『 ごめん つかまえきれなかった 』
――手帳に浮かんだその走り書きを見た瞬間、私は弾かれたように振り向いた。
「え、エレベーターは!? まだ来ないん――」
しかしその時には既に背後のエレベーターは開いており、中で歪いびつが操作ボタンを連打していた。
ガコン、と古びた乗場ドアが軋みを上げて閉まり始め――私はそこで我に返り、慌ててカゴの中へ飛び込んだ。直後に扉が閉じ切って、狭いカゴ内に埃が舞う。
「あっ、ぶね……!? だからマジでやめろってそれ!! 今回くらい素直に乗せろや人でなしか!?」
「どうせぼくが何やったって無理矢理入って来るでしょ! あとそっちに人でなし言われたかないやい!!」
訳の分からん返しと共にまたエレベーターのボタンが押され、1Fのランプが朧げに灯り浮遊感が身を襲う。
……文句言うのもまた後か。言い足りない諸々をひとまず舌打ちひとつに纏め、塗装の剥がれた壁に手をつき立ち上がる。
「くそ、そんでどうすんだ……! エレベーター、都市伝説やんのか!?」
「う、うん、まずエレベーターで異世界に行く方法……! 十階バージョンじゃなくて、バリエーションの三階バージョン。ただこれボタンB4~Rまであるし、エレベーター自体も古すぎて上手くやれるかどうか――、!」
ヂィ ィン。
錆塗れの金属音が響き、さっき閉じたばかりの扉が開いてゆく。
そりゃ二階から一階までなんだから、長話なんてしてられる時間なんて無い。
私はすぐさま扉に向き直り、ギシギシと開かれる内戸の先を睨み――そこに隙間なく敷き詰められていた濃い靄の壁に、思わず目を見開いた。
(は、入っちゃダメなエリア……こんな、目と鼻の先――、……?)
エレベーター内には一切零れて来ない真っ白に、じりじりと距離を取っていると、靄の遠く遠く向こう側から物音が聞こえている事に気が付いた。
壁や床を掻くような音と、何か……柔らかく脆いものが叩き付けられるような音。
小さく微かに繰り返されているそれは、あちらこちらに跳ね回りながらも徐々に大きくなってくる。
――それが何かなんて考えるまでも無い。
さっきのモニターに映っていた、死体から飛び出た蜘蛛が、近づいている。
「閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ……!」
扉が開いた直後からずっと『閉』のボタンを押しっぱなしにしていた歪いびつだったが、ようやく反応したらしい。
さっきと同じく緩慢な動きで扉が動き……閉まり切る直前、何故か『開』のボタンを押した。
当然また扉が開き始め、そしたら次にいつの間にかランプの灯っていた3Fのボタンを再び押して行先をキャンセルし……しかし古い型だからなのかキャンセル出来ず、小さく呻いてまた『閉』のボタンを押し直す。
「ぐぐ……手順ちょいアレンジするしか……うぉぉぉ通ってくれぼくの超解釈……!」
……全く意図の読めない行動に困惑したが、たぶんこれが『エレベーターで異世界に行く方法』とやらなのだろうと、口は挟まず見守った。
その後も幾らか妙な手順を続けた後、ようやくちゃんと扉が閉じ、ランプの灯る3Fへと上昇してゆく。
「と、とりあえずここからスタートって事にする。した。で、三階に着いたら特定の順番で他の階に移動してく。その後色々やってると案内人が入って来るけど、その人に絶対話しかけないようにしながら続けて……最後三階に上がって、ゴール」
「……よく分かんないけど、まさか廃病院の時のやつ?」
「の、元ネタ。あれはイベントでいつもと客層違うだろうしオードソックス寄りの塩梅で動画の映像表現の方にリソース振ってて――いやそれより何!? めっちゃ何か近付いて来てるよねたぶんさっきのモニターの!! どうなってんの!?」
