ハートの海賊団舞台。
トラファルガー・ローとモブ女が結婚するけど、ローに恋心抱き続ける夢主・ラズの話。
バットエンド。ラズちゃん可哀想。
軽微な暴力・性描写あり。
ある日あの人が拾ってきた子は、頭も力も足りない子だった。
「バイス」
薬品室。ペンギンが
部屋のデスクではラズが、専用の器具で何かを濾過していた。
「いい匂い。それ何すか?」
ペンギンがくんくんと、空気を鼻の奥へ吸い込む。
「オレンジの精油です。やっと成分の抽出が終わって、これでようやく完成です」
ラズがふうっと息を吐きながら、注がれた液体がフィルターからポタポタと溢れて、瓶へ落ちる様子を眺める。
精油は手間がかかるし大量生産が難しいので、高額で取引され、いい金になる。
「それで、何か用でしたよね?」
「これ、弾き出した財務表なんだけど」
ラズは衛生手袋を外して、ハートの大蔵大臣・ペンギンから書類を受け取る。
「艦内のパイプが、あちこちガタきてる。もう誤魔化すのも限界です。何とか修繕費を捻出したいんすけど、どう絞ってもこんくらい足りない」
ペンギンが書類をめくって、ある箇所を指差す。
「結構な額足りませんね」
「丁度上陸してるし、資材買い揃えたいんですけど。今この島、うちの他には、小さい海賊団しかいないっぽいんすよ」
「これ売り飛ばすのは、次の島ですし。どうしましょうか」
二人はあーだこーだと、財務表と睨めっこする。
すると、廊下から慌てた様子のイッカクが、勢いよく入ってきた。
「バイス、ペンギン。大変! 花が」
花という名前を聞いて、ラズが珍しく心の底からのうんざりした溜め息を吐く。
「何です」
「海賊に捕まったの! 相手は、返して欲しかったら、トラファルガーがうちの船に来い。って!」
ただの雑用、されどうちのクルー。捕虜にするには最適だわ。
えっ! と心配そうに驚くペンギンと、少し怒り混じりで口を開くラズ。
「あの人には伝えました?」
ラズの「あの人」とは、キャプテンのことだ。
「うん。今、救出に向かった」
「そうですか。報告ありがとうございます」
ラズはさっさとその話題を終わらせて、ペンギンと先程の話に戻った。
丁度あの子が来て、一年が経つ頃だっただろうか。
夕食時、賑わう食堂で、ローと花が並んでみんなの前に立った。
「私たち、結婚することになりました」
そうはにかむ花の顔は、真っ赤だけれど幸せそうで、それが事実だと十分に証明していた。
「おめでとう‼︎」
歓声が湧き、弾け飛ぶ祝福。
一方で、ラズは耐えきれずパッと、でも静かに部屋を出た。
「ありがとう。でも、なんていうか、想像してたのと違うな。みんな、もっと驚くかと」
「付き合ってるの隠してたから? あんなのバレバレに決まってんじゃん」
食堂から漏れる声。そして、誰かが追ってきた足音。
「バイス」
背中の方からペンギンに呼び止められ、立ち止まるラズ。
ペンギンが黙って近寄り、肩に手を置くと、何かの糸が切れて、ラズは膝から崩れ落ちた。
「ラズ!」
ペンギンは慌ててラズに手を伸ばし、何とか倒れ込む前に抱き留めた。
「私のことはいいから、早く戻って。ペンギンさんがいないと、みんなが探し始めます」
「ラズだってそうだろ」
ペンギンは、仕事じゃなくて妹分として接したい時、役職じゃなくて愛称で呼ぶ。
ペンギンの腕の中で、顔を覆うラズ。
「こんな顔で、どうやって戻れっていうの」
ラズも、そういう時はそれに応じて、砕けた口調になる。
「おれは、戻れなんて言ってないよ」
優しく悟すような口調で、ペンギンは頭を撫でた。
「だって、一人じゃ戻ってくれないんでしょ」
「当然。さ、なんかあったかいもんでも淹れよう」
ペンギンは優しく笑うと、ラズを抱えて食堂と反対の方向へ歩き出した。
