ORT「わたしを殺した責任、ちゃんと取ってもらうんだから」 作:マタタビネガー
思ったより反響があったので
黒。
闇。
影。
虚。
その場を喩えるのであればそのいずれか、あるいは全てだろう。何もない。ただただ、夜空の如き漆黒の空間がそこにあるだけだ。
果てはなく。
終わりもない。
それはどこまでも深く――どこまでも深い闇の世界。
しかし、そこに光はあった。
小さな光の粒だ。まるで蛍のような淡い光が、無数に舞っているのだ。
いや、違う。あれは蛍ではない。もっと大きな何かだ。
それをある者は空を覆う星と答え、ある者は世界に散りばめられた宝石と答えるだろう。
光は星の瞬く夜空を彷徨うように飛び回りながら、やがて一点を目指して集まっていく。そして集まった光の群れは、巨大な球体となった。
そしてまた弾け、夜空の世界をぐるぐると回り続ける。その光景は幻想的で美しく、だが同時に、見る者全てを恐怖させるような禍々しさも内包している。
そうしてしばらく回った後で、再び光の球が集まり始めた。
『椅子』。
夜空の世界の中心にポツンと木製の椅子が置かれていた。重厚な作りの背もたれと肘掛けのある椅子である。
生半可なものが座ればたちまちその椅子の存在感に飲み込まれてしまうであろう。
そんな威圧感を放つその椅子に、一人の男が腰かけていた。
荘厳。儼乎。壮麗。
それら言葉を用いて形容するのが相応しい男。
優に老境の域に達している見目にもかかわらず新芽のような溢れんばかりな生命力を感じさせる精気に満ちた肉体と全てを見てきた賢者を思わせる穏やかな眼差しを併せ持つ男だった。
身につけたゆったりとした印象のある黒い法衣から覗かせる手の先には一冊の本が開かれており、男は静かに読書をしているようであった。
男の視線が文字を追っているのか定かではないが、ページをめくる音が聞こえる。
だが次の瞬間、ピタリとその動きを止めて本を閉じた。
「くく、くっ·······」
男は堪えるように笑い声を上げた。愉快げでありながらどこか温和じみた笑みを浮かべて再度本を開こうとして、思い直したかのように手を止めた。
代わりに別の方へ手を伸ばし、空中を掴むようにして指を動かした。するとどうしたことか、何もなかったはずの場所に突如として巨大な鏡のようなものが現れたではないか。
鏡面には夜の闇が広がっているだけで何の姿もない。だが、男はまるでそこになにかが映っているかのように目を細めた。
宝石のような輝きを湛える瞳を細めた男────魔法使いはこれまた宝石のような輝きを持つ杖を取り出して床を突いた。
コツッという音と共に、それまで静寂を保っていた空間に変化が生じた。
最初は微かな振動だった。それが徐々に大きくなり、やがて空間全体を回る光がより速く激しく明滅を始めた。
「変わったカッティングだと思ってはいたがまさか、な·····」
しばらく堪えるように肩を震わせていた魔法使いは耐えられないと言った様子で大笑いをした。
その表情は年甲斐もなく無邪気に喜んでいる少年のようにも、研究の果てに新たな真理を垣間見た老賢のようにも見えた。
────3000年ほど昔。
神秘がまだ人々の日常のひとつであった頃。
幻想種がまだ世界の表層に顔を出していた時代。
神々が実体を持って人々の前に現れていたとされる神代。
その時代に神秘を終わらせる最後の王として生まれた魔術王。
その弟子の一人としてその神秘を受け継ぎ、『気に入らない』という理由で月のアルテミット・ワンたる朱い月を下した『第二』、それがこの魔法使いだ。
「異星に産まれたその星の王たる究極の一が吹けば飛ぶようなちっぽけな人の子に心を奪われる。······嗚呼、どこかで聞いたような話だとは思わんか?」
魔法使いの言葉に応えるものはいない。だがそれでも彼は満足そうに微笑むと、もう一度だけ大きく笑った。
宝石を散りばめたかのような美しい星空。その一角にぽっかりと穴が空いた。それはまるで天が落ちてくるかのようだった。
そして、落ちる。
大地へと向かって真っ逆さまに落ちていく。空から降ってくるのは何も星だけではないようだった。
夜空の世界から降り注ぐのは光輝く虹の雨。その全てが一つの世界であり、ここではないどこかにあり得た可能性の一つ。
そして、魔法使いが見る万華鏡のような夜空の世界はその光の中に溶け込んでいくように消えていった。
魔法使いは椅子から立ち上がると、夜空の世界があった場所に向けて手を掲げた。
彼は垣間見た世界に干渉するようなことはまずしない。
彼がその世界に行ってしまえばそれが確定した世界線だと認めてしまい、それはもう既定事項となってしまうからだ。
