同作品をpixivにも上げております
一月と二月の境は、一年の中で最も寒い時期といわれているらしい。
もちろん、一番寒い時期を過ぎたからといって、すぐに気候が温かく春めくはずもなく、二月の中下旬までは寒さが続くままだ。
現に今も、窓の外の空はスカッとした冬晴れであり、廊下の空気はカラッとして冷たい。
冬は人肌の恋しい季節とは言うけれど、なるほど、それならこのイベントがこの時期にあることは、至極真っ当だと言えるのかもしれない。
二月のイベントといえば、バレンタインデーである。
いわゆる恋愛イベントというやつだ。
……至極真っ当だ、なんて言っておいてアレなのだが、どうやらこのバレンタインデーというイベントは、そんな感覚的なところから日程を決めたわけではないらしい。
なんでも昔、結婚を拒む法律に逆らって若人の婚姻の助けをし、処刑されてしまった司祭がいたそうだ。
その処刑日というのが、二月の十四日。
愛のために法に逆らい処刑されてしまった彼を、人々は恋愛の守護者として奉った。
それが、バレンタインデーの起源なのだそうだ。
──なんて。
つい先日の配信で
そもそもあいつは、イベントや祭りは好きだが、恋愛に関してはからっきしなのだ。
そこまで考えてから、わたしは廊下を歩きながら小さく苦笑した。
(──恋愛にからっきしなのは、わたしもか)
何しろ物心ついてから十数年、いまだに誰かに心ときめいたことがないのだ。
“歌姫”をやっていることもあってか、たまに告白されこそすれ、それに靡いた例はないし、もちろんこちらから告白をしたことだって、一度もない。
周りにいる恋する女の子たちを見ると、もしかしたら自分の感性がまだガキンチョのままなのかも、なんて思ったりもするが、しかしそればっかりは仕方がない。
恋心が芽生えないものは芽生えないし、心がときめかないものはときめかないのだ。
それに歌手活動をやっていて、こうやって学業にも身を入れて、さらに恋愛事にまで手を出して──なんて、そんな余裕はありそうになかった。
こんな恋愛音痴のわたしだっていうのに、たまにラブソングの提供を受けているのだから不思議なものである。
廊下に、わたしの足音が響く。
今はもう放課後。
いつもであれば、廊下は人で混み合っているのだろうが、そうではないのは、まだそのイベントに現を抜かしている生徒が多いからだろう。
もちろん、わたしもその一人だ。
恋人や想い人がいないからといって、せっかくのイベントに乗らないのは損である。
バレンタインデーは、何も恋愛だけのイベントではない。
友愛や家族愛も含まれているから、友達や家族にお菓子をあげることだって、バレンタインデーのれっきとした一イベントなのだ。
そういうわけで、わたしはつい先ほどまで、クラスメイトたちにチョコレートをばらまいてきたのだ。
去年までは手作りだったが、今年は年末年始ともすごく忙しかったから、市販のものではあるが。
それでも、奮発して買った美味しいチョコレートだ。手作りできない分は、質で──なんて言いぐさは、少しだけ言い訳じみているかもしれないけれど。
そして、わたしが今向かっているのは──。
教室の扉を開く。
喧噪の中でも、ガラガラという扉の音は目立ったようで、何人かがわたしの方へと視線をよこした。
「あ、ウタ。どうしたの?」
真っ先に声をかけてきたのは、オレンジ色の髪の女の子だった。
や、ナミちゃん、とわたしは手を上げて返事をする。
片目を閉じてみるが、そもそも左目は前髪で隠れているので、きっとナミには見えなかっただろう。
「ほら、今日はバレンタインデーでしょ?」
スクールバッグを手近な机に置いて、わたしは中からチョコレート菓子を取り出した。
それを見たナミの瞳が、大きく見開かれた。
「はい、あげる」
「えっ、これ“カラメル”のチョコレートじゃない!!? この時期良く手に入ったわね!?」
「ほら、通学路の途中にあるから、前から足繫く通っててさ。おかげで予約を受け付けてくれたんだ」
「きゃーありがとう! 一生付いて行くわ、ウタお姉さま!」
「ぐえっ」
ナミは両手を広げて勢いよく抱き着いてきたせいで、わたしの喉が、歌手が決して上げてはいけないような音を上げる。
息をするのも苦しいほどに抱きしめられてからしばらく。
ようやく解放されたわたしに、ナミが自分のバッグから包みを取り出した。
「はい、これお礼! 手作りだから味の保証はないけどね!」
歯を見せて笑いながら、その包みを渡してくる。
