Fateエンド後のIFストーリーです。
 設定だけ某作品の某泉とクロスしてます。
 セイバーが少し鬼畜です。
 力を抜いて読んでいただければと思います。

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第1話

 ぜえぜえと、濁った音が喉から響く。

 

 ざくざくと、草を踏み分ける音がする。

 

 それだけ。

 

 それ以外、何も聞こえない。

 

 何も、聞こえなく、なった。

 

 銃声も、悲鳴も、ヘリのローター音も。

 

 無音。

 

 ほとんど、無音。

 

 宴は、終わった。

 

 血と、硝煙と、断末魔に満ちた宴。

 

 終わった。

 

 ならば叫びたい。

 

 問いかけたい。

 

『誰か、誰か生きていないのか!?』

 

 それは、痛切過ぎる、心からの叫びだった。

 

 会いたい。

 

 みんな。

 

 さっきまで、笑っていた。

 

 一緒に、飯を食ってたんだ。

 

 嘘だ。

 

 こんなの、嘘だ。

 

 信じられなかった。

 

 だから、無言。

 

 無言で、走る。

 

 星が、明るい。

 

 まるで、クリスマスのイルミネーションのように、きらきらと輝いている。

 

 もう、遠い遠い、過去の話。

 

 あれは、冬木の、ヴェルデだった、だろうか。

 

 思い出せない。

 

 でも、どうでもいい、か。

 

 天の明るさは、地上の暗さと反比例だ。

 

 要するに、それほどまでに暗いのだ。

 

 森の、中。

 

 それも、例えば森林公園のような森ではない。

 

 原始林。

 

 悪魔のような、木々の群れ。

 

 おそらく、有史以来人が足を踏み入れたのが初めてではないか、そう錯覚してしまう。

 

 腰まで生えた、丈の長い草。

 

 巨木の、広がった枝の作り出す影絵が、悪夢染みた化け物に見える。

 

 それでも、見えるだけマシだ。

 

 足元は、何も、見えない。

 

 黒だけが、見える。

 

 そこを、走っている。

 

 走っている?

 

 泳いでいるの、間違いかも知れない。

 

 感覚が、酷くあやふやだ。

 

 とにかく、俺の主観としては、走っていた。

 

 それがどれほど危険なことか、理解したまま。

 

 もし、大きな石に蹴躓きでもしたら、即、命に関わりかねない。

 

 足が折れれば、捕虜となって死。

 

 倒れたところに鋭い木の枝でもあれば、突き刺さって死。

 

 頭を石にぶつけても、やっぱり死。

 

 それでも、走る。

 

 時折、思い出したように聞こえる銃声は、森の中を反射して、その位置を掴ませてくれない。

 

 どこだ。

 

 どこにいる。

 

 視界を、ゆらゆらとした、透明な幕が覆っていく。

 

 既に、重装備の類は捨て去った。

 

 身につけているのは、強化済みの皮鎧と、二振りの短剣のみ。

 

 その姿は、まるで、あの弓兵のように。

 

 そして、走る。

 

 仲間を、生きている仲間を助けるために。

 

 ―――頼む、誰でもいい、生き残っていてくれ。

 

 頼む、頼むから…

 

 そう、願ったとき。

 

 ふぅわりと。

 

 足元から、地面の感覚が、消失した。

 

 空虚な失調感は、当然の如く落下へと変異し。

 

「うわあああぁぁぁ!」

 

 無様な声が、中空に響き渡る。

 

 浮遊感。 

 

 風を切る音が、俺が落下していくことを教えてくれる。

 

 ごつり、ごつりと、岩肌に打ち付けられる。

 

 意識が、遠のいていく。

 

 ばしゃん、と。

 

 凄い音が聞こえ

 

 みずの、なか――

 

 

 ―――

 

 

 ――

 

 

 ―

 

 

 

「………か!?」

 

 

 聞きなれない、声。

 

 

「―――…―――を、もってこい!」

 

 

 何だろうか、この声は。

 

 

「……だ、……きっと…!」

 

 

 酷く、慌てている。

 

 

 もう、指一本動かすのも、億劫だけど。

 

 

 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。

 

 

 想像以上に、明るい世界。

 

 

 一瞬、顔を顰める。

 

 

 どうやら、夜は明けているらしい。

 

 

 ならば、俺は、敵の手に落ちたのか、それとも味方に救われたのか。

 

 

「…―――…、おい、しっかり…―――!」

 

 

 異国の言葉が、脳の中で濾過できない。

 

 

 でも、どうやら、敵地ではないらしい。

 

 

 手も、足も、拘束されていない。

 

 

 ただ、少し、寒かった。

 

 

 がたがたと、四肢が無様に震えていた。

 

 

 きっと、河か沼かで溺れたのだろう、体中が濡れている。

 

 

「おい、大丈夫か!?俺の言葉が分かるか!?」

 

 

 やっと、理解できた、一言。

 

 

 ああ、どうやら、助かったらしい。

 

 

 そのことに、何よりも安堵した。

 

 

 そして、思ったのだ。

 

 

 果たして、あと何人が、生き残っているのだろうか、と。

 

 

 苛烈な攻撃だった。

 

 

 あまりにも正確に配置された、敵勢力。

 

 

 ひょっとしたら、裏切りでもあったのかもしれない。

 

 

 それも…、今となっては、どうでもいいのだろうか。

 

 

 敗残兵が、生き残ったのだ。

 

 

 それだけでも、神に感謝しなければなるまい。

 

 

 そして、生き残った者には、為すべきことがある。

 

 

 それだけの、話である。

 

 

「おい、大丈夫か、返事は、出来るか!?」

 

 

 見上げた顔は、薄暗がりのお化けのようで。

 

 

 それでも、どうやら俺が生きていることくらいは伝わってくれたようだ。

 

 

 ほとんど、うめき声を上げる以外の機能を放棄した咽喉で、何とか声帯を震わしてやる。

 

 

「…う……」

 

 

 擦れた、声がした。

 

 

 それが、自分のものとは、思えなかった。

 

 

「おい、こっちは助かるぞ!この女性から、まず運び込め!」

 

 

 そうだ。

 

 

 まず、女性から、助けないといけない。

 

 

 なんたって、子供が産めるんだ。

 

 

 それだけで、壊すことしか出来ない男なんかよりも、遥かに価値がある。

 

 

 だから、俺は、後でいい。

 

 

 なのに。

 

 

 なんで、俺が真っ先に、運ばれていくのだろうか。

 

 

 不思議だなぁ、と。

 

 

 そこまでが、俺が覚えている、最後の記憶だ。 

 

 

 爽やかな秋風が、頬を弄る。

 イギリスの、秋。

 赤く、色づき始めた街路樹の葉と、分厚くなり始めた人々の衣。

 最近は少し冷え込むことが多くなってきた。

 オープンテラスのカフェでアフタヌーンティーを楽しむ、そんな贅沢が味わえるのも、今年はこれで最後だろうか。

 湯気の立つ香り高いアッサムと、焼きたてのスコーン。それを彩る、各種のジャムに、クロテッドクリーム。

 文句のつけようの無い、倫敦の午後。

 

『イギリスに行ったら、イギリス料理を食べるな』

 

 格調高い諧謔ではあるが、それは一部の隙も無い純然たる事実。

 何度も、挑戦した。

 何度も、評判の店を訪れた。

 そして、その数だけ玉砕したのだ。

 

 結論―――ありゃあ、人の喰うもんじゃあないわね。

 

 あまりにも失礼な感想かもしれないが、少なくとも私の舌は、それを是としている。

 とりあえず、イギリスの料理はどこかで進化の方向を間違えたのだ。きっと、マンモスとかサーベルタイガーみたいに。

 だからといって、この街の日本食レストランが美味いかといえば、そうでもない。力いっぱい、堅さを競って作る泥団子みたいにガチガチに握られた、寿司っぽいもの。黒焦げになって、生薬と見紛うほどに黒い、焼き魚だったもの。パン粉をまぶした天麩羅なんていう、絶望的なものも存在した。

 要するに、この国の食文化は、なっちゃあいないのだ。

 そんなことを私の教授に言ったら、

 

