*
嘘みたいな日々が冗談みたいな速度で過ぎ去って、ふいに私の背中を叩くものがあった。
結局、私たちは何を繰り返してきたのだろう。
それは決して蜜月のように甘いものではなかったと思う。私とサザンドラの間には、いつも漠とした了解や透明な嘘が隔たり立っていた。それにあの大図鑑だって、決して人間と彼の架け橋ではないのだ。雨に濡れれば文字が消えてしまうように、あんなに脆いものをそうは言わない。と内の誰かが囁いていた。
だがそれでも、彼との日々は大きなものだった。間違いない。過ぎる時間はあっという間だ。本を運んでお話しをする。それだけのことが、部屋の片隅で一体何を育んでいたのか。
ーー季節が運ぶ話があった。
サザンドラが別の保護施設へ移動されるというのだ。
もっと設備が充実した場所で、詳細に検査を進めるという。かなり強制的に決められたらしい。ここから動くと同時に、彼はアララギ博士の
接待係である私の耳には、当然いち早く話が聞こえてきた。
だが、そんな陳腐な野暮用があの部屋の日常を変えることなどできない。さり気なく伝えたとき、彼はモゾと首を動かし一言二言しゃべっただけで、それきりだった。もう話題にあがることはなかった。別れの話は図鑑のしみにすらならず、ブレンドティーの
かくして彼の孤城は不変であり、日常は紡がれる。
部屋の本棚には日々の重なりとともに、溢れんばかりの本が詰め込まれた。堆積する思い出のようで、時折サザンドラは誇らしく本棚を自慢した。粗末に扱われた冊子はひとつたりともない様子だった。
『蜃気楼の世界』『いやしのドオー365日』『片付けられない女』『忠犬ウインディ』『ギャラナットに学ぶ戦略論』『イッシュ夕景100選』『ニャビーすわれ!』『ぽんぽこマリルリ』『信じる科学』『男の去り際』『オニゴーリはムラッケが9割』『運の力』『トゲキッスに愛の手を』……さらに続いて『罪と矛盾』『嘘のすゝめ』『私と毒毒と身代わりと守ると』『告発されるポケモン虐待』『ガラル戦争史』『I.E.は悪夢を見るか』『イーブイ品種改良の闇』『支配』ーー。
図鑑のページもまた、一歩一歩と先へ進んでいく。軽やかで柔軟な片首が紙をめくり、閃く真紅の眼差しが文字を追い、よく微笑む大きな口元から声がこぼれる。ホウエン地方、シンオウ地方、ヒスイ地方、そしてイッシュ地方へと、三対の黒い翼はインクの世界を駆けてゆく。その旅路で私たちは、様々なポケモンに出会い、彼と言葉を交わした。
『全国No.421 チュリム
普段は紫の花弁に覆われて僅かにしか行動しないが、一定以上の光量下で活性化する。植物体から放出される香気は特殊なフェロモンによるもので、それに刺激され、様々なポケモンがチュリム周辺に集うというーー』
「ほほぉ。いい香りとは、素晴らしいアイディアだ。身なりを整えることは大切だよね」
『全国No.563 デスカーン
黄金の身体は、砂漠地帯の文明にて富の象徴として崇められていた。あくまで民間伝承のひとつだが、農耕儀礼の生贄として捧げられた人間の成れの果てとする説がある。事実、デスカーンの染色体数は46本でありーー』
「金色のファッションとは斬新だ。光沢のあるものは私たちドラゴンが好きだから、気が合うかもしれない」
『全国No.617 アギルダー
超軽量級の身体に粘膜を巻き付け、乾燥から身を守っている。その面影は東国のシノビなるものを彷彿させるため、芸術・芸能分野で高い人気を誇る。20XX年、ポケモンとして初のプロ俳優になったニュースは未だ我々の記憶に新しいだろうーー』
「君が持ってきてくれた漫画のヒーローが、この子だった。私もいつか一緒に戦ってみたい」
そして、さよならと一緒に在る運命へと近づいていく。
