アオハル杯みたいな深い闇やら後悔やらは抱えず、他のシナリオみたいな柔和な理子ちゃんになって欲しいですね。
カフェイン。アルカノイド*1の一種であり、プリン環*2を持った有機化合物の1つ。
医学的な見地においては精神刺激薬に分類される。これはアンフェタミンやメタンフェタミンなどの『覚醒剤』と広義においては同分類であり、過剰摂取が心身に悪影響を及ぼす可能性については世界各国で指摘・議論が発生しているものだ。
主要国においては特にカナダがカフェインに対して強い反応を示し、健康的な一般成人の摂取量は日に400mgまでが望ましいとしている。*3
逆に言えば特に強い反応を示している国ですら『コーヒーは日に3~4杯までにしましょう』という提案で止まる危険度なのがカフェインだ。ただし、妊婦や授乳中の女性に対しては悪影響が報告されており*4、そういった女性に関しては上記カナダ基準の更に半分、1日に200mg以下の摂取に留めるように日本やイギリスでも推奨されている。
適量の摂取であれば集中力を高める作用や疲労軽減作用、更に最近の研究*5では記憶能力の改善作用なども報告されており、プラスの薬効も多い。
朝の一杯のコーヒーは健康に良いという論旨は、概ねこのあたりの要素が根拠となる。しかし総合感冒薬・鎮痛剤に使われる事もあるそれは立派な『薬物』の一種であり、用法用量には注意が必要だ。
それらの薬効から人間のアスリートにとってはカフェインが禁止薬物に含まれていた時代はあった。おおよそ20年くらい前までの話である。これを比較的最近ととるか、結構な昔ととるかは人によるだろう。
その後は禁止薬物からは除外され、『過剰摂取には注意してネ。あんまり目に余ると禁止しちゃうゾ』というくらいの扱いである『監視プログラム』に指定されているのが現在の状況だ。
尿検査などでヤバい濃度が検出されたら問題視されるタイプの奴であるが、五輪選手が水分補給でカフェオレを飲んだりしている昨今、そこまで目くじらを立てられるものではなくなっている。
では、人間より遥かに高い身体能力を持つウマ娘の場合はどうだろうか?
彼女たちは発揮する身体能力に比例するように、飲食量が多い。流石に質量保存の法則に喧嘩を売るような燃費劣悪なマイクロブラックホール胃袋を搭載しているよう輩はごく少数の例外*6であるが、普通のウマ娘であろうとも飲食量はヒトより遥かに多く、その分だけ薬毒―――特に自然界に存在しうる飲食物に含まれうるそれに対する耐性が高い場合が多い。
体内に取り込む飲食物の量の多さに比例するだけの耐性があるのは、生物としての進化・淘汰のメカニズム、並びにヒトとウマ娘の歴史を考えると当然のことである。というか、そうでなければウマ娘が食い過ぎで自滅して滅んでいた可能性が高い。
例を上げてみると、ヒトが普通に食べるようなものであってもニンニクや銀杏のように大量に食べると毒性を発揮するようなものが存在する。
そうである以上、ヒトと同じ食生でありながらヒトより大量に食べるウマ娘の耐性がヒトより高いのは当然の帰結といえた。生物はその食生に合わせた耐性を獲得する。ダーウィン先生の進化論である。
……アルコールは体質的なものもあるので、また別枠のようであるが。*7
―――さて、結論。
自然界に存在するアルカノイド系の薬品であるカフェインに対するウマ娘の耐性は、個人差こそあるがヒトのそれより平均して高く、ヒトに対するそれよりも規制はさらに緩い。
メジロ家のウマ娘はよくお茶会を開いているし、少し先の年代の話になるがコーヒーを愛飲している
『中央に出てきてから、初めてカフェオレを飲んで……。甘くて、美味しくて……大阪杯の前にも、私はそれを飲んでいたんです。私は、ドーピングしていたんです!!』
であれば、テレビに映る記者会見の中でこの世の終わりのように泣き叫んでいる彼女の勘違いは何が原因か。
バッドステータス『愕然』から復帰してきた当時のシンボリルドルフは、生徒会室で共に中継を見ていた2名の同期に向けてぼんやりと話を振った。
「……どうやら我々は知らず知らずのうちにドーピングをしていたようだ」
