光も届かない暗闇。暗闇のような光も届かない場所。ここに踏み入ればもう二度と戻ることさえ叶わないかもしれないことをしりつつ、モヤのかかる視界を振り払う。あの場所に私じゃなくて、ユメ先輩が居てくれたなら。先生も今よりもっと良かったんじゃないかって。
たられば、って言われる毒はゆっくり身体を駆け巡って、確かめていくたびに本当にそうなんじゃないかって思うようになっていく。
この考えは先生と出会うより前からずっとあって。だけど、先生が少しだけ変えてくれたんだ。見たこともないはずの水底に沈んでいく身体を引っ張り上げてくれるのは、いつかの日に見た先生の手。一緒に居てくれる先生じゃなくて、みんなの前の先生の手。
この手はいつ差し伸べられた手だったっけ。
ああ、そっか。みんなと一緒に助けにきてくれたときだ。ゲマトリアの黒服に、大人に。また騙されて捕らえられたあのとき。みんなが差し伸べてくれた手を取ってアビドスに帰ったけど、みんなの前では眩しいものを見るような笑顔を浮かべてからタブレットを弄って難しそうな顔をしているだけだったのにその夜の優しさに、心が奪われちゃったんだ。
「あーあ……やっちゃったなぁ……」
みんなからいっぱい怒られて、泣かせちゃって、よかったって言ってもらえた。帰ってこれてよかったと心の底から思えてる。
でも、先生だけはずっと能面だった。一瞬だけ笑ったけど、それだけ。ただ淡々と、後片付けをするみたいに手を動かしてた。声をかけられた時だけは表情を動かしてたけど、それ以外は感情が見えなかった。あれはいったい、誰なんだろう。
あの人の手からすり抜けるように振り絞った浅知恵は、届かなくて。失ったものは確かにあったけど、それでも私はここに居る。手放されなかったのは後輩の子たちが頑張ってくれたからなのは間違いないけれど……一番は、あの人が居たから。
みんな手を握ってくれた。助かってよかったって喜ばれた。でも、あの人の手だけは、温もりだけはもらえてない。
顔には出してないけどきっと、怒ってるんだろうなって思う。だから表情を崩してないんだって言われたら納得いく。
「電気も付けずに居たら気持ちまで暗くなるよ」
優しい声が聞こえる。誰にでも無条件で手を差し伸べて、散々傷付いてるのにそれでも伸ばすことをやめない強い人の声がして、肩を震わせる。
「そうだね。あっ……みんなは?」
聞いたら困ったように溜息を吐いて、瞳を閉じるのが見える。初めて見る顔で、ちょっとドキドキする。
「全員買い出しに行ってるよ。みんなで先輩奪還のお祝いをしようって張り切ってた。一応会計は私のカードから出すように言ったけど……いくら使われるんだろう。先生って思われてるより安月給なんだけどねぇ」
「あはは。なら渡さなければよかったんじゃない?」
「それはそれで違うと思うんだよね。頑張った子にはそれ相応のご褒美があって当然、でしょ?」
優しい顔で窓の外を眺めているように見えるけど、あれはどこを見てるんだろう。まるでここじゃないどこかに心を置いてきてるような……。
そんなこの人を見ていると、誤魔化せるような気持ちになるけれど。でも、このままじゃダメだ。頑張ったいい子にはご褒美をって言うなら、人を裏切った悪い子の私は、ちゃんと謝らないと。
「……先生」
「うん、どうしたの?」
「ごめんなさい……一人で、勝手なことして……。結局騙されちゃって、先生に。みんなにも迷惑をいっぱいかけちゃってさ……ほんと、バカだよね私。本当に、全部が……無駄だったんだ……」
違う。こんなこと言いたかったんじゃない。私はただ、謝りたかったんだ。悪いことして、迷惑かけてごめんなさいって。だから、もっと迷惑かかるようなこんなこと言ったらせっかく手を差し伸べてくれたのに次がなくなっちゃうじゃん。
次、かぁ。私、次があることを期待しちゃってるんだ。みんなへの、先生への手紙で大人のことが嫌いで、それでもあなただけは違ったねって言った挙句に助けられちゃったのに。
あーあ。私って本当にダメだなぁ。ユメ先輩みたいになんてなれそうにないや。
「はぁ、引っ張り出すつもりもなかったんだがねぇ……」
「え……?」
「いいかい、ホシノ。君がみんなのために必死に悩んで考えたことは、無駄じゃなかった。したことだって、ちょっとやり方は間違ってたけど。それでも君はバカじゃない。自分勝手、なんかじゃないんだよホシノ」
そうかな……でも、結局みんなに迷惑かけちゃったし、借金の話も結局解決しなかったし……。これを無駄って言わなければ、なにが無駄なんだろう。
これを言ったら肯定するような言葉が紡がれてしまう。だから必死に歯を食いしばってなにも口から出ないように堪える。
丁寧に整えられた手をごちゃごちゃにして、普段しているメガネを外して片手を瞳に当てて溜息を吐いてる。ちゃんと魅力のある大人ってこんなに綺麗なんだってドキドキするより前に、やっぱり怒ってるんだって胸がきゅうっと締め付けられる。
怒られないように無理やり口を開こうとしてなにも口に出来なかった。
だから、先生の口が声を発する方が先だったんだ。
「……ごめんね」
「ぇっ……」
目の前に居たのは、想像していたような厳しい姿なんかじゃなくて。もっと小さな、後悔してる人間の姿だった。
拍子抜けという言葉すらも生温いくらいの衝撃に呆然としちゃう。
「私は君に言ったよね。私がどうにかするから、って。それなのに……私は、なにも。そう、なにも。出来なかった」
訥々と、まるで教会でシスターに向けて懺悔するような先生に冷静な私が疑問を浮かべる。だって、そうでしょう?
