そういえば去年はてんやわんやだった、と戸山香澄は腕組みする。肘にずり落ちたエコバッグから息継ぎするフランスパンが紙袋の口を押し広げながら頷いて、隣のチョココロネとアップルパイも異論なく見上げていた。柔らかな風が香澄の髪に張り付いていた花びらを掬い取って袋へ摘み落とす。午後のおやつと春の匂いがふんわり混ざっても、彼女の顔はまだ険しい。
目の前にはガラス窓いっぱいに両手を広げて笑うやまぶきベーカリーの朗らかなロゴマークと、小さな張り紙ひとつ。
「商店街のお祭り、さーやが忙しそうなんだよなぁ……」
共にバンドを組んでいる優しい親友、山吹沙綾の申し訳なさそうに揺れたポニーテールを思い出す。
彼女の家が営むやまぶきベーカリーが世界一のパン屋さんであることに疑いはないが、それを知るのは残念ながらこの商店街の人たちに限られていた。お祭りの開催にあたって繁盛が見込まれるとなれば歌いだしたくなるほど喜ばしいし、自分たちのバンドが後回しになるくらいどうということはない。しかし、責任感とバンド愛の強い沙綾がそれで悲しんだらと思えば香澄の眉までしょんぼりしていく。
元気付けてあげられないだろうか。沙綾を省いて四人だけでバンドをやろうとは思わないものの、自分にできるのは音楽くらいだし。
「むむむ……ダメだ、パッとは出てこない!」
「どうしたんだ? そんな難しい顔して」
「巴ちゃん! あこ!」
「よ、香澄」
「こんにちはーかすみ!」
バンド仲間で友達なふたりとばったり出くわした。どことなく顔立ちの似た姉妹、背の高くスタイルの良い姉の宇田川巴は片手を軽く上げてにかっと笑い、ツインテールで小柄な妹のあこは右手を大きく振って満面の笑みを浮かべた。香澄も「こんにちは!」と手を振り返す。
手を繋ぐようにふたりで持っている袋には銀河青果店の文字が踊っている。ひょっこりとネギにゴボウ、頭の隠れ切らない白菜、春菊。すき焼きだろうか。戸山家では妹の明日香が部活上がりかどうかでお肉の優先権が変わるけれど、この姉妹は仲良く分け合っていそうで微笑ましい。
向こうも似たようなことを思ったのか、あこが香澄のエコバッグに顔を輝かせた。
「良い香り〜! お買い物中?」
「うん! あっちゃんと一緒に食べるおやつと、明日の朝ごはん! そっちはおゆはんの?」
「あぁ。なんか、家族全員すき焼きの気分だったから急遽な」
「今宵は祝祭の……えーと、別に記念日じゃないけど……豪勢なる……うーんと……とりあえずご馳走! これから北沢精肉店行ってお肉買うの!」
「いいなぁ〜……私もついてっていい?」
「いいぞ! なに買うんだ?」
「…………す、すき焼きコロッケ」
「あすかにはナイショにしなきゃね……」
即座に真剣な顔をしてくれるあこは本当に良い友達だと香澄は思った。巴はちょっと苦笑した。年上には敬語を使いなと言いたいが、香澄はたとえ年下であれ友達に敬語を使われたら嫌がりそうだし、そもそも年上の大親友がいるあこにそれは野暮だ。仲が良いならそれに越したことはない。
三人連れ立って北沢精肉店に向かう道すがら、はしゃぐふたりから荷物を引き取って穏やかに眺めていた巴がふと尋ねた。
「そういえば香澄、さっきはなに悩んでたんだ?」
「あっ、そうそう! 今年ね、さーやのお家も屋台出すんだって! でも、そうするとお手伝いで忙しくなっちゃうからポピパのライブは出来なさそうだなーって。私たちはさーやに無理させたくないし、やまぶきベーカリーが繁盛してくれる方が嬉しいから行っておいで! って感じなんだけど……」
「あー……沙綾は気にしそうだなぁ、それ」
「去年のライブも楽しそうだったもんね」
同じ商店街青年部として巴もあこも沙綾の人柄は承知していた。実家のパン屋を昔から手伝っている心優しい女の子。病弱な母の代わりを務めるのだという責任感に溢れた子で、ちょっぴり自己犠牲的な節があるのが玉に瑕だった。
「ポピパでライブすると沙綾に無理させちゃうし、でもお手伝いするのは」
「屋台だとなぁ。狭いし回転率上げなきゃだし、あんまり大人数いても邪魔になるかもだ」
「そうなんだよぉ〜……だからせめて元気付けてあげたいんだけど、沙綾抜きでライブ出て『頑張れ〜!』って曲やっても寂しがらせちゃうだけだろうし……」
「あ〜……」
五人の居場所を作るために結成された幼馴染バンドの屋台骨と青春ドラマを経て生まれたキラキラバンドのフロントマンが「むむむ……」と唸るのを、今やすっかり仲良しとはいえ頂点を目指すバンドとして集まった凄腕集団に身を置くあこは不思議そうに見る。
「バンドで演奏したいの?」
「え? うん……私にできるの、お手伝い以外だとそれくらいだし」
「じゃあ、いろんなバンドから呼んで来たらいいんだよ! Roseliaは今のところライブの予定ないから、あこ参加できるし!」
「……い、いいの!?」
「うん! 自主練にもなるから、友希那さんも怒んないと思う!」