次の日から、結婚式の日取りだの、招待客だのと、船の中は浮かれた話で溢れた。そして能天気なあの子は勿論、珍しくローまで口元を緩めた顔を見ることが多かった。
それが、あの子にしかできなくて、自分にはできなかった "決定的な違い" なのだと、思い知らされる日々だった。
婚約発表から一週間が経った頃。
静かな早朝。まだ太陽の気配すら感じず、空と海が混じった真っ暗闇がどこまでも広がる。温もりの欠片もない風が鋭く吹き付ける。
そんな中、甲板に立ったラズは、それらに飲まれながら、祈りの歌を歌っていた。
大丈夫よ。何も感じなくできる。
目を閉じているのか、開けているのか。自分の歌声がここから聞こえるのか、どこから聞こえるのか。もうラズには、どうでもいいことだった。
「うわあ、寒っ」
ガチャっと、船内へと繋がる扉が開いた。
突然、現実に引き戻された。ラズは口を閉じて、光が漏れる背後に目だけ向ける。
「バイス! ホットミルクでもいかがですか!」
朝からはつらつとした花の声に、ラズは隠しもせず舌打ちする。だって、どうせ遠くて聞こえない。
「要らないわ」
ラズは手すりに腕を置いて、寄りかかる。
「でもっ、こんなに冷えてるのに。もう少し着込まないと、風邪引きます」
「あなたにとやかく言われる筋合いはない。気分転換の邪魔よ」
前を向いたまま、バッサリと切って捨てるラズ。
「分かりまし……」
しゅんとした返事が聞こえたと思ったら、ドサっと重い音がした。
これには流石のラズも驚いて、振り向く。するとそこには、背中を丸めて膝をつく花が。
「ちょっと!」
ラズは慌てて駆け寄り、花の両肩に手を置く。
「どうしたの、どこが」
花の体をざっくり観察した時、ラズは言葉が詰まった。
冷や汗をかく花は、両手で大事そうに、下腹部を押さえていた。
嘘、嘘。嘘と言って。
ラズは一気に血の気が引いた。
副船長室。
ベッドに腰かけ、そのまま横へ倒れ込んでいるラズ。
溢れる涙がシーツへ一粒、また一粒と落ちて、泉を作る。
別におかしくない。
しかし、どうしようもなくその身を焦がす嫉妬心が、ラズの理性を壊していく。
私の知らない、あの人の温もり。言葉、表情、感情。そして、あの子の中に息づく、唯一無二のあの人の欠片。
ああ、神よ。もし本当に存在するというのならば、あなたほど無慈悲な人はいない。
ラズは、長らく蔑ろにしてきた信仰心を、都合よく持ち出して貶した。
どれほど時間が経ったか分からない。でも、しばらくして、ラズは体を起こした。
それから少し経って、部屋から出てきた時には、常にその左胸にあった紫の薔薇が見当たらなかった。
ガシャン!
花が手にしていたティーカップが、床に落ちて割れた。中に入っていた紅茶もじわじわと広がっていく。
「あっ、ごめんなさい! 私!」
花が慌てて椅子から降りて、膝をつく。
「バイスの大事なカップを、うっ!」
花は砕けちったカップの欠片を拾っていると、指先を切ってしまう。
「構わないわよ」
ラズは長く息を吐きながら、言う。
「あの人が他の女にあげた物なんて、気に入らないものね」
ラズは座ったまま、花を見下ろす。
童話の氷の女王はきっと、こんなふうに辺りを凍らせたんだと思う。
見上げている花は瞬きすると、涙目になっていく。
「ちがっ。そんな、私、知らなくて」
「すごい女だわ。私の嫌がらせに気づいて、返り討ちにしてくるなんて」
ラズは静かにそう言いながら、左腰の脇差の鯉口をチャキっと切った。
「いくら私が弱くても、あなたを切り捨てるくらい造作もないわ」
小刻みに震える花に、ラズは立ち上がって刀を構えた。
「やめて、助けて。やだ、ロー!」
その叫びを聞いた瞬間、ラズは心が抉られたような感覚を覚えた。
ロー。
その名前が、ラズの中で反芻される。
と、サークルが展開された。
あの人の能力!