そして今になってやっとそう騒ぎ出すけれど……こっちだって何をどう返せばいいのか分からない。
蜘蛛だの何だの、今の状況で詳しく語ってられる訳無いし、現状把握なんてもっての外。
具体的な事はひとつも口に出来ず、私はもごもごと形にならない唸りを漏らすしかなく――そうしている内にまた濁ったベルが響き、三階に到着。
扉が開けば、その先は一階と同じく靄の壁で塞がれていて、その奥から響く騒音は、三階に移動してもなお明らかに大きく膨らんでいた。
「ほらぁ! やっぱ近付いてるってぇ!! 絶対こっちの方来てるってぇ!! 何!?!?」
「う……ええ、っと……め、めちゃくちゃタチの悪い、クソオカルト、とか……ごめん、今はそんなぐらいしか――」
「君がそんな風に言うって事はぼくが思ってるよりだいぶマズいやつくない!? 冗談じゃないよ早く早く早く早く……!」
かなり濁した言い方になってしまったと思ったのだが、歪いびつはそのあたりを気にする事無くただただエレベーターのボタンを連打する。こっちに向かって来ている何かの輪郭を捉えられれば十分だったようだ。
特に深い追及も無く若干拍子抜けしたものの……今この時に限っては、そのスルー精神がありがたくもあった。
(でも、ホントになんで。何で、よりにもよって蜘蛛がッ……!)
気付けば、手足が細かく震えていた。
恐怖か、怒りか。それともあの地下で負った痛みを身体が思い出しているのか。
私は自分でも判断つかないそれを抑えながら、エレベーターが階に到着する音をじっと聞いていた。
そして一度一階への到着を挟み、すぐに2Fのボタンが灯る。
モニターのたくさん並んだ例の部屋。迫って来る何かとは距離的に間違いなく一番近く、私は一層硬く身構えながら開かれる扉を睨み据えた。のだが、
「――は……?」
しかし解放された先にあったのは無数のモニターではなく、他の階と同様の靄の壁。
一瞬階数を間違っていたかと表示盤を見たが、間違いなく2Fと表示されている。
まさか、もうこの靄の先にアレが――と血の気が引きかけた時、手帳が一度、ぎこちなく揺れた。
『 足止め してる はやく 』
「足止め……? えっと、じゃあ大丈夫なのかこの靄? このままエレベーターでやってりゃ良いのか!?」
『 伝えられたから。むこうとこっちで 重ねる 』
「は? 何言って――、ッ!?」
ドガン、と。
まだ遠く、靄の向こうで一際大きな音が響いた。
壁か床を力任せに突き抜けたような音。
途端、戦々恐々とこっちの様子を窺っていた歪いびつがボタンを押し込み、エレベーターを動かした。
「け、結局、続行って事でいいんだよね……? このまま行ってオッケーの太鼓判出たんだよね!?」
「……雰囲気的には、そうっぽいけど……」
上げていた視線を戻すが、やはりと言うべきかそれ以上インクは動かなかった。
また電波が悪いのか、それとも足止めとやらで余裕が無いのか。
正直なところ文章の意図はまるで汲み取れてないけど、扉の先を靄で塞がれたのであれば、このまま進めて問題ないって事の筈。
……というか、今はそれしか出来ないんだから、そうじゃなきゃマズいなんてもんじゃないのだが。
「……一階」
と、そうこう考える内に幾度目かのベルが鳴り、扉が開く。
扉の先はさっきと変わらず靄の壁で……物音も、より大きくなっていた。
当然扉はすぐに閉められ、乱暴な手つきで3Fのボタンが叩かれた。
「ち……ちなみにネ、階を移動する順番自体は概ねスタンダードでやってるよ。この順番を逆にすれば異世界から帰れる方法になるって説もあるんだけど、あんま余計な事するのも避けた方が良いよねって……大丈夫だよね?」
