一緒にいたら、僕は君を壊してしまうよ。
だから、これで……、これでよかったはずなんだ。
「
ようやく高校受験が終わり、中学での生活もラストスパートに差し掛かっていた。今日の終わりのSHRも終わって、幼馴染がいつも通り僕を帰路に誘う。
「ちょっと待って。学級日誌書かなきゃだから」
いつもなら僕もスッと席を立ちあがって、「帰るかぁ」とか言いながら彼女の横に並ぶのだが、あいにく今日は日直の仕事である学級日誌を書き終えていないのだ。幼馴染はさらにこちらに近づいてきて、僕の手元を覗き込む。彼女の横顔が、眼前に現れる。
「あとは『今日のひとこと』だけだね。何を悩んでるの?」
彼女は、一番最後の空欄を見て、それから不思議そうに聞いた。
「これ書くとき悩まない? 『今日のひとこと』」
「うーん。悩んだことないなー。今日思ったことをそのまま書いたら、逆に枠をはみ出しちゃうんだー」
実に香澄らしい答えだった。僕の幼馴染、
「何してるの?」
香澄が書いた日のページたちを見ながら思いに耽っていると、香澄が尋ねてきた。
「他の人が何書いてるのかなって。参考になるかもしれないし」
その実、香澄の書いたところしか見ていないが。僕が日誌をペラペラめくっていると、香澄が「あっ」と言って僕の手を止めた。
「どうした?」
「このページ……」
香澄の指し示すページを見てみると、『今日のひとこと』欄に『今日も四谷と戸山がイチャイチャしてました』と書かれている。この日の記入者は……西沢だ。僕の友達である。ただ、香澄と僕が話しているのを見ては、「早くくっつけ」だの、「リア充爆発しろ」だの、「ふざけんな鈍感系主人公」などと言ってくる。それ以外はとてもいいやつなのに。くっついてほしいのか、くっついてほしくないのかどっちなんだ。そもそも僕と香澄は恋仲ではないぞ。何より僕
「気にするなよ。西沢はいつもこんな感じだろ? まさか、日誌内でもこんな感じだとは思わなかったけれど」
「うん……」
日誌内に自分の名前が急に出てきて、恥ずかしかったのだろう。とりあえず、フォローはしておいた。西沢が書いた他の日の『今日のひとこと』も確認してみる。すると、毎回のように僕と香澄について言及している。『今日はみんな元気でした。ちなみに、四谷と戸山は相変わらず仲がいいです』、『四谷と戸山はあれでくっついていないらしいです。なぜでしょう』、『このクラスで後任のカップルと言えば、四谷と戸山であると全員が答えるでしょう』という感じだ。最初以外、クラスの概要についてほとんど言及していないのは、学級日誌としてどうなんだ。しかし、担任のコメントを見ても、『それは良かった』、『なぜでしょう。またそれも青春』、『いいですねぇ……。青春ですねぇ……』という始末だ。あの担任は青春をどう考えているのか。というか、コメントがワンパターンすぎるだろう。僕は大きく溜息を吐いた。これ以上日誌を見ていても、溜息を吐く回数が増えるだけだろう。西沢は明日どうにかすることにして、担任に対しては、『今日のひとこと』に『どうやら僕が、卒業式前最後の日誌の記入者になるみたいですね。ワンパターンだった先生のコメントも最後くらいは変わるのでしょうか?』と皮肉たっぷりに書いておいてやった。
「香澄。書けたから職員室にこれ届けてくるね」
「う……うん。校門で待ってるね」
職員室で担任にこれを手渡した後は、ダッシュで逃げなきゃな。引き止められることは確実だから。自席から立ち上がって、僕は職員室へと急いだ。
日誌を担任に手渡し、「失礼しました」と職員室を出た瞬間、ダッシュで校門へ向かった。香澄は、校門の傍にある桜の樹の下に立っていた。
「お待たせ」
「わっ。早かったね」
「早く帰った方が有意義な時間が過ごせるからね」
ただ担任から逃げたいだけなんだけど。僕は香澄と一緒に歩き始めた。
珍しく、今日は僕と香澄の間に会話がなかった。いつも真っ先に話し始める香澄が話し始めないのだ。こういうことは滅多にないので、少し心配になる。
「香澄。どうし……」
「勇真く……」
声が被った。僕は目線で香澄に続きを促す。しかし、香澄はもじもじとして話そうとしない。
「ごめん。気にしないで」
そう言って香澄は歩き出した。本当に、今日の香澄は変だ。