わたしがありがとう、とそれを受け取った時には、気が付けば周囲に人だかりができていた。
チョコレートの香りに誘われたのだろうか。
交換しよう、という女子の声。
おれも欲しい、という男子の声。
様々な声に囲まれていると、ナミが我慢ならないと言うように立ち上がった。
「あんたたち! 対価もなくウタからチョコレートを貰えると思わないことね! 交換のチョコレートを持っている人は通ってよし! それ以外は金一封を置いていきなさ──」
「待って待ってナミちゃん、なんでナミちゃんがルールを決めてるのさ?」
「だってウタ、あんた甘っちょろいからこんなに人だかりができてるんでしょうが! 本命チョコがなくなったらどうすんのよ!」
ナミのその言葉に、わたしは「甘っちょろいって……」と苦笑を漏らす。
そもそもの話、だ。
「いやわたし、本命も何もないし……」
「えっ、そうなの? 私はてっきり──。……まあいいわ! とりあえず、今は私がマネージャーよ! なんなら、歌手活動のマネージャーもやってあげてもいいわよ!」
「絶対ヤダ。だってナミに任せると、頭のてっぺんからつま先まで全部毟られそうだし」
「ちょっと! それはさすがにひどくない!? 私の印象どうなってんの!?」
そんな軽口のたたき合いをして笑いながら、周囲の友人たちとの交換会にいそしむ。
──だけど、肝心のあいつがいなかった。
いや、別にいいのだ。
今じゃなくたって、帰り際に渡すのでもいいし、家も近所なのだから、最悪タイミングが合わなければ、後で取りに来させるでも届けに行くでも、何とでもなる。
だけど人だかりに、しかも食べ物が絡んでいるというのに、あいつが来ないなんてらしくない。
談笑をしながら視線を巡らせて、いつもの席を見てみる。
いない──のならそれで良かったんだけれど、普通に、いた。
いつもの麦わら帽子を首に引っ掛けて、ルフィは何やら笑顔で話をしている。
相手は、女子だ。
見覚えのない顔だから、学年が違うのだろうか。少なくとも、普段から関わり合いが多いわけじゃないはずだ。
緊張しているように、表情の硬い女子がルフィに話しかけ、それを二人の女子が応援するように見守っている。
これは、あれだ。
いわゆる本命というヤツだろう。
恋愛なんてよくわからないわたしにすら、わかる。
だって、ただ友達にチョコレートをあげるだけなら、特に緊張する必要はないだろう。
それに、おどおどしている女子の頬が、そこはかとなく赤く色づいている。
周りでわいわいと騒いでいる声のせいで、きっと小声なのだろうその女子の言葉が聞こえない。
──気になる。
わたしの位置からは、ちょうど彼女が持っているものが見えた。
その包みに入っているのは、おそらく手作りチョコレート。
視覚情報は入ってきても、やはり声が聞こえるようになるわけではない。
聞こえないことで、余計に気になってしまい、しかし気になったところで聞こえるわけはないから、無理やり意識を逸らせようとする。
ナミに声をかけようと口を開く。
「ねえナミちゃ──」
だけど、あいつの声はでかいから──。
「そうなのか! ありがとう!!」
そのルフィの声に、何故かわたしの喉がひゅうと鳴った。
ドクンと一度、心臓が暴れようとして、すぐに凪ぐ。
ただ、水面に浮かんだ波紋のように、もやもやと、腹の底で冷たいものが揺れる。
「ん? ウタ、どうかした?」
「え? ううん、ちょっと用事思い出しただけ! じゃあ、みんなにもチョコ配り終えたし、そろそろわたし、帰るね!」
「え、あ、うん」
驚いたように、あるいは困惑したように頷いたナミを後目に、わたしはバッグを担いで、足早に教室を後にする。
ぴしゃり。
ドアを閉めてから、一つ息を大きく吸い込んで、そして吐いた。
家路へと向けて、ゆっくりと歩き出す。
廊下を通り、校舎の外へ。
何を、と思う。
果たしてわたしは、いったい何に動揺したのだろう。
少し足を止めて、自分の胸に手を当ててみる。
もやもやと落ち着かないその感情を、わたしは知らない。
「……別に、あいつが誰からチョコを貰おうが、告白されようが、別にいいじゃん」
周囲にも聞こえない程小さい声で、ぽつりと言葉を零す。
もし万が一──、いや、億が一にルフィに恋人ができたとして、わたしとルフィの関係が変わるだろうか。
いや、変わらないだろう。
あいつはわたしにとって大切な幼馴染で、そして親友だ。
それが何かのきっかけでがらりと変わるなんて思えない。
──じゃあ、なんだ?
