妄想ではありません
──シャーレオフィスビル テラス
テラスと呼ぶにはあまりにも狭い。
僅か四畳ほどの、フロアに対して一パーセントに満たない面積が、先生の個人スペースだった。
執務室の近くにも先生の居住スペースがあり、そこも彼のスペースと呼んで差し支えはないのだが、先生が寛いでいると生徒たちは入って来ようとする。
流石に寝ている時は無事なのだが、まだ先生が起きていると思しき時間は頻繁にノックされる。
生徒に呼び出され、邪険にするような性質ではない。
全ての生徒の味方である先生は、その程度を疎ましく思うようでは勤まらない。
このテラスは先生の聖域だ。
先生が煙草を再開した頃は、
煙草を吸う人間の物珍しさだろうが、その度に副流煙の危険性や臭いについて説明した。
一度公安局までが出動する騒ぎになり、このテラスは『先生以外立ち入り禁止』となってしまった。
今では、テラスに出る扉には物々しい掲示物が所狭しと貼られ、監視カメラで出入りする人物が記録されている。
そんなテラスだが、設備は簡素な物だった。
侵入と転落を防ぐための、百三十センチほどの高さの柵。
鼠返しのような形状の柵は、ちょうど良い高さの肘置きだった。
それとコンクリートの床に打ち付けられた灰皿。
設計したエンジニア部曰わく『秒速百メートルの強風にも負けない』らしく、施工した工務部曰わく『この灰皿が飛んでいくなら、シャーレビルは崩壊している』らしい。
過ぎたるは及ばざるが如し。
そんな言葉もあるが、先生は自分のために努力してくれた彼女たちを手放しに褒めた。
彼女たちの誇らしげな笑みが浮かんでくる。
煙草を咥え直し、一口吸い込む。
指先に熱を感じた。
視線を落とすと、指のすぐ側まで灰がきていた。
たっぷりと肺に吸い込み、吐き出す。
灰皿で揉み消し、吸い殻を落とす。
しっかりと消えた事を確認し、一つ延びをした。
──ああ。今日は本当に忙しく、キツかった。
朝からミレニアムでエンジニア部とゲーム開発部の打ち合わせ。そのまま昼には百鬼夜行連合に向かい、次はトリニティへ。途中にゲヘナは救急医学部に顔を出し、何も食べていないことを注意されてそのままセナとゲヘナ巡り。
一通り終わってシャーレに戻ってきたのは、午後八時を回っていた。
そこからは事務作業である。
わからない書類は後回しにして、簡単に片付くものから手を出した。
わからないモノはわからない。
明日にでもユウカやノア、カンナに手伝ってもらおう。
こんなダメな大人なのに、生徒たちは見限らずに手伝ってくれる。
教師冥利に尽きるといったところか。
胸ポケットから新たな煙草を咥える。
コートの左ポケットからオイルライターを取り出すと、白魚のような指が目の前で舞い踊った。
虚を突かれ、フィルターが唇から離れる。
「そろそろお控え下さいませ。あなた様」
「……ワカモ」
「はい。あなた様のワカモがここに」
狐の面を斜にかけた少女──狐坂 ワカモの指先に、先程まで咥えていた煙草が挟まれていた。
「あなた様はお疲れのご様子……これ以上のお煙草は、お身体に障ってしまいます」
整った柳眉をしゅんと垂らす。
「ごめんね。ワカモ。私も少し吸い過ぎだったかも……」
「吸わないで、とは申しません。
ですが、吸い過ぎてお身体に障るのも、
先生の胸ポケットから箱を抜き取る。
器用にくるりと回転させ、煙草を仕舞った。
「どうかご自愛下さい……先生」
先生の胸ポケットに煙草を戻す。
ついでと言わんばかりに、空いた手を先生の胸に添える。
「ありがとう。ワカモ。もう少し私も自重するよ」
「えぇ、それがよろしいかと」
名残惜しそうに、ゆっくりと手を離した。
感じた温もりを逃がさないよう、胸の前でその手を
まるで祈りのような姿が、先生の胸を打った。
「時にあなた様」
もう先生の温もりを覚えきったのか、祈るように瞳を閉じていたワカモが沈黙を破った。
「煙草の、あなた様のお煙草のフィルターの直径は約七ミリメートル。
フィルターは女性の乳首を模してるとも聞いております。
ちなみに私の」
「ストップだ。ワカモ」
いきなり何を言い出すのか。
制服の裾を持ち上げようとするワカモの腕を、咄嗟に押さえる先生。
「あら。残念です。
私の邪魔な肉が、ようやくあなた様のお役に立てると思いましたのに……
このワカモ、爪の先から髪の一本まで、あなた様に捧げております」
とんでもない言葉を放つワカモ。
献身的な生徒だ、と先生も思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
実際に言葉にされてしまうとどうもむず痒い。
さらには、言外に『乳離れの出来ていないオッサン』と言われ、残り滓のような先生のプライドにヒビが入る。
「ワカモ。よく聞いて。その話はデマなんだ。
フィルターの直径が女性の胸の先の平均値なんてものは存在しない。
それに、ワカモにとっては」
先生の拘束を容易く振り解き、彼の唇に人差し指を当てる。
じっと先生の目を見つめる。
ワカモが無垢な瞳で、先生の双眸を穿つ。