ラズはすぐに我に帰り、警戒体制になる。
しかし、すぐに花だけ消えた。チャリンと虚しく、コインが落ちた音を響かせて。
ラズはそれをじっと見つめてから、苦しそうに顔を歪めて刀を鞘に収めた。
「どうした?」
ジャンバールが険しい顔で、扉を殴り倒して入ってきた。柑橘類のいい香りが、外へ漏れ出す。
しかし、中の様子を見て、ちょっと混乱した表情に変わる。
「何でもないわ」
ラズは戦場を俯瞰する時と同じ顔で、床に散らばる陶器片を見下ろす。そして取手部分を見つけると、つま先で紅茶の海へ浸し、踵で踏み潰した。
医務室。
「ねえ、バイス大丈夫かな。喧嘩にならないよね?」
ベッドに腰掛けた花は落ち着きない様子で、隣に座る救急箱の中身を取り出しているイッカクに問う。
「なるに決まってるでしょ。何寝ぼけたこと言ってんのよ」
バッサリと切り捨てられた花は、備品整理をしているペンギンの方を見るも、「だろうな」と低い声で返される。
はい、手出して。と、ガーゼを花の指の切り傷に当て、慣れた手つきで包帯を巻くイッカク。
「でも、バイスは悪くないんだって! 私きっと浮かれてたんだ。お茶に呼んでもらえて、嬉しくて。だから、大事なカップを」
「もういいから。早く行きな。もうすぐ見張り番でしょ?」
イッカクはもう聞きたくないと、話を切り上げさせる。花も、それ以上は何も言わず、部屋を出て行った。
「ねえ、どう思う?」
イッカクが伏し目で、ペンギンに聞く。
「確かにバイスは、特別な時にだけ、高価なティーセットを出す。でも、よりにもよって、キャプテンからのプレゼントを使うなんて。らしくない。むしろ使わないないタイプよ」
ペンギンは、うんともううんとも言わないで、作業している。
それを受けて、イッカクは自分の顔を右手で拭おうとするが。
「ん」
わずかに眉間に皺を入れて、動きを止めた。
「どうした?」
ようやく、ペンギンがイッカクの方へ顔をやった。
「なんか、柑橘の匂いがする」
イッカクは、自分の手を鼻に近づける。
「オレンジティー飲んでたらしいから、花から移ったんじゃねーの」
「え、でも」
イッカクは、指先だけ光の反射の仕方が違うのに気づいて、擦り合わせてみる。
「やっぱり、ちょっとベタつく。油っぽい、のかな。紅茶って、アロマオイルとか入れないよね?」
「オイル?」
そこで、今度はペンギンがぴくっと動きを止めた。
「何?」
それを見て、嫌な予感に肩を縮こませるイッカク。
「大体読めた」
ペンギンは大きく一呼吸して、帽子のつばを下へ引っ張った。
船長室。ローと二人きり。
「お前、何したか分かってるのか」
ドスのきいた低い声。本気で怒っている。
「殴るでも蹴るでも、気が済むまで好きにして」
ラズは髪を掻き上げて、乱雑に後ろで一つにまとめた。
「そんなことで、おれの気は済まない」
ローはジロッと睨み下ろす。
「少なくとも、あの子は済むんじゃない」
この後に及んで皮肉を言ってくるラズに、ローはカチンときた。ラズの左手首を掴んで、ガッと壁に押し付けた。
「いくらお前でも、クルーに刃物を向けたのは許さない!」
「綺麗な建前使わないで、はっきり言いなさいよ! 自分の女に手を出されて、頭にきてるって!」
「何だと!」
部屋の外まで聞こえる、激しい口論。
「花は、最後までお前を庇って、何もなかったと言い張ったんだぞ!」
その事実は、ラズの怒りに油を注いだ。
「どういう意味で言ってるの? あの子に感謝しろって、そういうこと?」
ラズは、キッとローを睨み上げる。
「あんな子に哀れみをかけられるなんて、これ以上にない屈辱よ! 私はそこまで堕ちてない!」
「お前こそどういう意味で言ってる? それはあいつへの侮辱か?」
「それ以外に何があるっていうのよ? 一体、あんな教養の欠片もないような子の、どこがいいっていうの。そんなに、床上手だった?」
パシッ。
ラズの右頬に、ローの平手打ちが入った。