「お茶やコーヒー……あとはココア、チョコレートもアウトですね。あ、今このテーブルの上に違法薬物の入ったお茶が。飲んで証拠隠滅しませんと」
「僕、バレンタインとかで結構貰うから、かなり重度のドーピングしてたのかなぁ……」
それを受けて返答するスズパレードとニシノライデンの返答も、どこか軸がズレたぼんやりとしたものになっている。ドーピングの告白会見を見ている筈なのだが、生徒会室にはもはや緊張感の欠片もない。
なんならテレビ画面の向こうの空気も、号泣しながら崩れ落ちているステートジャガー本人以外は、どこか弛緩し困惑している。
何がなんだかよく分からないという顔をしながら他のレース入着ウマ娘がステートジャガーを宥めているという、何がなんだかよく分からない会見である。記者たちから何の質問もあがらないのは、空気を読んでいるのではなく何を聞けば良いのか何がなんだかよく分からないからだろう。
その様子を何がなんだかよく分からない表情で見ている皇帝と同期たちも、やっぱり何がなんだかよく分かっていない。
「……ローカルから移籍してきた彼女を受け入れたトレーナーって、新人だよね? しかもかなり極端な管理主義の」
「あら、ライデンさんはお嫌いですか? 管理主義」
「好きじゃないなぁ」
「それを否定はしませんけども」
話の焦点も定まらないものだから、微妙に話の軸線もズレていく。
ニシノライデンがなんとなく話題に出したのは、ステートジャガーのトレーナーについての話。それも否定的なニュアンスを含んだものである。
しかしその話を聞いたスズパレードは、顔を顰めているライデンを宥めるように、笑いながら語りかける。
「私は逆に、自主性を重んじすぎる自由主義は苦手ですね。スケジュール、体調管理、チームのルールその他、キッチリとしている方が性に合います」
「僕は自分のペースでトレーニングとかやりたいんだよなぁ」
トレーナー、ひいてはチームというものは画一的なものではなく、個人やチームごとに指導方法の特色が出る。自由型と管理型というのはその典型だ。
ウマ娘の自主性を重んじるか、トレーナーが細部まで監督するか。完全な野放しは問題だろうが、自由が全く無い管理体制も問題なので、この2つの方針の間でどの辺りのラインを目指すかという話になるだろう。
そしてどのラインが正解かというと、これまた正解は無い。正確に言えば、少なくとも現状では正解とされるものは見つかっていない。ライデンが自由型、パレードが管理型を好むように、ウマ娘によって“合う”方針が違うからである。
合う方針であればウマ娘はその実力を遺憾なく発揮できるし、そうでなければ十全なパフォーマンスは発揮できない。敢えて言うならば『ウマ娘に合わせて指導方法を変えるのが正解』というべきだろうが、現実的にはトレーナーの対応能力にも限度があるうえに、チーム内で対応の差をつけ過ぎるのは賢い方針とは言い難い。
そのため、現状では『このチームはやや自由型』『このトレーナーはけっこう管理型』というようなチーム・トレーナー単位での棲み分けが行われており、ウマ娘とトレーナーが契約を結ぶ際にはそういった方針・スタンスとの相性も重要視されている。
「樫本トレーナーだったな。今年で赴任2年目の若い女性トレーナーだ。中央のトレーナー
「私は失望しました」
「ニシノライデンのやる気が下がった」
「何故だ? 樫本トレーナーとは一度話したことがあるが、才気煥発で理路整然とした才女といった人だったぞ。会ってもいないのに失望したりやる気を下げるというのはいただけないな」
「そこじゃないんですよね」
「なんでいちいち凄い上手いこといったみたいなドヤ顔というかキメ顔してくるのさコイツ」
そして両者の話題を横から補足する
「そこはともかく……目が肥えているルドルフさんから見ても“できる”タイプのトレーナーだったっていう事ですよね」
「そうだね。ローカルから移籍してきたステートジャガーがGⅠである大阪杯を勝った事は、彼女自身の努力や才覚は勿論大きいだろうが、トレーナーの力も大きいはずだ。……各々、それは重々分かっているだろう?」