どんと胸を叩いてあこが言い放つ。偉大なツインテールが威厳たっぷりに震えて、香澄は「おおおお……!」と感激に思わず手を合わせた。
「ありがたやーッ!」
「ふふふ……深淵なりし智慧の……聡明な……かっこいいあこ様に感謝するといいよ!」
「あこ様ーッ!」
「はーっはっはっはっ!」
調子に乗ってるなぁ、と可愛い妹の少し背の伸びた後ろ姿を和ましく見ていたら、沙綾の気持ちがよくよくわかりそうな幼馴染の顔がふと思い浮かんだ。羽沢珈琲店は確か屋台の出店はなかったはず。看板娘のつぐみがシフトを増やしていて、マスターのつぐパパが心配そうにしていたから間違いない。
「じゃあ、アタシはつぐに声掛けてみるかな。なんか手持ち無沙汰みたいだったし」
「え、おねーちゃんは? やらない?」
「おいおい、ドラムふたりいたら手狭だろ。それに……」
巴はふたつの買い物袋を下げた右手で力瘤を作って、大きな背中を見せつけた。
「アタシはアタシの
「姉御……!」
香澄はもう一度平伏した。
お肉も無事に買ったところで荷物を全部引き取って「話も長くなるだろ? あこはゆっくり帰ってきな。つぐにはアタシから声掛けとくから」と巴は男前に去って行った。すき焼きコロッケ片手に。
北沢精肉店のコロッケは世界一美味しい。香澄は本気でそう思う。なんなら百個食べてもまだいけるとも思っているが、お小遣いが足りないのですき焼きコロッケ一個に食欲の全てを託した。年上の見栄であこにも奢ろうと思った矢先「あ、かすみにも奢ってあげる! Roseliaのライブの取り分で結構あるんだー」と無邪気に言われてちょっぴり傷ついた。いいもん、ポピパだってすごいもん。
「あ、かーくん! あこちんも!」
「はぐ! こんにちは!」
「こんにちはーはぐみ!」
「急にとーちゃんに呼ばれたからびっくりしたよ! どしたの?」
店主と入れ替わるように、奥から娘のはぐみが顔を出した。スポーツ少女らしい短い髪とくりくりの可愛い目は元気溌剌で、彼女の所属するバンドでも外見通りの明るくワクワクするようなベースを弾いている。今日も練習帰りなんだろうかと香澄は当たりをつけた。同じバンドのりみも練習後はこんな風に頬が赤らんでいるから。
商品棚に両手を置いてぴょんぴょんと嬉しそうなはぐみは、ふたりの顔を交互に見て首を傾げた。
「かーくんとあこちんだけ? トモちんはいないの?」
「うん、おねーちゃんはちょっと用事があって先にね」
「用事?」
「ふっふっふ……」
香澄は情けなさからの反動とすき焼きコロッケの美味しさで無意味にカッコつけだした。さっきのあこがカッコよかったのもある。ビシッと昔馴染みの顔を指差して、香澄は今3秒くらいで考えた名前を口走った。
「はぐ! 私たちと『商店街応援フレフレバンド』やろう!」
「え!? やりたい! やろ!」
「えぇ……」
一も二もなく飛びつくはぐみに引いた顔をするあこは案外常識人だった。
「ドラマーはあこね! で、巴ちゃんはさっきまでいたんだけど、先に帰ってつぐに声掛けに行ってくれてるの!」
「かーくん、はぐみ、あこちん、つぐ……いいね! 元気出そう!」
「だよねだよね!」
「あれ、でもポピパは? ポピパはライブやんないの?」
「……うん。えっとね」
宇田川姉妹に説明したようなことをもう一度繰り返しながら、香澄の心の中にはモヤモヤと澱が降り積もりつつあった。ポピパでも演奏ができるならそれに越したことはない。でも、この新鮮な面子でライブをしたいのも本心だった。
「なるほどねー……うん、協力するよ! さーやの元気は商店街の元気!」
「はぐみはお祭りでお手伝いとかない? 大丈夫?」
「だいじょーぶ! うちは数量限定でパッと売ってパッとおしまいだから! 鮮度がいのち!」
あこの心配も笑顔で拭い去る肉屋の娘の頼もしさたるや。香澄とあこはもう一個ずつコロッケを買った。おまけが一個ずつついた上にお釣りと称して全額帰ってきて、男泣きする店主の経営がちょっと心配になるふたりだった。
そんな一幕を眺めながら、はぐみは小さく呟く。
「こころんたちも誘ってみよっかな」
「ってわけなんだけど……つぐ、どうだ?」
「わ、やりたい! 楽しそう!」
相当手持ち無沙汰だったんだな、と巴は苦笑いした。急いで荷物を置いて一息ついたら甘いものが欲しくなり、つぐみに会いに行くならせっかくだし新作のパフェでもとお財布を握り直した彼女を羽沢珈琲店で出迎えたのはちょうどお目当ての看板娘だった。巴が来た瞬間に休憩を言い渡されたあたり無理を言ってホールに君臨し続けていたに違いない。このワーカーホリックはなんとかしないとなぁと思っていると、後ろの席から声が飛んできた。
「つぐちゃんライブするの!?」
「ちょっと日菜……マナーが悪いわよ」
「えー」