余計に自分のことが分からなくなる。
ただ、あの女の子がルフィにチョコレートを渡した後に、わたしはわたしで渡せばよかっただけの話だ。
別にこうやって、外へ出てくる必要はなかったはずだ。
逃げてくる必要は、なかったはずだ。
……逃げる?
その思い浮かんだ単語が、胸のもやもやを強くする。
逃げるって、何から?
……一つだけ、心当たりはあった。
目線を下げて、担いだスクールバッグを見る。
中に入っているお菓子は、市販品。
去年までのわたしのような──、ナミちゃんのような、さっきの女の子のような、手作りのチョコレートじゃない。
がっかりされるのが、嫌だった?
比較されてしまうのが、嫌だった?
そうでもあるように思えるし、そうでもないように思える。
そもそもあいつは明るい人気者だ。多くの人からチョコレートを貰っているだろう。去年だって、大量のチョコレートを抱えていたっけ。
……今年貰ったうちの、どれだけが手作りなのだろう。
そのうちの、どれだけが本命なのだろう。
──何故、こんなことを気にしてしまうのかがわからない。
別に、あいつにとって特別でなくていいはずなのに。
一番でなくてもいいはずなのに。
そもそもあいつが、そんな小さなことを気にするはずもないのに。
わたしはもう一度息を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
はァ……
溜め息が白く揺れる。
いったん、いい。
このテの思考は、ドツボにはまると抜け出せなくなってしまう。
今日は一度家に帰って、一時間ほど仮眠をとろう。
そして、頭をリセットしたところで、ルフィの家に遊びに行けばいいだろう。
今日という一日は、まだ八時間近くは残っている。
一歩。
歩き出した瞬間だった。
「おーい、ウタ!」
背後からかけられた声に、わたしの心臓が思わず飛び上がった。
不意打ちのごときその声に、わたしはゆっくりと振り返る。
「今から帰りか? 一緒に帰ろう!」
そこにいたのは、まぶしいまでの笑顔で笑う、幼馴染だった。
「……ルフィ」
名前を呼んでから、その後に続く言葉を探す。
えっと、と言うわたしに、ルフィが首をかしげていた。
「あんた、部活は?」
「はァ、何言ってんだ? 火曜日はいつも休みじゃねェか」
「そうだったっけ?」
言われてみれば、いつも火曜日は一緒に帰っていた気がする。
「……ヘンなウタ!」
「はァ?」
別段断る必要はないので、わたしはルフィと一緒に、家路を歩き出した。
いつも通りのルフィの調子に、わたしもいつしかいつものように話せるようになっていた。
言い争って、笑って、怒って、笑って。
まったく、さっきまで何を考えて、自分の思考を閉ざしていたのかもわからない程に、当たり前になった距離感で、家路を歩く。
だから、話の流れで、すっとその質問を投げることができた。
「そういえばさ、さっきルフィの教室行ったとき、女の子からチョコ貰ってたでしょ?」
「ん? ああ、お前がさっきナミと話してた時か!」
なんだ、気づいてたんだ。
一瞬だけ、再び心が波打つ。
あれはなー、とルフィが嬉しそうに言う。
「エースが帰っちまったから、渡して欲しいんだってよ!」
「へ?」
エースというのは、ルフィの兄の名前だ。
つまりは──。
「ルフィ宛じゃなかったんだ?」
ああ、とルフィはあっけらかんとして頷く。
なんだ、と心のつかえが取れる。肩の荷が下りたように、心が軽くなる。
────なんで?