横断歩道を二つ、三つと越えても、香澄の家のもうすぐ近くというところに来ても、香澄は言葉を発しなかった。なぜか何かを憂慮したような面持ちで横を歩いているだけだ。
「どうしたの?」
僕は聞かずにはいられなかった。
「いや……その……」
「とりあえず、そこの公園で話さない?」
僕は、香澄の家の少し先にある公園を指し示す。香澄は逡巡したような表情を浮かべて、しばらく目線を泳がせていたが、やがてゆっくりと首肯した。
僕らは公園に入って真っ先に向かうのは、ブランコだ。小学生の頃から、この公園のブランコに並んで座って話すことがお決まりとなっている。入口に近い方に香澄が座って、その奥の方に僕が座る。これも、小学生の時から変わっていない。
「どうしたの?」
こうやって尋ねても、香澄は歯切れ悪く言葉を濁すだけだった。しばらく、こちらをチラリチラリと伺いながらも、香澄は黙っていた。香澄がこれほど話し始めないというのは、本当に珍しい。香澄が僕に相談してくることはあっても、こうやって僕から悩んでいることを聞き出そうとしているのも、経験がない。僕は、黙って香澄が話してくれるのを待つことにした。空が、だんだん赤くなってくる。
夕日が住宅街の陰に隠れて、空が赤黒くなってきた頃、ようやく香澄は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ねぇ。……勇真くんは、私のこと、どう思ってる?」
なんだか、いつもの香澄らしくない質問だった。人のことを探って、疑っているような。
「どうって……。僕は友達だと思ってるよ」
「そっか……」
そう言って、再び香澄は黙ってしまう。質問の真意を確かめようとした瞬間だった。
「私のこと、嫌いじゃない?」
「……え?」
思わず、呆けた声が出た。
「何で、そんなことを……。嫌いだったら、今も一緒にいるわけないじゃないか」
僕が、香澄のことを嫌い? そんなはずがない。僕は香澄の質問の意図を、微塵も掴めなかった。
「何で、私が花咲川に合格したことを伝えたとき、笑ったの?」
僕は、眉間にしわが寄っていくのを感じた。
「そんなの……、友達が第一志望の学校に受かったんだから当然じゃないか」
「そうじゃないよ。あの時の君の笑みは……、嫌なことから
僕に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「香澄の、気のせいじゃない?」
「絶対、そうじゃない。……私も、勇真くんを小学校の時から見てるんだもん。わかるよ」
僕は顔を伏せ、唇を噛んだ。今度は、僕の黙る番だった。
「私は、勇真くんのことが好きだよ」
僕は顔を上げた。もう完全に日没して辺りは薄暗い。後ろの住宅街にある街灯が僕らを照らしていた。綺麗なアメシストの虹彩が揺れている。
「勇真くんは、私のことを変って言わなかったし、私の話を馬鹿にせずに聞いてくれた」
だって、おかしいじゃないか。楽しそうに、僕らの知らない、綺麗な話をする子を変だって揶揄うなんて。
「勇真くんが今まで一緒にいてくれて、私、すごくキラキラドキドキしてたよ」
そうじゃない。『キラキラドキドキ』させてもらっていたのは、僕の方なんだ。
小学三年生の頃、喘息の影響で休み時間、外に遊びに行けなくて、一人で本を読むしかなかった僕の傍に来てくれたのは、香澄だった。
「ねえ! 何でいつも教室で本を読んでるの?」
いつも通り、僕が一人ぼっちで本を読んでいた時だった。後ろから急に声を掛けられたんだ。
「皆の所に行かないの?」
その頃から僕は、集団から外れたことをすると、仲間外れにされたり、揶揄われたりすることを知っていたから、香澄を心配して聞いたんだ。
「キミが何してるかの方が気になるもん!」
僕の心配もよそに、香澄はぱぁっと輝くような笑顔で答えたんだ。
香澄は僕にとって、救世主になった。
その時、読んでいたのが星座の本だったこともあって、僕と香澄は直ぐ仲良くなった。僕が、今まで本で読んだ星の話をすると、香澄は『ホシノコドウ』について話してくれた。『キラキラドキドキ』について教えてくれた。香澄は、他の子とはものの見方や感じ方が違って、自分の言葉を持っていた。僕も、最初は香澄が何を言っているかわからないこともあったけれど、次第に感覚的にわかるようになっていった。香澄は、僕に知らない世界を見せてくれたんだ。