羽沢珈琲店常連の姉妹、氷川紗夜と日菜だった。ロングヘアの麗しい姉の紗夜はコーヒーを啜りながら妹の態度に難色を示すが、日菜に気にした様子はなく……いや、むしろ構ってもらえて嬉しいとばかりに満面の笑みを浮かべる。少し前までは大きなすれ違いのあったふたりだが今は並んでスイーツを味わいに来ることも増えていて、うっすらとはいえ険悪だった当時を知るつぐみとしては氷川姉妹の来店が小さな癒しになっていたりもする。
巴はつぐみの苦労の何割かは同じ生徒会に身を置く日菜のせいだと踏んでいたが、日菜の方に振り回しているつもりは一切ないしつぐみもなんだかんだ楽しそうなので、今のところは何も言えないでいる。紗夜も神経質そうな眉を申し訳なさそうに下げるだけでそれ以上は言わない。
ふたりの様子を都合よく解釈した日菜は、ふわふわなフレンチトーストとカフェオレを手につぐみの隣へ席を移した。
「『Y.O.L.O!!!!!』を作ってもらったときから思ってたんだけどさー、一回つぐちゃんのオルガンでギター弾いてみたかったんだよね。イヴちゃんも上手くなったけど、つぐちゃんのちょっとジャズロックっぽい感じはパスパレじゃやんないから」
「あなたがやりたいと言ってなんとかなるものでもないでしょう。発案者が戸山さんならまず彼女に」
「あっ、香澄ちゃんもいいって! ほら!」
「…………」
「に、苦々しい顔に……!」
フットワークの軽い人間が集まると真面目な人間は大変なんだな、と巴はだんだん他人事の顔をし始める。Afterglowがほどほどにはっちゃけてほどほどに真面目な集団で良かったと安堵しコーヒーを一口啜るが、ちょっと待った、このフッ軽集団には妹と幼馴染が巻き込まれている。
「……つぐ、本当に大丈」
「日菜先輩、私実はやりたい曲があったんです! Afterglowでやるにはちょっとポップすぎるかなって思って温めてたんですけど」
「なになに!? るんってくるやつ!?」
「このネットで流行ってる曲で、『Hurrah!!』っていうんですけど……」
「……大丈夫そうだな。ま、あこもいるしなんとかなるか」
「……宇田川さん。妹がご迷惑をおかけしてすみません」
「まあ、みんな良いやつですし滅多なことにはなんないですよ、きっと」
ましてや動機は『友達を元気づけるため』だ。その目的を忘れる香澄ではない。
メンツが決まって曲も決まって、楽器を担ぎ出してCiRCLE集合まではその日のうちだった。お夕飯まで3時間くらい、スタジオに入ってハイタッチしたりハグしたり、気分を上げるだけ上げて向き合うのは原曲の雰囲気である。
一旦合わせてみて、どうにかコードでひとさらい追いかけた香澄は半泣きでキーボードを見る。
「つぐ……ひょっとして、結構転調する……?」
「そ、そうだね……」
つぐみの持ってきた曲は明るくて元気の出る素晴らしい歌詞で、しかも大人数で歌い回すバンドものというあつらえ向きのものだが、ネットに落ちていたコード進行を見ると結構な難易度だった。ぐいぐい転調を繰り返す進行は心に凄まじい推進力をもたらすが、それに手が追いつかないのは今のところ香澄だけ。
「細かいところは雰囲気で覚えちゃった方がいいんじゃないかな〜」
日菜がこともなげに言う。
「コードを覚えるのは難しいかもだけど、香澄ちゃんは曲のキーに合わせてなに弾こうとかは困んないでしょ?」
「いや日菜先輩、普通はそっちの方が困るんじゃ……」
「あっ、そうですね!」
「えっ」
「あ、かーくん! これ、サビはキーふたつずつ上がってくみたい! ほら!」
「あーっ! ほんとだ! ちょっとズラせばいけそう! 日菜先輩! ちょっと一回、こう、ノリでやってみていいですか!?」
「いいよいいよ、そっちの方がるんって来そう! コードはつぐちゃんに任せた!」
「えぇ……」
「つぐちん、頑張ろうね……」
高校生になって数週間、あこは少し大人になった顔でつぐみの肩を叩いた。特徴的な三三七拍子以外は基本的なポップスのそれで済むものの、香澄とはぐみが若干走りそうになるのを後ノリのスネアで引き留めたりキメのタイミングへ向けて緩急を分かりやすくつけたり、バンドの土台として敬愛するリサ姉譲りの気遣い力を在らん限り発揮していた彼女は、オルガンのボイシングを調節して香澄のコードミスを誤魔化しながら原曲通りに寄せようとするつぐみの努力にも当然気付いていた。
竿隊はウキウキである。実のところ下手でもなくて、はぐみは複雑なコード進行をコードトーンでしっかり縫い上げてメロディックなベースラインを唸らせているし、香澄も耳が曲を覚えだしてからは半ば自動的にコードを押さえられているあたりギターボーカル本業の面目躍如。日菜に至っては理論書を丸暗記しているためにアドリブまで自在だった。
どうにかなりそうではある。ただ少し、個性のぶつかり合いで散った火花が危なげなだけで。