ウマ娘とトレーナーは切っても切り離せない。少なくとも彼女たちが立っているステージは、ウマ娘“だけ”の力で上がってこられるものではない。
それは既にシニアの半ばまでを走ったルドルフ、パレード、ライデンらが感じた共通認識だ。故にパレードもライデンも、皇帝の言葉に対しては頷きで答えた。
「まぁね。自由型でも管理型でも、ウマ娘とトレーナーは二人三脚だ」
「どんなに才覚に溢れたウマ娘でも、トレーナーの支えなしでは良い結果にはならないでしょう。それこそ才覚に溺れて抱え込むだけ抱え込んで潰れかけた皇帝様だとか」
「ごめんて」
ただしパレードの方はチクリと嫌味を入れる形で釘を差し、ルドルフはもごもごとした調子で謝罪を口にしながら、誤魔化すように
ウマ娘―――特にレースを走る競走ウマ娘は、実年齢よりも本格化のタイミングから来る同期関係を先輩後輩の基準とする事が多い。この辺りは種族感性やレースウマ娘の文化的な部分もあるだろう。
しかし、実年齢の上下が関係に全く影響を及ぼさないわけではない。少し後の世代になるが、ゴールドシチーはデビュー同期でありながら年上のタマモクロスを『先輩』と呼んで呼び慕っているし、タマモクロスもシチーに対しては先輩風を吹かせている。*9
そして実年齢でいえば、このメンバー+スズマッハ、あとはビゼンニシキとマリキータあたりを並べても、パレードが1つだけ年上となる。
それもあってか、レースが絡まない日常的なやり取りに関しては苦手―――というほどではないにしても、
ともあれミルクティーで喉を潤して間を取った皇帝は、小さく咳払いをして誤魔化すように状況分析を口に出す。
「それだけ“できる”トレーナーかつ、かなり強い管理主義の樫本トレーナーらしくないミスだな……。コーヒーだかカフェインだかを禁止薬物だと思い込むという事は、普通の生活をしていたら有り得ないはずだ。何かトレセン学園に入ってから、勘違いするだけの事があったという事だと思うのだけど」
「ローカルでは禁止されていたとか、実はコーヒーアレルギーで飲むなと言われていたとか、なんらかの宗教的理由とか」
「私達が見落としているだけで、なにかの制度や寮の規則なんかで禁止されてるとか」
「……うーん……」
生中継で違法薬物がどうこうの話が飛び出しているので、冷静になってみれば単なる勘違いだとしても相当な大事の筈なのだが、どうにも弛緩した空気で
だが、当の会見会場の方ではこのような呑気な空気とは逆に、大きな動きが発生した。ウェーブのかかった黒髪と切れ長の目、スラッとした身体を黒いスーツで包んだ、見るからにキャリアウーマンといった容姿の女性が必死の形相で会見に飛び込んできたのだ。
『通して! 通してください! ステートジャガー! 貴方、なんてことを……! 貴方の責任じゃない、私の責任です!』
『ぅあ……ぐすっ……
『ごめんなさい、ごめんなさい! 貴方をそんなになるまで思いつめさせてしまって……!』
泣きじゃくっているステートジャガーの瞳が彼女を捉えると、これまで以上に大粒の涙がボロボロと彼女の目からこぼれ落ち始める。樫本トレーナーと呼ばれた女性も涙を流しながら、ステートジャガーに駆け寄って抱き締めた。
そして彼女―――まだ赴任2年目の新人トレーナーである樫本理子はスーツの袖で涙を拭い、自身の愛バを庇うようにして前に立ち、記者会見の場に向き直った。
『皆様、申し訳ありません。全てはトレーナーである私、樫本理子の管理不行き届きです。事情については彼女が残していた置き手紙で知りました。禁止薬物が含まれているようなものがウマ娘の手の届くような場所にあったこと、それを摂取していた彼女に気付かなかったこと、全て私の、私だけの責任です』
そして彼女は何の躊躇いもなく、スーツの襟に付けられていたバッヂに手をかける。倍率数千倍の超難関試験を越えてようやくなれる中央トレセン学園トレーナーのバッヂを毟り取―――ろうとして力不足で中々取れず、2度3度と繰り返してようやく取れたそれを、叩きつけるように机に乗せた。
それをテレビ越しに見ていたニシノライデンが驚愕を顕にする。
「……トレーナー資格を返上するつもり!?」
