これはそう遠くない過去の話。バベルがロドスと名を変える前の事。
昼下がり。テレジアとWは休憩室の一角で向かい合って座り、真剣な顔でテーブルを睨んでいる。テーブルの上にあるのはチェス盤。テレジアが物置で見つけ、Wに相手をしてくれとたのんだのだ。
最初Wはバレないように手を抜き、殿下に花を持たせようと思っていた。だが状況はWの思惑から完全に外れていた。
テレジアのチェスの腕前はかなりの物だった。おそらくWと同程度。だが問題はそこではなく、テレジアが展開する戦術にあった。
この戦術には見覚えがある。相手の勝ち筋を一つ一つ潰していく盤面展開。こちらの攻撃を効率よく分散させる防御陣形、そして一見バラバラに見えるが、全ての駒が瞬時に連携をとれる綿密に練られた配置。間違いない。これはドクターが得意とする戦術だ。
「どうしたの?」わずかに漏れたWの悔しそうな表情を見て、怪訝そうに聞くテレジア。Wは何でもないわとその場を取り繕ったが、心は嵐のように荒れ狂っていた。
殿下はどこでこの戦術を覚えたのだろうか。ドクターの入れ知恵か、戦闘記録を見たのか、それとも無意識にマネしているのだろうか。Wは手加減を止め、全力でテレジアに対し勝ちに行くことにした。殿下が勝つのは良い。でもあいつに負けるのは絶対嫌。Wはゆっくりと、明確な目的をもって駒に指をかけた。
「負けちゃたわ。やっぱりWは強いわね」笑顔で負けを認めるテレジア。Wはその顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。清水にたらされた一滴の墨汁のように、それはWの心に暗い影を投げかけていた。
「頭使ったらお腹がすいちゃった。おやつにしましょう」テレジアは笑顔を絶やさない。Wは笑顔の仮面をかぶり、テレジアと共に食堂に向かった。
「誰にチェスを教えてもらったの」なんて、聞けるわけがなかった。
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久方ぶりに会ったドクターは記憶喪失に陥っていた。しかし指揮能力は失っていないらしい。そんな都合のいいことがあるだろうか。Wは最初ドクターの任務に同行することを避けていたが、今回重い腰を上げてついていくことにした。
作戦番号:MB-8
奥の通路から気取った男が出てくる。こいつの名はジェストン・ウィリアムズ。ロドス女子(うるさい)の間で「就活失敗おじさん」などという不名誉なあだ名で呼ばれている不遇な男だ。ドクターの指示を受け、まず狙撃オペレーター・エクシアが銃弾を嵐のようにジェストンに撃ち込む。たまらずジェストンが自らの体に金属をまとい、殺し屋形態に移行しようとすると――――
「今だ撃て!!」ドクターの号令と共に強制移動に長けたオペレーターが一斉に鍛え上げたスキルを放つ。さながら暴風のようだ。
「な、なんだこれは!!」
複数のオペレーターが放つスキル、金属をまとったせいで床との摩擦が少なくなったジェストンの体。あらゆる要素が力学的に組み合わさった結果、等速直線運動を行うに至った彼はそのままWの目の前の出入口を通り、通路の奥へと吹き飛ばされていった。
「覚えてろよおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
ジェストンの目に浮かんでいたのは恐怖や憎しみなどではなく、困惑だった。まぁそうなるだろう。
「みんなお疲れさん! 後はサリアとカフカが片付けるから帰っていいよ!」
楽しそうに雑談しながら帰路に就くオペレーターたち。Wが呆然としていると、エフイーターがそばを通った。
「ねぇ、ちょっといいかしら」Wがエフイーターに話しかける。彼女は屈託のない笑顔で「ん? なーに?」と返した。
「……いつもこんな感じなの?」
「ん-、軽い人がいた時だけかな。今回のあの人なんて地面との摩擦をほとんど感じなかったから、あたし史上最高記録をたたき出しちゃったよー! 神様のいたずらって奴なのかな?」
「そう……」
これはチェスではない、ピタゴラスイッチだ。ふとドクターの方を見ると、彼は囚人の一人と談笑していた。
「あんたすげえな! 一体全体どうやったんだ!?」
「コツさえ掴めば君もすぐに出来るようになるよ。やってみるか?」
「い、いや遠慮しとく」
かつてWの心に影を落とした墨汁は、いつの間にかゲーミング墨汁になっていた。記憶喪失と言うが、ここまで変わるものだろうか。
全て変わってしまったのね。ロドスも。あんたも。
Wもまた帰路に就く。前に進むために。置き去りにされないために。