サザンドラの怪物   作:盗電かたつむり

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怪物モラトリアム(2)

 

 

 翌日。

 冷たい空気で目を覚ました。身をすくめながらカーテンを開けると、眩い陽の光が部屋に射し込んでくる。街角は澄んだ空気で溢れかえり、街路樹の梢ではマメパトたちが小さな翼を広げていた。身を奮い、懸命に羽ばたき飛び立って、空の頂きへ吸い込まれるように消えていく。

 

 

 美しい営みの朝だ。

 そして、仕事の時間だ。

 

 

 都会を刻む時計は、その郊外でさえも驚くほど早い。顔に冷水を叩き込んでも、気付のキトサンを飲んでも、ブロードのワイシャツに(ボタン)を掛けても、私は未だ夢現の気分だった。

 重い身体を引きずって保護施設へやってきたとしても、大して釈然としない。早急に経費で落とした本を受け取っても、自己責任のサインをしても相変わらずだ。なぜなら、これから悪夢のような仕事をこなさなければいけないからだ。

 

 ポケモンリーグ協会自然保護課。

 そんな平穏そうな部署に勤めているというのに、何かと私たちは生傷が絶えない。あるときは迷子ポケモンの捜索でキテルグマの巣窟に迷い込んだこともあった。またあるときは違法売買の取り締まりで、ブラックシティの盛場に殴り込んだこともあった。思い出す。やはり、その度にろくなことがない。そして、今回も案の定なのだ。

 

「はい、準備はできています。152号室……サザンドラの収容部屋の解錠をおねがいします」

 

 凝り固まった身体を動かし、深く息を吸う。やるべき仕事はシンプルだ。しゃべるサザンドラに約束のブツを渡す、たったそれだけでいい。万事がうまく進めば、ものの5分もかからない作業だろう。最もうまく進まなければ、身体がバラバラになるまで残業案件だが仕方ない。

 

「やるか」

 

 (いや)がる身に鞭を打って、深く息を吐いた。そうして、無機質なブザーの音を横に、私はドアの奥へと進んでゆく。サザンドラがいるのも、それが話すのも、全部丸ごと夢ならよかったと思った。

 

 

 

 

「おはよう」

「おはようございます」

 

 夢は得手して叶わない。

 

 怪物の孤城に入るや否や真っ先に、険を帯びた三つの頭が私のことを出迎えた。約束の来訪があることを知ってか、人の気配に入念に気を配っていたのだろう。長い間待ち焦がれていたように、空気を押し揺るがせながら怪物は近づいてくる。

 しかし……改めて間近によると、本当に怪物たるポケモンだ。サザンドラの巨きな影に私はすっぽり収まり、その一挙一動の何もが凄惨な脅威に映った。いざ間近で相対すると、こんなにも気圧されるのか。

 

「おや、君は会ったことがあるね」

 

 早速本を渡そうとした矢先、三つの頭が揃って私を覗き込む。どれに視線を合わせればよいのか、あるいは、どれにも合わせてはいけない気がした。迷っていると怪物はひとり合点して

 

「ああ思い出した。確か昨日、アララギ博士と一緒にいた女性の方だ」

 

 そうだそうだ。そうに違いないと、プルシャン・ブルーの凶暴そうな魁偉(かいい)が誇らしく示される。私は同調して、首を縦に三回も振った。振るしかなかった。

 

「改めて、おはよう。今日はいい天気だね」

「天気……。そうですね。外はいい天気です」

「晴れた日の朝はいいよ。空気がおいしくて、小鳥たちの囀りが聞こえてくる。お腹がすくね」

「はぁ。そうですか」

「む、そうか。この部屋には窓がなかったんだ」

「……」

「失礼ですが、今おいくつで?」

「昨晩、初めてラムを飲みました」

「なんと。そんなにお若い」

 

 ぎこちない会話ーー少なくとも私にはそう思えたーーがあった。だが怪物は一切の不満もなさそうに「そうかそうか」と口ずさみ続ける。

 

「あの、サザンドラ……さん。今日は約束のものを届けに来た次第でして」

 

 私はさっさと本題を切り出した。何事が起こる前に、この奇妙な部屋から退散したかったのだ。

 

「それは嬉しい。君が持っているのがそうかな」

「はい。まずは今日のお食事の方を」

 

 これは、私がついでに任された仕事である。腕にかけた袋を手渡した。中には、血合ソーセージと骨つきハム10ポンド、後は黒エンドウ豆が少々入っている。今日分の食事だった(※1)。

 

「容器は食べられないので、部屋のゴミ箱に捨ててください。翌日に回収します」

「うん、ありがとう。世話になってしまうね」

 

 そして本命はこちらの方だ。

 

「ーーで、約束の本です。今回は5冊分とのことで、明日にまた新しいものを用意します」

 

 私は両手で支えた本の塔を、押し付けるように怪物へ差し出した。「わあ、こんなにたくさん」。怪物は左右の首を腕のように扱い、それを受け取る。そして一度本をぎゅっと抱擁してから、食べ物と合わせて近くのテーブルの上へ丁寧に置いた。