「えぇ、えぇ。心得ております。
私には勿体無き御言葉。
あなた様との久方振りの逢瀬で、少々羽目を外しすぎてしまいました」
先生から半歩ほど距離を取る。
見つめあった末にワカモが読み取れたのは、ワカモへの純粋な心配と配慮だった。
──少しでも、ほんの僅かにでも……ワカモに色欲を抱いていただけないのですね。
頬を染めて俯くワカモ。
先生の唇に
照れてしまったのか、それとも先生の唇に触れて恥ずかしくなったのか。
それとも、先生を試すような自らの行いを悔いているのか。
「本当に……本当に差し出がましい真似を……」
「ありがとう。ワカモ。私の言いたい事が伝わって、嬉しいよ」
俯くワカモの頭を優しく先生が撫でる。
驚いたらしく、先の赤い黒い狐耳がピクンと奮い立つ。
やがて先生が撫でやすいように、耳が左右に広がり、嬉しそうに跳ね始めた。
フワフワと柔らかくワカモの尾が左右に揺れ動く。
こんなにも優しい先生が、何故此処まで苦労をしなければいけないのだろうか。
皆のため、皆のためと走り回る先生に、安住の地はあるのだろうか。
ゆっくりと左右に揺れていた尻尾が、徐々に逆立ち始める。
「あなた様の心労……早瀬ユウカ? 天雨アコ? 空崎ヒナ? 聖園ミカ……?」
生徒の名を告げるたびに、ワカモの空気が尖っていく。
ニコニコと淑女のような笑みが、犬歯を剥き出しにした般若へと変わっていく。
「ワカモ」
急に名を呼ばれ、ピクリと震えた。
「ワカモは私の大事な生徒だ。でも、その子たちも私の大事な生徒なんだ。そういう風に言われるのは、私も悲しいな」
「もっ、申し訳ありませんッ!」
先生の声色が落ちた。
慌てて先生を見上げるワカモ。
先生はワカモにとっての全て。といっても過言ではない。
先生のためなら、ゲヘナも、ミレニアムも、トリニティも、キヴォトスの全てを敵に回したって構わない。
先生が救われるなら、この命だって惜しくない。
先生の役に立てるなら、どんな罪も恐ろしくない。汚名も罰も受け入れる。
先生が黒と言えば、どんな聖人だって黒だ。
先生が白と言えば、どんな悪人だって白だ。
先生が一言『やれ』とさえ言っていただければ──
「仲良くしてほしい、なんて言わないよ。ただ、彼女たちはワカモの敵じゃない」
もしも、万に一つにでも、ワカモが彼女たちを敵だと認めていたならば、既に何度も戦闘が行われている筈だ。
ヒナやミカならともかく、ユウカやアコは既に入院しているに違いない。
「はい……ですが」
「もしも、彼女たちが私に手を上げたら、かい?」
言葉が詰まった。
何故、あなた様はこうまで
「その時は彼女たちの味方をして欲しい。きっと、それは私が道を間違えた時だから」
出来ませんとも、分かりましたとも、ワカモは言えなかった。
先生も残酷な願いを託したことを理解しているのか、優し気に笑みを浮かべ、ワカモの頭を撫で始める。
上目遣いで見上げるワカモ。
迷いと不安に彩られた瞳が、微かに揺れている。
不意に後頭部を押された。
ぽふり、と暖かく柔らかなのにしっかりとした場所に倒れ込んでしまう。
ワカモが先生の胸元に倒れこんだ、いや、先生に抱き寄せられたと理解するまでたっぷり数十秒はかかった。
「お願いだ。ワカモ。君にしか頼めない」
「っっ!!」
狐耳の内側に、切なげな先生の声が響く。
声色にくすぐられて耳がピンと跳ねた。
「あ。ごめん」
軽く力を入れてワカモと離れようとする先生。
「いえ、このままで……」
シャツを握りしめ、抵抗するワカモ。
「でも臭いでしょ?」
「いえ。全く。
コレがあなた様の新しい匂いなのですね」
スンスンと胸元で鼻を鳴らす。
力尽くで引き剝がしてもいいかもしれないが、その時はこの黒シャツがダメになってしまいそうだ。
五分ほど堪能したワカモがようやく身を起こした。
「ありがとうございます……これでいつでも、あなた様の匂いを辿れそうです」
「ワカモは頼もしいなぁ」
ニコリと笑みを浮かべるワカモ。
同じく微笑み返す先生。
「あなた様。夜も更けて参りました。
これ以上は本当にお身体に障ってしまいます」
「そうだね。ありがとう、ワカモ」
「いえ……こちらこそ、ありがとうございます。
私はここでお見送りさせていただきます。くれぐれも執務室には戻られませんよう」
バツの悪そうに頬を掻く先生。
どうやら更に残業しようとしていたらしい。
足音が遠退いていく。
今夜は良い夜だった。
何より、逃亡生活を続けるワカモの心が潤った。
扉の前で先生が振り返る。
穏やかに笑って、ワカモが小さく手を振る。
先生も手を振り返す。
「おやすみ。ワカモ」
「おやすみなさいませ。あなた様」
ドアが閉まり、オートロックが作動する。
重厚な施錠音が響いたのを確認し、狐面で顔を隠す。
狐面の少女がD.Uの夜景に溶けていった。
ワカモがわざわざ“見送った”のは監視カメラに映らないため。
先生が一服中に倒れたり体調不良に陥ると、どこからともなくセリナがやってきます。
次回の『尾刃 カンナの配達』で一区切りとさせていただきます。