香澄はアンプの上に置いたスマホを取ってもう一度コードの流れを確認する。覚えのある流れをやったことのある曲とぼんやり照らし合わせながらちょっと弾いてみて、歌メロを口ずさみながら噛み合いを確かめる。A#m7-5ってなんだっけ、と思いながら押さえるも、C#のパワーコードで問題ないぞと耳が言うのでどんどん簡略化していく。どことなく70年代ロンドンの香りがしてきていることに気づける人間はこの場にいないが、なんだか香澄の音が急速にロックンロールし始めたことは誰もが察していた。
スタジオ備え付けの大きな鏡に映る自分が構えるギター、ランダムスターは今日もかっこいい。恥じない音を出すには、とことんだ。
「もう一回、お願いします!」
「おっけーい。香澄ちゃん自由にやっちゃってね! あたしも自由にやるから!」
「はぐみはあこちんに合わせて頑張るね!」
「コード感は私が担当するから、香澄ちゃんは困ったらカッティングでリズムやっちゃっていいからね」
「はいそれじゃ、みんなまた耳栓してねー! ──3、2、1!」
「あ、香澄から」
今日の手伝いを終えて、数学の宿題もなんとかやっつけた夕飯前。大きく伸びをする沙綾のスマホがテーブルの隅で親友のテーマソングを鳴らした。なんとなく髭男の『パラボラ』にしていて、そのうちポピパでやりたいなとギターのたえと画策している。
何やら写真が届いていて、開くと異色のメンツが楽器を構えてピースサインしていた。背景の見覚えのあるTAMAのセットとAmpegの横のソファはCiRCLEのBスタと見た。真ん中でピースをするあこにはぐみ、身を乗り出してギリギリフレームインしてるつぐみまでは香澄が商店街から引っ張ってきたとして、後ろの日菜がどこからかぎつけてきたのかピンとこない。
「『楽しみにしてて!』……あー、なんかやるんだっけ」
香澄はどうやらサプライズにしたかったようだが、彼女も商店街の人気者だ。この商店街において明るい噂は元気な犬みたいに速く駆け回る。彼女があちこちでお祭りに向けて臨時バンドのメンバーを集めていたことは沙綾の耳まで届いていた。なんならお客さんみんなに「お祭りの日はあの子たちのライブ行くんだろ? 元気残しとかなきゃな」だの「なんかいいことがあるらしいね! ステージでなにかあるかもよ!」だの、ゲームのお助けキャラみたいに見え見えのヒントを残されている。どうも自分のためらしい。
一度、バンドと家族で板挟みになった心を香澄には救われている。沙綾は彼女の優しさを知っているから、自分を誘わなかった理由くらいは見当がついていた。やまぶきベーカリーが屋台で忙しくなりそうで、手伝いをしようにも返って邪魔になりそうで、沙綾だけ除け者にするくらいならポピパでの演奏はしない。でも演奏はしたかったのかなぁ香澄だしとほっこりしながら、心の奥底ではじんわりと寂しさが滲んでいた。
両手で持ったスマホを天井にかざすように掲げて、沙綾は背もたれにぐっと体重をかけた。目元にスマホの影が落ちる。
「……無理したかったなぁ、香澄となら」
別に、気を使わなくたってよかったのに。家のことが忙しかろうと、やる予定の曲がどれだけ難しかろうと、雨が降ろうと槍が降ろうとチョココロネが降ろうと、香澄が呼ぶならマゼラン星雲にだって駆けつけてドラムを叩くのに。
香澄の好きに振り回してくれてよかったのに。
「……よぅし」
一番ブレーキの無さそうな子から声を掛けよう。花園たえの名前をラインで呼び出した。
「ハロハピは演奏やんないのかぁ」
お風呂の中で指組みした腕をぐーっと伸ばしながら、はぐみはぽつりと呟いた。
バンドの仲間でリーダー、弦巻こころは世界を笑顔にするための活動に余念がない。楽しそうなお話は直接持っていこうと思って、練習の後に電話をして駆け足で弦巻邸に足を運んだはぐみを「あら、いらっしゃいはぐみ!」と太陽の笑みで迎えてくれたけれど。
話をするにつれ、だんだんと不思議そうな顔になっていった。
『はぐみ。香澄が沙綾を笑顔にするお手伝いなのよね?』
『うん! こころんもやろ? みんなで演奏したら、きっとみんな笑顔になるよ』
『やらないわ!』
『え……』
『沙綾のことをいっちばんわかってて、いっちばん笑顔にできるのはPoppin’Partyよね? でもポピパじゃなくて、他の子たちを香澄は選んだんでしょう? じゃあその方がいいのよ!』
こどもに一足す一を説くような優しい顔であっけらかんというこころに、はぐみはなんだか意外な気持ちになって……それから、ああ、こういう子だっけと思い直した。こころは傍若無人なようで思いやりに満ちた少女だ。自分たちの手では掬いきれないものがあることくらいは、はぐみのチームメイトの少女を励ますために奔走した件で痛感しているようだし。
『それにね、はぐみ。沙綾を笑顔にするための演奏をしたいと思ったら、今すぐにだってすればいいんだわ。でもはぐみは、香澄たちと演奏したかったんでしょう?』
『……うん。楽しそうだなって』
『じゃあハロハピじゃなくて香澄たちとやるべきよ! そうしたら沙綾だけじゃなくてはぐみだって笑顔になれるわ!』