「高潔無比な行動だろう? 私が評価するのも頷ける筈だ」
驚くライデンであるが、既に樫本理子という女性と話したことがあるルドルフからすれば驚くに値しない行動だ。
厳格な管理主義、そして怜悧な見た目や口調から勘違いされがちだが、本質的にはウマ娘たちの幸福を願ってやまないのが樫本理子という女性である。管理主義への傾倒は、ウマ娘達が病気や怪我で夢を諦めるようなことが無いようにという思想からくるもの。
自身の担当ウマ娘を守るためであるならば、彼女はこれくらいやりかねない。
「そうですね……発端、カフェオレにコーヒーが含まれていた事じゃなければ」
「うん……結局なんなんだろうその勘違い……」
しかし、ライデンに対してしたり顔で頷いていたシンボリルドルフであるが、パレードの指摘でションボリルドルフとなる。結局のところ、この騒動の原因がなんであるのかは未だに見えていないのだ。
樫本理子のその姿からは確かに指導者として、トレーナーとして、一人の大人としての清廉な在り方と、ウマ娘への愛情は伝わってくる。伝わっては来るのだが、そういうものをこの弛緩した場にお出しされても少々扱いに困る。
困るのはこの場のウマ娘達もだし、中継の向こうの記者の方々や、なんならこれを見ているURAの偉い人も困っているだろう。
退職理由―――カフェオレ。これを本気で退職理由の欄に書いた退職届が提出されたならば、中央トレーナーのみならず、どのような職種・職場であろうとも伝説になれるに違いない。
もしかしたら樫本トレーナー自身、なにかの勘違いでカフェインやコーヒーを麻薬かなにかとでも勘違いしているのか。あるいはアレルギー持ちのウマ娘でも所属しているのか。
そんな疑念を込めて中継を見るウマ娘たちの疑問が届いたわけではないだろうが、中継先で月間トゥインクルの記者が代表して声をあげた。
『では……樫本トレーナーにお伺いします』
『はい、なんでしょうか?』
対する樫本理子は全ての批判から自身の愛バを守ろうと覚悟を決めた悲壮な表情で応じ、
『……何故、コーヒーを禁止薬物としているのでしょうか? それともカフェインでしょうか……?』
『……え?』
樫本理子、愕然。引き締めた怜悧な印象だったが、意外とあどけないポカンとした表情もできる女性である。
そんな表情を見せた彼女は自身の後ろで泣きじゃくるステートジャガーを見て、記者を見て、周囲のウマ娘を見て、ステートジャガーを見てから、天を仰いだ。
『……その、私は控室の置き手紙でステートジャガーが意図せず禁止薬物を服用していたと告白されて、慌てて飛び込んできまして。私が来る前に会見で何があったかをお伺いしても?』
『……カフェオレにコーヒーが入っていたとは、知らなかったとのことで。恐らくコーヒーが禁止されているという認識なのかと』
『…………あー……』
怜悧のかけらもない単純な母音を呆然とした様子で呟いた理子であるが、同時に理解が及ばないという様子でもない。何かの心当たりはあるという反応だ。その後ろのステートジャガーは弛緩した空気に気付かず必死に声をあげる。
『飲んじゃ駄目だって、樫本トレーナーは教えてくれたんです! トレーナーは悪くないんです、わだ、
『……ごめんなさい、ステートジャガー。これは私の責任です。コーヒーはトゥインクルシリーズで指定されている禁止薬物などではなく、私の……チーム《ファースト》でだけ禁止しているもので……いや、禁止というか……説明不足なんですけど……』
うつむき、天を仰ぎ、右を見て、左を見て。深く息を吸い、そして吐く。
それだけの時間を置いてなんらかの覚悟を決めたらしい樫本理子は、固唾を―――別に飲んでもいない弛緩した記者団に対して、深々と頭を下げた。
『皆様、申し訳ありませんでした。チーム内で禁止していたものを、トゥインクルシリーズそのものでの禁止だと勘違いさせてしまっていたようです。転入後の説明不足が原因で、私の不始末で間違いありません』
その言葉に疑問が解けた様子の記者団、並びに同席していた入着ウマ娘たちの表情に納得と安堵の色が浮かぶ。地方から中央へ転入してきたステートジャガーに対し、当初から中央に入学してきていた子たちと比べて連絡不行き届きがあったというだけの話である。
