作者も展開全く覚えてなかったから読み直した方がいいよ(ダイマ)
走って、走って、走って。
とっくに思考は吹き飛んだ。
走り疲れて、それでも歩いて距離を稼いで。とにかく少しでも離れたかった。
周囲が暗くなり始めた頃には疲れ果てて歩く気力もなくなり、気がつくとどことも知れない路地裏に辿り着いていた。
「…」
動くのが億劫になってその場に座り込む。
自分の吐瀉物で汚れたジャージを脱いで横に置いた。中から現れたのは、推しバンドのレア物Tシャツだ。最近は毎日日替わりでレアなTシャツを着て来ている。…これを話のきっかけにお喋りなんて、そんな出来もしない理想を抱えていた。
「全部、無駄だったのかな…」
ぎゅう、と父から借りている黒いギターを抱きしめる。
3年もの間、このギターとずっと一緒に頑張ってきて得た演奏技術。何もなかった私が唯一手に入れたものであり、ついさっきまで唯一では無くなったと思っていたものであり…そして今となっては私の全てと成り果てた。
他にはもう何も持っていない。何も、持っていないんだ。
現実での居場所を見つけた。
人生で初めて友達が、仲間ができた。
ギター以外の心の拠り所が増えた。
でも結局、私は壊したんだ。他ならぬ自分自身の手で。
(中学の時から全然成長出来てないな…)
私が悪いのに、私が気を使われるせいで内部崩壊。中学の苦い経験を何も活かせないまま終わってしまった。結束バンドの皆や店長さんは成長しているなんて言ってくれたけど、私なんかじゃその期待にも応えられない。
コミュ障じゃなかったら、難聴じゃなかったら、もっとまともな関係を築けていたんだろうか。
さっきの喜多さんの言葉を思い出す。
「耳が聞こえないわけじゃないんだから、か」
STARRYから、皆から逃げて少しだけ冷静になった今なら分かる。喜多さんはきっと、冗談のつもりで言ったんだろう。喜多さんは優しいし、無意味に人を傷つけるような発言はしない。普通に考えて最も可能性がないことを口に出しただけ。
ただそれは逆に、「耳が聞こえないバンドマンなんて存在するはずがない」と喜多さんが無意識下で思っているという証拠にもなる。
当たり前だ。私だって自分がこんな状態じゃなかったら考えもしなかっただろう。
喜多さんだけじゃない。虹夏ちゃんだって、他の誰だって考えないと思う。例外的にリョウさんや店長さんが鋭すぎるだけだ。
でもだからこそ、あの発言は喜多さんの本心だったはずだ。
「痛い…」
本当に痛い。
走り続けた足じゃない。
喜多さんの言葉が本心だと分かっているからこそ、胸が痛い。心が痛い。
無意識の言葉で傷ついた?
最初はそうだったけど、今となっては違う。
難聴という重大な障害を隠して、喜多さんを、騙して。あんなに優しい人たちを騙してバンドをやっていた。
今更になって、その事実こそが一番私の心を苛んでいた。
難聴がバンドでギターやるなんて、無理、無茶、無謀以外の何者でもない。
そんなこと分かってた。
(でも、憧れちゃったんだもん…)
こんな陰キャの、コミュ障の、耳に障害を持つ自分でも何かを成せたらって。
あのときテレビで見たバンドのように輝けたらって。
家族の勧めもあって、私は一歩踏み出し、進み始めたはずだった。でもそれもここで打ち止めだ。
迷惑をかけてしまった。
本当ならもっと早くに察するべきだった。バンドメンバーを集めるなんて無理だと諦めていれば。
遅くとも、私は喜多さんに声をかけてもらったあの時に、誘いを断るべきだったんだ。
「これで、終わり」
こうして逃げてきて、きっと不自然に思われただろう。
その理由を追求された時に、難聴であるという真実を話さずに言い訳できるとは思えない。もしかしたら、リョウさんが既にみんなに言ってしまっているかもしれない。
もし何も聞かれなくても、きっと私は自分から話すだろう。自業自得なのに傷つくなんて勝手すぎるけど、一度自覚してしまった以上、みんなを騙し続けるなんて私にはもう耐えられない。
自分に言い含めるように心の中で呟く。
いい機会なんだよ。諦めようよ。バンドなんて向いてなかったんだって。
憧れだけでは出来ないことがある、それを知れただけ良かったじゃないか。
何度も何度も繰り返す。
そしてその度、目から温かい何かが溢れ出す。
無理だ、心の整理なんてつく訳ない。
無駄だと分かっているのに、頭の中はまだ結束バンドのみんなと活動することでいっぱいだ。考えないようにすればするほど、より強く思考が記憶に塗りつぶされる。
ダメな私を何度も引っ張ってくれた虹夏ちゃん。
悩みを聞いて心の拠り所になってくれたリョウさん。
そして、私を結束バンドに引き入れてくれた、喜多さん。私の初めての友達。
ああ。
未練たらたらだ、私。
だめだ、一度休もう。
ぐちゃぐちゃな頭の中身を落ち着かせるためにも、今は時間が必要だ。深呼吸でもして精神を安定させなければ。
そのまま外界の情報をシャットアウトするように、ゆっくりと目を伏せた。
1分か、10分か、1時間か。
どれだけそうしていたかは分からないけど、隣に誰かが座った気配がした。
…そこから動かないけど、知り合いではないはずだ。初めて嗅ぐ匂い。甘い香水、それとそこに混ざる特徴的な、何故か懐かしさを感じるような香り。
昔、お父さんが飲み会から帰ってきたときに同じような匂いが…これは、お酒?