でもその曲はワクワクして素敵ね……と思案顔をするこころにお礼を言って、黒服さんにお家まで送ってもらうついでにコロッケを振る舞いお別れした。後日またお礼をしたいところではあるものの、それより今はぐみの心を占めるのは彼女に言われたことばかり。
「そう思ったならそうするべき、かぁ」
白状するとだ。沙綾を元気付けたいのも本心だが、『商店街応援フレフレバンド』が楽しそうだったから、と言うのが比重としては大きい。
そしてはぐみは知っている。無理に気遣うより、楽しそうな姿をこれでもかと見せつける方が元気になれることもある。
「……お風呂出たら、もうちょっと練習しよ。メロディっぽくするより、ルートでぐいぐい行く感じで……」
考え事と共に畳んだ膝に顎を置いて沈んだ口元から泡が立つ。沸騰するみたいにぶくぶく、ぶくぶく。
日が沈む。夜が更ける。
北北西、空の渚にカシオペア座。
「あー、あ、あ、あー……わたーしのー、こっこーろはー」
「ちょっこっころっねー!」
「ありがとー!」
商店街のお祭り当日、マイクテストの最中。ふと思い立って呟いた歌詞に同級生たちからレスポンスが返ってきて香澄は両手をぶんぶん振る。CiRCLEから来てもらったPAの人からもOKサインが向けられてますますニコニコになっていく香澄を、ステージの最前で沙綾は見つめていた。楽しみと少しの寂しさで複雑な心中の彼女の肩を、小走りでやってきた少女がぽんと叩く。
「来たよ、沙綾」
「わっ、おたえかぁ。びっくりした……有咲とりみりんは?」
「まだちょっとツンデレ渋りしてる有咲をりみが引っ張ってくるはず」
「あー。それなら、確かにりみりんに任せた方がいいかも」
あの気難しくも可愛らしい親友は友人からのお願いにめっぽう弱い。まして庇護欲を誘うタイプのりみにかかれば今に絆されるだろう。じゃあいいか、とすっぱり思えるくらいには沙綾も友人たちの扱いに慣れていた。
「でも本当にやるの?」
「大丈夫、話は通してあるから知らないの香澄だけだし……おたえもヤでしょ?」
「うん。香澄に呼ばれたら月にだって跳んでくのに、声もかけてくれなかった。怒ってるよ」
そう言いながらぴょんぴょんと頭に手でウサ耳を生やすこの美人な親友はたぶん大真面目だ。沙綾は小さく笑って「香澄ー! 頑張れー!」とステージに手を振る。
ちゃっちゃっちゃっ、とギターを鳴らしてチューニングを確かめる香澄は親友の声が聞こえてパッと顔を上げた。満面の笑みでVサインをするとそれが妙に絵になって拍手が起こる。去年、予算の問題で廃止になりそうだったお祭りの危機に彼女がバンドを率いて立ち上がったからこそ今があるのだと知っている人は結構たくさんいた。
だからこそ、協力する人も多い。
「……よし、セッティングできたかな。お待たせ香澄ちゃん」
「あれ、つぐのキーボードいつもと……あ、これって」
「うん。ちょっと不調で急に修理することになっちゃって……有咲ちゃんに借りてきたの」
「やっぱり! このへんのちっちゃい傷見たことある!」
「あたしも準備できたよ! このアンプすっごい良い音するね、るるるんってする!」
「あっそれ、おたえのアンプ!」
「なんかまりなさんがね、アンプとかはポピパがいつも借りてるセットを出してくれたんだ! かーくんと一緒にやるならこれだね、って」
「おぉぉ……!」
香澄の胸の中でポカポカと火が灯る。春先のまだほんのり涼しい指先に血が巡る。五人お揃いの、絵の具を何色もはねさせた白いシャツの袖を捲ってギターを鳴らす。
最後に、いつのまにかスネアのチューニングを終えていたあこが鋭く一音高らかに打ち上げると、香澄はいよいよ全身が弾けてしまいそうだった。
(……あれ、あのスネア、なんか見覚えが)
「かすみ、あこも準備できたよ!」
「う、うん!」
暖かな商店街のよく見えるステージでマイクの前に立ち、ほのかにオレンジ色へ暮れていく空に深呼吸をひとつ。
「ふー……みなさん、こんにちは!『商店街応援フレフレバンド』です!」
「なにそれー!」
真っ先に日菜が刺した。「えっ」と本当にショックを受けた顔で振り向く香澄にあちこちから笑いが起こる。観客たちの端の方、日菜の身を置くアイドルバンドのメンバーたちがセンターの彩を見て頷いていたり、その本人は「か、可愛い! 可愛いよー!」と必死に声を上げている。姉でありあこと同じバンドでギターを弾く紗夜は「まったくもう……」と頭を抱えて仲間に宥められていた。
「お、おほん! 今日はオリジナルじゃなくてカバーなんですけど、すっごく素敵な曲見つけてきました! 知ってる人はよかったら一緒に歌ってください──『Hurrah!!』」
スティックを回しながらゆっくりと左手を上げていくあこの、ぐっと観客から一呼吸奪うタメからハイハットのカウントが四つ。スタンドから一歩飛び退いた香澄はギターのヘッドを上げて、振り下ろす勢いで背を向けメンバーと顔を合わせた。