約束された地獄『No.635サザンドラ』。その前段階である『モノズ』と『ジヘッド』のページも大概だが、いずれにしろ図鑑に仕掛けられた爆弾を踏み抜くときは近いようだ。
私はどんな顔を引っ提げて彼の章を覗けばいいのか迷っていた。この数週間、答えを転げ回り這い回り探したが、案の定ろくなものはない。時間稼ぎに別の本を読もうと提案したこともあったけれど、やはり舞い戻るのは例の図鑑である。
「もうこんな時間か。続きは明日にしようか」
「そうですね。明日はNo.630から……イッシュ地方のポケモンも、もう終盤ですね」
「私はまだ呼ばれていない。と、なれば」
「いよいよですか」
こんなに待ち遠しくないものはない。気が気ではない不安が、私の頭を貪っていた。
「職員さん。何か考え事かな。顔色があまり優れていられない」
「昨日会ったアララギ博士のせいですよ。あの人、無駄に頭がいいから一緒にいると疲れるんです」
「そうか。付き合いは大変だよね。私から少し声をかけておこうか」
図鑑を本棚に片付けながら、首を振った。そんなことはしなくていい。もうする必要はないのだ。
「サザンドラ。私は、あなたの話し相手になれていましたか」
「もちろん。君がいたから、その図鑑を楽しく読み進められたんだ。感謝しているよ」
「そうですか。ごめんなさい、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また明日」
「また明日。美味しい紅茶、楽しみにしています」
さようなら。
そう言ってから手を振って、部屋の扉を閉めた。重い鋼が軋む金属音がして、もう紅茶の香りも、深いバスの声も、紅の瞳孔も、濃密な影も、体温も、
そうか。もしやこれは夢なのかもしれない。夢でなければ、こんなに悪いことが起きはしないだろう。きっと私は夢を見過ぎたのだ。
*
翌日。
私はまた扉を開けた。だが開けたのは彼の部屋ではない。保護施設に備えつけられた休憩室のだ。薄い白樺の扉はあっけないほど簡単に開いて、その先に私の客人がいた。他には誰もいないようだった。
「あら、お久しぶり。ひどい顔してるじゃない。元気だった?」
「元気もクソもありますか。最悪の気分です」
誰という訳でもない。アララギ博士だ。サザンドラの研究に際して保護施設に腰を据えていることは知っていたが、顔を合わせるのは久しかった。
私は博士を一瞥して、腰掛ける彼女に向き直るように座った。そうして彼女のスリッポンのつま先を少し蹴ってから、間のテーブルに『世界ポケモン大全』を叩きつけてやった。
「相談はかねてから受けていたけれど……本当にやってきたのね」
「やりました」
「収容室からの備品の持ち出しは禁止。大目玉でしょ」
「大目玉でした。つまり、いつも通りです」
博士は苦虫を噛み潰したような顔をした。私は張り合って、ナマコブシを踏んづけたような顔をした。上体を斜めに反らせながら、こんな感じに。
「まったく、ビショビショにしちゃって。経費もただではないのよ」
「他にどうしろと。図鑑を部屋の外に出す口実は、これしかなかった」
「差し出された紅茶をわざと零して、本の修繕をするために持ち出す。苦しいわね」
「名演ですよ。クビになったら、ポケウッドに行ってきます」
軽口を口ずさみながら図鑑の中を開いてみた。白い印刷紙と黒いインク文字と鮮やかなポケモンの絵は、濡れてふやけ、薄く茶色が掛かっている。不憫な姿になったウソッキーと目が合った。泣いているようだ。私は顔を逸らした。
「この本を薦めたのは私ね。サザンドラの章の件は考えもしなかった」
「いえ、私も悪口が書かれている本を読もうだなんて」
「でも、あなたの気持ちも分かるけれど、そこまでする必要はあった?」
