◇◆◇◆◇
ドアの開く重い音が聞こえた。
ここには先生か、先生に居残りを許可された生徒しか来ることができない。
今日この時間に残っていたのは、自分自身と先生だけ。
大慌てで彼女──天雨 アコは振り向き、表情を取り繕う。
「駄目じゃないか、アコ」
夜更けを目前に控えた時間に、先生以外がここにいることは不自然だった。
「いえ……眠れなくて」
「そっか」
すぐ側で吸っても構わないのに、とは思った。
先生は三人分は距離を取って煙草に火を点す。
煙をたっぷりと吸い込み、数秒溜めてから煙を吐き出した。
「眠れないのは仕方ないけど、ちゃんと寝なきゃ駄目だよ」
「いつも徹夜続きの先生に言われたくありません」
「それもそうだね」
バツが悪そうに、煙草のない側の指で頬を掻いている。
「煙草には覚醒作用もあるんです。
こんな時間に吸うなんて、眠りが浅くなって、余計に疲れが取れなくなってしまいますよ」
「まあ、習慣みたいなものだからさ」
「その“習慣化”も良くないんです。そうやって何度も繰り返すことで、いざ禁煙しようとした時に」
「ありがとう、アコ。私を心配してくれているんだよね。いつも助かるよ」
皮肉でも、アコの小言を止めるためでもない。
目尻を下げて、口角の上がった可愛らしい笑顔が向けられる。
純粋な謝意からの言葉がアコに響いた。
本当にズルい大人だ、と思う。
そんな風に笑顔を向けられて、そんなに風にお礼を言われたら、何も言えなくなってしまう。
溜め息を吐いた。
転落防止柵に肘を預ける。
「? ごめん。何か気に障ったかな」
「なんでもありません」
拗ねるように先生とは逆の方を向いた。
ジュッと音がして足音が近付く。
風向きが変わったせいか、先生が近付いてくれたせいか。少し煙草の臭いを感じる、先生の匂い。
普段の先生の匂いとは違う匂い。
こうして喫煙所でしか感じられない、ここへの立ち入りを許可されている者だけが知っている匂い。今この瞬間は、私だけが知っている匂い。
「……もういいんですか」
「アコの方が大切だからね」
二口程度で捨てるなんて勿体ない。でも、貴重な煙草を捨ててまで、心配してもらえたことが嬉しい。
先生と同行して『オトナな男を感じる先生』を楽しんでいる生徒が多いことも、生徒が一服に同行することを煙たがっていることも、よく知っている。
先生が仕事終わりや眠る前の一服を大切にしていることは、アコもよく知っている。
果たして、自分自身は先生にそこまで、先生の楽しみを奪ってまで、心配してもらえる生徒足りうるのだろうか。
先生の方に顔を戻した。
見上げると、いつものようにニコニコと笑みを浮かべている。
先生がよく言う『大丈夫だよ。私は生徒の、アコの味方だから』と表情で語っている。
その表情に促されて、D.Uの夜景に澱みを吐き出す。
「……私は、狡いんです」
「今日だって、風紀委員たちが頑張って、走り回ってるのに……私はシャーレを選んでしまったんです」
「勿論、今日がシャーレの当番シフトだってことは、皆知っています。シャーレの当番だって、大切なお仕事です。ヒナ委員長の許可だって貰っています」
「でも」
「アコ」
止められた。
吐き出してしまいたかったのに。
先生なら、受け止めてくれると思ったのに。
「私はアコが手伝ってくれて、本当に助かってる。今日だってアコじゃなきゃ終わらない仕事が沢山あった。いつも、本当にありがとう」
違う。
こんな風にお礼を言ってもらえる立場なんかじゃない。
「それに……私が大切にしているアコを、いくら自分自身だからって、そういう風に貶されるのは……悲しいよ」
声のトーンが落ちた。
柵に預けた肘で隠した顔を思わず上げる。
先生は悲しそうに、本当に悲しそうな表情でアコを見つめている。
「……やっぱり、私は狡くて悪いんです……」
先生にそんな顔をさせてしまったから。
アコの自虐は止まらない。
ヒナがオーバーワークなのを知っていながら、ここに来ているという罪悪感から逃れられない。
「そうか……アコは悪い子なんだね」
「……はい」
「じゃあ、悪い子には“おしおき”が必要だよね」
「……え?」
カラン、と鈴が鳴った。
どこから取り出したのか。先生の手にはあの時の首輪があった。
先生が一歩近付く。
アコも柵から起き上がり、先生に向き直った。
「ほら」
「……はい」
先生に首を差し出す。
後ろ髪を軽く払われて、首輪を留められている。
首を数度撫でられ、背筋に弱い電流が走る。
頭一つ分は背の高い先生と向かい合い、祈るように両手を胸の前で合わせ、
「先生……私に、悪い子に、お仕置き、して下さい」
「ああ、任せて」
先生の手が頬に触れた。
いつもよりも熱く感じる手の平に、思わず身を竦める。
でも、視線は先生の眼から外せない。
自身が先生の瞳に反射する程の距離で──
◇◆◇◆◇
◇◆◇◆◇
テーブルが揺れ、大きな破裂音が耳を襲った。
目の前にあるのは先生の瞳ではなく、シャーレ生連合組合会議の資料だった。
今はミーティングの真っ最中で、カヨコの一言を切欠に、妄想を始めてしまったのを思い出した。
「それでは、決を取ります。
先生の喫煙に反対の方は挙手をお願いします」
そんなの決まっている。
先生の健康を考えれば、ここは挙手すべきだ。
頭では分かっていても、アコの手が挙がることはなかった。