今回やらかしたのは私で、先生はこんな私を救ってくれたすごい人。第三者に判断を委ねれば絶対に私が悪いと言われる状況で、それでもこの人は自分が悪いと譲らない。
「私が。私がもっと、しっかりしていればこうならなかった。こうなるのなんて、分かってたんだ」
この人が向ける平等は、自分自身には向けられていないのだと思い至ると、不思議な熱が胸に宿る。なんだろ、これ。
不思議な気持ち。泣きそうになってるけど、ダメ。ここで泣いたら先生が自分を責めちゃうから。
「ごめん。ダメな大人だ。私は……かつて目指した憧憬には、辿り付けそうも……」
「……ちがう」
なにも口にしないように噤んでいたのに。それを崩したのは他でもない自分の意思だった。掠れた涙声はいつもとは比べ物にならないほど弱弱しくて、冷静な自分がなにをしているのかと呆れ果てている。胸の内にひんやりとしたもの差しても、すぐに熱いものに変わる。
「ちがうよ……先生は……せんせいは、悪くなんて、ない……」
言葉が途切れる。伝えたい言葉が、想いが伝わらなくなっちゃう。止まりそうになる口をなんとか回して、零れ落ちる涙を必死に拭う。
「私が悪いんだよ……勝手に一人でやろうとしたから……頼れる人だって、居たのに」
「それは違う。私は……」
「違わないよ……! 先生は、
まだ、言えてない想いがあるんだ。
「先生は……どうにかするって……言って、くれたのに……!」
ありがとうって、まだ言えてない。それなのに。
「私が……私が、勝手……に……ひぐ……ごめんなさい……せんせぇ……うぐ……う……うぅ……」
涙が溢れて止まらない……ユメ先輩が居なくなったときだって、こんなには泣かなかったのに。この人に迷惑をかけてしまった、その事実が今更胸に突き刺さる。身体が冷たくなって、このまま死んじゃうんじゃないかなってくらいに。
そうしてしばらく。それでも止まらない涙でグローブが水気を帯びてきた頃。唐突に頭を撫でられて、ゆっくり視線を上げる。
「ほら、瞳閉じて」
「う、うん……」
ハンカチで目元を何度か吹いて、優しい笑顔を浮かべる彼に見惚れて冷たかったはずの身体が、心が。ゆっくりと温かいものに包まれる。
「あの手紙の中で、なんかダメな大人来たなんて第一印象だって言ってたよね」
「……うん」
黒服との取引に応じるって決めた日に机の上に書き置いた手紙に書いた内容。ちゃんと読んでくれたんだ。
「正直ね、私は君のことが苦手だった」
「え……?」
「斜に構えているし、聞いてくれてるかイマイチ分からないし……」
遠い目をする姿を見て、それが本当なんだって気付かされる。こういうのって、普通は慰められたりするんじゃないの……?