香澄は僕にとって、憧れになった。
ただ、周りからすると、やはり僕と香澄は異端者だった。変なことを言い合っているようにしか見えなかったのだろう。僕と香澄はよく揶揄われた。僕だけならまだよかった。昔から、皆の輪に混ざることができないことには、もう慣れっこだった。でも、香澄に対する揶揄いは別だ。本来、香澄もあちら側にいたんだ。それなのに、僕の所に来てしまったばっかりに、同類とみなされて揶揄われてしまうのだ。僕のせいで香澄が傷つくのは、許せなかった。さらに、香澄は突拍子もないことをよくする。とても、無鉄砲で危なっかしい子だった。だから僕は、進んで香澄の盾になったし、ストッパーになった。
香澄は僕にとって、守らなきゃいけない存在になった。
香澄は、僕を『キラキラドキドキ』へと連れ出してくれた。半ば、振り回された感じがあるけれど。でも、嫌ということは決してなくて。とても楽しかった。気が付けば、小学校を卒業する頃には、喘息も快方に向かっていた。香澄といれば、世界はどこまでも広がっていく気がしたし、実際そうだろうと思っていた。
僕と香澄は、中学生になった。香澄は、相変わらず毎日『キラキラドキドキ』を探していたし、突飛で無鉄砲だった。環境は変われど、香澄の芯の部分は変わらなかった。対して僕は、そんな香澄を見てだんだん心配になっていった。中学生になれば、自分の進路のことも考えなきゃならない。僕は、香澄に度々忠告をした。『キラキラドキドキ』もいいけれど、将来のことも考えた方がいいよ、と。その度に、香澄はシュンと落ち込んだ表情になった。僕は、自分のことを香澄のストッパーだったから、この役回りは当然だと思っていた。
「勇真くん。なんだか、大人になったみたいだね」
ある日の帰り、香澄は不意に言った。
「自分の将来のことをちゃんと考えてて……、私もそうならなくっちゃ」
香澄は、寂しげな表情でそう零した。僕は、大きな間違いを犯していたんだ。
僕は、気付いてしまった。香澄の追い求める『キラキラドキドキ』に、中学生になった僕は共感できなくなっていることに。あれほど綺麗だと、守りたいと思っていた香澄の在り方を、僕は否定するようになっていたんだ。僕は呆然とした。大切なものを失ってしまった空虚感が僕を支配した。
それからの僕は、香澄をこれ以上変えてしまわないように立ち回った。必死だった。僕のせいで、香澄の在り方が完全に変わってしまうことに、ひたすら怯えていたからだ。でも幸い、香澄は花咲川女子学園という『キラキラドキドキ』できる場所を見つけた。僕は地元の高校を目指していたから、高校で僕と香澄が別々になる可能性が高い。寂しい気持ちもあった。でも、香澄が僕と離れたところで輝き続けていれば、それでいい。香澄は、この世界の主人公であり、遠い空の向こうで眩く輝く一等星であるべきなんだ。
「私は、勇真くんの負担になってた? キラキラドキドキしてたのは、私だけだった?」
違う。僕は即座に否定した。
「そんなわけない! 僕は、香澄のおかげでキラキラドキドキを知ることができたんだ!」
香澄のためになる負担であれば、僕はいくらでも甘んじて受けた。香澄が僕を『キラキラドキドキ』に引っ張っていってくれたのは、紛れもない事実だった。
「じゃあ……、勇真くんは、私のこと、好き?」
「うん。好きだよ」
「それは……、友達として? それとも……」
息が詰まる。香澄にとって、僕は間違いなく
「僕は……、香澄と一緒にいちゃいけないんだ」
一緒にいれば、僕はまた君を否定して、君の在り方を変えてしまう。僕にとっての恩人であり、憧れであり、守らなきゃいけない君を、自らの手で壊してしまうんだ。だからその時、僕の口から出た言葉は、香澄に対する拒絶だった。
「何で……。何で……!」
そう言いながらブランコから立ち上がった香澄が、隣のブランコに座っている僕に縋りつく。目をキュッと閉じ、大粒の涙を流しながら。
「ごめん。これは……、僕のせいだから。香澄のせいじゃないよ」
暗くなった公園に、香澄の嗚咽が漏れる。僕は、縋りついている香澄を宥めることしかできなかった。