『ファック!これだから、日本人は嫌いなんだ!』

 

 とかいって、長々と、自分が日本の喫茶店で経験した超常現象を語り始めたのだけど。

 だから、最近のお気に入りは、中華料理とベトナム料理。これは、そこそこのレベルのものが多い。特に、中華料理のレベルは、高い。おかげで、美味しい中華料理を食べられるし、仲のよいチャイニーズも多い。華僑のバイタリティ、恐るべし。

 

 そんなことをつらつら考える。

 

 つらつら考えながら、熱い紅茶を一口。

 

 ほう、と、思わず漏れ出す満足の吐息。

 

 流石はアフタヌーンティ発祥の地。

 紅茶はどの店も高いレベルのものを淹れてくれるし、スコーンとか、フィッシュアンドチップスとか、軽く摘めるものはけっこう美味しい。

 でも、そういうものほど肥満のお友達なので、中々お手軽に食べられないのが辛いところ。

 

 それでも、今日ばかりは、太る太らないは無粋だ。

 右手に、スコーン。

 左手に、クロテッドクリームの小瓶。

 バターナイフでたっぷり掬って、思う様に塗りたくる。

 だって、半年間苦労させられた論文が完成したのだから。

 散々嫌みな教授に扱き使われて、時折厄介事に巻き込まれて、ここ一週間はほとんどデスマーチで。

 やっと完成した、珠玉の論文。

 あの、マスター・Vが、何の手直しも加えなかったのだから、その出来たるや押して知るべし。まあ、同じタイミングでルヴィアも論文を完成させたらしい、というのが気になるが、あれほど出来のいいものを書ききれたとは思えない。

 あの、高慢ちきな鼻っ柱が真っ二つにへし折れる様子を想像して、暗い笑みが浮かぶ。

 

 ふっふっふ、見てなさいよ、ルヴィア。今年の時計塔主席の座は譲らないんだから。

 

 だから、今日は前祝。

 カロリー計算や体重計の目盛の記憶なんて、無粋も無粋、因果地平の果ての果てまで飛んでいってしまうくらいに関係ないのだ。

 たっぷりのクロテッドクリームと、これでもかと甘酸っぱいジャム。

 もう、スコーンを食べてんだかジャムを食べてんだか、分からないくらい。

 ぱくりと一口、その芳醇な味に、思わず笑みが零れ落ちる。

 

 そんな、午後。

 

 口の端についたクリームを舐め取りながら、辺りを見回す。

 無表情に前を見据える、人々の群れ。

 皆どこに向かうのだろうか、行き先を決めた足達が、忙しなく行き交う

 

 そんなに急がなくてもいいのになあ。

 

 きっと、何だかんだ言っても学生の身分だから思うこと。

 本当に偉いのは、魔術師でも魔法使いなんかでも無いと思う。

 毎日、革靴の底をすり減らしながら、家族のために働くお父さん、お母さん。

 それが、きっとこの世で一番偉いんだ。

 そう考えると、わが身のなんと恵まれたこと。

 ここ二、三日徹夜が続いたとはいえ、それでも今日はのんびりと午後のお茶会。

 それはそれは、優雅な一時。

 何となく、恥ずかしくなる。

 そんな、午後だった。

 そんな午後に、私は。

 

「…あれ…?」

 

 

 一組の、親子を見つけた。

 

 

 それは、奇妙な親子連れだった。

 そもそも、あれは親子連れなのだろうか。

 繋がれた手と、二人の年齢差を考えるならば、彼らは間違いなく親子である。

 しかし、それ以外の外見的要素は、その推論を真っ正面から否定する。

 

 こちらに背を向けた、母親とおぼしき女性は、銀色と灰色の中間みたいな長髪を、無造作に後ろで括っている。

 皮膚は、浅黒い。ブラックかとも思ったが、それほど彫りの深くない顔立ちはアジア系のものなので、そうではないようだ。

 女性にしてはがっしりとした体格に、身に纏ったのは皮のコートと編み上げブーツ。

 まるで、今から戦場に向かうような重装備と、鋭く周囲を警戒する視線。

 戦士。

 あれは、きっと戦士だ。

 

 息子…それとも、あれは娘か?目深に被った帽子からは、その性別を判定するのが難しい。

 それでも、ざっくりと着込んだ、あまり見栄えのよろしくない服の隙間から見えるのは、明らかに白色人種の肌の色だったし、帽子の裾から恥ずかしげに顔を出しているのは、少し癖のある金髪だったりする。

 小さな、紅葉の葉のような掌が、母親とおぼしき女性のそれをぎゅっと握り、決して離そうとしない。

 時折、女性の方を見上げては、何事かを喋り、楽しそうに笑っている。その笑顔は、まるで汚れを知らない天使のようだと、陳腐な感想を抱いた。

 

 父親は、見当たらない。

 それでも、まるで父親の代わりのように、女性がいた。

 それとも、我が子を守護する雌獅子のように。

 だから、あれはきっと親子なのだろう。

 

 そんな、親子連れだった

 

 そして、こちらを振り返った母親らしき女性を見て、我が目を疑った。

 

 そっくり、だった。

 

 あの戦争、たった二週間で終結した、たった八組の男女が殺しあった、戦争。

 その中で、私が呼び出した、名も知れぬ英霊。

 

 アーチャー。

 

 彼だと、思った。

 

 もし、その面立ちが女性のそれでなければ、私は声をあげていたに違いない。

 それほどに、似ていた。

 そして、間違いなく極上の美人。

 きりりと引き締まった眉と、切れ長の瞳。

 視線は、まるで鷹のように。

 ぐいと結ばれた唇は凛々しさの生きた見本で、今まで一度も綻んだことがないよう。

 首は、驚くほどに細い。

 よく見れば、僅かに丸みを帯びた身体。

 長い手足が、猫科の猛獣みたいにしなやかな筋肉に包まれている。

 

 要するに、女戦士だったのだ。

 見る人が見れば、はっきりと分かる。

 あれは、銃弾飛び交う戦場を生き抜いた、戦士だ。

 よく見れば、その所作の一つ一つに隙が無い。

 できるだけ、背後に人を置かない身の置き方。

 視界は広く、いたるところに目を配りながら、しかしその動きが少しも不自然ではない。

 子供と手を繋いだ、その反対側の手は、常にポケットの中に。

 おそらく、そこには短銃か何かが入っているのだろう。

 

「全く、捕まるわよ、あれじゃあ…」

 

 昨今の国際事情、そして忌まわしいテロ事件の数々。

 ご多聞にもれず、この国だって銃とか何かには厳しいのだ。

 あんな格好で街中をうろついてたら、間違いなく職務質問。

 そして、即刻ブタバコに。

 そうなっても、文句の言いようの無い格好だ、あれは。

 

 そして、思い出した。

 

 確か、ルヴィアが最近、ボディガードを雇ったらしい。

 銀色の髪の女性で、酷く腕が立つ、とのこと。

 ああ、なるほど、きっとこいつだ。

 言われてみれば、僅かに魔力を感じる。

 きっと、余程用向きのある相手以外、注意を集めないようにする暗示。

 ならば、警察官如きには、彼女を認識することは叶うまい。

 

 しかし、まぁ、どうでもいいかと思い直す。

 彼女が何者で、何故ここにいるのか。

 そんなこと、路傍の石と同じくらいに、私には関わり合いが薄い。

 ならば、そんなことに脳細胞を働かせるのは、不当労働以外の何物でもなく。

 私は、再び、クロテッドクリーム塗れのスコーンに、勢いよくかぶりついたのだ。

 何とはなしに、空を見上げる。

 まるで、故郷と同じ色のような、空。

 霧の都を覆い尽くすスモッグの靄も、今は晴れて久しいらしい。

 

「…あいつ、今、どこで何やってんのかな…」

 

 自分の呟きに自分で絶望して、そして赤面した時。

 

「ここに座ってなさい」

 