すると突然、歪いびつがそんな事を聞いて来た。
一瞬なんで私にと思ったが、その視線は私の手帳に向いている。どうやらインク瓶……に、念押しのようなものをしたかったようだ。
「……悪いけど、また動かない感じになってる。でもなんも言ってなかったし、それで合ってんじゃないの」
「あ、そう……まぁ帰って来られたって証言ほとんど見ない説だからね。そんなに重要視はしてないんだけど、一応聞きたくはあったっていうかね。ハハ、ハ――、っ」
ヂィ ィン。
ベルが鳴り、歪いびつの肩が跳ねた。
三階。扉の先は変わらず靄が立ち込めていて、あの物音だけが近寄って来る。
「……っ!」ボタンが叩かれ、扉が閉まった。天井部からパラパラと埃が落ちて、次の階へ。
「……こ……このエレベーター、やっぱ色々古くって。今の時代のタイプとだいぶ挙動違うしで、手順ちょっとアレンジ混ぜてるんだけど……平気?」
「だから言われても分かんねーって……ここで一番詳しいの、あんただろ」
「そう、だけどさ。……そうだね、うん、ぼくエレベーター博士……へ、平気じゃぞ~、大丈夫じゃぞ~、ホッホッホ……」
ヂィ ィン。
二階。扉が開く。音は……何枚かの壁床を挟んだどこかの部屋で、幾つもの調度品が砕けるような音が鳴り響いた。
「これ、やっぱり動いてるよね。二階だけじゃなくて、上下にも……」
「……モニタールームじゃなくて、私らの居る位置追ってんのか……?」
ヂィ ィン。
一階。音は上方から聞こえてくるようだった。
歪いびつはこれまで通りすぐにボタンを押そうとして、堪えるように止まる。
直後に上で響いていた騒音が同じ高さで聞こえるようになり、その瞬間にボタンを押して入れ違いに上昇する。
「へへ、す……少しでも、撹乱、とか――」
その時、小さな騒音が扉の厚みを抜けて来た。
下から上に突き抜けるような破壊音。……下手な小細工に意味が無い事を、無言のまま察した。
――ヂィ ィン。
「……あと、よっつ」
三階。壁についていた掌に、くすぐったさを感じた。
……よく見れば、壁や床が小刻みに揺れている。近づく気配を、伝えている。
――どたん だだ どた だだ……。
「あ、あと、みっつ……」
二階。もはや聞き慣れた騒音の他に、何かを引きずるような音が聞こえ始めた。
感じからして軽く、そして柔らかいもの……。
最初は何の音か分からなかったけど、すぐにあの女の子の死体の音だと察した。
膨らんだおなかから蜘蛛の何かが飛び出した後、そのままずっと引きずり回されているのだ。
……それもきっと、手足や中身を零しながら。
――ず、どた ずちゅ だんっ、ずじゅ……――。
「ふたつ……扉、おっそい……!」
一階。数部屋先で、天井が抜かれた。
――ガシャン! だだだだだだだ
近い。もう、来る。
降り立ったそれは瞬時にその部屋を飛び出して、扉が閉まるよりも早くこの場所へ、この靄の壁を突き抜けて――。
「――っらぁ!!」
――間に合わない。
そう確信した私は内戸の端を引っ掴み、力任せに閉じ込んだ。
外側の乗場ドアと擦れたのか、異音と微かな火花が上がり、衝撃。内戸だけが閉じ切って、カゴ全体が左右に揺れる。
「うわぁ!? ちょおっ、壊れっ――」
「いいからボタン押せ!! もうそこに、っぐぁ!?」
――とんでもない轟音と共に、扉が内側に膨らむように大きく歪んだ。
元から頼りなかった照明がチラつき、埃の塊が頭に落ちる。
咄嗟に足を踏ん張り扉ごと吹き飛ばされる事は防いだものの、けれどそれだけでは終わってくれない。押し入ろうとする圧力はそのままに、扉の外側を削っているような感触さえ伝わって来る。