エールソングらしい軽やかな三三七拍子で、爛々と目を輝かせる日菜と香澄がそっくりな表情をしているのにつぐみが吹き出す。オルガンのコードに勢いをもたらす短いグリッサンドにはぐみが楽しそうな顔をしてベースの音の切り方を寄せていって、あこは浮き足立つような心地のままみんなに寄り添ってビートを敷いた。足下はぐっと固く飛び出すには十分、イントロの折り返しで香澄と日菜が同時に頭を振って、香澄がマイクの方へ踊るように戻っていく隣でるんるんと跳ねる日菜が明るくも小洒落たリフを奏で出す。
裏拍で声を上げて拳を突き出す客席に幼馴染の巴やひまりが見えて、コードを片手で弾くつぐみはもう片方を煽るように降った。ますます湧くオーディエンスの中で特徴的な赤メッシュの少女が渋々と、でもどこか楽しそうにノリ出したのを銀髪の少女がからかう。つぐみが微笑みと共にクロスハンドでシメを入れる瞬間、香澄は鋭く息を吸った。
「『ハレとケと暗い顔 泣きっ面に追い打ち 悲惨で散々な毎日』──!」
「『言えない シャイな君の手を引っ張って』──」
「──『世界を逆回りに飛んでいくような昨日』!」
香澄の紡ぎ出した歌をあこが、日菜が歌い繋いでいく。手元は歌いながらでも狂わない。今日まで培った技術の裏打ちだけじゃない。こんなに楽しいのに、心から溢れる歌がどうしてブレようか。
「『グダグダのセリフとヨレヨレの常識 ノレない時代に飽きたら』!」
「『消えない太陽を見に行こうぜ』!」
「『厄介な与太話は後回しにしよう』っ!」
また香澄からつぐみに、そしてはぐみに回していく元気の歌。はぐみの視線の先には楽しそうにはしゃぐこころとバンドメンバーたち。そして──
(さーや、楽しそうな顔してる)
最前列、勢揃いのポピパを見てはぐみと香澄は安堵した。顔を見合わせて笑い合い、アドリブで入れた低音のマイナーペンタフレーズがオクターブで揃ったことに驚いた顔をする。
「『なんもかんも要らない 迷いなんて飛ばせ』──」
「『理屈ばった心が弾けるまで!』」
(ねえ、聞こえてる?)
香澄は親友の眼差しへ一層力強く掻き鳴らす。
日菜は姉の心まで飛んでゆけと指を走らせる。
はぐみは友人たちに笑顔あれと思いを込める。
つぐみは純粋なエールを商店街の仲間へ送る。
あこは一歩先の未来を行くふたりの背を押す。
親しい誰かへのなんてことないエールを、歌に乗せて。
「『ブレブレ Hurrah! Hurrah! バカを謳歌して』」
「『Hurrah! Hurrah! ハネた声出して』」
「『大失敗の日々を味わい尽くすぜ』!」
香澄の脳裏にはいろいろな日々がよぎっていた。Poppin’Partyを結成して文化祭で披露するまでの沙綾とのやりとりも、SPACE最後のライブに挑むオーディションも、去年の商店街のお祭りを巡るてんやわんやも、シリアスなものから楽しいことまで。一筋縄でいかないことばっかりだったけど、心のままにやり切ってきたから今がある。
(さーやもそうだったよね。隣で、一緒にそうしてきたから)
「『聞いてくれ! Hurrah! Hurrah! 夢も後悔も』」
「『Hurrah! Hurrah! モテない音楽も 一緒くたに混ぜて描いたら』──!」
友達に好きなことをしていてほしい。それだけで香澄はこの歌を歌っている。
正解の道なんてわからないならせめて、今と、ちょっぴり後と、明日を笑顔でいられるように。
「『消せない色になるだろう 頷いて欲しいんだ Hurrah! Hurrah! Honey!』」
イントロと同じ三三七拍子、チャイムのような音と共にカッコつけたウィンクをすると沙綾が吹き出した。やった笑った、と喜んでいたらちょっと手元が疎かになって、それを見た日菜が堪えきれないとばかりにマイクへ踏み出す。
「『戯言 一人言 泣き言 世迷言 それすら言えなくなったら』」
「『永久凍土の上を滑って 声で慰め合うような温い音楽をしよう』!」
日菜の歌をつぐみが歌って紡ぐと、日菜は一瞬だけ振り返ってぱちりとウィンクする。その横顔が様になっていてちょっと悔しくなる香澄をケラケラと笑い飛ばすようなオブリは流石の天才少女、一瞬差し込まれたタッピングであこのぐんっと駆け出すような3連符が引っ張り出される。
「『笑えない苛立ち 拭えない悲しみ 君が世界一不幸なら』」
「『そんな世界はもう蹴っ飛ばして 宇宙をまた0から始めることにしよう』」
はぐみがロカビリーのようにメロディを織り交ぜたフレーズからハイポジションのオカズに移行して、歌いながら織り出されたちょっと突飛なフレーズをあこのスネアに重きを置いたフィルが捕まえに行く。じゃれ合うようなやり取りの間に調子を取り戻した香澄は、手グセのシンコペーションで佇まいを正した。
「『
「『もっともっと音上げて!』──」
(ねえ、聞こえてる?)
