その日は、2月14日だった。寒さはまだ厳しいが、時々思い出したみたいに春が小出しにされていく。
バレンタインデー。
世間的に、その日はそう呼ばれていた。
そして、つよしもそう呼んでいた。外面的には特に気にしていない風を装っていたけれど、心の内では何度もその日のことをシュミレーションしていた。
これより前のイベント、クリスマスで、彼は手痛い失敗をしていたから特に今回は慎重になっているのだ。
彼には想い人が居た。うたという名前で、彼女は一つ年下の後輩だった。
そして、何かにつけては彼女と同じ場所で同じ時間を過ごそうと色々画策し、その度に空回りに終わっていた。
そういった体験によって、繊細な心と奮い立たせた勇気は幾度となく傷つけられたが、それでも彼は彼女への思いは捨てることができなかった。
つよしは朝、学校につくと、まず下駄箱を覗いた。靴を入れるついでですよ、とでも言いたげな姿勢で、それにしては長すぎる時間見つめていた。
普段は不必要なくらい早めに登校する彼も、今日はゆったりとやってきた。彼の想像では、下駄箱にチョコか手紙を入れるとしたら、誰も居ない早い時間だろうから、その姿をあえて見ないように遅めに登校したのだ。
しかし、彼の下駄箱には土埃とスリッパの他には何も入っていなかった。
彼はがっくりと肩を落とし、スリッパを取り出して自分の教室に向かった。
ところどころで幸せそうな驚き声が聞こえてくる。もしくはヤジを飛ばす声が。
なにも朝渡されるとは限らないさ。と、彼は考えた。
そもそも、彼女は今日がバレンタインデーだということを知っているのだろうか?
彼女には、やや(というかかなり)世間ずれしたところがある。こんなイベント知らない可能性だって十分ある。
いいや、こっちにだって用意はあるさ。
彼は赤いバラのドライフラワーとメッセージカードを持ってきていた。本来のバレンタインデーでは、男女関係なく、親しい人に花やメッセージを贈る日らしい、という情報を耳にした彼は持ち前の器用さを駆使して、急いでドライフラワーを手作りした。
無論、うたに贈るためのものだ。
問題はタイミングだった。いつ渡せばいいのだろう。彼には勇気が必要だった。
彼と彼女とはそれなりに親しかった。
つよしはそもそも誰とでもすぐに打ち解けられる性格だが、うたはそうではない。
彼らの接点は音楽だった。それに真摯でさえあれば、彼女と打ち解けることができる。
彼らは互いにCDを貸し合ったり、機会があれな同じステージに立った。
彼女がつよしの家に来ることもあった。CDを返すためだったり、より良いスピーカーのあるところで音楽を聴くためだ。
しかし、それ以上の関係にはならなかった。彼の方から彼女の家に行くこともなかったし、招かれることもなかった。行っても良いか尋ねるような勇気を彼は持ち合わせていなかった。
もし彼女がチョコレートを渡してくれたなら、その時にこの花を渡せばスマートだろう。ではそれ以外の場合は?
そこまでいくと、彼の思考は全て止まってしまう。
つよしは席に着いた。既に教室は暖房と恋の熱気でかなり暖かい。彼の心のある部分は温かく、ある部分は凍ってしまいそうだった。
窓の外は曇っている。誰かにとってはこの空も輝いて見えるだろう。
なにはともあれ、彼は自分の机の中に手を突っ込んだ。特に期待できなくともそうせざるを得なかった。
彼の机の中は通常、彼自身の部屋のように整理整頓が行き届いていた。そこにはくしゃくしゃになったプリントなんて決して見つからないし、彼に覚えのないものは入っていない。
つよしの手に、ハート形の包装紙のようなものが触れた。こんなものを入れた覚えは彼にはない。
彼の目に光が差し、表情は色めいた。
彼はそのチョコらしきものを机からそっと引っ張りだした。
そこには確かにハート形のチョコレートがあった。
周りの男子生徒はくすくすと笑う。
ご丁寧に、チョコレートには「スカ」と書かれていた。いたずらだったのだ。
今までにないくらい落ち込むつよしを見て、男子生徒の笑いの輪は広がっていくのであった。彼は今日何人目かの被害者だ。
その日の授業はなにも彼の頭に入っていなかった。
昼休みにクラスの中心人物といえる女子生徒が男子たちにアルファベットチョコを配っていた。
放課後、誰も居なくなった教室で、彼は自分の書いたメッセージカードをくしゃくしゃにしてゴミばこに捨てた。
今日は早く帰ろう。結局オレには無理なんだ。
彼は自分の勇気のなさとか、何か色々なむしゃくしゃとした気持ちに説明を付けようと努力をしていた。
彼はくしゃくしゃのメッセージカードを拾い上げ、少し迷ってからびりびりに引き裂いた。
ドライフラワーは捨てられなかった。
スリッパを脱いで下駄箱にしまい、靴を履いた。溜息をつく。
誰かが階段を下りてくる。
ふとそちらを見ると、そこにはうたが居た。
「あ…………うた、ちゃん……」
つよしにとっては心臓が飛び上がるような思いで声を絞り出したが、彼女はいつものように好意的にも悪意的にもとることのできない無表情に近い表情を浮かべていた。
「…………つよしくん、今からひま?」
そこには空白があった。一瞬の。
彼は全力を総動員してうなずいた。そうして、その空白は埋められた。
「じゃあ、あたしのいえに来て。チョコいっぱいもらったけど、食べきれないから」
確かに、彼女の両手には重そうな紙袋が下がっていた。
夕日が彼女の目に反射して、光輝いた。
つよしは、何かに押されるような感覚を抱いた。
「こ、これ」
彼はポケットにつっこんであったドライフラワーのバラを彼女に差し出した。
「……ありがとう」
ぶっきらぼうに彼女はそう言い、その花を受け取った。
彼女の頬が、バラ色に染まった。
彼女が夕日から陰になる場所まで歩くと、その色は消え去って青白い色に戻っていた。
「けど、あたしお花のせわとかわからないよ?」
「これはドライフラワーって言ってね…………」
彼は笑いながら泣いていた。