アリス、というクジラが存在する。世間的には「52hzのクジラ」の方が通りがいいかもしれない。
世界一孤独だと言われるそのクジラは、他のクジラたちの可聴領域にない声を発する。他のクジラたちと泣き声を比較した際に出るヘルツ数でいえばおおよそ2倍ほど高い。
ようは、他のクジラたちとコミュニケーションが取れない。常に独りで居ることから、聾啞──聴覚に異常があるのではないかとすら邪推されていた。
それは、孤独な人間に似ているのではないだろうか。
心の声は聞こえるように出来ていないから。
言葉で発すれば婉曲されてしまうから。
だから心で思っていても、誰にも聞こえない。
しかし。クジラは最終的に一匹だけ、たった一匹だけ仲間を見つけたようだ。タカナシはクジラによく似ている。彼女にも心を預けられる誰かが見つかればいいなと、心からそう思う。
タカナシと二人の執務室は、とにかく静かだ。ただ、沈黙が続く気まずさはない。それどころか、その静かさが居心地よいとすら感じる。他の生徒は良くも悪くも騒がしい子が多い。
だから、こうやって静かに話せる時間は貴重だ。
ただ、毎日居るのはおかしな話だと思う。
「お前、入り浸りすぎじゃね?」
「だってこのソファの寝心地、すっごくいいんだよ~?」
タバコを吸いながら苦い顔をする。あれからタカナシは長い時間入り浸るようになった。学校は大丈夫なのか、アビドスの子たちと居た方がいいのではないかと聞いても大丈夫の一点張り。
本人がいいのなら構わないが、青春というのは大切なものだ。適切な時期に、適切なことをやっていれば後悔も少ない。だから学生時代に後悔がある人間が多いのだ。
かくいう俺もその一人で、生徒と接している毎日が眩しい。彼女らは足掻いている最中だ。だからこそ、後悔してほしくないと心から願っている。
「なのにさ、なんで毛布とかないのさ~……」
「はぁ、毛布……」
「そう、毛布。せっかく気持ちよくお昼寝出来るなら、もっと気持ちよく寝たいじゃん?」
確かに、一理ある。好きなことをするときはよりのめり込むために環境から入る人間は少なくない。俺も元々置いてあったキーボードなんかを入れ替えて仕事をしている。
「いや、それは分かるんだが、タカナシの家じゃないからな?」
最近ほとんどの時間をタカナシと過ごしているのは事実だが、それとこれとは話が別。
「そうだけどさぁ……せっかくなら置いてよ」
「俺が寝るからダメ」
「寝ちゃえばいいじゃん」
「お前……シャーレの先生として振舞えなくなるのは問題なんだぞ……」
学生ならともかく、職場で寝るのはまずい。能率が低下してて寝た方が効率化出来る場合もあるから一概には言えないが、世間的にはいい目で見られない。
「それに、お前以外の前で寝るわけないだろ」
「え……」
なにされるか分からんし。油性ペンで落書きされたり、場合によっては起きたら知らないところでした……なんてありえる話だ。
そもそも、この前の体調不良だって自己管理の甘さで見せてしまっただけだ。この前のお礼、という意味では買いに行くのはアリなのかもしれない。
「なぁ、タカナシ。」
「……」
「タカナシ……?」
驚いたようにいつもより目を開いているのを見て首を傾げる。そんなに驚くようなことがあっただろうか。
肩を何度か叩くと、次第に目の焦点がこちらにあう。その瞳に見えるのは、マイナスの感情には見えないが、普段見える色ではないのだけは、なんとなく分かる。
「毛布、買いに行くぞ」
「え? だって、寝るからダメだって……」
「お前用になら、買ってもいい」
どうせ目の前で寝られるのなら、俺も寝たくなるくらい気持ちよく寝てもらいたい。
「先生って、たまーに優しくなるよね」
「嫌か?」
「……ううん。おじさんはその……好きかな」
「そうかい」
恥ずかしそうに朱に染めるタカナシになんとも言えなくなって、照れ隠しにタバコに手を伸ばす。
ああ……俺にはこの時間が、少しばかり優しすぎる。
「シャワー浴びてくるわ」
「え……?」