確かにトレーナーの責任ではあるかもしれないが、資格返上云々という話にまではならないだろう。赴任2年目のトレーナーではそこまで手が回っていなかったと考えれば、ある種の愛嬌もある話だ。
よりにもよってGⅠレースの入着ウマ娘たちの記者会見でやらかした事に関しては問題といえば問題であるが、どうやら笑い話で済みそうである。
「けど、やっぱ管理主義ダメだなー。ウマ娘の健康管理があるからって、コーヒー全部禁止とか。前時代的だよ」
「……確かに少し厳しすぎますね」
中継の様子を笑いながら見るライデン、そして苦笑しながらそれに応じるパレード。
どうやら記者の中にもそれと同じ感想に至ったものが居たようで、別の記者が手を上げて発言を求め、樫本トレーナーに質問をぶつけた。
『大変失礼ですが、コーヒー党としてはコーヒーがまるで毒かなにかのように扱われる事に悲しさを覚えます。それが原因でこの騒ぎになってしまったワケですし、どうかコーヒーを許してあげてくれませんか?』
弛緩した空気ゆえの冗談交じりの質問に、記者席からもウマ娘たちからも笑いが漏れる。
しかし理子は笑わない。笑うどころか名探偵に致命的な物証を突きつけられた真犯人くらいの追い詰められた表情をして言葉に詰まる。
その様子に質問した記者の方が困惑するが、彼の方から何か言う前に理子のほうが静かに―――死を覚悟した重病人くらい静かかつ悟りきった表情で答えを返した。
『私のチームでは大きなポットに飲み物を持ち回りで用意して、それを全員で共有しております』
『は、はぁ……』
意図の分からない返答に困惑する記者。しかし彼が曖昧ながらも相槌を打ったのを確認してから、理子はゆっくりと言葉を続ける。
『……その全員というのは、私も含まれます。恥ずかしながら、私がコーヒーがダメなので、ウマ娘たちに合わせて貰っていただけなのです。飲むなという意味ではなく、共有ポットに入れるなという禁止ですね』
『あ、ああ。アレルギーですか?』
『…………』
もはや全てを諦めきった樫本理子の表情は、釈迦如来が如きアルカイックスマイルであるが、波止場にでも置いておいたら今すぐ遠洋マグロ漁船に飛び乗りそうなくらいに追い詰められた空気も出している。
いったい何の話なのか。すっかり弛緩していた筈の空気が、理子の醸し出すよく分からない緊迫感に呑まれる形で重くなっていく。
『…………んです』
『……え?』
『私が、コーヒーを飲むと眠れなくなるんです!!!』
『え!?』
『23歳にもなってコーヒーを飲んだら明け方まで眠れなくなるんです!! 赴任1年目に格好つけて飲んだら翌日にチームの子たちにも迷惑をかけてしまってから、共用ポットにコーヒーを入れないようにチームのルールとしました!!!』
樫本理子ちゃん、23ちゃい。コーヒーを飲むと眠れなくなるお年頃である。*10
クールビューティー系のキャリアウーマンがコーヒー1杯で夜も眠れなくなると、全国生中継で宣言するという惨劇であった。なんなら誰もなんの悪意も持っていないまま完遂された地獄の罰ゲームだ。
熟れたトマトくらい真っ赤になった理子ちゃんであるが、誠実な彼女としてはこれだけ大騒ぎになった事態に対して、嘘や方便で切り抜けようという思考は無かったようである。
『……殺してください。今、私は恥を知りました……』
『……いや、その……あの……ごめんなさい』
真っ赤になって震える理子ちゃん。気まずそうに首をすくめる記者。
なお、この事件の後で学園のウマ娘たちから樫本理子という女性に対する評価は、大分親しみを込めた好意的なものに変わることになるのだが、それは今の彼女にはわからない。
先程以上になんともいえない空気になった会見会場であるが、そこにさらなる第三者の声が割り込んできたのはその時だ。
『ステートジャガーさん、早まらないでください!!』
緑の帽子、緑の制服。長く艶やかな鹿毛を首後ろで纏めた妙齢の女性―――理事長秘書、駿川たづな。彼女が息を切らしながら会見会場に飛び込んできたのである。
