プルースト効果、というものが脳科学に存在する。文学作品において定番であるソレは、匂いが妙に記憶に残る想い出と繋がる現象であるが、人の匂いというのは意外にも覚えているものである。
桜の香りで青春を思い出したりとか、そういうの。
五感の中でも脳に直結しているからだとかいう理由だった気がするが、分かりやすいものだと人のニオイ、だろう。
「そういえば、先生ってタバコ吸ってるのにニオイしないよね」
「……ニオイしたらバレるだろ」
いつも通り執務で溜まったストレスをタバコで発散していると、不意にタカナシがそんなことを言ってきた。
服にニオイが付くものは多いが、その中でも不快度が高いのがタバコのニオイ。喫煙者も人のタバコのニオイで気分悪くなることはあるため、非喫煙者がどんな思いをしているかは……察するところ余りある。
シャーレの先生、というのはいい評価を受けている。それこそ、過分なほどに。人に対する評価は言動のみでなく、身だしなみ……ようは、マナーでも決まる。その中でもにおいは記憶に残りやすいものとされている。
だからニオイには気を付けている、というわけだ。
同様にコーヒーもそんなに好きじゃない。コーヒーとタバコは化学反応を起こしてテロにまでなる。
「ね、そっち行ってもいい?」
「タバコのニオイ移るからダメ」
「移ってもいいんだけどなぁ」
「いいわけあるか」
生徒からタバコのニオイがしようものなら教育者として叱らなければならないし、じゃあ誰につけられたニオイなのかという話になればまた面倒なことになる。
面倒事は増やさないに限る。
とことこ、と近付いてくるタカナシに嫌な顔をするのが自分で分かる。おそらく、先生がしてはいけない表情をしていることだろう。
「なぁタカナシ。お前人の話聞いてたか?」
「んー、ちゃんと聞いてるよ~?」
「聞いてるやつはこっち来ねぇんだわ」
急いでタバコの火を消しても、辺りに充満したタバコのニオイは消えない。溜息を吐いて呆れた視線を向けても気の抜けた笑顔を向けられて怒る気力も失せる。
そもそも弱みを握られている状態で苦言を口に出来るわけもない。南無三。
そのまま隣にまで来て、何度か鼻を動かし……露骨に嫌そうな顔をする。
「んへぇ……あんまりいいニオイじゃないね」
「まぁ、そりゃ有害物質のカタマリだからな」
間違ってもタバコなんて吸うべきじゃない。タバコは思われているよりカッコいいモンじゃないんだから。
これはただの、大人の世界を生き抜くための処世術。憧れるような美しさはどこにもなく、あるのは現実から一時的に逃れる快楽だけ。
興味津々、といった様子でタバコを見るタカナシは、大人に憧れる歳相応の子供に見えた。それだけの目が、出来るようになったかと頬が緩む。
「タバコって美味しいの?」
「いやクソまじぃ。なんでこんなの吸ってんだろうな……」
「えぇ……?」
一番最初に吸った頃はバカみたいに深呼吸するものだと思って大失敗したし、しかもそれがメンソールで二度と吸うかと本気で思ったのに、今では手放せなくなっている。
最近は忙しさも隠せなくなって正比例するように吸う回数も多くなってきている。このままでは隠せなくなっていくだろう。
滅びろ紙書類。廃れろ旧体制。
一番書類の溜まっていた日が脳裏に浮かび、嫌な想像に溜息を吐く。
「大人はそれだけイロイロあんのさ。こんな大人にはなんなよ」
「反面教師にさせてもらおっかな~」
「……素直に言われるとなんか腹が立つな」
子供は素直が一番、とはよく言うが。それはそれ、これはこれ。よそはよそ、うちはうち。正直さは美徳だが人を傷付けるものだ。
今それなりに傷付いた。
「ほら、いいモンじゃないって分かったならさっさと戻りな」
「んー、でもなんか落ち着くんだよねぇ~」
「なんでだよ」
普通嫌なニオイがするなら落ち着かないだろう。
「タバコの匂いじゃなくて……なんだろ、これ」
「さぁ……そこら辺に置いてあるフレグランスとかじゃないのか?」
強烈なニオイ同士で悪魔合体しないように香りに気を付けているが、同じ空間ならばどうしても混じる。そうなれば普段住んでいる俺では分からない。
「んー、でも先生の近くからするんだよ?」
「そうかぁ。じゃあ俺のにおいかもしれないな」
「そっか~。先生の匂いだったか~」
得心したように何度か頷いてから──顔を真っ赤にして固まる。
「……どうかしたか?」
「んえぇ!?」
声をかけると、驚いた猫のように跳ね上がってから全力で後退していく。……やはりタバコ臭かったのかもしれない。
本人が言わないだけで気にしていることは世の中にたくさんある。
「……そんな慌てるようなことなかったろ」
「えっと、いやぁ~」
なはは、と誤魔化すような笑って一定の距離を保たれてしまう。
離れたり近付いたり忙しい。
「……ふむ?」
不思議に思いつつも、乙女はそういうものなのだろう。深くは触れずにタバコを片付けて、棚においてある匂い消しを服につけておく。
タバコのニオイを残したくないのでしばらく換気。夏に近く少し熱く感じるが、体裁を保つ上では仕方がないと妥協する。
お色直しをして、椅子に腰掛けるとタカナシが近付いてくる。
「……」
「……?」
ふわり、と香る優しい匂いが鼻孔をくすぐる。なぜに横に立っているのか。
なにをするでもなくただ横に並ぶ彼女をよく観察する。
どことなくよそよそしい様子に首を傾げて──まあいいかと書類の処理を始める。いつになったら終わるんだこれ、とげんなりする。
「そういえば、戻らなくても平気なのか?」
彼女が来てから既に2時間ほど。人の家に居るのには短い時間だが、シャーレに居座る時間としては長い。どいつもこいつも嵐のように過ぎ去るからではあるのだが……。
本当にゆっくりしているだけのタカナシに疑問が残る。人を疑うのは悪徳だ、なんて精神があるが……現実は物語のように分かりやすく出来ていない。だからこそ不思議で仕方がない。
「みんなには言ってきてあるから大丈夫」
「……そうかい。そりゃ重畳」
しばらくの間タカナシを観察して分かったのは、こいつが俺の中身について本当に関心がないこと。
より正確に言うなら、それを使ってどうこうしようとは思っていない。
まるで、本当にあの約束だけが意味を持つのだというように。
俺は、小鳥遊ホシノが苦手だ。心の底から。苦手は嫌いとは繋がらない自分の脳みそにほとほと呆れつつも、なにも言えなかった。
「そういや……」
いい匂いと恋愛に関係性があったような気がする。なんだったろうか……としばらく考えて思い出せなかったので諦めることにした。
どうせ、今の自分には関係のない話なのだから。