目を開いた先には、やはり見覚えのない、臙脂色の髪のお姉さんがあぐらをかいて座っていた。
その人は糸目を少しだけ開いて、手に持ったミネラルウォーターのペットボトルをこちらに差し出し。
『君ぃ、大丈夫?』
そう言ったのが見えた。
──────────────────
「難聴…? ぼっちちゃんが?」
「そう」
「は、え、いや…冗談、じゃないみたいだね…」
「冗談なんて言わない。ぼっちは確かに耳が聞こえない。これは店長も知ってる」
「お、おねーちゃんが? でもそんなこと一言も…」
伊地知先輩が確かめるように聞き返すのを、私はただ呆然と聞いていた。
頭が情報を処理しない。
後藤さんが、ナンチョウ? なんちょうってなんだっけ?
「それに聞こえないって、ぼっちちゃんはあたし達と普通に話してたじゃん」
「ぼっちは、私たちの口の動きを見て会話を把握してた」
「そんな、漫画みたいなことが…」
難聴、音が聞こえない? 本当に?
そこでようやく頭が追いつく。
嘘、いやリョウ先輩がそんな冗談で済まないような嘘つく訳ない。
「待って、じゃあぼっちちゃんは今までどうやってギターを弾いてたの? 最初のライブだって、今までの音合わせだってちゃんと出来て…」
「虹夏は疑問に思わなかった? ぼっちがずっと虹夏の方を見ながら演奏してたこと。あれは、虹夏のドラムを見てギターを合わせてたんだよ」
「え…それじゃ、ぼっちちゃんの演奏が速かったり遅かったりで微妙にズレてたのは?」
「合わせるのが単純に下手ってのもあると思うけど、理由の大部分は音が聞こえてないから。それにドラムしか見てないから、アイコンタクトにも反応できない」
「い、いくらなんでも、そんなこと出来るわけ…」
聞こえないまま演奏だなんて、そんなのリズムが揃うはずがない。むしろそれが本当なら、今まで演奏として成り立っていただけでも奇跡的、絶技と言って差し支えないほどだ。普通なら失笑してしまうような話。
でも私は知っている。
「後藤さんは…」
「喜多ちゃん?」
「後藤さんは、本当はとても上手いんです。素人の私でも分かるくらいに…」
私は、後藤さんのギターの腕前がプロ級だということを、知っている。
後藤さんなら何も聞こえない中でも、リズムの中核であるドラムを見て、辛うじてギターを弾くことが出来ても不思議ではない。
「…薄々そうなんじゃないかと思ってた。実際、ぼっちは一回も音を外してないし」
「そういえば、そうかも…」
考えてみれば、今までリズムやタイミングこそずれることはあったけど、音程やそれ以外の演奏技術で後藤さんが指摘されたことは一度もない。
「後藤さんが言ってました。合わせるのは苦手なんだって。でも、一人で弾いているときの後藤さんは、圧倒的なんです」
「っ、発音とか、聞こえない人は変になったりするんじゃない!?」
「それは努力で変わることもあるし、何よりぼっちは後天的な難聴だから、発音は普通の人と同じ。その辺のことは、今から説明する」
ぼっちに了解を取らないで話すのは少し気が引けるけど、とリョウ先輩が呟く。
続くリョウ先輩の話で、私は完全に打ちのめされることとなった。
リョウ先輩の口から聞こえるのは、後藤さんの過去の話。
元々突発的な難聴に苦しめられていて、中学の時に起こった不和が決定的な要因となり完全に耳が聞こえなくなったこと。今回の私たちの状況はそのトラウマを刺激してしまったかもしれないこと。
「そんなことが…あ、あたし、今までぼっちちゃんに酷いこと言ってたかもしれない。どうしよう…!」
「虹夏、虹夏はこのバンドのリーダーなんだから、和を大切にしようとするのは当然だし、今回は間が悪かっただけ」
「そう、なのかな…」
「うん。そんなに責任を感じすぎる必要はない」