 

「ありがとう。楽しく読ませてもらうよ」

 

 紅の眼が細まり、ポッと光が点った。

 

「本はいいよね。いろんな考えや物語にふれることができる。本当に嬉しいな」

「そんなにお好きなら、何かご要望でも」

「いいや、博士のおすすめで充分だよ。どんな本も大好きさ」

 

 怪物は右首の頬を本の背表紙に這わせ、愛撫するようだった。一冊一冊、その本の匂いやカバーの材質、題名のフォントや著者名を愛おしく思うように、冊子の輪郭をなぞっていく。

 

 今回、博士の指示を受けて手渡した5冊はどれも趣向が違うものだ。「サザンドラの哲学や知能指数を調べたいの」という考えのもと、ジャンルも対象年齢もまるで異なる本が選ばれた。

 昨年のベストセラー小説『アカシア』、専門用語が羅列する『進化全書』、幼児向けの絵本『ニャオハ立て!』、難しそうな自己啓発本『いばる戦略』ーー。

 

「その日暮らしをしていた頃は、宵越しのお金もなかったからね。捨てられた本を拾うしかなかったんだ」

 

 サザンドラはおもむろに本を一冊取った。ずっしりとした重量感がある図鑑『世界ポケモン大全』が、軽々と持ち上がる。

 左首を開いた本の下に潜り込ませて支え、右首の口でページをくわえてパラパラとめくっていく。そして真ん中の首が読む。左右の頭の感覚器官や分泌器官は未発達だから、実に合理的な動作だと思った。

 

「ところで博士はどうしたのかな。私はてっきり彼女が来るものかと」

「博士は学会のため遠くの方に外出しております。申し訳ないとのことで」

「とんでもない。多忙のところをわざわざ私のために割かせてしまったね」

 

 ふむ。と、怪物は一言だけ口に含んで、途端に本を閉じた。

 

「そうか。君は博士の助手さんではなく、保護課の職員さんだったか」

「はい。この保護施設にいることは少ないですが、他の職務を色々と」

 

 「ほほお、すごいなぁ」。怪物は感嘆の息をもらした。何一つ詳細な話をしていないのに、私の言葉を特別な魔法のように反芻し、感慨深く味わっていく。

 

「すごいなんて、とんでもありません。毎日雑務をしているだけですよ。迷子ポケモンの捕獲とか、生態調査のサポートとか……クレーム対処も」

「まさか。どれも立派なことだよ。君がいなければ、私はこうして本を楽しむこともできない」

 

 言い淀む応答しかなかった。もちろん自分の仕事をよく言われて、悪く思う人間はいない。だが、サザンドラからの賛辞の受け方は保護課のマニュアルにも書いていなかったのだ。

 

「それで、職員さん。少しよろしいかな」

「何でしょうか」

「ついでにだが、君にひとつ頼みたいことがあるのだけれど」

「はい。できることであれば何なりと」

 

 そして、マニュアルブックには怪物の部屋からの退室法も記されていなかった。無事に本を渡せていい気になるのを許さず、丸呑みがよく似合う長い喉から追加の要望が送られる。

 サザンドラはグッと大きな体を手繰り寄せて、赤色が閃く瞳を自分へ注いだ。そうして忽然と言ってみせた。

 

「君に教えてほしいんだ。私の言葉がどんなものかを」

 

 少しの静寂があった。換気口の音だけがしていた。いっそのこと、この空気を全て取っ替えてほしかった。

 

「どんな、ですか」

「そう。どんなものかを教えてほしい」

 

 恰幅に富んだ首を垂れながら、バスの声は厳粛に告げる。

 彼の質問の意図は分からなかった。些か内容が漠然としていたからだ。だが、ポケモンが喋ることを考えたとき、私の内に押し入ったのは昨日の夕方の出来事だった。あそこで私は何を口走ってしまったか。……あんなの、ポケモンなんかでは……。

 

「それは」

「すまない、質問が大雑把だったね。例えばイントネーションとか、助詞の使い方、言葉遣いとかかな」

 

 その補足に私が安堵したのは言うまでもない。

 

「それなら、どれも大丈夫です。全く違和感はありませんよ」

 

 私は即答した。むしろ上手すぎて困るくらいだと思った。

 

「でも、アララギ博士には歳を聞かない方がいいです。15歳も誤魔化されますから」

「そうなのか。それくらい、私からすれば大した差異はないのだが」

 

 ただ乙女心だけはどうにも理解が難しいようだった。

 怪物は何食わぬ顔で続けた。

 

「本当は昨日、博士と話したときに確かめるべきだった。だが私は緊張しいでね。すっかり忘れていたんだ」

 

 頭を振って思い出しながら

 

「椅子でうたた寝をしていて、それから博士と話をしたのだっけ。生まれて初めてのことなのに、あの体たらくとは恥ずかしいね」

「生まれて初めて?」

 