押し黙っていると、博士は続ける。
「だって彼は、人の世界で生きてみたいと言ったんでしょ。なら、遅かれ早かれ自分自身について向き合わねばいけない時が来るわ」
「博士、違います。そっちじゃない。私は私のためにやっているんです」
時間が経てば経つほど押し寄せるものがあった。私は忘れるように早口で話した。
「あんなの、何でサザンドラに生まれたんだ……。お節介で、健気で、おまけに不器用で。そんなのが打ちのめされるなんて、私の方がうんざりだ」
「不器用ねぇ……私の周りの誰も彼も」
「お陰様です。昔から、自分よりいい奴と一緒にいると死にたくなる」
視線を落とすと軽い溜息が聞こえた。合わせて「お茶が飲みたいわ」という、三文芝居のような声もした。私は起立した。そして壁と向き合いながら、備品のポットと茶パックを扱う口実に夢中でありついた。
「この先はどうするつもりなの」
「彼には本を修繕に出すと答えました。しばらく時間がかかるでしょう。彼も引っ越すことですし、なあなあにします」
「そう、分かったわ」
水をポットに注いで湯を沸かす。彼は、70度のお湯がお茶には適切だと言っていた。初めて知った。後は、蒸らすための蓋がほしい。そうすると深い旨味が生まれてウンと美味しくなるのだ。
「博士の方はどうです。サザンドラが話すこと、何か分かりましたか」
「さっぱりよ。あれは無理。自然の神秘ね。そういうことにしなさい」
「さいですか」
返せば返ってくる話があった。
「あなたの方もどうなの。彼と長くいてみて……やっぱり話すポケモンは苦手?」
動く手が止まった。傍の紙コップが溜め込んだ影をぼんやり見つめながら、私はしばらくの間、考え込んでいたと思う。
「ええ。自分は遠慮しときます」
私は言った。答えは初めから決まっていたかもしれない。
「言葉ができることで、悲しみも苦しみも分かち合ってしまう。こんなに辛いこと、ありますか」
相槌も返事もなかった。あっても、いらない。
「人間との境界なんて、そんなの勝手に決めればいい。……やっと分かった。私はそっちの方が嫌だったんです」
耳をつく電子音がした。気付くと、電気ポットは湯気を噴き始めていた。白む。目に
「青い。一番茶のファースト・フラッシュだ」
「それしか知らないでしょうに」
「いいのよ、これくらい適当で。彼も言っていたでしょ」
博士は私に指を振る。
「人生は一杯のお茶のようなもの」
そんな意味ではないと思う。
「まあ、もう一度彼には頭下げときなさいな。あの子、あなたと一緒にいることを楽しそうに話すのよ」
「分かっていますって」
「素直じゃないね。まあ、いいわ」
博士の顔に普段の柔和さが戻ったような気がした。そしてお茶を啜り、頼りない癖っ毛をクルクル触りながら思い出したように言った。
「そういえば、あなた。前から思っていたんだけれど」
「何ですか」
「私への当たり、強くない?」
*
後悔はあった。正しくは後悔しかなかった。
だが、ここで己の職務を投げ出したら私は正真正銘のクソ野郎だ。規約を犯しはしたものの、懇願した甲斐があり、翌日も私はサザンドラの担当に就けた。処分は厳重注意だけで済むようだった。
彼の部屋の扉を開ける。入る。
後は相変わらずだった。昨日の出来事への疑念や不満は何ひとつなく、彼は私を許してくれた。
いや、許す……そんなものではないと思う。彼は私が謝罪の言葉を言う前に、火傷をしなかったか訊いてきた。「大丈夫ですよ」と答えれば、胸いっぱいに溜め込んだ息を吐き出し、「そうか。それはよかった」と朗らかに笑うのだ。サザンドラにとって私の失態は罪のひとつですらなかった。そして、この件はいよいよ完全に終わった。読めなくなった図鑑の代わりに、私たちは適当な本を読むことになった。もちろん甘くて苦い紅茶を添えて。