 おや、と、隣りの席を見る。

 そこには、何と、先ほど見かけた親子連れがいた。

 二人掛けの小さなテーブル。

 彼女と、彼女が連れた子供が、向かい合わせに座る。

 女性はコートを脱いだ。

 コートの下には、薄いシャツ。その更に下には、蛇のようにうねる、鍛えこまれた肉体が。

 子供は帽子を脱いだ。

 帽子の下には、猫の毛のように柔らかそうな、癖のある金髪の毛。

 皮膚の色は、白人のそれ。瞳の色だけが、エメラルドみたいな緑だった。

 よくよく見てみれば、彼女が連れた子供は、女の子だった。 

 くりくりとした可愛らしい瞳、熟した桃のようにふっくらとした頬。

 それだけで分かる。

 きっと、この子は大きくなれば、美人になる。

 そう考えて、何とはなしに、にやけてしまった。

 子供というものは、いいものだと思う。

 その、成長した姿を想像しただけで、大人に幸せを味わうせてくれるのだ。なるほど、子供は神がくれた最高の贈物、というのも強ち間違いとは言えないのかもしれない。

 少し椅子が高過ぎるのか、子供の足がぶらぶらと揺れている。その様子は微笑ましくて、私は気付いていない振りをするのに苦労した。

 

「注文してくるから、待ってるんだぞ」

 

 それは、驚くべきことに日本語だった。

 しかも、生粋の、はっきりとした発音。そんなもの、長いこと倫敦で生活しているが、一度か二度くらいしか耳にしたことが無い。

 珍しいこともあるものだと、紅茶を一口啜る。

 

「うん、パパ」

 

 今度こそ、私は口に含んだお茶を噴出しかけたが、何とか我慢する。

 だって、相手は認識阻害の暗示を纏っている。

 ならば、それに気付きうるのは、よほど勘のいい人間か、私のような魔術師のみ。あのルヴィアが雇うような、おそらく凄腕のボディガード。それと揉め事を拵えるというのは、優雅なアフタヌーンティーには些か相応しくない。

 それにしても、パパ?

 あれは、間違いなく女性だった。

 性転換手術をした、男性?

 確かに、東南アジアあたりでは、本物の女性だってここまで美しくないというほどに美しい元男性も存在する。

 でも、それにしては、あの男言葉が妙だ。

 だって、男性であることに嫌悪して女性になるのだから、男言葉を使うことは無いだろうし、自分をパパと呼ばせることも無いだろう。

 子供の呼び間違いかとも思ったが、その女性が何気なくカウンターに向かったことを考えれば、それは日常のことなのだと推測できる。

 ちらりと、子供の方を見る。

 足をぶらぶら、所在無く辺りを見回している。

 その瞳の色に、どこか記憶の琴線を掻き鳴らすものを感じる。

 はて、どこで見たのだろうか。

 あれは、たしか―――。

 

「お待たせ。寒くなかったか」

 

 柔らかい、女性の声。

 慌てて目を逸らす。

 

「うん、パパ。ちっとも寒く無かったよ」

「そりゃあ、よかった」

 

 ぎっ、と椅子が引かれた音。

 女性は、音も無く腰掛ける。

 

「ここの紅茶は美味しいぞ。きっと、アルトリアも気に入る」

「そうなの?でも、パパのいれてくれたお茶が、いちばんすき」

 

 …アルトリアって。

 

 まあ、よくもこんな偶然が重なるものだ。

 そうなのだ。

 あの瞳の色は、思い出せる。

 あれは、セイバーの瞳の色だ。

 セイバーとして召喚された、伝説の騎士王の、瞳。

 まるで、あらゆる穢れを払い落とすかのような、不屈の緑。

 聖緑の、瞳。

 そして、アルトリアという、名前。

 私は、昔の友人に会ったときのように、心うきうきしてしまった。

 そして、思い出す。

 一時とはいえ、私の恋人だった男性。

 

 衛宮、士郎。

 

 彼は、今どこで何をしているのだろうか。

 確か、最後に消息を聞いたのが、チベットの山奥だったはず。

 そこで戦う反政府ゲリラの中に、彼の姿があったらしい。

 らしいというのは、そのゲリラが壊滅して、今は確認する手段がないからだ。

 ある者からは聖者に例えられ、ある者からは戦争狂と詰られた彼。

 そして、魔術師から見れば、明らかに神秘の漏洩を恐れない、厄介者だった、彼。

 事実、彼の命にはデッドオアアライブの賞金が懸けられ、返り討ちにあった協会のハンターも一桁では済まない、とのこと。

 

 その彼が、突然に姿を消した。

 

 色んな憶測が飛び交ったのも、当然といえば当然だろうか。

 

 曰く、既にその身柄は協会に捕らえられ、封印指定の檻の中を漂っている。

 曰く、味方を逃がすために敵軍の真っ只中に突っ込んで、討ち死にした。

 曰く、敵と戦っている最中に味方に捕らえられ、その首は無条件降伏の材料とされた。

 曰く、ソマリアの紛争地帯の一番激しいところで、彼の剣製を見た。

 

 どれもが馬鹿馬鹿しくて、でも信憑性のある話ばかり。

 それでも、ここ一年ほどで、彼の噂のほとんどは絶えた。

 きっと死んだのだろう、そう思っている。

 別に、悲しくは無い。

 だって、それが彼の望んだ生き方なのだから。

 すこし、涙が溢れてきた。

 それを、指の先で拭った。

 

「ねえ、パパ、あのおねえちゃん、ないてるよ」

「アルトリア、そういうことは、口に出すものじゃあない」

 

 軽く嗜める、言葉。

 きっと、その言葉も届いていないと考えているのだ。

 

「お待たせしました」

 

 店員の、声。

 彼女はそれに笑顔で応じる。

 柔らかな、それでいて芳醇な香り。

 これは、ダージリン、だろうか。

 

「熱いから、気をつけなさい」

「はーい、パパ」

 

 ふーふーと、派手に息を吹きかける音が聞える。

 伝わってくる雰囲気は、どこまでも優しい。

 知らず心の奥に溜まった澱が、流されていくようだ。

 

「うん、おいしいね。でも、やっぱりパパのいれてくれた紅茶のほうが、おいしいよ」

「そうか、ありがとうな、アルトリア」

 

 苦笑の、声。

 その響きすらも、どこか誇り高く。

 

「パパはな、昔、紅茶の好きな人と一緒に暮らしてたんだ」

「それって、前話してくれた、こいびとさん?」

「ああ、そうだ。アルトリアは頭がいいな」

 

 くしゃくしゃと、髪の毛を掻き回す音が聞える。

 ちらり、と、横を覗く。

 そこには、子犬のように心地よさそうに目を細める少女が、いた。

 

「昔、中国紅茶の春摘みもの…要するに、その子のお気に入りの茶葉を、酷い味で出したことがあってね、そうしたら、殺される寸前までこっぴどく怒られた。それ以来かなあ、紅茶を淹れるのが上手になったのは」

 

 それは、なんとも酷い男がいたものだ。

 こんな美人が、自分のためにお茶を淹れてくれたのに、その味が酷いだけで怒るなんて。

 全く、男の風上にも置けない。

 私なら―――。

 

 …なんか、似たようなことをした気が。

 

 だって、私が、あの戦争の祝杯を挙げるために、食器棚の奥の奥に隠していた、極上の上に極上がつくような、茶葉。

 あの男は、それを十分以上も蒸らしやがったのだ。

 あの、絶望的に黒く染まった液体の色を、今でも思い出すことが出来る。あんなの、ガンド百連打の刑でも、むしろ軽いくらい、情状酌量しまくりである。

 

「ふうん、その人、何ていうお名前なの?」

「あれ?アルトリアには、言ってなかったか?」

 

 耳を、欹てる。

 人の恋話というものは、どうしてこうも人の心を擽るのか。

 

「その女の子の名前はな」

 

 …女の子?