 そのとき、呟きにも似てもれた自分の声を聞いた。奇妙な違和感が私の背を走り抜けた。

 

「そう、生まれて初めて。この施設に来るとき何人かの方と一言二言しゃべったけれど、あれだけいっぱい話したのは昨日が初めてだったんだよ」

「いえ、待ってください。あなたが独学でそれほどの語学を習得されたのは伺っております。ですが生まれて初めてということは流石に……」

 

 息を呑んだ。私は言葉を探しながら思い出した。

 報告書によると、このサザンドラは深山幽谷で名高いチャンピオンロードで偶然見つかった個体だという。洞穴になぜか古本や利器が寄せ集められており、不審に思った調査隊が観測を開始。そしてサザンドラの姿が後に認知され、捕獲に臨んださいに話すことが発見された、という次第だった。

 しかし言い換えればそれだけだ。この変わり者のサザンドラの記録は、つい最近のものしか存在しない。それが意味することは、つまりーー

 

「サザンドラさん。あなたはいつ頃から、言語の習得を?」

「話そうと思い立ったことが、大体50年ほど前だろうか。そこから街に忍んで、こっそり勉強を始めていったよ」

「50年。そんなに長い時間を」

「そうだね。師にでもつけばよかったが、そんな珍妙なことをしていたのは私だけだったから……。もちろん途中で人間の君たちに力を貸してもらいたいと思ったけれど、声の掛け方が分からなくてね」

「そんな。じゃあ、あなたは今までずっと」

 

 孤独だったというのか。

 返す言葉はなかった。何もかもが虚しい気がした。

 

「寂しくなかったのですか」

「それは、もう」

 

 喉が声を()き止める。

 あんなにも大きかった怪物の姿は俯いて、顔を翳りの中に埋めていた。

 

「もとを辿れば、君たちと一緒に日々を過ごしてみたいと思って、言葉を覚え始めたんだ」

 

 息を整え

 

「君たちの世界では、ポケモンをパートナーにするだろう? ある日のこと山奥の故郷で、遠目にそれを見て、私は憧れてしまった」

「だから親しくなるために言葉を勉強したと」

「そう。街に降りてね」

「でも、あなたが憧れていた彼らは話しませんよ」

 

 サザンドラは私が初めて見る表情を浮かべていた。目尻も口角も鼻息も、悲しいような怒っているような、それとも何でもないような不思議な色を帯びていて。そして、こう言うーー

 

「私は違う」

 

 ざわめいていた私の鼓動が止まった。

 

「だって、私はサザンドラじゃあないか」

 

 思いがけない言葉だった。

 

「私は山奥に住んでいたのだが、()()()()()周りに他のポケモンたちがやって来なかったんだ。……私だけだよ。確かに図体ばかり大きいし雑食性だから、君たちにとっても近づきがたい存在だと直感したわけさ」

 

 そこでだ、とサザンドラは福音を得たように

 

「言葉だと思ったんだ。同じ言葉を交わせればお互いに近づきやすいと、ピンと思いついた訳だ」

 

 私はひとつの誤解をもっていたかもしれない。この変わり者のサザンドラが話し始めたのが「人の世界で生きるため」なのは、昨日聞いた。だがそれはもっと単純な動機からだと思っていた。

 

 例えば。

 

 ひとつは、怪物は強かで狡猾で、人の世界に住む方が楽に生きられると目論んだから。ゆえに胡散臭い言葉を覚えて、まるで虎視眈々(こしたんたん)と私たちを懐柔しているのだと。

 もうひとつは、怪物は本当に馬鹿なほど平和ボケしていて、風や花を人間たちと一緒に愛でようと考えたから。そのために詩情ある言葉を唄い、私たちに語りかけているのだと。

 たったそれだけのことで、ポケモンの禁忌に触れたと私は思ってやまなかった。しかし彼が言わんとしているのは……

 

「それは。つまり、私たちの偏見を解こう、という話ですか」

 

 私は訊いた。だが彼は首を三つとも大きく傾げてみせる。

 

「偏見? むう、私の言い方が適切ではなかったね。そういう訳ではないんだ」

 

 凶暴ポケモンは無知な子どものように、顔いっぱい微笑んで

 

「だって、昨日の君たちはまったく違ったじゃないか。博士も君も、カイリューもバンギラスも、みんな私のそばに来てくれた。安心した。もっと早く君たちの前に現れてよかったかもしれないね」

 

 何かとてつもなく大きな勘違いが生まれているような気がする。

 どこまでサザンドラが冗談を付いているのか、私には分からなかった。さらに訊く勇気の一欠片もなく、私はみじめに立ち尽くすだけだった。

 

「だからね、これは逢瀬(おうせ)というものなんだ。君たちが私を日向の世界に導いてくれた。そして言葉を交わしてくれた。本当に感謝しているさ」

 

 私は首を振った。横に三回だ。

 

「職員さん。この後は何か予定でも」

「はい。ですが立て込んではいないので、お手伝いすることがあればお受けしますよ」

「いいや。大丈夫だよ。ただお茶でも一杯どうかな、と。長い立ち話は堪えてしまうからね」

 

