風邪を引いた日からしばらく経った。
人間の身体は丈夫なもので、半日寝ていたら治った。
幸いにも仕事が終わらせていたからタカナシ以外に体調を崩していたと悟られることもなかった。それ以外になんの問題もないのだが……。
「むしろ問題はそこなんだよなぁ……」
溜息と一緒に苦悩が漏れる。あれからタカナシは熱心に看病をしてくれた。寝汗を拭いてもらうのだけは遠慮したが、夜になって帰るまでずっとそばに居て、俺を眺めていた。
あの瞳に映る色がなんだったのか、倦怠感と頭痛でごちゃごちゃした脳では判断がつかなかったが……呆れられていなければいいなと思う。タカナシがそういうタイプでないにせよ、不安なものは不安なのだ。
他人のことならある程度察しがつく。ただ、自分が絡むとからっきし。同じ脳であることを疑いたくなるほどの体たらくに呆れを通り越して諦めが来る。
「不安、ねぇ……」
最近、少しおかしい。一人で居ると、どうにもタカナシの顔が浮かんでくる。あの、のほほんとして、なんにも考えていなさそうなアホ面が。その裏に隠された諦観を感じさせないあの振る舞いが。
先生として振舞っている間は生徒たちのことばかり考えているのは当然のことだ。とはいえ、生徒の数は多い。全員と関われているわけではないし、その上で関わっている生徒の数も地方の公立校一学年分くらいの人数だ。
だから、出来るだけ一緒に居るときはその子のことだけを考え、一緒に居ないときは考えないようにしている。現在進行形で関わっていることに関連している子を推察するときには考えるが、それだけだ。
「ほんと、どうしちまったんだかなぁ……」
これでは公平であるべき先生としての振る舞いに問題が出る日も近いかもしれない。
考えながら、今日の巡回場所であるシャーレ付近のストリートを歩く。各地域の情勢は信頼できる筋から上がってくるものの、自分で見ないと分からないことは多く、意図的に隠されているものも少なくない。
それでもシャーレ近辺は別だ。ほとんど散歩と変わらないため、頭の中は先生としてのものではない。
シャーレの付近に居るのは要件のある人間だけ。そんな人間のうちの一人である人物が、端末と睨めっこしているのを発見する。
そのまま立ち去ろうかとも思ったが、あとが面倒だと思い声をかける。それと同時に頭を生徒と会話するときのものに切替る。
声をかけられた人物は眉間によっていたしわがなくなり、柔らかい笑顔を返してくれる。
「やぁこんにちは」
「あら。こんにちは、先生。こんなところでどうされました?」
「なに、ちょっとした散歩ってところだよ」
小言を言ってくる女代表、ユウカ。ミレニアムのセミナーに属する会計で、彼女に助けられた機会も少なくない。ただ、安心出来る相手かと言われればそうではない。
尻を叩かれる母親のような人間性は個人的に嫌いではないが。
腰に下げられたサブマシンガン──MPXを一瞥する。この世界に来た最初の2週間ほどは銃を見るたびに目を輝かせていたものだが、今では見慣れたものだ。
男の子はカッコいいものが好きなのだ。男の子、という歳でもないが。
だからコンビニで弾丸が売っていると言われてた時は驚いた。返せよ俺の期待と男のロマン。
「そういうユウカは? 端末と睨めっこしていたみたいだけど」
「これからシャーレに申請をしに行こうとしてまして……最後の見直しを」
「流石、しっかりしてるね」
「先生はそうやってすぐ人を褒めるんですから。仲良くなった女の子みんなに言ってるんじゃないですか?」
「褒めるべきところは褒める、叱るべきところはしっかり叱る。当然のことじゃない?」
「私、叱られたことないですけど」
「……はっはっは」
「誤魔化さないでください!」
軽い茶番は生徒と話している中で身につけた会話術でもある。困ったことに、これで会話が弾む。女子高生の会話はテンポが良すぎてついていけない。
世代差、というよりは単純に距離感の問題だ。大人になれば皆ある程度距離が離れてしまう。大人になるというのはそういうことだ。それをこの子たちに押し付けるのは違う。
この子たちにはこの子たちの青春があるのだから。
「そういえば、先生の居場所を発見するレーダーがエンジニア部の方で開発されました」
「なんでそんな指向性のあるものを」
「分かりませんけど……先生って人気がありますから、一定の需要はあるかと」
「ふむ……没収。当人に確認取れてないのにやるのは先生として止めないとね」
本音を言うと面倒だ。アポなしで来るのは構わないが、騒がしいのは好きじゃないし、なによりも常識が疑われる。
それから適度に話して、申請があるのに引き留めるのも申し訳ないということで解散。少し名残惜しそうにしていたが……。仕事があるなら優先するべきだと背中を押して、別れを告げる。
このまま帰るのも味気なく感じて、コンビニでタバコを買う。カートンで買うのは誰かの目に付くことを考えてこれまでやってこなかったが、何度も通う方が目に付くだろうか。
そう思いながら買うだけ買って外に出ると同時に袖を引っ張られて右を向くと、いつもの顔が見える。
「あれ? 先生、外に居るの珍しいね~」
「……うん、考え事をしてたんだ」
「へぇ~、ならおじさんと考えようよ。いつも助けてもらってるし」
「いや、解決したから大丈夫だよ」
まさかお前のことで悩んでいる、なんて遠回しにすら言えるわけもなく。そう返すと、少しだけ表情が変わる。一緒に居ないと分からないような微妙な変化だが、こころなしか面白くなさそうな顔をしているような……?