 

「おなまえは?」

 

 …もしかして…。

 

「遠坂凛っていうんだ」

「はああああああ―――!?」

 

 

  日本の家屋を評して『ウサギ小屋』と揶揄されることがある。

 

 それは、その狭さとごみごみした雰囲気、さらには日本人の如何にも忙しない勤勉な性質を合わせて皮肉った言葉。

 

 そう、思われている。

 

 しかし、その実、この言葉の真意はそのようなところには無い。

 

 まず、最初にこの言葉が使われたとき、幾つかの誤解があった。

 ECにおける日本の住居を評した報告書の中で、初めて『ウサギ小屋』という表現が使われるのだが、これは英文の報告書を日本語訳したもの。

 では、その英文が原典かというと、そうではない。

 実は、この報告書の原文はフランス語で書かれているものなのだが、フランス語から英語訳される際に幾つかの誤訳があったのだ。英文で『ウサギ小屋』と揶揄されている箇所のフランス語原文には、『cage a lapins』(都市型の集合住宅のことを表す俗称)とあり、実際にフランス人の住むパリの集合住宅も同じように呼ばれている。

 自分の国の人間が住む住居を『ウサギ小屋』と貶めるような国もあるはずはない。

 

 少し考えれば分かりそうなものだ。

 

 いかに弱気な日本国とはいえ、曲がりなりにも経済大国。それに対して、公に作った文章で真正面から喧嘩を売って何のメリットがあるか。

 また、この言葉がこれだけ浸透してしまった背景には、日本人の持つ自虐的な思考というのも存在しているのだろう。『自分の国は、極東のちっぽけな国である』、『無理矢理に近代化したため、ごみごみとした狭ッ苦しい町並みが出来上がってしまった』、そんな取るに足らない考えが、誤った評判の拡大を助長してしまったのだ。

 そもそも、日本の国土は、国連に加盟している国家の中では割合広い部類に入る。確かに人口は多いし、人の住める平野も狭いが、それゆえに自然が多く四季の彩りも豊富な、素晴らしい地形だと、私は思う。

 

 少し、話が逸れた。

 

 まあ、要するに、日本の家というのは、それほどに狭いというわけではない、そういうことだ。実際、欧州の平均的な家屋の広さと日本の家屋のそれとを比較すると、日本の方が広いというデータもあるくらいなのだから。

 

 で、今、私の住んでいるアパートメント。

 

 部屋数は、全部で三つ。あとはダイニングとキッチン、トイレとバスルームという造り。しかも、三つの部屋のうちの二つは客間で、普段は開かずの間と化している。

 人間一人が住むのに、それほど広いスペースというのは必要ではないと思う。

『人は日に米三合、畳一畳あればいい』、とどこかの傾奇者が言ったそうだが、それは一面においては事実なのだろうか。

 そんな、家。

 

 昔はもう少し広い場所に住んでいた。

 協会から宛がわれたフラット。広い地下室があり、そこに厳重な工房を設える。幾重にも罠を張り巡らし、毎日、卵を抱えた蜘蛛みたいに目を血走らせながら外敵の侵入に備える。

 流石に、そんなのは、もう御免だ。

 最近、時計塔の中でそれなりの地位を築いてからは、学院の中の専用スペースに工房を移転させた。

 理由は単純だ。そちらのほうが、遥かに安全性が高いからである。

 工房は魔術師の研究成果そのものといっても過言ではないほどに重要なスペース。当然、学院の中のそういった場所には厳重な警護がなされているし、それを破って悪戯心を起こしたお茶目さんにはきつい仕置きが待っている。

 それに、研究が忙しくなってからは、家に帰ることも少なくなった。泊り込みなんて日常茶飯事だし、酷いときには半年もここに帰らなかったことがあるくらいなのだから。

 そんな、部屋。

 普段は、極めて人の気配の薄い、部屋。

 そこに、今は三人の息遣いがあった。

 

 倫敦の秋。

 北海道並みに緯度の高いこの地域、しかし暖流に囲まれ、この季節でもそれなりに暖かい。

 だから、今年初めて暖炉に火を入れたのは、小さなくしゃみの音のせい。

 

「寒くない、アルトリアちゃん?」

「はい、だいじょうぶです!」

 

 可愛らしい、返事。

 幼児に特有の元気のいい声が、意図せずに私の頬を綻ばせる。

 それでも、その聖緑の瞳は、真っ直ぐに私の視線を受け止める程に重厚で。

 少しだけ桃色に染まった無垢な頬が、反比例して愛らしい。

 

「…へえ、最近は、暖炉まで近代化が進んでるんだな…」

「ま、本物の暖炉って恐ろしく熱効率が悪いから。エコって大事よね、地球にとっても、魔術師にとっても」

 

 そんなくだらない会話をしながら、暖炉のふりをした電気ヒーターが温まるのを待つ。

 じんわりと赤くなっていく、暖炉の中。

 それを見ているだけで体が温まる気がするから、人間とは現金なものだと思う。

 

「とりあえず、コートを脱いでくつろいでて。久しぶりに、師匠の腕前ってヤツを見せてあげるから」

「ああ、飛びっきり美味いやつを頼むよ、遠坂」

 

 ああ、そこまで言われて、頑張らなければ女が廃る。

 私は、戸棚の奥の奥にしまいこんだ、とっておきの茶葉に手を伸ばした。

 

 

「おい…しいです…」

 

 ぼんやりとした、表情。

 何よりも正直な言葉が、一番のご褒美である。

 

「よかったわ、気に入ってもらえて。ちなみに、アルトリアちゃん。パパが淹れてくれた紅茶と、どっちが美味しい?」

「えっ!?」

 

 私の意地の悪い質問に、視線をあちこちに彷徨わせる、目の前の少女。

 あたふたと何かを取り繕うような様が、遠い昔に友誼を結んだ、あの少女を思い起こさせる。

 

「えっと、パパのはとっても暖かくて美味しいんだけど、遠坂さんのもびっくりするくらいに美味しくて、その、その…」

「おい、遠坂、アルトリアを困らせないでくれ。お前と違って、いい子なんだ」

 

 苦笑に彩られた声。

 少しだけむっとしながら、声の主の方を向く。

 でも、いつもなら湯水の如く湧いてくるお返しの皮肉も、息を潜めてしまった。

 何故なら、見てしまったからだ。

 かつては男性だった、しかも自分の恋人だった、しかし今は美しい女性の、表情を。

 それは、間違いなく、母親のそれ。

 自分のお腹を痛めて産んだ我が子を愛おしむ、女の顔だった。

 

「…変わったわね、衛宮君」

「今更、だな。そんなこと、顔を合わせたときから分かってただろ?」

「ええ、確かにそうだけど…。何ていうか、貴方、柔らかくなったわ」

 

 そう言うと、彼は困ったように微笑った。

 それは、私が知っている、錆び色の瞳の少年の表情だった。

 

「衛宮君…」

「なあ、遠坂、トランプ、あるか?」

 

 突然の質問に耳を疑う。

 

「…あるけど、何でまた?」

「いや、旅の途中にアルトリアにトランプ遊びを教えたんだけどさ、どれもつまらないって言うんだな。ま、トランプなんて大人数でやるもんだから仕方ないんだけど、あの面白さを知らないで大人になるなんて勿体無い」

「ああ、そういうこと」

 

 私の頬が、久しぶりに心地よい角度で笑みを作る。

 笑みの角度の黄金率というものが存在するなら、これは間違いなく極上の笑み。

 そんな確信を抱きながら、私は古びたレターケースの奥を探した。

 ごそごそと、乱雑に詰め込まれた棚の奥を引っ掻き回す。

 色々なものが、出てきた。

 露天で売っていたガラス玉の指輪、時計塔の男友達から貰ったラブレター、無くしたと思ってたキーホルダー、桜からの手紙、初めてロンドンに来たときの記念写真、どこかで拾った木の実、日本銀行の発行した十円玉。

 そんな、まるで化石の地層みたいに整頓された、一番奥に、古ぼけたトランプがあった。

 何となく、思い出す。

 これは、日本から持ってきたんだ。

 日本から持ってきて、こっちでは一度も使わなかった、トランプ。

 きっと、私なんかには勿体無いくらいの思い出の詰まった、トランプ。

 

「…これは…」

「…ええ。日本で、よく遊んだわね」

 