これでいい。これでいいはずなのだ。
心配は消えた。障害は除かれた。後ろめたさこそあるものの、万事が上手く進行しているはずだった。
なのに未だ騒めくものは何だろう。それは彼との別れの日の気配だろうか。
だが、そのことまで口にするのは野暮だと知っていた。彼は一切の
*
風が吹いている。
別れのときだ。
移動の前日。準備はとうに出来ていた。移送先には、ここのような収容室が用意され、後は今の部屋の本とサザンドラを搬入するだけ。大型トラックの整備も、ーー誠に遺憾だがーー鎮圧班の手配も予定通り進行し、私たちは時間を持て余していた。そこで博士がこんなことを言い出したのだった。
「あのサザンドラ……ずっと私たちに力を貸してくれた。だから、最後の日くらい部屋から出して好きな事をさせてあげたいわ」
仮にも保護課が預かっているのだ。だから、ポケモン・ウェルフェアに背く訳にはいかない。私たちの申請は強引にでも上に通した。通してみせた。そして、その旨をつい先程、彼に伝えたところだった。
と、言っても余計な世話だと思う。私は彼の応答を大雑把だが予知できた。物静かで謙虚な彼のことだから、頓狂な贅沢は言わない。いつも通り部屋で本を読むことを選ぶと思っていた。
しかし彼はこう言った。
「じゃあ、少し外の方を散歩してみたいね。夕方ごろ、涼しい時間がいいな」
思えば、かねてから人の世界で生きてみたいと願っていたのだから、それも当然の要望だったかもしれない。幾つかの条件を含みながらも、無事に許可は降りた。……人口密集地に行かないこと。人前で言葉を話さないこと。一切の武力の放棄。法律遵守。諸々。
変な人間の接触を絶てるのは好都合だが、これで彼の望みは満たされるのだろうか。しかし、サザンドラは十分と三つ首で頷いた。それどころか、彼はさらに自分で決まりを付け足した。
「いつもの職員さん。彼女と一緒がいい」
なぜ私が同伴なのだろう。人と共に生きたいとは言え、結局私がいては部屋の内外が違うだけと考えたが、ご指名を預かった以上、私は従うだけだ。
最後まで判然としないことばかりだが、私たちは入念なシミュレーションの上、彼の望みを実現させることを試みた。
そして空を焼きながら夕方がやって来る。
「こんばんは」
「こんばんは。夕方どきの君を見るのは、初めてだ」
保護施設から少し離れた郊外の公園に、一両のワンボックス・バンが停まり、恐る恐る彼が降りてきた。最初は翼に顔をうずめて周囲を伺っていたが、やがて暮れの涼しい風に目を細め、彼は落ち着いた顔つきになった。空を仰ぎ「ああ、頃合いだ」と呟いて、首を伸ばしながら深呼吸をした。
「今日はいい天気だね」
「はい、いい天気です。夕焼けも綺麗……散歩にはもってこいですよ」
「空の神様が微笑んでいる」
「もしかしたら、外は久しぶりですか」
「いや。時々、日光浴のために出ていたんだ。施設の屋上、博士たちと一緒に、こっそりね」
内緒だよ、と彼はウインクをして
「さて。今日は私の頼みを聞いてくれて、どうもありがとう」
「本当にこれでよろしいのですか。街中じゃないと、あなたが見たいものは……」
「あるさ。私がこの辺りに来たいと頼んだんだ」
許されている行動域は、この自然公園の野原と周囲にある緩衝緑地の小高い丘、雑木林だけだ。平日、夕方、郊外ということもあり、人影は見えない。静かだ。どこか遠方から、きれぎれとしたハトーボーの声や自動車の駆動音しか聞こえてこない。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