『アレルギーですか!? 病気ですか!? いえ、何の理由でカフェインやコーヒーを禁止されていても関係ないんです! 会見が始まってすぐに、あなたの控室に向かったんですが―――』
大慌てで走ってきたらしい―――の割に何故かあまり息が切れていないが―――たづながまくし立てるが、理解はだいたい周回遅れである。
事件の真相は理子ちゃん23ちゃいの自爆で終わったので、ここで終わらせてあげるのが情けではないか。ウマ娘、記者、視聴者含めて多くの人々がそう思ったが、たづなは裁判ゲームで必殺の証拠品を突きつける時ばりの表情で、1本のペットボトルを場に出した。
『―――貴方が飲みかけてたカフェオレ、ノンカフェインです!!』
『待った!』という書き文字が付きそうなポーズで、タンポポを使ったコーヒーっぽい代用品*11を使ったカフェオレのペットボトルを突きつけるたづな。ゴンと鈍い音を立てて、画面の中のステートジャガーが机に突っ伏した。理子ちゃんの顔はもはや生物学的に心配になるレベルで真っ赤である。
そして全てをひっくり返す噴飯物のオチを見た生徒会室では―――
「ぶフォァっ」
「ルドルフさん!?」
「君そんな声出るの!?」
大阪杯、宝塚記念という春三冠のうち2つを使って完遂された壮大なコントのオチがツボにハマったらしいルドルフが、同期ですらも聞いたことがないような声をあげて腹を抑えて痙攣するように笑い出した。ルナちゃん人生最大級の大爆笑であった。
―――結局。
ステートジャガー事件後、流石にGⅠレースの記者会見でのコレは『軽率な行動である』とされて、ステートジャガーと樫本理子の両名には1週間の謹慎処分が課されることとなったが、逆に言えば影響はその程度で済んだともいえる。
その宝塚記念で勝ったスズカコバンというウマ娘*12からは会う度にネタにされて、『勝ったウチより目立った』とからかわれると嘆いているステートジャガーであるが、ある意味最大の被害者であったスズカコバンがその対応である以上は、これ以上の大きな問題になりようがないのである。
というかスズカコバン自身、『会見動画の再生数めっちゃ上がって結果的にウチの名も広まったんでヨシ!』とシービーに語っていた。ルドルフの出走取消、天皇賞春でのシービーの引退もあってスター不在の盛り上がりに欠けるGⅠという見方もあったレースが、結果的に話題になったので結果オーライの精神らしい。
なおステートジャガーは地方からの転入組、それもシニアになってからのものであるが故に、デビュー時期そのものは同期でありながらも接点が少なかったシンボリルドルフは、
人生最大級の大爆笑をする羽目になったが、それも同期に時々ネタにされるくらいだろう。マリキータやニシノライデンのときと違って、彼女が謝罪行脚に同行するような立場や関係ではなかったのだ。
敢えてシンボリルドルフがこの事件の事後処理としてやらねばならなかった事は―――
「じっくり焙煎したキリマンジャロは最高にキくわね!」
「朝はコーヒーをキメてきたわ!」
―――ノリの軽いタイプのウマ娘の間でコーヒーをキメるごっこが流行ったが、ステートジャガー事件を知らない人が見れば色々と誤解を招く絵面・表現だったので、生徒会から注意を発布したくらいであった。
前話の前書きでも書きましたが、ステートジャガー事件は競馬史では大事件です。
ですが夢のレース、プリティーダービーである以上、明るく前向きで救いがある話にしたくて、理子ちゃんが無意味に流れ弾に被弾しました。書いてる最中にロード画面で見たヒミツのせいです。
ステートジャガーは人間の都合に振り回された馬でしたが、競走成績そのものは大井・笠松の両地方競馬で優秀な成績を残し、中央でも3戦1勝。
シービーを下して大阪杯(当時はGⅡ)を取るなど、地方出身・芝レースの馬としてはとんでもない成績だったといえるでしょう。
このウマ娘世界のステートジャガーさんは、この後で地方に戻りつつも、GⅠウマ娘としてテレビ出演などいろいろと頑張っているようです。
オグリキャップの先輩として、笠松で彼女やマーチと少し面識があったらとか考えるとロマンがありますね。