 例えば、冬。

 炬燵と、絡まったみんなの足の熱を感じながら、蜜柑の備え付けられたちゃぶ台の上で。

 私と、士郎。桜、イリヤ、藤村先生。時々、綾子や柳洞君、三枝さんや氷室、蒔寺なんかも。

 ババ抜きや、ポーカー。大富豪も面白かったな。

 そんな、思い出。

 思い出で擦り切れて、イカサマがし放題になった、ぼろぼろの、紙のトランプ。

 勿体無くて、一度も触れなかった、トランプ。

 意図して、明るい声を出す。

 

「さ、まずは何する?ババ抜き?神経衰弱ってのもありかな?」

 

 

 すやすやと、安らかな寝息が響く。

 小さな、まるで天使みたいに小さな体を、暖炉から少し離れたソファの上に横たえてやる。

 余程疲れていたのだろうか、トランプを始めて時をおかず、アルトリアはヒュプノスの誘いに膝を屈した。

 こくりこくりと船を漕ぎ、それでも必死に起きていようと目を擦る。その様子は微笑ましいものだったが、この年齢の子供に夜更かしを憶えさせるのはよろしくないだろう。奥の物置から取ってきた毛布を肩にかけてやると、小さな謝罪の言葉とほとんど同時に、可愛らしい寝息が聞こえてきたのだ。

 暖炉の、人工の赤い光に、彼女の金色の髪が映える。

 さらりとしたそれを掻き分けてやると、小さな、つるりとしたおでこが顔を出す。

 ゆで卵のような肌は、磨けば私の顔が映りこみそうだ。

 そんな妄想を抱きながら、いつの間にか微笑っている自分に気付く。

 何故だろうか、この子を見ていると、いつでも微笑ってしまうのは。

 魔術師としては、きっと失格の感情。こんなもの、遠の昔に切り捨てたと思ってたのに。

 

「…悪かったな、遠坂。いきなり押しかけて」

「…招いたのは、こっちだから。気にする必要は、ないわ」

 

 立ち昇る紅茶の香気を挟んで、かつての恋人と向かい合わせに座る。

 目の前に座った、女性。

 整った顔立ちは、幼い少年と逞しい騎士の面影を、等分に残したように。

 銀色の髪。昔は少しくせっ毛だったのに、今は女の私が羨むような、艶のあるストレートのロング。

 まろやかな肩のラインと、その僅か下にある、女性特有の膨らみ。

 要するに、目の前に座っているのは、紛れもなく女なのだ。

 

「…で、聞いていいのかしら?」

「…何を?」

「…貴方が、それを聞くの?」

 

 士郎は、ふうと溜息を吐いた。

 それは、余りに不躾な私に呆れたのか、それとも自分の半生を振り返って諦めたのか。

 前者であったらいいのにと。

 何の所以もなく、そう思った。

 

「…どこまで、俺のことを聞いている?」

 

 彼女は、自分のことをパパと呼ぶ少女の頭を、撫でていた。

 その手つきは、まるでガラス玉の宝石を磨く子供のように、優しくて繊細だった。

 少女が、気持ちよさそうに身動ぎする。

 きっと、自分が愛されているのが、分かっているのだろう。

 

「…イリヤが死んで、家を飛び出して。最初は難民救助のボランティア。そこから、少しずつ危険な紛争地域に足を踏み入れ始め、その手に銃を握る。そのまま、いつしか反政府ゲリラのシンボルまで上り詰めた。その間僅かに三年。見事なものよね、衛宮君」

「そう褒めないでくれ、遠坂。少し、耳が痛いよ」

 

 彼女は、寂しそうに微笑った。

 視線は、少女を見つめながら、それでも遠くに。

 彼女は、何を見ているのだろうか。

 もう、失われて戻らない、何かを?

 まだ、失われていない、きっと彼女を待ち続けている、誰かを?

 もしかしたら、自分の意思で別れ選んだ、あの子を?

 

「…各地を転々と戦った貴方は、戦う弱者達の象徴、平和を乱す大罪人として、チベットの反政府組織に身を投じる。そして、そこで行方知れずになった。私が知ってるのは、そこまでね」

「ああ、十分だ。確かに、『衛宮士郎』はそこで死んだんだから、お前の知識は完全に正しい」

 

 彼女は自分の娘から手を放し、すっかり冷えてしまった紅茶を啜った。

 一瞬遅れて、満足の吐息を放つ。

 

「ああ、美味い…。紅茶がこんなに美味いと感じたのは、いつ以来だろう…」

「…紅茶は、いつだって美味しいわ」

「…多分、そうだ。きっと、俺がおかしかったんだな…」

 

 かちゃりと、カップをソーサに戻す音が響く。

 すやすやという、少女の寝息。

 ああ、これで薪が爆ぜる音が聞こえれば完璧だったのに。

 私は、本物の暖炉が備え付けられていないことを、初めて後悔した。

 

 

「あの夜は、酷かった。後から聞いた話だけどな、裏切り者がいたらしい。居場所さえ知られれば、数の少ないゲリラに政府軍を相手取る物量なんて、あるはずも無い。分断されて各個撃破、一晩で組織は壊滅、真っ暗な森のそこかしこに転がってる見知った死体。酷いもんだったよ」

 

 遠い過去を見つめる、灰色の瞳。

 そこに浮かんだのは、裏切り者への怒りだったのだろうか。

 きっと、そんな時期もあったのだろう。

 でも、今の彼女の瞳からは、如何なる感情も読み取れなかった。

 

「走った。とにかく、走った。何で走ったのか、あの時は分からなかったけど。今は、少し分かる。きっと、生きてる人間を見たかったんだ。とにかく、誰かに会いたかった。ひょっとしたら、あのときの切嗣も同じような気持ちだったのかな…」

 

 切嗣。

 

 彼だった彼女の、養父。

 

 彼だった彼女の、呪われたような生き方を決定付けた、人。

 

 一時期、私が死ぬほどに恨んだ、人。

 

「走った。夜の森だ。もう、足元なんて見えるはずも無い。それで、とにかく走って、走って。気付いたら、崖から足を踏み外してた。どうやら泉に落っこちたらしい。断崖を転げ落ちて、水音が聞こえてな、意識を失った。ああ、俺は死んだんだな、そう思ったよ」

「…でも、貴方は、生きてる」

「助け出されたんだ。何人か、逃げ惑った仲間たちも同じ泉に落っこちたらしいけど、助かったのは俺だけだった。政府の激しい残党狩りからも、不思議と俺だけは逃れることが出来た。そりゃあそうだ。男を捜してるのに、どうして女を捕まえることが出来る?」

「…つまり…」

 

 士郎の頬が、皮肉気に歪んだ。

 

「ああ。俺は、その泉に落っこちたときに、女になっていたらしいな」

 

 はあ、と、溜息が出た。

 なんて、馬鹿な話。

 泉に落っこちただけで、性別が変わるなんて。

 まったく、その泉の成分を分析して売り出したら、新宿二丁目あたりで大人気だ。

 

「なんて名前だったかな。すっかり忘れちまったけどさ。その泉は、泉で溺れ死んだ者の怨念を呪いとして記憶しているらしい。そして、次に溺れた人間を、溺れ死んだ者と同じ姿に変えちまうんだとさ」

「…古代中国の、呪詛の類?」

「…分からない。そこらへんは魔術協会でも、後発の分野なんだろ?」

 

 確かに、呪術とか巫術の類は、西洋よりも東洋のほうが発達している。事実、協会の呪術専門科でも中東の呪術体系には全く及びもつかないのが現状らしいし。

 

「中には猫になる泉とか、パンダになる泉なんかもあったらしいけど、幸い俺が溺れたのは女になる泉、そういうことだったみたいだな」

 

 それにしても、溺れただけで、被検体を異生物に変貌させる泉?