 怪物は太い首を正して「お仕事頑張って。でも無理はしないでね」と労いの言葉を送ってくれた。この文言さえも、コーヒーのひしゃげた空缶や、月曜日の電子広告や、空虚なアドバルーンを眺めて覚えたのだろうか。人知れず空を飛ぶ三つ首の影が、私の胸を衝くようにぶち当たり、落っこちていった。

 

 想うものがあった。

 

 そういえば昨日アララギ博士から遠回しに、サザンドラと交流をしてくれと頼まれていた気がする。自分がなぜこんな意味のないことを考えているか分からない……だが、後は自分のメンツの問題だった。天啓のように私のうちに舞い降りた考えがあった。

 

「あの、サザンドラさん」

「何かな」

「明日です。明日、時間があります。ですから、もしよかったら」

 

 もし、私なんかでもよかったらーー

 

「何か、ご一緒にお話しでもしてみませんか?」

 

 

 

 

「いやぁ、こんなに嬉しいことは初めてだよ。何もかもが生まれて初めてだ。こんなにいい日はない」

 

 明くる日。

 どんなに陳腐な思いつきでも、約束は果たさなければいけない。

 誓ったものは二つだ。本を渡すこと。そして彼とお話しをすること。

 追加分の本を抱えながら152号室に踏み込むと、分厚い扉の真ん前でどっかり待機している彼の姿があった。今日のことを随分と心待ちにしていたらしい。とんでもない形相だが、(とりあえず)律儀な子のようだ。

 

「じゃあ、何のお話をしようか。いや、まず本を受け取ろうか。そうだ、後はお茶を淹れてあげよう」

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 

 喉のギアが一段と上がっている。うっかり口元から炎が飛び出ないか不安になりながら、私は案内されるがまま席に着いた。二日前、博士が座っていた席だ。

 

「君も忙しいのにすまないね」

「保護課のことですか? 忙しくありませんよ。ちょうどいいくらいです」

 

 私は答えた。

 保護課という名目ではあるが、その実態は上の便利屋だ。降ってきた仕事を消化する、臨機応変という名の役職である。だから私が今日、このサザンドラの部屋にいても何ら問題はないのだ。むしろ彼の情報を欲している者たちにとって、私の気まぐれはこの上ないことだろう。大方予想はしていたが、彼はもちろん、施設のスタッフや博士もこの思いつきを快諾してみせた。私は一・二時間この部屋にいる権利と、彼の身の回りの世話をする仕事を得た。

 

 そんなことを考えながら、私はダイニング・キッチンで動き回る彼の背中を見つめている。マグを温め、ポットに葉を入れ、湯を注ぐ。洗練された所作はようやく日の目を浴び、光輝いているようだった。

 

「はい、待たせてしまったね。では何のお話をしようか」

 

 彼が紅茶を持ってきて、向かい合うように着席した。議題は『今日の話のテーマ』について。

 

「こういうとき、共通の話題を探せばいいと聞いたんだ。でも、私と君はーー」

 

 顔や首、胸元、脚を見比べて

 

「いろいろ違うね」

「そうですね。ですから、あなたに合わせますよ。大好きな本のお話でもしましょうか」

「それでいいのなら、それがいい。嬉しいよ」

 

 彼は再び飛び上がり、部屋のシェルフから本を引っ張り出してきた。昨日私が届けた5冊に加えて、今日追加した『ホウエン史の役割論理』、『シキミ日記』、『ポリゴンショック〜陰謀のテレビ業界〜』の3冊があった。そのうちのひとつ、金の箔押しが施されたハード・レザーのものを指し示して

 

「この『世界ポケモン大全』はいかがだろうか。私はポケモンであるし、君もポケモンに携わる仕事をしているから、よいと思うのだが」

「では、それにしましょう」

「よかった。実は昨日、他の本は全て読破できたのだけれど、流石に図鑑は重くて後に回したんだ。でも君とならゆっくり追えるかもしれない」

 

 こうして私たちは大きな図鑑を間に挟んで、お話をすることになった。

 彼の右首が繊細な口つきで厚い本の扉をくわえる。「図鑑だから、適当に開けたところから読んでいこう」。湯気躍る紅茶の香りとともに、見開きの世界が開かれた。

 

「ほぉ、これはすごい」

 

 私たちは感嘆の息をもらした。

 選んだ図鑑は、その上品な装飾に見合う立派な特別製本だった。印画紙にはポケモンの容姿が水彩のタッチで写実に描かれており、その絶妙な陰影や色艶は今にも動き出しそうだ。そして、絵の端にはポケモンの生態や分布、民間伝承までもが事細かく記されている。画集と学書を統合したような見事な代物だった。

 

「博士もいい本をもっているね」

「ええ。本だけはいい趣味をしています」

 