伊地知先輩とリョウ先輩が何事かを話している。
でも、全く頭に入ってこない。
後藤さんが難聴になったのは、グループ内の不和が原因だった。それも、後藤さんが自分の責任だと勘違いしてしまうような方向の。…まるっきりさっきの状況と同じだ。後藤さんは、また自分のせいだと思ったに違いない。
そして、そんなトラウマが刺激された彼女に私は。
【耳が聞こえない訳じゃないんですから】
トドメを刺した。
「ぅぷっ…」
「喜多ちゃん?! 大丈夫?!」
足から力が抜け、その場にへたりこむ。
胸の奥がムカムカして、気持ち悪い。
「私……最低だ…」
「郁代、落ち着いて。郁代のせいじゃない」
「違う!! 私のせいなんです! 私の…」
伊地知先輩が私の背中をさすり、リョウ先輩が私を慰める。それを咄嗟に否定した。
きっとリョウ先輩は、魔が悪かっただけだと言うんだろう。だけど違う。私は、私はこれが初めてじゃない。確かに、私は後藤さんから聞いていたはずなのに!
「後藤さんに言われたことがあるんです」
「言われた…?」
「耳が聞こえないんだって。でも、そのときのわ、わたしは…!」
涙で視界が滲む。ぼやけた視界の向こう側に、いつの日かの後藤さんの姿を幻視した。
【私は耳が聞こえないんです!】
その必死の言葉に対して私は。
「面白い冗談だって…笑って……」
変だとは思った。斜め上の冗談を言う娘だなって。
今思えば、私が冗談だと笑ったとき、後藤さんは悲しそうな表情をしていた。
その時点で気づいていれば。他にもたくさん思い当たることはある。
お父さんとライブに行った話をした時も。
カラオケに誘った時も。
口元が見えないような話し方をした時も。
後藤さんはどんな顔をしてた?
「私…!!」
何が、合わせるのが得意、だ。
周りに合わせて、分かった気になっているだけだった。一番近くにいる大切なものさえ、見えていない。
「ごめんなさい後藤さん…本当にごめんなさい……」
相手のいない謝罪の言葉は、とても軽く響いた。
まるで、そんなもの今更何の意味もないのだと暗に告げられているような気がして。
本当に、救いようのない、最低な女だ。
「あれ…」
「喜多ちゃん?!」
そして視界が闇に包まれた。
────────────────
『ギター少女、こんな時間にどうしたのさ? ほらぁ、お水あげるよ。吐いちゃったんでしょ? お酒飲みすぎた? あたしもよくあるからさ〜分かるよ〜』
「え、ええええとななななんなんなななんですか急に」
え、初対面ですよね? 距離の詰めかたがおかしいと思うんですけど…
勿論そんなこと言えるはずもなく、謎のお姉さんはハイテンションのまま私に水を手渡してくる。
『え? だって路地裏にうずくまって吐いてるギタリストなんて、十中八九酒に酔ってるに決まってんじゃーん! 吐いた口のままじゃ気持ち悪いだろうし、素直に受け取りなよー』
「え? あ、はい。あ、ありがとうございます…」
私はお酒飲んでた訳じゃないんだけど…なんて言葉が出るはずもなく。慄きながらも受け取ってしまう。
お姉さんはそんな私に気付かず話を続ける。
『いいっていいって! あたし予定してた路上ライブが急に中止になって暇しててさー。ライブ前はいつもお酒飲んでんだけど、ちょうど切らしちゃって。で、コンビニに調達に行って、たまには酔い覚まそうと思って水も一緒に買ったところだったから!』
貰った水で口を濯ぎ、手を洗う。
あははーと笑う目の前のお姉さんは、お酒が入っているのか確かに顔が赤かった。そしてどこからか取り出した紙パックのお酒を飲み出す。あれ、今酔いを覚まそうと思って水を買ったって言ってましたよね? どうしよう、もしかしてちょっとやばい人に目をつけられちゃった…?
