを見たフェリシアは一つ頷くと、引き戸を右手で二回ノックした。

「おーい、やちよー」

 なんでもないようにそう言って、遠慮せずに引き戸を開いた。リビングだと思われる広い部屋は、昼間だというのにカーテンで日光が遮られて薄暗く、何があるのかもういにはよく見えなかった。しかし徐々に目が慣れると、部屋の真ん中に置かれたテーブルの椅子に、一人の女性が座っているのが分かった。彼女はゆっくりと二人の方を見ると、

「……フェリシア? 学校の日でしょう……。その子は?」

 と、力のない声で聞いた。そうしてゆっくりとういの方を向いて、息を飲んだ。

「その子……まさか……!」

「環うい、だってさ」

 状況がわからずに黙り込んでいたういの前で、やちよはしばらくの間固まっていた。嫌な沈黙が部屋を満たしていた。

「え、えっと……」

 口を開いてみるが、重苦しい空気に押し付けられて、結局何を言うでもなく口を閉じてしまって、どんよりとした雰囲気を破れなかった。

「帰って……」

 やちよが静かに言った。

「もう、あなたは、なんの役にも立ちはしないのよ」

 半ば追い出されるように家を出たういは、俯いたままのフェリシアと別れ、一人、日の照った歩道を歩いていた。少し肌寒い気温も、日向を歩いている分にはちょうどいい暖かさがあって、知らずういは鼻歌を歌いながら、見知らぬ街をぶらぶらと歩いていた。帰り道はわからなかったが、いざとなればキュゥべえにでも道を聞けばよいのだと考えながら、道路を走る銀色の自動車たちや、道ゆく人々の厚くなってきた服装や、枯れかけている街路樹にしがみついている葉っぱなどを横目に見ていた。ふと気配がしてガードレールに目を向けると、ポールの上に器用に座っているキュゥべえがいた。

「あ、キュゥべえ」

「うい、やちよに会ったんだね」

「うん……。でも、よくわからなかったんだよね」

 ガードレールの上を絶妙な平衡感覚で歩くキュゥべえと並んで歩きながら、ういはとりとめもない話をしていた。キュゥべえの相変わらずな平坦さが、今のういには頼もしく感じられて、自然と笑みが溢れてきていた。

 

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