ふたりきり。夕暮れの世界を行く。
落日の赤々とした光が、やわらかに降り注いでいた。広大な空には青、紫、桃、黄、茶色の色彩が薄らと刷かれ、小さな浮雲が明日の方向へと流れていく。遠く彼方へ、遥か遠くへーー私たちも進んでゆく。緑地に引かれた石の舗装路をなぞり、大きな街路樹の横を過ぎ、朧げなナトリウム灯の下をくぐって、飛翔するコロモリを追うように先へと向かう。
散歩ではあるが、どうやら彼には目的地があるようだ。歩みに迷いはない。以前、ここへ来たことがあるのだろう。静寂に揺れ動く羽ばたきは、私の足取りをゆっくりと導いている。
「どこへ向かっているのですか」
「着いてからのお楽しみさ。もう少し先だよ」
ちらと腕時計を見た。時間に余裕はある。急ぐ必要はない。歩いている場所も問題ない。
ただ、先程からまばらに人とすれ違うことがあった。ストライプの男、ジャージーの中年、スーツの女……どいつもこいつも只者じゃない、
彼を横目でうかがう。赤裸の陽光を浴び、先を見据える横顔から呼吸を聞いた。何事にも邪魔されない、何事も知らない様子だった。
「サザンドラ。しゃべっても大丈夫ですよ」
「うん。そうだね……そうだ。しゃべっても大丈夫」
しばらくして、私はもうひとつの違和感に気がついた。
今日の彼は、あまり話さない。
もちろん人前で発声することは厳禁だ。しかし、誰の影も見えない所でも彼はやけに寡黙なのだ。何も居心地が悪い訳ではないがーーいつも彼は、口下手な私に合わせて話してくれていたのだーー部屋の中ではもっと、声の喜びを噛み締めているようだった。今日ばかりは気分が違うのだろうか。私は無理にでも納得した。
影が伸び始め、風がひょうひょうと鳴き出す。至るべき所はまだ先のようだ。
茜色に染まった公園の野原と木立を抜けて、ガーベラの花壇の横を通り、次の緑地へと足を踏み入れる。道草を誘うような、ほの明るいガス灯が途中にあった。その傍で彼はようやく口を開いた。
「決心がついた。実は、君に謝らねばいけないことがあるんだ」
それは唐突な告白だった。立ち止まる。翼がバサと大きくはためき振り返って、私に向かい合った。
「真っ赤な夕方に負けないほど、私は真っ赤な嘘をついていた」
「嘘? あなたが?」
「すまない」
夕日を背後に背負い、彼の顔は影に覆われていた。まるで思いがけず世界を滅ぼしてしまったような、それ程の表情で彼は声を吐く。
「今まで、君と一緒に図鑑を読んできたね」
「あの『世界ポケモン大全』ですか」
「そう。私は君に、あの図鑑だけはまだ読み切っていないと言った」
「はい。だから、一緒に読もうと」
サザンドラは三つの頭を一斉に下げた。
「すまない。それが嘘だ」
「え?」
「私はもう、図鑑を貰った日にすべて読んでしまった。嬉しくて、つい徹夜で読み更けてしまったんだ」
沈黙とはこんなにも苦しいものだ。唖然とする私の耳に入るものは、もう無かった。彼の発言こそが嘘だと思った。
「本当ですか」
「すまない。本当だ」
「じゃあ、あのブラッキーのページもですか」
「すまない」
「アブソルもですか」
「すまない」
「デスカーンも、アギルダーも」
「返す言葉がない」
「……あなたのページも、ですか」
サザンドラは首をすべて萎縮させて、うん、と頷いた。皮肉にも、彼が悪い冗談を言えない性格であるのは、私が一番知っていた。
「許してくれとは言わない。ただ、まだ読んでいないと偽った方が、お互い話しやすいと思って」
「何だ、そうですか。もう全部初めから知っていたんですか」
私は笑う。そうして空を仰いだ。斜陽が私を焼いていた。私の灰撒くような嘘が、彼の一息で呆気なく吹き飛んだのだ。風の空虚の前に、途端、何もかもが馬鹿らしく笑えてくるのは自分だけだろうか。