 そんなの、ほとんど魔法じゃないか。

 時計塔の教授に知らせたら、目の色変えてすっ飛んでくわね、きっと。

 

「…で、それ、元に戻らないの?」

「普通はお湯を掛けると元に戻るらしいけど…、俺は、駄目だったよ。どうやら、よっぽど上手く馴染んじまったらしい」

 

 お湯を掛けたら元に戻るって…、形状記憶合金じゃああるまいし、なんだその理不尽さ。

 私は、驚きよりも呆れの気持ちで一杯だった。

 そして、心ならずも目の前に座った元男性に、ほんの少しだけ同情したのだ。

 

「…じゃあ、今の貴方は、完全に女性なわけね」

「そうだな、体だってこの通りだし、生理だって来る。いや、初めてのときは世の中の女性を尊敬したよ。こんな苦行を、月に一度もこなして、しかも子供を産んで…。遠坂、お前もいつか子供を産むなら、気をつけろよ。あれは、本気で痛いぞ。まるで拷問だ」

「…っていうことは…」

「…ああ。アルトリアは、正真正銘、俺が産んだ、娘だ」

 

 遠雷が轟くような驚き、というものは無かった。

 あったのは、深海のように穏やかで深い納得。

 ああ、と漏れた溜息も、事実を確認したという色彩が強い。

 だって、そんなこと、こいつの瞳を見た瞬間から、知っていたことなんだから。

 

「アルトリアは、俺が産んだんだ」

 

 その時の彼女の視線を、何と表現することが許されるだろうか。

 人工の赤い灯火に照らされる、幼子の寝顔。

 それを見つめる士郎の瞳。

 聖母のような、という表現では、あまりに頼りない。

 獅子のような、だろうか。

 まだ目も開かない我が子の毛繕いをする、雌獅子の、瞳。

 強さと、優しさと、同じくらいの恐怖に満ちた、瞳。

 愛することの出来る喜びと、失うことの恐怖を等分に孕んだ、瞳だ。

 

「こんなこと聞くのは無粋なんだろうけど…」

「父親は誰か、か?」

 

 まるで、その質問を待ちわびていたかのような声。

 私は無言で頷く。

 その様子を見て、彼女は少しだけ微笑ったようだった。

 

「…わからない。俺も、この子の父親が誰か、分からないんだ…」

「わから、分からないって…!」

 

 驚いたのは、その台詞だろうか。

 それとも、その無情な台詞を事も無げに、しかしこの上なく誇り高く口にした、彼女の横顔に、だろうか。

 そのとき、窓枠ががたがたと、鳴った。

 少し、風が出てきたのかもしれない。

 思い起こされる寒さが、そして寂しさが、意味もなく肩を震わせる。

 

「こんな身体になってから、しばらくはその村で療養させてもらった。ゲリラ狩りが激しい中、素性も知れない人間を庇うことが如何に危険か、分かるかい遠坂。俺は、もうあの村の人たちに、一生返せない恩義を背負ってしまったよ」

 

 乾いた口中を癒すため、すっかり冷めてしまった紅茶を啜る。

 さっきよりも、少しだけ渋い気がした。

 

「ほとぼりが冷めてから、各地を転々とした。中近東とアフリカが多かったかな?ははっ、別に戦いたくて助けてるわけじゃあないのに、助けると、必ずといっていいほど戦いになる」

 

 ぎしり、と、歯が軋る音が聞こえた。

 音源を、目の前の女性の、形のいい唇を見つめる。

 彼女の視線に、初めて僅かばかりの怒りが篭もっていた。

 その怒りは、誰に向けられたものだろうか。

 自分に、それとも他人に?

 もしくは、世界に。

 

「なあ、遠坂、地獄の定義はわかるかい?俺は、思ったよ。人の命に何の価値も与えられない環境、それが地獄なんだなって」

「…貴方には、何の責任もないでしょうに…」

「…そうだな。きっと、その通りだ。そんなことも認められないくらいに、俺は疲れていたのかもしれない」

 

 彼女は、語った。

 

 そこで、如何に生き抜いたか。

 

 如何に戦い抜いたか。

 

 自分の力では如何とも救い難い人々。

 

 多過ぎる正義の辞書。

 

 大国の思惑と、遅々として改善しない状況。

 

 無慈悲に、その鎌を振るい続ける死神。

 

 瞳を乾かせたまま死んでいく、幼児の群れ。

 

「一番残酷だったのは、生まれたばかりの赤子を絞め殺す母親を見たときだなあ。口減らしのためだったのかもしれないし、我が子に地獄を味合わせたくなかったのかもしれない。ただ、その母親は、泣いてたよ」

 

 何も、言えなかった。

 言えば、慰めることになるから。

 それは、何よりも残酷で、無意味なことだろう。

 ならば、無言であること。

 それに耐え忍ぶのが、彼女の前に座る、最低限の礼儀だと思った。

 

「戦った。とにかく、目の前にいる人たちを助けたかったんだな。飢餓をなくすなんて、簡単なことだ。戦争を止めさせればいいのさ。だから、そのために戦ったよ」

「…なるほど。一時期、噂が流れたのよ。貴方の剣製を、ソマリアで見たって。それは完全な事実だったのね」

 

 くすりという、陰を含んだ笑い声。

 視線は、ここではない、どこか彼方を射貫くように。

 その遠い瞳が見つめるのは、若き日の過ちだろうか。

 

「…ああ、そりゃあアパッチを弓矢で打ち落とせば、噂にもなるだろうさ。戦って、戦って、これでもかってくらいに戦って、同じだけ殺して。もう、目の前の人たちを助けるには、奇跡にでも頼るしかない、そう思い始めてた頃かな」

 

 

 夢を見たのだ、と。

 

 

 彼女は、文字通り夢を見るような瞳で、そう言った。

 視線の焦点は、遥か遠い過去に。

 まるで、飴玉を転がすように、口元は甘露に綻んでいた。

 

「草原だった。風が吹けば草が波を作るような、嘘みたいな草原に、俺は立っていた」

 

 彼女の頬は、紅く染まっていた。

 それは、まるで彼女の愛し子の頬のように。

 まるで、恋する乙女の頬のように。

 

「裸だった。でも、不思議と寒くないんだな。常春の空気っていうのは、あの世界のことをいうんだと思う。そこで、懐かしい奴に出会った」

 

 懐かしい、奴。

 もう、その固有名詞など、聞く必要すらない。

 そんな世界が、夢の中であったとしても、相応しいのは一人だけだ。

 セイバー。あの二週間だけの、士郎のサーヴァント。

 気持ちのいい、少女だった。

 それゆえに、憎んだ。

 士郎の心を、狂おしいほどに燃やし尽くしながら、無責任にも己の世界に還った、少女。

 彼女ならば、士郎を救うことが出来たのに。

 私には出来ないことを、出来たはずなのに。

 それが、悔しくて悲しかった。

 でも、何より苦しかったのは。

 彼女が、おそらくは彼女こそがそのことを一番悔いているだろう、その確信だった。

 

「そいつも、裸だったよ。それがな、おかしいんだ。俺が女に変わっちまったみたいに、そいつも男になってた。いや、ある意味ではそれが正しい姿なのかもしれない。伝説に謳われた騎士王が、いたんだ」

 

 

 燦燦とした陽光。

 それが、目の前の男性の、金色の髪に滑って輝く。

 さらさらとしたそれは、極上の絹のよう。

 それを見ただけで、確信した。

 ああ、あれは、セイバーだ。

 そして、次に苦笑した。

 悪いことをした。きっと、今の俺を気遣って、男の姿で来てくれたんだと。

 風が、望まずに長くなった髪を、弄っていく。

 まるで、理想が燃え尽きた後の灰のような、俺の髪。

 騎士王のそれと、比べるのもおこがましい。

 全く、お笑い種だ。

 必死に、彼我の距離を縮めるために必死に走り続けてきたのに。

 いつのまにか、致命的なくらいに引き離されている。

 得てして、そんなものだろうか。

 それとも、目の前の男性との距離を正確に計ることが出来るくらい、俺は成長したのだろうか。

 もう、何も分からなかった。

 それくらいに、ただ、幸福だった。

 何度も、夢見た。

 一度も、夢の中でさえ、出会えなかった。

 だけど、背筋だけは伸ばして、相対した。

 今はこんな様でも、一応は恋人だったんだから。

 これ以上、失望させるわけにはいかないから。

 胸を張る。

 聖緑の瞳が、俺を射抜く。

 それは、億の銃弾よりも、声高な衝撃で、俺を貫いて。

 ただ、ぼろぼろと、涙が溢れて。

 そのとき、一際強い風が吹いた。

 まるで十戒みたいに、風が道を作る。

 草が、綺麗に腰を折る。

 左右に、王に傅く騎士の群れみたいに。

 まるで、目の前の男性の威容に、跪くかのように。

 草の緑と空の蒼は、気高き剣の英霊の金色に、相応しい背景だった。

 無言で、歩み寄った。

 裸足だったけど、不思議と痛くなかった。

 彼も、無言で歩んできた。

 近付いてくる、少年王。

 姿かたちは変わっても、身を焦がすほどに求めた、存在。

 俺は、きっと、情けない顔で涙を流している。

 それでも、口元は笑っているはずだ。

 それが、この上なく誇らしかった。

 

「泣いているのですか、シロウ」

 

 記憶にある声よりも、幾分低い、それ。

 それでも、まるで日本刀の鍔鳴りみたいで、心地よく響く。

 記憶から、記録となり、既に忘れかけた、声。

 二度と、聞くことがないと思っていた、声。

 

「ああ。きっと、幸せ過ぎるんだと思う」

 

 間近で見ると、セイバーの肌の美しいこと!