自分の心が、よくわからない。
それにしてもよ、とルフィはつまらなそうな表情で言う。
「ウタ、お前せっかくおれのクラスに来たんなら、声かけてくればよかったじゃねェか」
「お取込み中だったから、お邪魔かなーって思ってさ」
「なんだそりゃ」
ルフィの言葉に、わたしは思わず声を上げて笑ってしまった。
ひとしきり笑ってから、「はーあ」と息を吐く。
「ねえルフィ、あんた本命チョコとかもらった? 告白されたりとか?」
「ん? よくわかんねェけど、お菓子はたくさんもらったぞ!」
ほら、と言ってルフィがバッグを開いて見せてくる。
中に入っていたのは、バッグいっぱいに詰まった、大量のチョコレートやお菓子の包み。
「一番はやっぱりこれだな!」
ルフィがそう言って、バッグの中から取り出したのは、ひと際大きな半透明の袋に入った、ブロックみたいにゴツゴツしたチョコレート。
「……なに、それ?」
「サンジがくれたんだ! 大量に作って余ったやつを固めたからってよ!」
なるほど、サンジか。
あの人なら、バレンタインデーにチョコを配って、あまりを仲のいい男子用にブロックにして渡すなんてことを、確かにやりそうだ。見た目は武骨でも、味はしっかりしているのも想像がつく。
そしてルフィのこの色気より食い気っぷり。
まったく、このイベントに全く似つかわしくないのに、なんでこんなにチョコレートを貰っているんだか。
もし本命チョコを上げた人がいたとしたら、ちょっと可哀そうかもしれない。
そういや、とルフィが首を傾げる。
「今年は、ウタはくれねェのか?」
「あるけど」
わたしはそう言って、スクールバッグを開いてがさりと袋を取り出した。
中にはたくさんの“カラメル”のお菓子が詰め込んである。
「ルフィたくさん食べると思ってさ、これ全部。バッグ入る?」
「あ、入んねェ」
「じゃ、家の近くで渡すよ」
「いいよ、手で持ってく」
ほら、とルフィが手を出してきたから、わたしは当たり前のように袋を手渡した。
ルフィは「“カラメル”のお菓子、うまいんだよなァ!」とご満悦そうである。
その様子に、わたしも思わず笑みを浮かべてしまう。
にっしっし、と笑ってから、ルフィが言う。
「なあウタ! これだけお菓子貰って、あとサボもエースもたくさん貰ってくるだろうからさ、ウタもおれの家に来いよ! チョコパーティーしよう!!」
こういうのはみんなで食べた方が楽しいだろ、とルフィが言う。
あんたねェ、と呆れたように言いかけて、わたしは口をつぐんだ。
まあ、確かに余ってしまうくらいなら、みんなで楽しく食べたほうがいいのかもしれない。
せっかく想いを込めて作ったものがあったとして、一番悲しいのは、きっとそれが食べられずに腐ってしまったり、捨てられてしまったりすることだろうから。
「とりあえず、家に帰って着替えたらそっち行くね」
「ああ!」
ルフィが笑顔で頷く。
そして、ルフィが思いついたように表情を戻した。
「そうだ、ウタ!」
「何?」
「忙しくないときでいいから、また手作りのお菓子作ってくれよ! 去年のくれたやつ、美味かったからさ!」
そう言って、ルフィが再び邪気のない笑顔を見せる。
──そっか、美味しかったんだ。去年のあげたお菓子。
「…………ばァーか」
跳ねた心臓をごまかすように、わたしはその笑顔から視線を背けて言う。
まったく、そんな笑顔で、そんなことを言うもんじゃない。
恋愛音痴で幼馴染のわたしじゃなかったら、うっかり勘違いしちゃうぞ?
きっとお互い何も気が付かないまま、浮足立って二人で歩く。
さあ、甘くて苦いチョコレートパーティーはこれからだ。
お読みいただきありがとうございます。