「怒っていないのかい」
「これくらいで怒りませんって」
「そうか。博士が言っていた通りだ。君は優しいんだね」
気の毒なほど優しい私は訊いた。
「そんなこと、どうでもいいんです……それより、あなたのページ、酷いこと書かれていたでしょう」
「酷いこと?」
「とぼけないでくださいよ」
サザンドラは口籠った。だが一息飲み込んでから、つぐんだ唇を紐解いて
「それは、私が凶暴ポケモンと呼ばれることだね」
と言ってみせる。私は頷いた。私が封印していたはずの言葉は、最も簡単に彼自身が唱えてしまった。サザンドラは続ける。
「まさか酷いなんて。そんなことは思わないさ」
穏やかな笑いを喉に宿して
「薄々と勘づいてはいたが、いざ知った時は驚いた。だが同時に納得できたよ。なぜ、昔から私の周りに他の子たちが来なかったか」
体が大きかったから。雑食性だから。
「でも不満に思うことではないさ。何故なら、それは大衆的な事実だからだ。自分を客観視する機会になったし、身を弁えて生きていこうと襟を正せただけだよ」
「そんな馬鹿正直に受け取ってーー」
「いいさ。君たちの世界で生きると決めたのは私だ。郷に入っては郷に従わねば」
私は彼を見つめることが出来なかった。背後に佇む落日が、あまりにも眩しかったからだ。
「私もそこまでは鈍くない。いくつか探りを入れたし、博士とも話していたが、まさか君はずっと私の心配をしてくれていたのか」
彼は尋ねる。
「どうして君がそんな心配をするんだ。これは私の問題じゃないか」
私は答えた。
「どうしてでしょうね。そういう仕事に就いているからだと思います」
彼はしばらく無言だった。いつもは私の仕事を褒めて労ってくれるのに、今日ばかりは何もないようだ。
ようやく真ん中の首が咳払いを試みて、話す。
「そうか。君はそういう人だったね」
視線を私のどこかに落とし
「もっと早く告げるべきだった。大丈夫。大丈夫なんだよ。私はそのくらいのことで、折れはしない。絶望しない」
サザンドラは祈るように眼を薄く瞑る。
ーーこの言葉でも足りはしないのだろう。
ーー君は優しいひとだから。
ーーじゃあ、こう言ってみせようか。
瞬き。
刹那、彼の器官の奥底から凄まじいほどの瘴気が溢れ、怒涛の勢いで押し寄せるのを私は直感した。それが“彼”という器から“怪物”が飛び出した
大気は業火に煽られたように、チリチリと軋みながら爆ぜる。燃焼せんばかりの紅の双眸が私にぶつけられる。茫然、狼狽、驚愕……全てを飲み干して、降臨した最強の怪物は
「まさか。サザンドラが、そこまで弱く見えるとでも?」
風は止んだ。怪物の発言に有無を言わせるものはなかった。
「凶暴で獰猛で残酷なサザンドラが、それしきの言葉ごときに負けると本当に思ったのかい?」
私は首を振らなかった。言葉で返した。
「そんなの、ずるいじゃないですか」
「仕方ないさ。サザンドラなんだから」
答えは軽薄だ。だが、紛れもない真実であった。
「嫌になったら、すべて終わらせる。そのつもりでここまで来たんだ。もう引き返す気などない」
そのとき。
上空から横槍を入れるように、響くうなり声が挙がった。彼方。夕雲に隠れたカイリューが橙色の
「長い話は嫌いか。いいだろう」
サザンドラは薄く笑い、喉の奥で低く吠える。そして、ゆっくりとした瞬きと一緒に、化け物の幻影を潜めた。風が動き出した。夕方の寂寞のなかには、いつもの彼がいた。
「……それだけじゃありませんよ。50年。あなたが言葉を勉強した歳月です」
「そうだね」
「それさえも報われていないんです。それでもですか」
「無論だよ」
彼は言う。
「だからって、君と過ごした日々までが消えるわけではないんだ。私はそう信じている」