 泥と埃に塗れ、傷だらけとなったこの体が哀れに感じるほどだ。

 

「貴方は、頑張り過ぎたのです。さあ…」

 

 彼は、大きく腕を広げて。

 そして―――。

 

「どうなったの?」

「思いっきり、ひっぱたかれたよ」

 

 士郎は、頬に手を当てながら苦笑した。

 私は、一瞬呆然としていたと思う。

 

「『私に偉そうに説教しておいて、その様はなんだ。それでも唯一人、私が愛した男性か!』、張り倒されて地面に転がった俺を見下ろしながら、そう言って怒鳴り散らすんだな」

 

 なんだ、そりゃ。

 てっきり、甘い、奥歯が腐っておちるくらいに甘い展開を想像したのに。

 

「『過去を引きずるな、そう言った貴方は誰よりも過去を悔いている!己を大事にしろ、そう言った貴方は誰よりも己に価値を置いていない!貴方の言葉をもって過去の己の望みと決別した私の立場はどうなる!それでは、詐欺ではないか!』、ぼろぼろ泣きながら、あいつ、そう言ったんだ。堪えたなあ、あれは」 

 

 そう言いながら、目の前の女性は、心底幸せそうだった。

 ああ、羨ましい、と。

 そう思ったのは、罪だろうか。

 

「…で、その後、どうしたの?まさか、それだけ?」

「犯された」

 

 ぶう、と、本当に小気味のいいくらいの勢いで、私はお茶を吹いた。

 

「おい、大丈夫か、遠坂?」

「げほ、ごほ、げっほげほ!」

 

 しばらく、肺に入り込んだ薫り高い紅茶を吐き出すのに、私の呼吸器の全機能は注がれた。もう、なんていうか、色んな意味で腹立たしい。

 まるで、嵐のような時間。

 少なくとも、私の主観では嵐なんかよりも遥かに激しい一分間。

 それでも目覚めない士郎の子供は、ある意味大物なのだと感心する。

 

「…犯されたって、どういう意味よ?」

「文字通りだ。レイプされた、そういった方が分かり易いか?」

 

 分かりやすい分かり難いでいえば、そちらの方が分かりやすいが…。

 

「最初は、本気で抵抗したんだ。それでも、あいつ、全然許してくれないんだぜ。止めてくれって泣き叫んでるのに、何度も何度も。で、事が終った後に、俺の頭を撫でながらこう言ったんだ。『シロウ、私は一生、貴方をはなさない。もう、これで、貴方は私だけのものだ』って。その意味が分かったのは、大体二ヵ月後だったかなあ」

 

 …もう、大体の話の筋は掴めた。

 要するに、だ。

 

「アルトリアの父親は、セイバー、そう言いたいの?」

 

 私が呆れながらそう言うと、士郎は少し苦そうな顔をした。

 

「そうであってくれれば綺麗なんだけど…。本当は、多分違うんだと思う。夢を見ただけで妊娠なんて、男から女になる以上にあり得ることじゃあない。きっと、眠ってる間に、誰かにレイプされたんだろう。起きたときに、睡眠薬を飲まされたみたいな頭痛もあったしな」

「…」

 

 それは違う、と。

 きっと、神様が奇跡を起こしてくれたのだと。

 そう言ったって、何の慰めにもならないだろう。

 第一、私自身が彼女の意見を是としてしまっているのだ。

 だから、アルトリアの父親は、彼女が見たことも無い、男。或いは、睡眠薬を飲ませて女性を襲うことくらいしかできない、卑劣漢。そういう、ことなのだろう。

 

「でもな、遠坂。俺は、そのことをちっとも悔やんでなんかいない。この子の父親は誰だか知らないけど、この子と俺を引き合わせてくれたのは、間違いなくセイバーなんだから」

「それは、どういう意味?」

「最初は、堕ろそうと思った。戦うには、大きなお腹は邪魔だから」

 

 目の前の女性は、幸せそうに下腹を摩りながら、そう言った。

 その言葉に反射的な嫌悪を覚えたのは、私が女性だからだろうか。

 

「でも、駄目だった。もし、万が一の可能性で、この子がセイバーの子かもしれないと思うと、殺すなんて出来なかった」

 

 すやすやと眠る少女。

 その、柔らかでクセのある金髪を、母親が梳かしていく。

 その様子は、どんな聖画なんかよりも遥かに崇高だった。

 

「そして、戦うのが怖くなったよ。俺が死ねば、俺以外の命が消えてなくなる。それは、例えようもない恐怖だった」

「…そんなの、当たり前じゃない。人は、誰だって死ぬのが怖いのよ。それくらい、もっと早く気付きなさい、馬鹿」

「ほんと、お前の言うとおりだよ、遠坂。俺は、そんな簡単なことにさえ、気付いていなかったんだ」

 

 少女が僅かに身動ぎすると、毛布が音も無く床に落ちた。

 母親は、とても嬉しそうにそれを拾って、少女の小さな体にかけてやった。

 そのとき、少女が呟いた。

 パパ、と。

 その時の、こいつの嬉しそうな表情を、何と形容したらいいだろう。

 とりあえず、何となく、私も子供が欲しいなあと。

 そう、思ってしまったくらいだった。

 

「お腹が目に見えて大きくなり始めた頃、俺は信頼できる人のもとに身を寄せさせてもらった。そこで、赤子を産み捨てて、もう一度戦場に帰るつもりだったんだ」

「…最低」

 

 命を産んでおいて、それを見捨てるなんて。

 生まれる前の命を摘み取る以上に卑劣な行為だ。

 批判する意見も、反駁も、山とあるだろう。

 それでも、私はそう思う。

 そんなの、まるで、私の妹みたいじゃあないか。

 

「…でも、出来なかった。こいつの、瞳を見ちまったから」

 

 …ああ、なるほど。

 そりゃあ、駄目だわ。

 この子の父親が本当は誰か知らないけど。

 この子の瞳は、セイバーの聖緑のそれと、同じ色だ。

 そりゃあ、こいつが見捨てられる筈が、無い。

 

「それから、俺は剣を握ったことは無い。でも、剣を握るほうが楽な生活は続いたな。異国で乳飲み子を抱えてその日暮らしをするのは、中々に楽じゃあない。犯罪紛いのこともしたし、身体を売ったこともあるし、口に出すのも憚られるような仕事も、たくさんしたよ」

「…へえ、正義の味方君が、変われば変わるものね」

「勘弁してくれ、遠坂。これでも、十分に罰は受けたと思ってる」

 

 それは、泣きながら縋りつく私の手を振り払った罰だろうか。

 それとも、今でも彼の帰りを待つ、藤村先生や桜を悲しませている、罰。

 ならば、不十分だ。

 だって、貴方、そんなにも楽しそうなんだもの。

 

「そして、この街に流れ着いたのが、一月くらい前か。今は、ある女性の家に雇われている。根無し草生活が染み付いちまってるからな、この街の暖かい空気は有難いよ」

 

 そこまで話して、彼は再び紅茶を啜った。

 おそらく、もうそれ以上のことは話すつもりは無いのだろう。

 