 彼は大きな胸を膨らませ、食い入るように本を眺めた。

 開かれたページで鮮明に息をしていたのは、月光ポケモン“ブラッキー”だ。四つ足の黒い体躯はとても神秘的で、その手足の付け根、額や尻尾、耳に刻まれた黄金の紋様がきらびやかに光っている。ページに目を走らせながら、私は紅茶で一息ついた。助かった、知っているポケモンだった。

 

「ブラッキー。初めて見る子だね。君は知っているかい」

「ええ。近年、伴侶動物(コンパニオン・ポケモン)として注目されている種族です。クールで気高い気質が、現代人の心を捉えているとか」

「ふむ、なるほど」

 

 彼は瞬きもせずに解説文を目で追いかける。

『ブラッキーはジョウト地方由来の陸上ポケモンである。硬質化した黒い毛皮は外傷への耐性のみならず防汚性や隠密性にも優れ、旧シンオウ地方(ヒスイ地方)においては高級毛皮として重宝された。はてさて、この種族は“イーブイ”の進化系として知られるが、その変異には人の庇護下という環境が大きく関与すると思われているーー』

 

「人の庇護下での進化?」

「えー、ブラッキーは一般的に人間の飼育下でのみ誕生するんですよ」

 

 私は解説した。諸説はあるのですが、と前置きをして

 

「つまり人と共にいる上で、体毛を黒く頑丈にした方が好ましいと、この子たちは考えたわけですね」

「むぅ、もしやそれは……狩猟時代にまで遡るわけかな」

「ご名答です。ブラッキーの進化前であるイーブイは、原始社会から人間と共に生活をしていました。高い探索能力を買われて、家畜化。狩猟時のセッターとして名を馳せたらしいですよ」

 

 彼は含蓄深そうに頷いていた。話す甲斐があった。

 

「人間と一緒にいれば彼らは高カロリーの食糧を手に入れられる、まさにwin-winの関係でした。ですが、歳月が経つと変わるものがあります」

「なるほど。他のポケモンたちも人間と共に生きるようになった、と」

「その通りです。有益な使役動物はイーブイに限らない。他にも沢山います」

 

 例えば、ウインディ。友好的な性格で、武勇にも優れている。狩猟分野においてイーブイの上位互換だろう。最悪の競争相手だ。

 

「結果としてイーブイの需要は減っていきました。ですが、これは彼らにとって面白くない。ならば人間が自分たちを好くように進化するだけです」

「黒いブラッキーになれば、夜間の保護色を獲得できる。結果として、闇夜に紛れた作業や奇襲が可能になるアイデンティティを取得し、人間社会での優位性が高まると」

「はい。ブラッキー種の成立には、そのような背景があるという説です。いつからか、人と長期間いることが進化のトリガーになったというわけでーー」

 

 私は気がついた。

 

「ああ、ごめんなさい。私だけがいっぱい話していましたね」

 

 昔から他と馴れ合うことを良しとせず、ひとり生きてきた性癖が暴かれているようだった。しかし彼は純粋に頷きながら

 

「いや、そんなことはないよ。今、私はとても楽しい気になれた」

 

 と、色めく口ぶりで言ってくれた。気を遣わせただろうか。彼は再び口を開いて

 

「しかし、人と共に生きるポケモンか。いいものだね」

 

 そう呟いてみせる。

 

「素敵に見えますか」

「もちろん。種族の垣根を越えて歩むとは、とても固い絆だよ」

 

 数十年もの時を孤独に費やしたものが、そう言うのだ。自分はいたたまれない気分になった。

 

「私がこっそり街に降りたとき、実はそんなポケモンたちを観るのも密かな楽しみだったんだ」

 

 例えば、ある雨の日。お揃いの雨具を着込んだ少年とコダックが、一緒にお家へ帰っていたのだという。コダックは水を好むポケモンで合羽など必要ないが、それが無ければ嫌という様子だったらしい。

 またある日。夕方の公園でムーランドと散歩をする老紳士がいたようだ。互いに齢を重ねていたようだが、歩調を合わせ、笑い合いながら歩き過ぎていったのだと。

 他には、カレー作りを手伝うコマタナ。風水を占う星見のゴチルゼルに、工事現場で働くローブシン。ポケモン混合ラグビーで無双をしていたハリテヤマ。……。

 

「すごかった。まるで当たり前かのように、みんな人と過ごしていた。君たちの世界はすごいんだよ」

 

 彼のときめきは、止むことを知らなかった。ごく当たり前のことでも、大いなる宇宙の誕生であるように語る口だった。

 

 だが、そんな淡い憧れに私は正しくどう返せばよいのだろうか。

「近頃の雨は冷たいですよね」「綺麗な夕焼け見てみたいな」「カレーって作るの意外と難しいんですよ」。

 彼の情景は募るばかりだ。募るばかりで、届きはしなかった理想を共に語ることが、どれだけ(むご)いことか。生殺しもいいところだ。だが彼は、それでも静かに笑い続けるのだった。私はいよいよ分からなくなった。

 彼は図鑑に落ちたほこりを一息で払い、おもむろに口を開いた。

 