「先生」
「どうしたの?」
「いつもの喋り方はどうしたのかな~……?」
「いつも、この話し方だよ」
外に居るのにいつもの喋り方するわけないだろうが、と言いそうになるのをグッと堪える。タカナシ相手だとどうにも気が緩んで仕方ない。
先ほどユウカと話しているときとは違う、実家に帰ってきたような安心感がする。
「そっか~」
目が怖い。力とか色々そっちの方が強いんだから凄まれると少し驚いてしまう。
さて、相手の機嫌をどう直そうか。タカナシは普段怒らない分、怒ったときに手が付けられない。静かに怒るタイプが一番難しい。こいつの機嫌を直す方法……まぁ、ちょうどいいか。
「ホシノ、これから時間あるかい?」
「んぇ?」
「はぁ~楽しかったぁ」
「それはよかった」
来たのは水族館。単純に他に思いつかなかったのもあるが、これが一番のような気がする。魚を通してコミュニケーション、ありがとう魚くんさん。
タカナシは水族館に居る間、ずっと早口で話していた。どうやらタカナシは魚を見ると饒舌になるらしい。特にクジラへの熱いラブメッセージはすごかった。正直かなり驚いている。お前そんなに早く話せたのか。
まさかクジラの前だけで半刻潰すとは思わなかった。
「ペンギンってあんなにきれいに丸呑みするんだって知らなかった」
「手食べられそうになってて危なかったけどね」
ペンギンの餌やりをしていたときに緩慢な動作で魚を差し出したせいで食べられかけていた。慌てて腕を引いたからよかったものの、ぱっくりいかれていた可能性がある。いや、咀嚼しないんだけども。
残念ながらクジラへの餌付けはなかった。全部吸い込んでしまうからペンギンほどアクティビティにもならないのだろう。
「水族館の売店っていいよね。魚のグッズがたくさん!」
「魚を鑑賞する場所だからね」
「……
「それは言いっこなし。君生徒、私先生」
それだけは越えていけないラインだ。このスーツと腕章を着用している以上はシャーレの先生で、普段のだらけたセンセイではないのだから。
「残念だなぁ~……?」
「お詫び、ってわけじゃないけど」
そうして手渡したのは、一番気に入っていたクジラのぬいぐるみ。
何度か触っていたが、値札を見てそっと置いたのは見ていたから分かる。そのあとちょっと名残惜しそうにしていたのも。
大人はこういうとき便利だ。大人の財布でもちょっと痛かったが。
「……っ。これ、どうしたの~?」
「クジラが君によく似ているから」
「私に?」
買ってから思ったが、ちょっと大きすぎる。半分くらい身体が隠れてタカナシの表情が伺えない。喜んでいるのかもしれないし、呆られているかもしれない。ただ、プレゼントなんて渡す側の自分勝手な感情で渡されるものだから。
だから否定されても悲しくなんてないのだと。そう思っていたのに。
「……ありがと」
おずおずとぬいぐるみから顔を出してはにかむタカナシの表情が、そんな考えを否定する。自分は喜んでいるのだと、教えてくれる。
なぜか涙腺が刺激されて、目を瞑る。涙を、言葉を決して零さぬように。
やはり他の生徒とタカナシはどこか違うんだなと思いながら、なんだか最近こんなことばっかりだなと、冷静な部分でそう思った。