「でも一緒に過ごしてるうちに君が優しい人なんだって気付いた。後輩に向ける瞳が、宝物を見るような瞳だったから」
優しい目をしてるのはどっちだろう。私がしてたのかな、先生みたいな、優しい瞳を本当に。
「だからね、ホシノ。私はね、君が思ってることが聞けて……君に頼りにしてもらえて、私は嬉しかったよ」
まるで宝物を眺めるような慈悲に満ちた瞳をするこの人は、かつて信じていた大人の姿そのものに見える。こんな綺麗な人が、心の優しい人が居るんだ……。
「他でもないホシノに私を信じてもらえていたことが、本当に嬉しかった」
私の手を優しく包み込んでくれる手のひらは、私より二回り以上大きくて身を委ねたくなる。単純な力は私たちよりないかもしれないけど、先生は人として頼りにしたくなる力があるんだ。
「ね、ホシノ。私の顔を見て」
「……うん、見てるよ」
「これが、君には無駄に思えるかい?」
思えなかった。優しい表情をしてくれてるから、そんなこと思う余地がない。
「……無駄じゃないんだよ。君が頼ってくれて、私はこんなにも、嬉しいんだから」
握ってくれているのとは逆のもう片方で頬に手を当てられる。こうされると、なんでだろ。不思議とドキドキしちゃう。涙で視界は滲んで、もう先生がちゃんと見えなくなる。
「もう、自分を責めちゃだめだよ。すぐには難しいかもしれないし、無理だろう。でもさ、私も一緒に手伝うから……」
「先生も、言わないでよ……!」
最後まで聞く前に、胸の中で感情が爆発してまるで子供みたいに先生の胸に飛び込んで抱き締める。先生はびっくりして固まってた。それでも気にしない。気にしてる余裕なんて今の私にはない。私の知ってる数少ない言葉で、つたえなくちゃ……。
「ダメだなんて、もう言わないで……先生は私を救ってくれた。ダメな人なんかじゃ……ないから……。私も、頑張るからぁ……!」
もうあなたが自分を卑下するのなんて見たくない。私がこんな気持ちを抱く人は、あとにも先にもあなただけだろうから。
この気持ちがなんなのか分からないけど、こんな気持ちにさせたあなたが悲しそうにしていると私も悲しくなっちゃうから。
「だから、もう言わないでよぉ……」
「……うん、そうだね。ありがとう、ホシノ。一緒に頑張ろうか」
「約束だよ……先生……」
泣いてる顔を見られたくなくて先生の胸に顔を埋めているせいでどんな表情をしているか分からないけど、きっと優しい顔をしてくれてる。
だって、こんなにも心が安らぐんだから。ほんのりと香る香水の匂いと、それに混じる知らない匂い。
その日からあの人のメガネを、
覚悟してね、先生。
「そう思ってたのが随分前に感じるなぁ……」
「お前、人をベッドに引きずり込んでおいて当人置き去りで考え込むなよ……」
「え~? だって、落ち着くんだもん」
前は分からなかったけど、香水に微かに混じってたのはタバコの匂いだった。他の人のだと嫌な気持ちになるのに、先生の一部だと思うと優しい気持ちになれる。あの時はこんな風に一緒のベッドに入って同じ時間を過ごせるなんて思わなかったのに、人生って不思議だなぁ。
「そうですか……よかったっすね……」
「疲れた声出してるのに嬉しそうだよ?」
「そりゃ、彼女の安らぎになれてるなら彼氏冥利に尽きるだろうよ」
「あ……え……」
「意趣返しだ。お前が悪いぞ?」
「だって……」
そんな嬉しいこと言われたら、女の子はしどろもどろになっちゃうものでしょ。……そう、だよね。私がチョロいわけじゃないよね。チョロい女の子だと思われるのは嫌だし……。
悩む私を見て面白がって笑う彼氏さんに頬を膨らませる。こっちは真剣に悩んでるのにさ。
「先生って、女泣かせだよね」
「ダメ人間の上に女泣かせって人として終わってるだろ……流石にへこむぞ俺」
「でもね……だ、大好きだよ……?」
「あー……。俺も、好きだぞ」
「ほら、愛の証は?」
「……俺、お前の方が悪女だと思うわ。男をダメにする才能がある」
「先生限定の、ね~?」
「シラフだよなぁお前……?」
餌をせがむ小鳥みたいに胸へと擦り寄ると、仕方ないと言わんばかりに溜息を吐いて、額にキスしてくれる。
嬉しい……けど、今欲しいのはそこじゃない……って不満な顔をしてるんだと思う。彼はもっと面倒な顔をしてから顎に触れて、唇へとキスしてくれた。
あの時は頬だったけど、今は唇。本当に、想像すらしてなかったけれど。今は……ううん。ずっと、この関係性を大切にしたいな。
第一章終わったのでホシノは
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いじめるもの
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かわいいかわいいするもの