故に、あの世界を覗き見たのは彼の好奇心によるもの。
ただそれだけのこと。
そして、夜空の世界が完全に消える間際のことだった。
魔法使いの視界の端に映り込んだものがあった。小さな小さな光の中に蒼い水晶のような何かが紛れ込んでいたのだ。
ほんの一瞬。刹那の邂逅だったが、しかし魔法使いはそれを見逃さなかった。
それは、星の瞬きにも似た煌めきを秘めているように感じられた。
「今はまだ、人の心を識らないうっかり屋な大蜘蛛よ」
これだから人生は面白いと笑う魔法使いの視線の先でその小さな光が弾けた。
それは夜空の世界の最後の一欠片を閉じ込めていた硝子細工の割れる音だった。
「これから大いなる旅に出る少女よ」
祝福するように、たしなめるように、あるいは祈りを込めて。
魔法使いは言葉を続ける。
その瞳に映るのは、ただひとりの少女。
────夢見る水晶の乙女。
彼女がその旅路でどんな出会いをするのか、どのような結末を迎えるのか、まだ誰も知らない。
それは誰にも分からない未来。
けれど、だからこそ。
魔法使いは静かに、厳かに、祈りを捧げるように呟いた。
これからの旅の中で楽しいという感情を初めて識るであろう少女に贈る、それは魔法使いからのささやかな贈り物。
やがて、彼女の物語は避けられない破綻を告げるだろう。
だが、その時こそ彼女は本当の意味で生まれ変わることになる。
さあ、眠りなさい。
次に目覚めた時、きっと君は素敵な物語を紡ぎ始めることだろう。
魔法使いは静かに笑った。
「いつか気がつく。君の人生は、目が覚めているだけで楽しいのだ」
「わたしを殺した責任、ちゃんと取ってもらうんだから」
ひまわりのように笑う水晶色の瞳を持つ少女の言葉を聞いて藤丸は痛みを忘れた。
殺された?誰が誰に?
困惑している藤丸を見て少女は首を傾げる。何か変なことでも言っただろうかと言わんばかりの表情を浮かべながら彼女は言葉を続ける。
まるで当たり前のことを言っているかのように。当然のことを説明するような口調で。
「人を殺しておいてその言い方はないんじゃない?」
むっ、と異様な程に整った眉をひそめて少女は言う。しかし藤丸は何も言い返せない。本当に意味が分からないのだ。
藤丸が目の前の少女を殺めた?
そんなはずはない。自分はつい先日まで平和で退屈な日常の中にいたはずだ。
いつも通り学校に通って授業を受けて、放課後になれば友人達と一緒に遊んで家に帰って寝るだけの毎日だった。
誰かを殺す機会など無かったし、そもそも人を殺める覚悟も度胸も自分には無い。
あるはずがないのだ。
そもそも生きているじゃないか。
だというのに、どうしてこの人は自分に向かってそんなことを言うのだろう。
藤丸の戸惑いを感じ取ったのか少女は困ったような顔になる。そして少し考える仕草をしてから再び口を開いた。
「······あれ、もしかして私の言葉伝わってない?」
エミュレートし損なっちゃったかな、と呟いて彼女は再び口を閉じる。そして数秒間の沈黙の後、あぁ!と納得したかのような声を上げて手を打った。
「そっか、普通の人間は「 」通しての記憶共有とかできないんだったわ」
いやーうっかりしてた、と悪びれる様子もなく笑いながら彼女は言葉を紡ぐ。愛嬌のある笑顔だったが、それはどこか作り物めいた印象を受けるものだった。
まるで仮面を被っているかのような不自然さ。それでも見惚れてしまう程の美しさがある。
そんな彼女の姿に思わず目を奪われていると、少女はふっと真面目な表情になって藤丸を真っ直ぐに見据えてきた。
水晶のように透き通った瞳が射抜くようにこちらを見つめている。
吸い込まれてしまいそうなほどに美しく、どこまでも純粋な瞳だ。そんな瞳を向けられたら目を逸らすことさえできなくなってしまう。
「だからわたしのことも覚えてないのかぁ·······」
少し寂しそうに呟くと彼女はまた笑った。そして自分の胸に手を当てて自己紹介をする。
「じゃあ改めて、わたしの名前は
こんな状況でなければ。いや、こんな状況であることをつい忘れてしまうほど麗らかで優しい声音と美しい笑顔だった。
「今はこの意味がわからなくても大丈夫。いつかきっとわかる日が来ると思うから」
どこか予言めいた言葉を口にしながら彼女は続ける。まるでこれから起こることを全て知っているかのように。
哀しげで、それでいて慈しみの込められた眼差しが彼に向けられていた。
「今は、リツカ。貴方の願いを聞かせて?」
その問いに藤丸は答えられなかった。突然すぎて頭が回らない。
願い?