ピックスクラッチ、滑らせた右手で沙綾を指差して──
「──Poppin'!」
「『ブレブレ Hurrah! Hurrah! バカな恋したって』!」
「『Hurrah! Hurrah! 無様に涙して』!」
「『大失態の日々を遊び倒そうぜ』!」
香澄のバッキングに乗って日菜がイタズラを仕掛ける。キーは違うものの『NO GIRL NO CRY』のサビメロから『LOUDER』へのマッシュアップ。それだけじゃ止まる気もなく、『るんっ♪』と来る方へと指を滑らせていく。客席で大好きな姉が「仕方ない子ね……」と溜め息を吐いていて、でもその口元に笑みが浮かんでいるのを見逃さなかった。
「『聞いてくれ! Hurrah! Hurrah! 夢も後悔も』」
「『Hurrah! Hurrah! 冴えないセンスだって 一緒くたな空で響くだろう』!」
更に『Y.O.L.O!!!!!』、速弾きで『えがお・シング・あ・ソング』のコーラスパートまで鮮やかに繋いで、最後にはどこか投げっぱなしにコードのロングトーンをヘッドごと振り抜いて千鳥足でくるくる回る。
(おねーちゃんに、ちょっとイイとこ見せられたかなぁ? 怒られちゃうかな。……どっちでも嬉しいな)
「『君に叫んでるんだぜ 受け取って欲しいんだ Hurrah! Hurrah! Honey!』」
香澄はまっすぐ、まっすぐ沙綾を見つめた。
元気づけるだなんだと言いながら、結局のところはただ伝えたいことがあっただけで。
「『理屈やジレンマや役に立たないものは捨てて 全力で歌うのさ 湿気りだす心を声にして』」
香澄はよくよく知っている。焼きたてのパンみたいに柔らかくて温かい優しさいっぱいの親友が、自分たちとのバンドを心から楽しんでくれていることを。
香澄はあんまり知らない。バンドと家業──病弱な母に迷惑をかけたくないという思いの板挟みでどれだけ胸を痛めたのかも、進級したばかりの春半ば、今だって将来のことがチラついているだろうことも。
友達だろうと、大好きだろうと、自分は沙綾自身ではない──だから、せめて。
心の外側からささやかな応援と音楽で、少しでも、その優しい微笑みにのしかかるものを、一緒に持ち上げることができたら。
(──あのとき、さーやの方から、大変だけど一緒にやりたいって言ってくれたなら。天の川だってワンツーステップでぴょんって超えて駆けつけたのに)
「『転がって行くっきゃねえ 生まれ育った過去も連れて この歌のテーマにぶつけて叫び合う』」
自分は頼ってばかりだし、もっと頼れる人は他にもいるだろうけれど。
迷惑をかけてもいいやと気軽に思ってくれるくらい、心を側に置かせてほしいだけなのだ。
三三七拍子、見慣れた人とも知らない人とも拳を突き上げ合うコール&レスポンス。誰もの心ににじり寄る不安や苦悩とかいう名前の化物を、大声で跳ね除けてしまえ!
「『ブレブレ Hurrah Hurrah 今日に躊躇して Hurrah Hurrah 泣き続けたって』」
コードストロークを軽やかに。落ちサビをひとりきり歌う香澄の頭上に、つぐみはふと目を奪われた。
「『大正解なんてもの 見つかりゃしないぜ』!」
(──あ、一番星)
「『聞いてくれ! Hurrah! Hurrah! 夢も後悔も』」
「『Hurrah! Hurrah! モテない音楽も 一色多になって響いたら』──!」
友達に好きなことをしていてほしい。それだけで香澄はこの歌を歌っている。
正解の道なんてわからないならせめて、今と、ちょっぴり後と、明日を笑顔でいられるように。
「『大人も 子供も 聖者も 悪人も シャイな貴方も』──『同じ歌を歌えるんだぜ』!」
そのために手を貸したくても、お節介にならないか不安になったり。
頼ってくれたら嬉しいのに、迷惑じゃないか躊躇したり。
(そんな小さな影を払う応援歌を、心に届けたいから──)
「『ノっかって欲しいんだ Hurrah‼︎ Hurrah‼︎ Honey‼︎』」
勢いに任せてソロを取る。なんのことはないメジャーペンタ一発弾きは、さっきの日菜のそれとは比べるのも失礼なくらいたどたどしくて。
それでも気持ちの赴くまま歌い上げるランダムスターの旋律は、キラキラと輝きを増しながら高らかに飛び出していく。
もう一度イントロの三三七拍子、またみんなで声が揃う中、はちきれんばかりのチョーキングにビブラートをかけて全身全霊を絞り尽くす香澄はへにゃりと微笑んだ。
「……ありがとうございました! 『商店街応援フレフレバンド』でしたー!」
「香澄ちゃん、シメがその名前じゃ気が抜けちゃうって」
「ひ、日菜先輩……!」
「もー、つぐちゃんだってそう思ったからポピパの提案に乗ったんでしょ?」