というか、路上ライブ? あ、よく見たらギターケース持ってる。ってことは、こ、この人楽器やる人なんだ…大人のバンドマンと話すの初めてだけど、な、なんか怒られないかな。お酒飲んでるし何言われるか…
私の視線に気づいたのか、お姉さんは背中に回していたケースから中身を取り出した。
『あ、これね。あたしのマイベース、スーパーウルトラ酒呑童子EX!! かっこいいでしょ! これでもインディーズでは結構人気なんだよ? あ、その目、さては信じてないな〜?』
「あ、えと、いえ、そういうわけでは…」
『よーしそれじゃ君…えーと何ちゃんだっけ?』
「あ、後藤ひとりです…」
『ひとりちゃんのために一曲弾いてあげよう! …なんか落ち込んでたみたいだしさ、これでも聞いて元気出してよ! まー、ベースソロなんだけど! あははは!!』
「え…」
お姉さんはそう言うと、ささっと機材を準備し始める。
変な人かと思ったけど、思ったよりまともな人なのかな。こんな路地裏でうずくまってた私のために一曲披露してくれるなんて。
でも、折角演奏してもらえるのに、私は音が聞こえない。それは流石に申し訳ないので演奏に入りかけているお姉さんを止めた。
「あ、あの!! …折角ですけど、大丈夫、です」
『え? あ、もしかして、迷惑だったかな…』
「ああいいいやあの、そうじゃなくて私、耳が聞こえなくて…」
『…え?』
あ、つい勢いで言ってしまった。ま、まぁでもどうせ信じてもらえないだろうし今からでも否定すれば…
『そっか…落ち込んでたのも、それに関係してたり?』
「え? あ、は、はい…」
あ、あれ? あっさり信じてもらえた?
ど、どうしよう今までこんなことなかったからここから先の展開が読めない…!
何も言えずにいると、お姉さんの方から私に言葉がかけられた。
『あ…あのさ! そのー、良かったらあたしに話してみない? 一回全部ぶちまけたら楽になるかもしれないしさぁ。それに、悩み事って下手に知り合いに話すよりも知らない人の方が話しやすくない?!』
「え?」
『あー、嫌だったら全然良いんだけどね! それにあたしもダメ人間だし、アドバイスとか全然出来ないかもしれないけど!』
お姉さんは慌てて手を目の前でバタバタさせ、否定のポーズを取る。そしてガラじゃないなーと口元が動いたのが見えた。
『…でも、一応楽器やってる身としては先輩だから。後輩が困ってるなら助けてあげられたらなー…なーんちゃって思っちゃったりして!?』
手を頭の後ろに当ててお姉さんは笑う。だけど、さっきは一瞬目を開いてとても真剣な表情で…曲について話してるときのリョウさんの表情とダブって見えた気がした。
…確かに、誰かに話してしまうのもアリかもしれない。正直、自分でもまだ全然心の整理がついていないし。いつもだったらよく知らない人に事情を打ち明けるなんて考えもしないけど、迷惑をかけてしまった結束バンドのみんなにはこんなこと話せない。…もう、戻れるとも思ってはいないけど。
それに、ちょっと変な人だけど、音楽には真摯そうだし、お姉さんが悪い人には思えない。騙すにしても、私なんて騙す価値もないだろうし。
「あの…」
『な、なに?!』
「少し、時間がかかっちゃいますけど…聞いてもらえますか?」
そう切り出して、私はお姉さんに、今まであったことを全て打ち明けた。
────
『うう…なるほど…ひとりちゃんは悲劇の少女だったわけか…』
「いえあの、私が悪くて…」
『うんうん、自己嫌悪で訳わかんなくなっちゃうんだよね、分かるよ』
「えっと…」
『思いのすれ違いだね、皆誰も悪くないのにさぁ』
「あの」
お姉さんは再びどこかから取り出したお酒を飲みながら号泣している。
あれ、もしかして聞こえてない? 今の話を聞いて私に同情する要素はなかったと思うんだけど…
お姉さんは涙を袖で雑に拭い、ようやく泣き止んだ。
『ごめんねー話聞くとか言ってアタシが泣いちゃって』
「あ、いえ」
お姉さんは大きく音を立てて鼻をかみ、改めてこちらを向く。
その表情は既に笑顔に戻っているが、どことなく真剣でもあった。
『ひとりちゃん』
「あ、はい?」
『ひとりちゃんから見て、結束バンドの皆はどんな人たち?』
「えっと…」
虹夏ちゃんはいつも明るくて面倒見がいいし、リョウさんは音楽に真摯で周りをよく見ていて、喜多さんはコミュ力が高くて私なんかにも声をかけてくれて…
「凄い人たちです」
『でも、信じられない?』
「え?」
『だってさ、そんなに凄い人たちなら、ひとりちゃんが事情を話したところで崩壊なんてしなそうじゃん?』
「それは…」
そうかもしれない。現に、リョウさんは話したところで何が変わるわけでもなかった。
もしかしたら私の心配は全部杞憂で、虹夏ちゃんも喜多さんも、私が難聴でも受け入れてくれるかもしれないし、私のせいで結束バンドが壊れてしまうなんてこともないのかもしれない。
でも。
もし杞憂じゃなかったら? 拒まれたら? バンドが崩壊したら?