初めて会った、それもこんな意味不明な出会い方をした相手。
まだ名乗ってすらいないのに自分の名前を知っている不思議な少女。
わからない、わからない。
なんで自分がこんな状況に陥っているのかも、なんでこの少女が自分の前に現れたのかも。
何もかもが理解できず、藤丸はただ混乱するばかり。
でも。
それでも。
そんなことよりも。
「·····たい」
「ん?」
「·····生きたい、俺は、こんなところで死にたくない」
虚飾も誤魔化しもない、心の底から湧き出た本音。それを口に出してようやく彼は思い出す。
痛くて熱くて苦しい。
こんな苦痛の中で死を待つなんて耐えられない。
まだやりたいことがたくさんあった。
まだ見ていない景色がたくさんあった。
まだ知り得ていないことが山程ある。
瓦礫の中で倒れ伏したままではそれを見ることができない。それだけは嫌だと心の底から思った。
「·····だから、助けて」
それが願いだと、絞り出すような声で藤丸は告げた。それに対して彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開く。
にぱっ、と花咲くような満面の笑みを浮かべると彼女は嬉しそうに言った。
「じゃ、契約成立ね?」
責任をとってもらう代わりに助けてあげる、と子供のように無邪気な声と共に右手を差し出してくる彼女。藤丸はその手を掴もうとして、できなかった。
何故なら彼の右足は未だに瓦礫の下敷きになっている。今更だがとても痛い。
驚きから解放されて痛みが戻ってきたのだ。瓦礫に押しつぶされたままの右足を押さえながら藤丸は苦悶の声を上げる。その姿を見て彼女は不思議そうに首を傾げる。
「足がどうかしたの?」
その質問に対して藤丸は何も言えなかった。というより痛みで声が出せない。
このまま死んでしまうんじゃないかと思えるくらいの激痛が全身を駆け巡っている。
彼女にはそれが伝わっていないようでどうしたものかと悩んでいるようだった。
「─────あっ、えっ、さっきからずっと精神波長がぐちゃぐちゃだったのってもしかしてその足が原因!?ごめんね気付かなくて!」
ようやく気づいて慌てる彼女に対して藤丸は何も言えない。痛みで喋ることもできないからだ。ただ黙って彼女の言葉を聞くしか今の彼にはできない。
「ええっと、ええっと、こういう時はどうすればいいんだっけ!?治癒魔術とかあの時召喚されてたサーヴァントが使ってたわよね?!」
どうしようどうしよう、と先ほどまでの雰囲気はどこへやら。彼女はわたわたしながら必死に思考を回転させる。けれど良い案が浮かばず、ついには泣き出しそうな顔になってしまった。
そんな彼女を見ていると何だか申し訳なくなってくる。
自分の為に一生懸命になってくれている初対面の少女の姿に、藤丸の胸は少し温かくなっていた。
もしかしたら彼女は死ぬ間際の幻かもしれない。
そんな考えが脳裏を過ぎったが、そんなことはどうだって良かった。
たとえこれが夢だとしても、この少女との出会いは本物なのだから。
そう思うと藤丸は不思議と落ち着いてきた。
死ぬ前にこんな素敵な出会いをさせてくれた神様に感謝しつつ、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
「『当該生命体、塩基配列 ヒトゲノムと99.9999989%以上一致』」
「『汎人類史の人類として登録されました』」
「『これより、当該肉体情報を元に汎人類史鏡面複写から適切な魔術基盤を検索します』」
「『人理焼却事象における時間軸の復元に成功』」
「『境界観測。時空連続体の確定、完了しました』」
「『異聞実行体の収取霊基に該当あり』」
「『その霊基及び魔術特性を確認』」
「『行使します』」
「『肉体骨子、解析。魔術回路、解明。構成原子、把握。細胞分子、合致』」
「『結合復元。組織復元。神経復元。生体復元』」
「『それすなわち、損傷からの修復』」
「『