「私もいつか、誰かと共に暮らしてみたい。だから言葉を覚えたが、私はーー」

 

 彼は部屋に立て掛けられた銀引きの姿見を覗く。そこには、190センチ近くの頑強な体躯が映し出されていて

 

「私の身体は少々大き過ぎるだろうか」

 

 安楽椅子の上でサザンドラは身をよじった。椅子の骨組みが軋み、えらく窮屈そうに見えた。

 

「雨具は入りそうにない。歩調を揃えるのも難しそう。そもそも人のお家に入れるだろうか。壁を削ってしまいそうだ」

 

 色々と話すよりも前の問題だったね、と彼は苦笑をこぼしながら呟く。私はすぐさま訂正した。

 

「大丈夫ですよ。雨具も家もいろんなサイズがあります。どんなポケモンでも、人と一緒に生きていけるはずです」

「そうか。それはよかった」

 

 彼は声をほころばせた。

 

「でも。やはり、ブラッキーが人気たる理由は分かるような気がするよ」

「人気……愛に数は関係ありませんよ」

「そうだね。嫉妬の炎はよくない、火傷をしてしまう」

「ですが、あなたにもブラッキーと同じところがありますよ」

 

 私は図鑑を指差して言ってあげた。

 

「ほら。眼がどちらも赤色です」

「なんと、本当だ」

 

 彼は眼を見開く。醒めるほど鮮明なスカーレットが、いたいけな円い光を描いていた。光には虹彩や水晶体や温かな血液のパステルがこもっているようだ。

 

「私も君たちの世界に馴染めるだろうか」

「きっと、できると思います」

「そうかい?」

「ええ。そうですよ」私は言った「いつか、きっと」

 

 

 

 

 きっかけは、こんな単純なものだった。私とサザンドラの交流は、こうして始まることになった。本を届けるついでに、私が彼と一時間少し図鑑をめくりながらお話しをする。そして、彼から得た情報を研究グループに報告する。

 

 もとは自分の浅ましい考えで始まった企画だったが、こういうものこそ意外と長く続くものなのだ。無償でデータが貰える研究班はともかく、たったそれだけのことで彼も大いに私を歓迎してくれた。毎日身体を揺らし、喉を整え、紅茶でもてなしてくれる。牙を剥くことは一度たりともなく、何かあったことと言えば、うっかり彼の右口から出た火の粉が小火(ぼや)を起こしたくらいだった。

 

 いつしか部屋は、私たちにとって当たり前のような空間になっていた。毎日サザンドラの居住区に入る私は、側から見れば遂に行くところまで行ったと映っただろう。

 でも、ギョッとする目を向けられても、私は悪い気はしなかった。彼をひとときの関係と見れば、気に入っていたのだ。うんちくを自慢げにひけらかすことなく、静かで、不思議で、慎み深く、私はただ少しの配慮を忘れなければよい。

 なんだかんだ、久しく充実している日々を過ごしているように思えた。

 

「先日、博士に会ったんだ」

 

 今日もまた本の山を抱えながら部屋に立ち入ると、彼がそう言った。アララギ博士のことだ。しばらく前のことだが、パルデア地方の学会から帰ってきていたのだ。

 

「バイタルチェックで部屋から出たとき、久しく彼女に会えたよ。何時たりとも、あのような方なのかい?」

「ええ。天真爛漫というべきか。……何かあなたの秘密についておっしゃっていましたか」

「いいや。分からない、ということだ。中々堪えていられたね」

 

 先日、鬱蒼とした死んだ声でロトムフォンに電話してきた彼女を思い浮かべた。深夜3時のコールで聞かされたのは、アルコールが(にじ)んだ愚痴だった。「まじで何で喋れるのよ? 身体の構造おかしいじゃない」「ポケモン怖い! 超進化説の再来とか最高!」「学会で彼のこと話したら、奔放な擬人化愛好家って罵られたわ」

 元気そうで何よりだった。

 ちなみに、彼女が帰ってきても本を渡す担当は私のままだ。自分がそう希望したのだ。

 

「私はそんなに難しい存在なのか」

「唯一無二ですからね。……ところで、大丈夫ですか。生体調査のとき、好ましくないことはされていませんか」

 

 私は尋ねた。立場を思えば中々思い切った質問だが問題はなかった。この部屋に、監視カメラ、録音機といった類いの電子機器は一切ない。持ち込みも禁止である。希少なサザンドラに一切の不信感を抱かせてはいけない、という最もな理由でそう決められているのだ。あるのは入り口の扉前のレーザー検出機だけである。これは私にとっても、この上ない都合だった。

 

「心配ありがとう、親切にしてもらっているよ。調査と言っても、詩を歌ったり、物音の真似をしたりするだけさ。みんな優しい人だよ」

「それならよかった」

「相談ごとは博士が聞いてくれるし……ああ、そうだ。それで思い出した。そういえば、君の方に聞いておきたいことがあるんだった」

 

 本当に些細なことだという様子で

 