そう考えただけで体が震え出す。
自分でも難儀だと思うけど、可能性があるだけで私はその選択肢を取れない。
ならば、私がいなくなって、元に戻った方がいい。それなら壊れる可能性は0だ。
ただ、それは私が結束バンドでの活動を諦めるということで。
「…」
『雁字搦めになって、動けなくなっちゃった?』
「…はい」
『そっか』
一番いい選択肢がどれかなんて分かりきっているはずなのに。
なんて自分勝手なんだろうか。
お姉さんはそんな私の情けない答えを聞いても薄く微笑んだままだった。そして少し考えるような仕草をした後、スマホの画面を操作した。
『…よし!』
「な、ど、どうしたんですか?! きゅ、急に立ち上がって」
カラコロとお姉さんの履いている下駄が音を立てる。
立ち上がった勢いで空気が流動し、お酒の匂いと甘い香水の匂いが周囲に振り撒かれた。
『あたしとセッションしよう!』
「…え?」
お姉さんの突拍子のなさすぎる発言にポカンとしてしまう。
『なんかタメになるようなこと言えればーとか思ってたんだけど、やっぱ無理! 頭ん中ぐちゃぐちゃなときは、何も考えずに楽器鳴らすのが一番だって!』
「ええ…」
『あたし適当に合わせるから、好きに弾いてよ! 頭ん中全部絞り出しちゃおうぜ!』
さっきお姉さんが私に一曲弾こうとした時のままなので、機材は揃っている。
お姉さんがコードを手渡してきたので、慌てて受け取ってギターに繋いだ。
え、な、なんかなし崩し的にセッションが始まりそうなんだけど、こ、これほんとにこのまま始めるの? 断れない感じ?
「ああああのこここんなところで急にギター鳴らしたら怒られるんじゃ」
『大丈夫大丈夫! ここ殆ど路地裏だし、前の通りもそんなに人通り多くないし! いけるいける!』
確かに周囲に人影は余りなく、いても通り過ぎる人だけだ。これなら多少うるさくしても平気かもしれない。
人目を避けて逃げてきたのがこんなところで仇になるとは…
「でも私お姉さんのベースの音聞こえませんし…」
『あたしが合わせるって! ひとりちゃんは好き勝手弾きなよ。それに集中すれば聞こえるかもしれないんでしょ? それまではこの天才ベーシスト、廣井きくりにまっかせなさーい!』
あ、そういえばお姉さんの名前聞いてなかった。って、今はそんなことはいいか。
周囲にはお姉さんしかいない。路地裏の入り口であるここは狭くて、辺りは暗くて…あれ、いつも弾いてる環境と変わらない、かも?