――こり こり ごり、ぎ、ぎぎ ぎィぎぎぎぎィぎィィィ――……。
「ぐっ、んのっ……つっよ……!?」
外でどんなのがどんな事をやってるのかは知らないが、私ですら弾き飛ばされそうになる程の力に焦りが浮かび――しかし間もなく、エレベーターが緩慢ながらに動き出した。
「ど、どうせ最初から手順いくつか誤魔化してるんだ……ならいっそ切り貼り纏めて……ッ!」
ブツブツ言ってる歪いびつをちらと見やれば、手元の1F、2F、3Fのボタンが同時に明滅している。
何やら完全に正確な手順から外れた事をしたっぽいが、私に何が分かる訳も無く、詳しく聞いてる余裕も無い。
ただ歪いびつを信じるしかなく、必死に扉を抑え続け――ガン! と外で何かがぶつかったような音が響き、唐突に扉への圧力が消え去った。
「っと……な、なんだ……?」
張り詰めた警戒のまま周囲の様子を探っていると、やがてエレベーターの真下の方からけたたましい物音が響いた。
それなりに遠そうな距離。自然と、私達の視線が階数ボタンのB4に吸い寄せられる。
「……下、落っこちたのか?」
「一階の天井で引っかかったのかな……とにかく、今の内に……!」
緩みそうになる気を引き締め直す内、少しして二階に到着したベルが鳴った。
……これ扉開くか? 無理矢理こじ開けるべきかと迷っていると、歪いびつが声を上げる。
「た、タマちゃん! それ扉開かないようそのまま抑えてて! 着いても開けない事で着いたのと着いてないの両方埋める! こじつけてやる!」
「……は? いや、どういう――おわっ!?」
意味が分からず混乱している内に扉が動きかけ、反射的に抑え込む。
こんなに大きく歪んでいるのに、一応まだ壊れ切ってはいなかったらしい。
理解出来ないままとりあえず扉を抑えていると、何度かつっかえるような動きをした後、諦めたかのように再びエレベーターが上昇し始める。
しかしその動作はやたらと鈍くなっており、時折ガコガコと跳ねるような振動を繰り返す。
流石に年代物を傷めつけ過ぎたか――そう歯噛みしたその時、一際激しくカゴが揺れ、エレベーターが止まった。
「っ……!?」
「うわ、ちょっ……ぐえっ!?」
カゴ全体が大きく傾き、足が浮く。
私は転ぶような事もなかったが、歪いびつは足を滑らせ隅っこにまで転がった。
辛うじて生きていた照明も落ち、心細さを煽る非常灯に切り替わり。更には床の下から悲鳴のような軋みさえ上がっていて――。
「ぐぐ、く……だ、ダメそ? もうダメそ……?」
「……違う。これ、下から引っ張られて……っ!」
――ごり、ごり、ぎぎ。
床の向こうからその音が聞こえた瞬間、文字通り足を引っ張っているものの正体を悟った。
「蜘蛛っ……登って来てんのか!? くそ、しつこい……!」
「ど、どうにかなんないの!? あと案内人のフェーズだけなのにぃ……!」
「しんねーけど、どうにかったって――、っ!」
ふわり。視界の上側を靄の帯が擽った。
ハッとして見上げれば、歪んだ扉の隙間から僅かに濃い靄が漂っている。
あの靄の壁の一部分――気付いた瞬間、私は扉を力任せにこじ開けた。
「ほぎゃぁぁぁぁ何してんのぉ!? ダメじゃないのさ着く前に開けちゃったら――」
「やっぱそうだ……! ギリ着いてる!!」
開けた先。カゴの天井近くを指差せば、晒されたエレベーターの内壁上方あたりに、三階の乗場ドアの裏側が僅かに覗き、少しの隙間が生まれていた。
当然、乗場ドアそのものは閉じられたままだけど、その先から靄の壁の一部が僅かにこちらに流れ込んでいる。
「え、えぇ……? 着いてるったって、こんなちょっぴりじゃ……!」