「あのバンギラスとカイリューのことだ。最初、君たちと一緒にいた彼らだよ。あの子たちは何者なのだろうか」

 

 思いもしない話だった。私は尋ねた。

 

「どうして、そんな話を」

「いや、いつも研究員さんや博士と一緒にいるからね。それに何かこう、目を引くほどの恐るべき力を感じる。彼らは博士の相棒かい?」

「いえ、彼らはーー」

 

 そのとき自分の頭の中に、もみくちゃな選択肢が浮かびあがってきた。私は束の間、遠い目をしながら急いで正解を探していたと思う。

 

「えー。彼らは、派遣された守衛のポケモンです」

「守衛? 一体誰のための」

「研究部門の上級スタッフたちです。研究は危険ですから、万が一が起こってしまわないように」

「万が一。それはつまり」

「いいえ、違います。あなたが危険ということではないですよ」

「え? ああ、そうだよね。うん……そうだったのか」

 

 これはいけない。

 私は返答のひとつを頭から蹴っ飛ばした。そうして、ピシャリと頭の窓をきつく閉めた。

 

「えー。彼らは、派遣された守衛のポケモンです」

「守衛? 一体誰のための」

「えっと、あなたのボディーガードです」

「私の」

「そう。最近、言葉も通じない物騒な連中が多いですからね。保護施設に乗り込んでくる輩もいるんですよ。だから、万が一を防ぐためにも彼らはいるわけです」

「そうなのか」

 

 サザンドラは少し何か言いたげに、三つの喉元を震わせた。あの炎熱を秘めた赤い眼がどれほどの慧眼で、どこまで私たちの嘘八百を見抜いているのか。こういうときだけ、私は彼の扱いを難しく感じるのだった。

 

「そうなのか。おかしな質問だったね」

「気になられるのでしたら、掛け合ってみますよ」

「いや、そういうことではないよ。ただ彼らの所属が何となく気になっただけさ」

「それならいいのですが」

「ところで、彼らよりも君の方が強いと聞いたのだけれど」

「そんなこと誰からですか」

「博士」

 

 だが多少なりとも嘘は見抜いてほしいものだ。私は頭の中から博士も蹴っ飛ばした。そして、たまりかねたように私はさっさとこの話題を切り上げ、声を張って言うのだ。

 

「さあ、今日も本を読みましょう。まだ図鑑は終わりませんよ」

「そうだね。今回は359番の子からだった」

 

 私は壁にそそり立つ本棚に今日の数冊を収めてから、いつもの大図鑑を取り出す。しかし、この絶壁みたいなオープン・ラックも充実しだしたものだ。しばらく前に私が要求して部屋に搬入したものだが、毎日本を詰めている甲斐もあり、中身は段々と壮観になり始めていた。

 有名人の自伝から珍妙なオカルト雑誌、眩しすぎる青春小説に、古めかしい賛美歌の楽譜まで。些細な隙間すらも埋めるように、色とりどりな背表紙が規律よく並び、部屋によく調和していた。

 

 ふと私は気がつく。引っ張り出した図鑑の支えを失い、パタンと倒れた一冊があった。私は題名を一瞥して立て直す。『ロング・ティー・ライフ』……そういうことか。最近、紅茶の味が変わっていたのは。

 

「何か気になる本があったかな」

「いいえ。そういえば、この図鑑以外の本はもう全部読み切ったんですか」

「まあ、そうだね。これは君と一緒に読み進めていくと決めたから。フライングはルール違反だ」

 

 私たちは図鑑をテーブルの上に置いて、席につく。いつからか椅子は向かい合わず、隣同士に仲良く置かれるようになっていた。こちらの方がお互い読みやすいから、至極当然の現象だった。

 

「はい、飲み物を淹れておいたよ。今日はフレーバーティーだ。ヤナップの若葉を使ったんだ」

「ありがとうございます」

 

 一口つけてから、私は図鑑をめくり出す。お目当ては359番だった。……いい数だ、素数じゃないか。……そんなの気づく方がすごいですよ。……この先に私もいるはずだ、私は何番だったかね……。

 他愛もないことを話していると、隣に座っている彼の右首が、すっと私の手元に据え置かれる。濃い青のなめらかな頬がふれた。あっと彼は右首を離した。思わずお茶のカップが動いて、こぼれそうになった。

 

「どうしましたか」

「前から思っていた。君の手は、ページをめくるのが得意なんだね」

 

 今日は寄り道が多い日のようだ。だが、たまにはこんな日があってもいいだろう。

 

「私の手に指はない。そもそも、手という代物ですらないから」

「それでも、とても器用ですが」

「さわってみてもいいかな」

 

 私はひとつ頷いた。

 

「決して見るようなものじゃないですよ。仕事柄、傷もあります」

 

 サザンドラは左右の首で、まるでエスコートするように私の手をもった。どこに導こうというのか、手を、指の隙間を、骨格や血管を辿りながら撫でて、彼は温もりを伝えてくる。私がウィットに富んでいれば、花束のひとつやふたつ持ってきたかもしれない。