これなら集中できるかもしれない。
「わ、分かりました。じゃあ、やりますね…」
もはや逃れることはできないか…不本意なことだけど、諦めるのは得意だ。
ふぅ、と一つ大きく息を吐く。
いつものように、抱えるようにしてギターを構えた。
背を曲げ俯き、周囲の様子が見えないように。自分を空間に孤立させ、ここがホームなんだと頭に認識させる。しばらくそのまま思考をギターに預け…
ス、と意識が切り替わる感覚。
周囲の音が過敏に、それでいて遠く聞こえるような不思議な状態。
なんだって出来てしまいそうな万能感に、体が浮き上がりそうになる。
気付けば私は、自ら作り出した極限の集中に飲み込まれていた。
弦を弾き、音を立てる。
何も考えていない適当なイントロから、流行りの曲へとメロディーを変えていく。
さっきまでバンドなんて無理とか考えていた自分のことも。
急にセッションなんて無茶振りだという弱気も。
全部どこかへ飛んでいき、ただ一心に音を奏でる。
(やっぱり、ギター弾くのは楽しい。あ、ベースの音)
横でお姉さんが弾くベースの音も自然と耳に入ってきて、そこで今自分がセッションをしていたことを思い出した。
自信に溢れて安定した、それでいて私のギターの音を阻害しない心地いいベースは、天才ベーシストという名乗りに違わない。
それに合わせてギターの音をリズムに乗せるのは決して難しくない。思えば、誰かと一緒に弾いているのにこんなに集中できたのは初めてだ。
何も考えず、自分の出す音だけに集中できる環境だった。自分だけで弾いているのと殆ど変わらないのに、音が重なって聞こえる快感。これがセッションの究極系なんだと思わされてしまうような、お姉さんの技巧。
なのに。
どこか、物足りないだなんて。
そんなことを思った。
いつもの演奏より余裕ができて周りを見回しても、そこにあるのはお姉さんがベースを引く姿だけ。
食い入るように見ていたドラムと金髪も、自分の世界に浸る青髪のベースも、普段の気配りが消えて余裕のない赤髪のギターもそこには無い。
整っていて、私の演奏を邪魔をするものは何もなくて…そして、とても寂しい薄暗い路地裏。
(そうだ)
足りない。足りない。
強くそう感じながら二曲目へ。
(たとえ音が聞こえない状態だったとしても、不完全な音の重なりだったとしても、私は)
今度もまた流行りの曲。でも、完璧に弾けたギターソロも、合わさるベースも私の心を満たさない。
(もう満足できないよ…)
その気持ちを叫ぶように激しくギターをかき鳴らす。
頭の中を吐き出しているはずなのに、音が紡がれるほどに感情が強くなっていく。
(
ラストの小節を乱暴に弾き切る。
息が切れて、涙が溢れて、疲労で顔が上げられない。
それでもまだまだ弾き足りなかった。
「次行かないの? ひとりちゃん!」
「っ、行きます!!」
「いやー弾いたねぇ!」
「も、もう無理です…」
指が動かない。こんなに弾いたのはいつぶりだろうか…練習ではここまで全力で弾き続けることは少ないし。流石に集中も途切れ、また周囲の音が小さくなっていく。
あ、私ここから帰らなきゃいけないんだよね? ど、どうしよう全く考えてなかった…
『あ、終わりでーす! ありがとうございましたー!』
「え?」
お姉さんが手を振る方を見ると、人集りが出来上がっていた。
い、いつの間に?! 全然気づかなかった…!
「あ、あああそのななななんていうかすみませんもう終わるので通報とかそういうのは…」
『すっごく良かったです!』
「やややめてほし…え?」
目の前にいる女の人の顔を改めて見ると、いつかの喜多さんのように目をキラキラさせていた。ど、どういうこと?
『どこの箱でライブやるんですか?』
「あ、えっと、ら、ライブハウスでのライブはその、まだやったことなくて」
『そうなんですか、初ライブ楽しみにしてます! また路上ライブやりますか?!』
「えええとそそその」
『……!!』
「(む、無言の圧力…!)や、やりまぁす!!」
勢いでやるとか言ってしまった、どうしよう何も予定なんて決まってないのに…
そんな私の様子に気づかなかったのか、隣にいた茶髪の女の人が畳み掛けてくる!
『良かった〜! そうだ、なんていうバンドですか?』
「あ、そ、それは…結、いや…」
言葉に詰まる。
咄嗟に出そうとした名前は、私が名乗ってもいいものなんだろうか。
横にいるお姉さんを見る。だめだ、上機嫌でお酒飲んでる。こっちを見てすらいない。
『…?』
首を傾げて不思議そうにしている二人組の女の人を前に固まる。
頭の中身を絞り出しても、もう一人では満足できないなんて結論を出しても、結束バンドに居られるかを決めるのは私じゃない。
結束バンドって言ったら嘘になるかもだし、でも否定もしたくない。どうしよう…
優柔不断で結論が出せずにいたその時だった。
『「結束バンドだよ」』
前に立つお客さんの後ろから、最近聴き慣れ始めた声がした。
相変わらず次回は未定ですが次でラストの予定です。