寝具周りの専門店があるショッピングモールに足を運ぶと、平日の放課後という後押しがあるからだろう。膝よりも高いスカートを見てもなにも思わなくなったのは感性が死んできたのか、それとも慣れてしまったのか。
前は銃と同様に驚いていたような記憶があるのだが、胸を出していたり、ありえない角度のハイレグを見ているうちになにも思わなくなった。むしろスカートであるだけ健全だと思える。
「タカナシ、離れるなよ」
「もう、おじさんのこと子供扱いしないでよ」
目を輝かせるタカナシを見ていると、歳相応の少女に思えて笑みが浮かぶ。普段の表情とは大違いだ。
お前はそのままで居てくれよ。小声で言ったその言葉をなかったことにしてから、タカナシの手を握る。
「ほら、行くぞ」
「子供じゃないって言ってるのに……」
そう言いながらついて来てくれることに微笑むと、視線を逸らされる。はて、なにかあっただろうか。
「普段と違うから、落ち着かないなぁ~……」
「流石にシャーレの先生として出るわけにはいかねぇからな」
自分の恰好を鏡越しに確認する。ダークグレーのチェスターコートに白のニット、黒のスキニーと出来る限り先生と思われないコーディネート。メガネを外して、髪をアイロンとワックスを使って上手いこと流してハーフサイドアップに。メガネを外したことで優しそうな雰囲気は鳴りを潜めてしまった。
これは人に寄られないかもしれないな、と苦笑してしまう。
「悪くないと思うんだが……」
「……」
「タカナシ?」
「あっ、うん。かっこ、いいんじゃないかな~……」
流されているような感じもするが、視線を合わされないあたり思うところはあるのかもしれない。この世界には人の男性も多くないからな。物珍しさも理由の一つだろう。
「おや、お客様……」
「先日以来。この子用の毛布が欲しくてね。もし悩んだらお願い出来るかな?」
「ええ、もちろんでございます」
言外に邪魔をするなと釘を刺して店員を離れさせる。店員も売るため、役に立つために動いてくれるのは助かるのだが、おすすめされたら流される人間は居るのだ。
決して口には出来ないが、選んでいる時間を大切にしたい。
「適当に見て回るか。気になるのがあれば確かめてみろ」
「え、おじさんが選んでいいの?」
「いや、ホシノ用の毛布だって言っただろ」
「他の生徒も使う用のやつを買うのかな~って思ってたんだけど」
その手もあったな、と苦笑する。他の生徒が来た時に体調を崩さないとも限らないのだから、備えあれば憂いなし。用意しておくべきなのは間違いない。
「いや、俺の前で寝るのホシノだけだって」
「うへへ……そうかな」
「別に褒めてはないんだよな……?」
許しているのに言うのもなんだが、仕事をしている人間の前で寝るのはいかがなものか。
「あ、これ気持ちよさそうかも~」
「あー……」
キヴォトス内ではお世辞にも人気があるとはいえず、とはいえ評価されていないわけでもない。知る人ぞ知る名品を製造しているブランドの毛布。
ここに来たとき、寝具周りを買ってくるときに選んだものだった。
毛布を被ったタカナシはいつもよりだらけた表情で、不思議とこちらの肩の力が抜けていく。
「ん~……これ、すっごく気持ちよく寝れそうかも~……」
「ここで寝るなよ……」
「先生も寝てみれば分かるって」
「いやここ店頭……」
「ほらほら~」
「いやま……力強っ!?」
必死に振り解こうと力を込めても、どういうわけか負けそうになる。その細い身体にどれほどの力があるんだ……。
「そんなに気に入ったのか」
「うん」
「じゃあ、それを使うためにシャーレに来れるな」
「え?」
呆けたように固まるタカナシに苦笑する。
「いやなに、シロコたちが最近シャーレに来るための言い訳が苦しい……みたいなことを言ってたからな」
自分のものを置いていて、それを使うためにその場所に行くことはおかしなことじゃない。
「会計してくる」
「え……あ……」
固まり続けるタカナシに見ないフリをしつつ、会計に行く。
まるで定期的に来てほしい、とこちらから言ってしまったような気もするが、きっと気のせいだろう。そういうことにしておく。