「…何で、私に連絡をくれなかったの?もし、くれてたら…」

 

 どんな犠牲を払っても、貴方を助けたのに。

 それとも、それは私が私自身を騙すための、酷い欺瞞だろうか。

 

「連絡先を知らなかったし、それに、こんな身体になったのを知られたくなかったんだ。化け物みたいだろ、まるで」

「…日本に帰らない理由も、それ?」

 

 彼女の瞳が、初めて沈痛に染まった。

 それは、言葉よりも雄弁に彼の心情を語るようだった。

 

「…藤ねえや桜に化け物呼ばわりされたら、俺、生きていけないよ…」

 

 その、弱弱しい一言が。

 どれだけ、私の怒りを駆り立てたのか、この女性は知り得るだろうか。

 

 立ち上がる。

 

 女の襟首を、引っ掴む。

 

 無理矢理に引きずり起こして。

 

 その、唖然とした、開きっぱなしの口に。

 

 思いっきり、拳骨を、叩き込んだ。

 

 がしゃんと、お気に入りの家具の砕ける音。

 カップも、ソーサも、砕け散る。

 ぶちまけられた紅茶が、場違いに高貴な香りを撒き散らす。

 その、なんと間の抜けたことだろう。

 

「ふざけるな!」

 

 拳から、血が滴る。

 ふと目をやれば、白いものが見えた。

 きっと、彼女の前歯で、切ったのだ。

 ならば、あれは、骨、だろうか。

 

「あ、あんた、さくらやふじむらせんせいが、いったい、ど、どんなおもいで、おも、おもいで…」

 

 もう、口は用を為してくれなかった。

 そもそも、旅立つ彼を引き止めることすら出来なかった、役立たずだ。

 だから、それ以上の意思を込めて、睨みつけてやった。

 きっと涙でぐしゃぐしゃで、ちっとも怖くなんか無い顔だっただろうけど。

 それでも、精一杯に、睨みつけてやったのだ。

 

「…ごめんなさい…」

「謝るくらいなら、早く帰りなさいよ!明日にでも、日本に帰りなさいよ!」

 

 手近にあった財布を、思いっきり顔にぶつけてやった。

 彼女の美しい唇が縦に裂けている、そのことに気付いたのは、その時が初めてだった。

 

「…でも…」

「あの二人が、貴方を化け物呼ばわりする!?馬鹿にするのも大概にしなさい!あんたが犬になろうが!英雄になろうが!剣山になろうが!あの二人なら貴方だって見抜くわよ!自分が串刺しになっても、あんたを抱きしめるわよ!だって、私なら、わたしなら…!」

 

 きっと、そうするから。

 そこまで、言えなかった。

 そこが、限界だった。

 私は、蹲って、泣いた。

 もう、これでもかってくらいに、泣き喚いた。

 もしかしたら少女が目を覚ますかもしれない。

 頭の片隅でそんなことを考えながら、私は泣き喚いた。

 泣いて、泣いて、泣いて。

 結局、それを慰めてくれたのが士郎だったのは、私の一生モノの恥部だ。

 

 

「…落ち着いたか、遠坂」

「ええ、おかげさまで」

 

 精一杯の皮肉も、彼女の分厚い面の皮には、傷一つ付けられない。

 士郎は、先程と同じように、まるで冷たい鉄みたいに冷静だ。

 だから、彼女の瞳が真っ赤だったなんて、気のせい。

 

「…まだ、怖いんだ。きっと遠坂の言うとおりだけど、それでも怖い。だから、日本に帰るのは、もう少し先になると思う」

「…手紙くらい、書けるでしょう。今から書いて、明日の朝一番にポストに投函すること。じゃないと、殺すわよ、貴方」

 

 限りなく本気で、そう言った。

 彼女は、叱られた子犬みたいに、耳を垂れながら首肯した。

 

「…書き終わったら、もう寝ましょう。この中で、この子が一番賢いわ」

「…だから、言ったんだ。アルトリアは頭がいいって」

 

 少女は、結局一度も目を覚まさなかった。

 きっと、本能で理解しているのだろう。

 自分の寝顔こそが、大人達に無上の幸福を与えることを。

 それから、どれほど時間が流れただろうか。

 私がお気に入りのスコッチを、ボトルの半分ほども乾かした頃、書斎から彼女が出てきた。

 大層多くの手紙を書いたのかと思っていたが、彼女が持っていたのはたった一枚の便箋だった。

 恥ずかしげに俯く士郎から、それを引っ手繰る。

 そこには、如何にも申し訳なさそうに、小さな文字でこう書いてあった。

 

『俺、元気にしてるよ。子供も出来たから、今度連れて行くよ』、と。

 

 少し物足りないかとも思ったが、リハビリテーションにはこれくらいが相応しいだろう。

 赤い悪魔の採点は厳しいと時計塔でも評判だが、私は及第点をあげることにした。

 

 

「…もう、行くの?」

「ああ。今日は、朝一番から仕事が入ってる。こんな、どこの馬の骨とも知れない異国人を雇ってくれた恩人だ。仇で返すわけには、いかない」

 

 士郎の隣には、帽子を目深に被ったアルトリアが。

 これでは、ほとんど少年と変わらない。

 勿体無いとも思ったが、親一人子一人の旅行きでは、こういった自衛策も必要になるのかもしれない。

 

「…ねえ、衛宮君。私、こう思うの。渡り鳥には止まり木があれば十分だけど、雛鳥には暖かい巣と親鳥の愛情が必要よ。片方はきっと十分過ぎるほどに十分なんだろうけど、それでも夜は寒いでしょう」

「…ああ、お前の言いたいことは分かってる。決心がついたら、連絡するよ」

「…嘘じゃあ、ないでしょうね?」

「俺がお前に嘘を付いたことなんて、ないだろ」

「まず、一つ目、ね!」

 

 そんな懐かしいやりとりを、少女は不思議そうに見上げた。

 朝日に照らし出されたその瞳は、やはり伝説の騎士王のそれで。

 私は、決して言うまいと心に誓った一言を、つい口に出してしまったのだ。

 

「ねえ、衛宮君。私、その子の父親はやっぱりセイバーだと思うわ。ううん、それ以外、在り得ないじゃない!」

 

 士郎は、少しだけ恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに微笑った。

 きっと、彼女もそう確信しているのだ。

 その、夜気を解かす曙光のような笑顔を見て、私は嬉しくなってしまった。

 

「違います。アルトリアのパパは、パパだけです!」

 

 頬を膨らましてむくれた少女。

 その、少し棘のある視線が、何故だか心地よかった。

 やがて、遠ざかる背中。

 大きな手と小さな手は、堅くつながれたまま。

 朝日に溶け出しそうな二つの影を、眩しい想いで見送る。

 そして、私は最後の質問を忘れていたことに、気付いた。

 

「あいつ、何で自分のことをパパって呼ばせてたんだろう…?」

 

 頭を捻って。

 それから彼女の気持ちに気が付いて。

 私は、本当に久しぶりに、お腹を抱えて笑ったのだ。

 

「ああ、最高ね、衛宮君!なるほど、それが貴方の、最後の矜持なんだ!」

 

 一頻り笑って、笑い転げて。

 私は、自分がかつて愛した男性を、本当に誇りに思ったのだ。

 

 

 しばらくしてから、ルヴィアの家に招かれた。

 そこに、彼女のお気に入りといっていたボディガード兼メイドの姿は、無かった。

 銀髪に褐色の肌を持つという彼女は、その日に限って病休を取ったらしい。

 かつての恋人のメイド姿を楽しめると思っていた私は、深く深く落胆したのだった。

 

 まあ、なんていうか。

 

 春を象徴する花の名を持つ、美しい乙女と。

 冗談みたいに騒がしい、世界で一番優しい先生と。

 聖杯だかご都合だか、なんだかよく分からないものの奇跡で蘇った、雪の少女と。

 優雅で華麗な私と、見るからにぱっとしない、あいつで。

 みんなでワイワイ、騎士王の娘を育てる。

 そんな未来があってもいいんじゃあないか。

 そんな気が、しませんか?


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