肩で息をするローと、黙ったまま俯いて右手を顔に当てるラズ。
「確かなのは、お前よりは遥かに品がいいってことだ」
静かだけど、その言葉についた棘は、ラズの体中を焼くには過剰すぎる毒をつけていた。
「ちょっと待ってよ、考え直してよ!」
副船長室。
ベポが泣き顔でラズに縋り付いて、強制的に作業を中断させる手に出ていた。
「ベポ、もう諦めて。規律がきっちりしてない船は、いずれ崩壊するわ。やったことの責任はちゃんと取らないと、他のみんなに示しがつかないのよ」
ラズは宥めるような口調で、でも奥歯を噛みながら説明する。
床に置かれたボストンバッグには、最低限の物しか入れられていない。
「だからって、船を降りるなんて、そんなの!」
そんなの。と、ベポがわんわん泣き出す。
「一人でもそう言ってくれるだけ、花ね」
ラズは諦観したようなため息を吐く。
先の一件で、誰もが私への信頼を捨てたはずだ。当然だろう。私怨を拗らせた結果、部下に凶刃を向けるような上司なんて、誰もついて行きたいとは思わない。
「ねえベポ。ベポにだけ、伝えておきたいことがあるの」
ラズがいつもの、でも久しく見なかった優しい光を宿した目で、ベポを見つめる。
「二人だけの秘密にしてね」
「バイス」
ハクガンが、ボストンバックを持って船から港へ降りたラズを追ってきた。
「どうしたんです?」
見送りなんて誰一人いないのに。と、ちょっと驚くラズにハクガンが、両端をテープで留めて封をした、少し大きめの紙袋を手渡した。
「これは?」
小首を傾げるラズの質問には答えず、「あと」と短く告げるハクガン。
「イッカクが気づいて、ペンギンが解明した」
それだけで、もう何のことかラズには分かった。
「そうですか。みんな勘がいいから、必然でしたかね」
ラズは悲しそうに笑う。
「あの人は何て言ってました?」
ハクガンは首を振る。
伝えてないの?
意表を突かれて瞬きしているラズに、ハクガンが真っ直ぐな視線を向けて言う。
「ずっと大切」
仮面の向こうで、どんな顔をしているのか分からない。でも、心からの言葉だと分かるから、今のラズには余計に痛かった。
「私も」
耐えきれずに涙を流しながら、ハクガンに抱きつくラズ。ハクガンは黙って、ラズの背中に手を回した。
「何してるの、早く行かなきゃ」
船の窓から様子を眺め、顔を逸らして固く拳を握るシャチを、花は急かす。
「ダメだ」
「どうして?」
自分の立ち位置から口を出すのは烏滸がましいと分かりながらも、困惑を隠せない花は控えめに聞く。
「バイスが、離れがたくなっちまう。おれらは、バイスを縛りたくない」
おれらの妹は、繊細ちゃんだから。
シャチはぎこちない笑みを浮かべて呟いた。
狂おしいほどの愛憎。
これ以上に、今の状況に相応しい言葉はない。
「んんっ」
ベッドの上で重なる男女。
ラズは自分の手を、血が滲むほど長く噛んでいた。
『ねえベポ』
そんな中、ラズはぼんやりとあの時のやり取りを思い出していた。
『みんなのことね、今も愛してる。これから先も、それは変わらない』
相手が、ラズからは見えない、でも一生消えない。左胸のタトゥー、ハートの海賊団のジョリーロジャーを指でなぞる。
「ここまでの覚悟やったんになあ」
青年が嘲笑を含めた口調で言う。
『でもって癪だけど、あの人のことも、ずっと愛してる』
ラズは、ベットサイドのテーブルに乗せられた、ハクガンから渡された紙袋の中身。二十一本の紫の薔薇の花束を自分の瞳に映す。
「何でもっと早く、キャプテンに言わなかったんだよお!」
初めて口にした、とはにかむラズに、ベポが滝のように涙を流す。
「どうしてベポが泣くのよ」
ラズは困ったように笑う。
「どんな選択をしていても、結末は今と大して変わらなかったわよ。ベポだって分かってるでしょ? 私は、あの人の隣には立てない」
そう言ったラズの目は、ふとした時ローが見せる物憂げな目と全く同じだった。