「……へ? ポピパの?」
へろへろのまま振り返ると、つぐみは日菜に「もうっ、そんな理由じゃないですよ!」とぷりぷり怒っていた。
「やっぱり、最後はみんなの演奏がいいなって思ったんです。……見てるだけって、きっと寂しいだろうから」
「そうだよ香澄。ライブやるなら誘ってくれてもよかったんじゃない? 水臭いなぁ」
「さ、さーや!? え、なんでステージに上がって……」
「沙綾だけじゃないっつーの」
「えっ、有咲も!?」
「なんだよ、香澄のくせに意外そーな顔しやがって」
「選手こうたーい、ベーシスト! りみりん!」
「は、はぐみちゃん……アナウンスはちょっと恥ずかしいよ……」
「日菜さん、香澄のギターどうでした?」
「いいねっ、るるるるんってした!」
「自慢のフロントマンなんです」
「りみりん、おたえも!」
さっきまで最前にいたポピパの面々が、いつの間にかお揃いのTシャツ……今日のライブ衣装である、白地にカラフルな絵の具を跳ねさせたそれを着込んでいた。困惑する香澄をよそにハイタッチやハグと共に楽器をバトンタッチしていく。
日菜の使っていたHughes&Kettnerにはたえの青いスナッパーが。はぐみの使っていたAmpegにはりみのピンクのSGベースが繋がる。つぐみは有咲とハイタッチして彼女に鍵盤を返した。あこは最後にもう一度だけスネアを叩いて、沙綾に微笑む。
「さあやちゃん、このスネア良い音するね!」
「……でしょ? たくさん使い込んできたから」
表面が少し剥がれてザラザラになったヘッドを指先で撫でる。そろそろ換え時だろうか。でも、沙綾としてはこれくらいの具合が一番好きだった。家では鳴らしてあげられないからこそ特別なときに持ち出すこの子と、なんだか一緒に頑張っている気がして。
「相棒だね! ほらほらバトンタッチ、熱気もテンションも全部そのまんま渡すから!」
「うん。ありがと、あこ!」
ぱちん、と合わせた手から優しい力が分けられる。まだほんのり冷たかった指先にじんわりと血の巡る感覚。演奏前のスタンバイモードに体が入る感覚。
(……ライブをするぞー、って感覚)
沙綾は香澄の隣に歩み寄って、その目をまっすぐ見つめ返した。
「香澄」
「さーや……いいの?」
「いーの! 私が演奏したいんだもん。……『大正解なんてもの 見つかりゃしないぜ』、でしょ?」
ぱちくりと香澄は目を瞬かせる。いたずらっぽく微笑む沙綾のこんな顔を、ひょっとしたら初めて見たかもしれなかった。
「せっかく応援してもらったんだもん。なにが正解かわかんないならがむしゃらにさ、うちのお手伝いもバンドの演奏も、好きなように好きなだけ、とことんやるしかないじゃん。……付き合ってくれる?」
「……〜〜〜っ!」
──香澄は。
ギターを下げたままでもお構いなしにがばっと沙綾を抱き締めて、放して、マイクに向かって。
「──ら、ライブします!」
震えた声でそう言った。
「きょ、去年も、ここに立たせてもらって! えと、今日はもうおしまいの予定だったんですけど、えっと、さーや、みんなは私の大好きな大好きな大好きな友達で!」
頭の中はしっちゃかめっちゃかで、心の中はてんやわんやで。
それでも、香澄はこれだけは言いたかった。
「わ、私たち────私たちは、『Poppin'Party』です! あと1曲だけ聞いてください!」
すっかり準備万端なたえがギターを肩に髪を払って。
チューニングを済ませたりみがドキドキを抑えられない微笑みで。
キーボードの前で溜め息を吐いた有咲がぶっきらぼうに、ドラムを顎で指して。
沙綾は香澄の背中をとんと叩いてスローンに向かった。
あつらえたようにいつものセット。大好きな商店街の景色。暮れかけた空、親友たちの背中。
沙綾はもうひとつだけ、心の中で叶わない我儘をねだる。
(今の香澄の顔を、正面から見られたらな)
きっと、誰よりも素敵な表情をしているだろうから。
「──『STAR BEAT!〜ホシノコドウ〜』!」
香澄の声が空まで飛んでいく。夕日を越えて、夜を越えて、8800光年ともっともっと先へ。
「……あ」
「つぐみ? どうしたの」
「あのね、さっき演奏してるときに一番星が見えたの。それで、どれだっけ、って探してたんだけど」
「さすが、つぐは名人だね〜」
「どれどれ? どれなの?」
「いや、もうライブ終わって結構経ったし見えないんじゃないか」
「ううん、もう見つけたよ。ほら──」
北北西、寄り添い合う五つ星。
「──カシオペア座の真ん中だったみたい」
それを結んだ空の先で、小さな風穴のような北極星が瞬いている。きらきら、どきどき、鼓動のように。歌うように。