昼間の仕事で疲れ果てた体は重力に従ってベットに沈んだ。
もう1歩も動けそうにない。
さすがに無理をしすぎた。
この数日間、同僚の仕事を引き受けてまで仕事漬けにしたスケジュールにアラサーを迎えたこの体はついていけなかったようだ。
何処か他人事のようにそう考えた頭は次の瞬間には別のことを考えていた。
ここ最近はずっとそうだ。
まるで夢の中にいるかのように思考が定まらない。
自分が正気じゃないことは何となくわかっていたが、それも最早どうしようもない。
そういえば、明日の朝ご飯の用意をしていない。
明日は土曜日。
せっかくの休日なのだから、久しぶりにオムレツでも作ろう。
あれ、あのパーカーはどこにしまったのだっけ?
私のお気に入り、あの差し色が特徴的なパーカーは。
ああ、明日は頼んでいたフルーツが届くのだった。
配達時間を午後にした覚えはあるが、結局何時にしたのか確認しなくては。
そう考えている間にも思考は移り変わっていく。
なんの繋がりもなさそうなーー否、なんの繋がりもないと思い込んでいるこの思考が嫌になって、手の届く距離にあった枕を手繰り寄せて顔を埋めた。
枕からふわりと香る匂いにハッとして顔を上げた。
それでも頭は回らなくて呆然としていたら手に何かが垂れてきた。
あれ、私、泣いてる。
なんで…
なんで…
…分からないよ
なんで…私のこと置いていくの。
分かっていた。
あのなんの脈略もなさそうな思考は全て彼のことを忘れられない女々しさから来るんだってことぐらい。
作りなれてしまったオムレツは彼の好物で、
私のお気に入りのパーカーは付き合って始めてもらった彼からのプレゼント、
フルーツは彼が好きだと言ったからサプライズで頼んだもの、
枕から香るのは彼が愛用するシャンプーのどこか女性らしいのに彼に合う匂い。
ずっと彼を拒絶していたのは私の方だったのに、暴力に逃げ出していたのは私の方だったのに、失ってから彼が必要だと分かるなんて、私はやっぱり出来損ないだ。
…シャワー、浴びよ
流してしまおう、この苦しさも切なさも嫌な思い出も…幸せな思い出も。
疲れ果てて悲鳴を上げている身体に鞭を打って、ベットのスプリングを利用してなんとか起き上がる。
転んでしまいそうになる足取りに気をつけながら脱衣所まで来て、普段の倍の時間をかけて服を脱いだ。
シャワーのレバーを捻り、まだ温まっていない冷たい水を頭から被った。
冷たい水が思考を戻してくれるかと思っていたが、そんなこともなく水は徐々に暖かさを帯びていき設定した適温まで上がってしまった。
頭の回っていないこの状態でもこの手はいつも通りに体を洗っていく。
シャンプーを泡立てて髪を洗う。
目を閉じて敏感になった嗅覚がふわりと香る香りを拾う。
昔から変わらない香り。
彼と会う前からの私の日常の香り。
シャンプーを流して手櫛を通した髪は濡れてはいるもののつっかえる事なく指が落ちていく。
前髪から瞼の上に一筋水が垂れてきて、手で顔についた水を拭った。
目を開けて、浴室の明るさに白む目を2、3度瞬きをすると目の前の鏡の中にいる自分と目があった。
ぶつかった視線はすぐに逸らされた。
浴室内に掛けてある2つのボディタオルのうち、柔らかい空色に伸ばされた手は空中で止まった。
少しの思案の後、動き出した手はその隣にある硬めの紫色を手に取った。
ボディソープを気持ち多めに取って、体を洗い始める。
体の所々が痛むのを振り払うように無心でゴシゴシと洗っていると、泡の間に見える肌が赤くなっていることに気がついた。
やってしまった、と思った時にはもう遅い。
仕方がないと諦めて体についた泡をシャワーで洗い流した。
手早く洗顔を終えて浴室を出た。
脱衣所に置いておいたふわふわのタオルに顔を埋めて深く息を落とした。
頭が回っていないその状態で何秒経ったのかは分かりかねるが少なくとも心を乱していた波が収まったような気がした。
タオルから顔を上げた私の目線の先で先程のように鏡に映る私と目が合った。
逸らそうとした視線は顔から少し下がった所に釘付けになった。
確かに目を引くのは強く擦りすぎて赤くなってしまった体やその体のさまざまなところにある青痣なのだろうが、私の目線は右の鎖骨に、
薄く、薄く残る鬱血痕に、
消えかかってしまったアイノシルシに、惹かれてしまった。
彼が行為の度に同じ場所に付け直すから治りが極度に遅くなってしまった。
それがとても薄くなっている。
…寂しい。
無意識に私は薄くも確かに存在するシルシに唇を寄せた。
ちくりとした痛みが走る。
上書きされ、濃くなったシルシにいつもは安心感を覚えるはずなのに、いつも通り覚えなくてはならないのに、自分1人でも生きていけるはずなのに、胸に広がるのは変わらない寂しさ。
濃くなった鬱血痕の上に一滴の水が跳ねた。
私のつける鬱血痕は彼のつけるシルシ足り得ない。
こんなことをしてもより寂しさを募らせるだけだ、と分かっていたのに。
それでも、私は…
…消えていく鬱血の痕が寂しかった。
彼との思い出までもが消えてしまう気がしたから。