「ちょっと端っこ寄ってろ!」
私は手短にそう叫び、その隙間へと飛びついた。
そして、カゴの傾きでついた角度上、一番広い部分に身を滑り込ませて――思いっきり、全身を突っ張った。
「んぐぅ、ぅぅぁぁぁぁぁあぁぁあああああああああッ!!」
乗場ドアの少しだけ飛び出た出っ張りを足裏で噛み、背中で出入口の上っかわをつっかえて。
カゴ全体を持ち上げるようにして、徐々に徐々にと曲がった膝を伸ばしにかかる。
――ごり ぎ ごり、ぎ ぎぎぎ、ぎぎ……。
「――ち……力比べならぁ……こっち一回、勝ってんだろがぁぁぁ……!!」
床下からの異音が大きくなり、奥の壁裏にまで軋みが回る。
それと同時に凄まじい重量が背中に食い込んで来るけど、やってやれない程じゃなかった。
だって下側からカゴを引っ張られているだけで、エレベーターの上昇自体は止まっていない。
実質そのアシストという形でカゴを押し上げ、少しずつ三階への隙間を広げてゆく――。
「うっっっそぉ……さ、流石にバケモンが過ぎない……? えっ、このエレベーター何キロ???」
「い、い、か、らぁ……! 次、手順っ……早くっ――ぬがぁぁぁあぁああああああああああ!!!」
――ガァン!!
歯を食いしばってあらん限りの力を籠めれば、一息に三階乗場の位置までカゴが持ち上がる。
同時に歪み切ったカゴの内戸が乗場ドアに衝突し、完全に外れて床の隙間から落っこちた。
乗場ドアの方も元々大した造りでは無かったのか、その衝撃で大きく外側へとハネ曲がり――。
「――うわっ!?」
――瞬間、大量の靄がカゴの中へと吹き込んだ。
まるで消火器を使われたかのように勢いよく、濛々と。
いきなりの事にカゴを支える力が抜けかけるも、必死に堪えて立て直す。
すると歪いびつが咳き込みながらも大きな声で言い放った。
「――あ、案内人! もしちゃんと案内人が入って来てくれたら、絶対話しかけちゃダメだからね!! 都市伝説ルール!!」
「だからその案内人っての、どういう――」
――ぺた。
その時。私の真横で、足音がした。
「っ!?」
ぺた。ぺた。ぺた。
小さく軽い、裸足の音。
既にどこもかしこも濃い靄に覆われ、すぐ隣すら何も見えなくなっていたけど、間違いなく『何か』がそこを通り過ぎ、カゴの中へと入って行った。
私は思わず声を上げ――しかし寸でのところで留まった。
(案、内人……って、この事か……!?)
足音はカゴの入口近く、ボタンの操作盤の前で止まったようだ。
声の無い悲鳴を上げてどったんばったん逃げ出しているらしき歪いびつの気配に、そう察した。
「…………」
ここからどうなる。
何が起こる。
動く事も、問いかける事も出来ないまま、背中に感じる異質な気配を追い続け、
――めちゃくちゃするなぁ、コトちゃん。
「――――」
……一瞬。
ほんの一瞬だけ、息が止まった。
――でも、これでギリギリ重ねられた。あと、こっちでちょっと頑張れば、だいじょうぶ。
首だけで振り返るけど、目に映るのは真っ白だけ。
今の体勢じゃスマホのカメラも手に取れなくて、唇を強く噛む。
だから、だからせめて。たったの一言だけでも呼びかけたくて。
私は歪いびつの言いつけを破り、そこに居るものを、案内人を、彼女の名前を――。
――それ、失敗になっちゃうから、だめでーす。
「っ……!?」
しかしそれが声になる寸前、誰かが後ろから私の口をそっと塞いだ。
二本の腕で背中を抱かれ、細い指先が血の滲んだ唇を抑えて。一番近く、耳元で落とされた囁き声が、私の身体を意識ごと縛りつけた。
――エレベーターの外にいるやつは、この建物ごと落っことしちゃうから、平気だよ。あーあ、ここつくるの、がんばったんだけどなぁ……。