 

「横の口でくわえても構わないだろうか。実は鱗が厚くて、あまり分からないんだ」

「いいですよ」

「ごめんね。この首では何も食べていないから、綺麗だから安心してね」

 

 ポケモンのスキンシップには慣れている。彼は左の口で、カポッと私の片手を包み込んだ。まるで手を握られたようだ。中は意外と乾燥していて、少しひんやりしていた。あらかじめ知っていたが、舌もなかった。深い空洞の暗がりに手だけが連れ去られたと思った。 

 

「温かい。素敵な手だ」

「褒められたことなんて、初めてです」

「もう少し触らせて」

「いいですよ……あれ。そういえば、牙はないんですか」

 

 私は気がついた。サザンドラの両首は頭を模した諸器官だが、エナメルの立派な刃は生えているはずだったのだ。しかし、その鋭利な面影はない。代わりに何か、丸みをもった小さな硬いものの感触があるだけだった。

 彼は口内から手を優しく解放して、言った。

 

「折った」

 

 短く

 

「牙は折った。あんなもの邪魔でしかない」

「邪魔って、いくらなんでも」

「歯は真ん中にあるから大丈夫。両首はものを持つためだから、こちらの方が都合がいいんだ」

 

 君のには及ばないけれど、と補足された。牙を折られた両首は虚空にパクパクと食らいついていた。

 私はたまらず訊いた。

 

「なぜです。そこまでしなければ、いけないのですか」

「心配ならご無用だよ。私は意識的にアドレナリンの分泌量を調整できるんだ。これには鎮痛作用があってね」

「そうではありませんよ」

「む、違ったか。まあ、ともかく」

 

 怪物は言った。

 

 

 

「痛みなど感じない」

 

 

 

 その言葉を私が忘れることはないと思う。

 

「さあ、図鑑を読み始めようか。寄り道に付き合わせてしまったね」

 

 分厚い鱗で無表情の片首が、器用に本をめくりだす。359番のポケモンのページには結局、私ではなくサザンドラが導き開いた。

 そこには新雪のように純白な獣の姿形が凛とあって

 

『全国No.359 アブソル

 近年、側頭骨から生える一本角には多数の感覚神経が分布している精密なレーダーであることが判明した。そのため、アブソルは空気中の病原菌や異常な湿度・気圧に対して敏感に反応し、警戒のために異常行動を摂るのだ。しかし彼らにとっての不幸は、その行動が不吉な予兆とみなされ、まるで彼ら自身が災厄と名付けられたことだろう。だからアブソルは、“災いポケモン”と呼ばれるのだーー』

 

「アブソルか。昔はよく見かけたね。土砂崩れや台風の予報をしてくれるから、とてもありがたかったよ」

 

 消え入りそうなほど細まった赤い眼は、輝きばかりを閉じ込めている。私は背中を丸めて押し黙るだけだ。ただ傍に置かれたフレーバーティーを流し込んで、体を巡る苦味に耐え忍んでいたが、ふと私の喉は生唾をさらに飲み込んだ。

 

 盲点だった。とんでもないことに気がついたのだ。

 今、私たちが読んでいる大図鑑。そこには当然のことサザンドラも載っているはずだ。では、そのテキストに何と載っている? 凶暴ポケモン、無情の暴君、好物は悲鳴と拷問、趣味は生きたまま生物を解体すること……言葉を知る彼は、その悪しき事実を読み解いてしまうだろう。もし彼が自身に流れる魔性の血を知ったら、どうなることか。“人間と仲良く暮らしたい”という長年の夢は?

 

 そうだ。ここ最近で確信していた。

 彼はあくまで、知っている()()()なのだ。自分がどれほど歪な存在なのかを。帰れる場所のない忌み子なのかを。そして、人間がどんな生き物なのかを。

 

「職員さん。これを見て」

 

 おもむろにサザンドラは、惚れ惚れとした熱っぽい声で言ってきた。

 

「ほら、アブソルも眼が赤色だ。私と一緒だね」

 

 こんなことがあっていいのか。

 だが、こんなことがあるのだ。

 

 




補足
1、サザンドラは巨大な内燃機関を維持するために膨大なエネルギーを必要とする。ゆえに本種族には捕食本能を極限まで高めてエネルギー摂取を促そうとする生体的な進化が見られる。
 その一つが内因性リガンドの変異である。サザンドラは食欲刺激ホルモンであるグレリンを過剰に分泌する一方、食欲抑制ホルモンであるレプチンはほぼ分泌しないのだ。ーー中略ーー。そして最たる問題は、この現象が飢餓下のみならず飽食状態においても特に顕著になることにある。機序は依然として不明だが、一説では快楽物質たるドーパミンがグレリンのポジティブ・フィードバックを加速させるという。ーー大略ーー。上記の性質より、サザンドラを管理する場合は食事量に十分な注意が必要である。体重や年齢から必要カロリーを推定し、適切な食事を与えることに細心の留意をされたし。
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