西日の熱を思う。人間ならば、そんな恥ずかしいことを言えないだろう。だが、そうか。彼は怪物なのだ。ならば、仕方ないのかもしれない。
彼は夕風に翼を翻しながら微笑む。
「さあ、もう少し歩こうか。見せたいものがあるんだ」
*
ようやく夕方の光にも眼が慣れてきた。
午後6時。
時報のチャイムが聞こえる。辺りに『スタンド・バイ・ミー』が反響した。じきに帰らねばならない時がくる。終わりの瞬間が、闇の輪郭を鮮明になぞりながら近づいてくるのを、夕方の隅っこで直感していた。
果たして、どれだけ二人で歩いたことだろう。私たちはさらに奥の外れまで来た。ろくに管理もされていない木立に脚を踏み入れる。いよいよ誰もおらず、道という道すら消えかかった道を私たちは歩んでいた。
「サザンドラ。もうすぐで時間になりますよ」
「ああ、でも大丈夫。着いた。確かにここだ」
木漏れ日の中。突然、彼はクイっと顎で指し示す。
そこには一棟の廃墟があった。大きさはちょっとした商業施設と言うべきだろう。平屋根で屋上つき。苔や蔦、クローバーの群落に飾られたコンクリートの壁は朽ち果て、所々から鉄筋が剥き出しになっている。こんな場所があるのか。私は訊いてみた。
「何ですか、ここ」
「昔、航空灯台があった観測所のようだ。今は誰もいないが、凄い場所らしい」
「ほお、なるほど」
「ささ。お目当てはここの屋上だよ。立ち入り禁止ではない。中に階段があるはずだから登ろうか」
足元が悪いみたいだから気をつけて。
言われるがまま、建物の中へ踏み込む。そういえば私は適当に相槌を打っていたが、彼の口ぶりから推測するに、どうやらサザンドラも初めてここへ来るらしい。なおさら目的は不明だ。が、私は彼の背中に着いて行くだけだ。
廃墟の中も、もちろん風化している。羽ばたくゴルバットの姿が見えた。薄暗い。
「分かりました。本でここを知ったんですね」
「ご名答」
「何の本ですか。『イッシュ廃墟全集』は持ち込んでいませんが」
「すぐに分かるよ。ほら、もうすぐだ」
三階ぶん登ったと思う。
屋上へ出た。低い金網で囲まれた陸屋根の上は意外と綺麗だった。空調や高架水槽はすっかり撤去されて、端に小さなベンチだけがある。眺めはいい。遠目に街並みが見えた。ビルや巨大クレーンの影、四輪駆動の灯やネオンサインの集合が望める。
だが、それだけだ。彼の目当てと思しきものは分からない。
「それで、見せたいものとは」
「こっちだよ。こっち。こっちを見て」
忙しなく彼は私の肩を撫でた。すると、どうだ。彼は胸を反らせて鼻息を吹き鳴らす。
そこにあったものとはーー
夕焼けだった。
さっきから何度も見ていた、夕焼け。
ただ、それだけ。
「うん、凄くいい感じだ。来たかいがあった」
疑問符は何個まで並べるのが許されているだろう。私はまだ釈然としていなかった。彼が身じろぎもせずに見入っているものは、もしや私が計り知れないほど小さく珍しい鳥の姿かもしれぬのだ。
「夕焼けですか」
「うん、そうだよ。『イッシュ夕景100選』のコラムに載っていたんだ。隠れた穴場だって」
だが、どうも落ちはないらしい。しかし私は落胆せず、むしろ安堵した。彼らしいと思った。
「綺麗ですね」
「君もそう思うかい」
「ええ」
「よかった。ずっと来てみたかった。それに」
「それに?」
「ずいぶん前だが、君が綺麗な夕日を見たいと言っていたから」
私はハテと首を傾げた。
「そうでしたっけ」
「む、私の気のせいかもしれない。まあ、いいか」
風はどこかへ吹いている。サザンドラは茶目っ気な笑いを寄越した。彼が笑うとき、目が細く弧を描くのだ。それは私が好きな顔のひとつだった。