「――……」
――……。もう、ちょっと、ね。もうちょっとお手入れして、なれたら、その時は――。
ガコン。
振動と共に肩にかかっていた重量が消え、エレベーターが動き出す。
「っ、ぐ……!?」私はいきなりの事にバランスを崩し、思わずエレベーターの外に倒れかけ――それに気付いた歪いびつが咄嗟に私の腕を掴み、カゴの中へと引っ張り込んだ。
――じゃあ二名様、ご案内でーす。あは、あはぁ……。
エレベーターが上がってゆく。
靄で全てが隠されているおり、扉の外は見えなかった。けれど階数表示は三階を越え屋上を越え、表示範囲外になったその後も一階二階じゃすまない距離を移動しているように感じた。
上に、上に、もっと上に――。
スピードもどんどんと速くなり、床下の異音もいつの間にか聞こえなくなっていて。
ただただ靄が上から下に、もの凄い勢いで流れていっている。
「ひぃぃぃぃ……ぼくらこれ、どこ行ってんのぉ……!?」
「…………」
歪いびつは怯えたように縮こまっていたが……私はもう、不安に思っていなかった。
膝を抱え、天井を見上げてじっと待つ。
またエレベーターのスピードが上がる。カゴのあちこちが大きく軋み、非常灯にもヒビが入って明かりが落ちた。
そんな、カゴ自体がバラバラになってしまいそうな状況の中、見上げる靄の先から光が差した。
それは徐々に近づくように大きくなり、元の照明よりも明るく私達を照らし出す。
スピードが上がる。壁の一部が吹き飛び、床の繋ぎが外れて落ちてゆく。
隣で上がった情けない悲鳴を聞きながら、私はひたすらに光を見つめ続けて、そして――。
■
――パァン!
何かが破裂すような音がしたその瞬間、気付けば私は宙に投げ出されていた。
「――は、」
温かな光と、色鮮やかな景色が目を焼いた。
ずっと漂っていた靄など、その残滓すら見当たらない。
唐突な状況の変化に認識が追い付いていないのか、やけにゆっくりと景色が回る。
(……橋――)
くるくると目に映るのは、見慣れた街並み、見慣れた橋。
どうやら私は今、市内のどこかの橋の上に放り出されているようで、近くには同じように引き攣った顔で空を飛んでる歪いびつの姿も見えた。
そして逆さまの眼下には、こちらを見上げる人影がひとつあった。
何故か破れたビニール袋を振り上げている、見覚えのない女の人。
その人は宙を舞う私達に驚き目を丸くしていた様子だったが、すぐに感情が抜け落ちるような無表情へとなっていき――。
「――『親』?」
――我に返った瞬間、時の流れが元に戻った。
「は? いや、ちょおっ……!?」
「あぁぁぁぁ~……――ごぎゃっ!?」
重力が正常に働き始め、私達の身体が勢いよく地に落ちる。
私は咄嗟に体勢を整え着地したが、歪いびつは頭からいき鈍い音。
……何が、どうなったんだ?
ごろんごろんと痛みに転がってる歪いびつを他所に、私はきょろきょろ辺りを見回して、
「――うわっ!? な、なんだよ……?」
「…………」
ぎゅう、と。
突然、駆け寄って来た『親』に抱きしめられた。
表情が無ければ、言葉も無く。
普段だったら、触んなキモいと普通に振り払っていたと思うけど……今は、どうしてかそんな風な気にもなれず。
私はただただ困惑しながら、所在なく視線と腕とを彷徨わせるしかなく……。
「あ……」
ふと、見やった地面。
少し離れたその場所に、私の手帳が落ちていた。
飛んでた時に落としたのだろう。どこか汚れてやしないかと、ぼんやりする中気になって、
――そこでやっと、装飾のガラス玉が真っ赤に染まっていた事に気付いたけれど。
すぐに瞳を閉じるみたいに赤が引き、透き通る透明色へと戻っていった。