「でも……本当に綺麗」
おもむろに私は呟く。月並みの感想だと思う。しかし、それは少なからずの本心だ。やがて来る暗闇を知らぬように燃え上がる空の熾火は圧巻だった。視界を阻むものは何もない。赤く赤く、天地の果てまでが赤く染まっている。
そのとき、隣で小刻みに震える彼の身体が見えた。声を押し殺して、まだ笑っているようだ。
「分かっていますよ。今頃ポエムが流行らないことなんて」
「違うよ。君も、私と同じことを考えていると思うと不思議でね。何だか嬉しくなったんだ」
夕方のセンチメンタルは、私たちを饒舌にしてくれる。
彼は続けた。
「いいものだ。同じ世界を生きるだけで、喜びも嬉しさも悲しみも分かち合える。こんなに素晴らしいことがあるものか」
私は頭のレポートに、目の前の光景と彼の言葉を刻んだ。焼き増しする必要がないほど、私は強く強く思った。
私は今日を忘れはしない。
「本で読んだより綺麗だ。これでよかった、これだけでよかった……いいなあ」
サザンドラは私に言おうとした。
「ありがとう。君との時間は楽しかった。またいつかーー」
「サザンドラ」
私は全てを制する。
「しゃべりすぎです」
彼は三つの頭に笑顔の兆しを浮かべて頷いた。
そして、私たちは静かに今日の終わりを迎える。空はありったけの熱を帯びて、日は近く沈もうとしていた。
*
このダンボール一個で、全部が片付くことだろう。
翌日。
彼はもういない。昨晩、彼は大型トラックに揺られながら、無事に別の保護施設へ移送された。特段トラブルもなく、全てが順調に進み、全てが静かに終わった。終わってしまったようだ。そういう旨の連絡を私が受け取ったのは、今日の朝である。
手を動かす。私はまだ152号室にいた。運搬代車と山ほどの梱包箱に囲まれながらだ。部屋に残された備品や本をまとめて、彼の行き先へ送らねばいけないのだ。この雑務ばかりは自分の仕事である。業者は近々来るはず。急がねばならない。
本棚の右方から一冊一冊取り出して、ダンボールに詰め込んでゆく。丁重に、丁寧に。大きさも厚さも違う冊子を、パズルのように並べてゆく。まるで思い出を清算しているようだ。ただの思い過ごしにすぎないが、私は途中そう考えた。
最後の本を入れ終える。すると、後ろから「ねぇ」と影が伸びてきた。それは私がよく見知った手だった。
「はい、忘れ物」
一瞬だけ声が出ない。アララギ博士が私に渡す。『世界ポケモン大全』を受け取った。修繕から帰り、図鑑はすっかり過去の姿に戻っていた。
「これも入れてあげましょう」
「はい。ありがとうございます」
箱にしまおうとした。だが、その前にやることがある。私には眼に焼きつけておきたいページがあった。私があの日、越えられなかった場所だ。
『全国No.635 サザンドラ
凶暴ポケモンの名を冠する、特級の危険生物である。三本の首と強靭な青い皮革が象徴的だが、特筆すべきはその異常な攻撃性だ。テリトリー保持や捕食行動に限定せず、「屠る」「いたぶる」ことを目的とした行動を多々とるーー。
ーーだが、十数世代以前のサザンドラは極めて中立的な生物だったと、一部の文献が示している。では、なぜ彼らは凶暴性を獲得したか。それは、かつて三本首の異形が邪悪と見なされ、人間から迫害されたことに由来するという。サザンドラは世界に適応するため、凶暴の路を約束したのだ』
印画紙の上で、サザンドラは首を持ちあげ牙を晒し、身体の奥底から咆哮している。奇しくもそれは、私が昨日見た夕影の姿と一致していた。
「行きましょうか」
「はい」
ダンボールに図鑑を入れて荷台に乗せ、私たちは部屋から出た。開け放たれた空っぽの部屋を一瞥し、私はもう振り返らなかった。
この扉の先には誰もいない。