恐らく、こんなにも魔物に同情心を抱くことは生涯通して二度と無いだろうと、後のディルックはそう振り返る。
酒場…自身がオーナーを務めるエンジェルシェアの店内、普段はワイワイガヤガヤと酒を飲みに来た客の喧騒で賑わっているはずのこの場所は、しかし現在は少々毛色が違った。
静かだった…何かに警戒するように、何かを眺めるように、こそりこそりチラチラと視線を向けるその先にはこの店にあるまじき異物が存在していたから。
「……zzzzz」
酒瓶を抱きしめて眠りこける緑衣の少女…にも見える少年、店に来ては酒を飲み、その都度ツケに変えては決して代金を払わずワハハワハハっと笑いこけて酔いつぶれるのが日常的なその存在は相も変わらず幸せそうに寝息を立てていた。
吟遊詩人『ウェンティ』…酔い潰れてはツケを増やし、飲んだくれては更にツケを増やし続けるこのダラシなさの塊のようなこの少年が世に言う風神『バルバトス』その人である等と言ったところで、きっと誰も信じはしないのだろう。
そこは良い…いや、ディルックとしてはツケを増やされるだけなので全く良くないのだが、今重要なのはそこではないのだ。
ウェンティは風神でこそあるが異物ではない、何せそもそも知られてないし言ったところで誰も信じない、今やこのモンドという国の日常として知られている彼を異物である等と言う人間はこの国には存在しない。
では、異物とはなんなのか…それは、その当の風神に枕かベッド代わりにされている白毛の獣の存在だろう。
大きな身体に獣特有の尖った耳、フヨフヨと浮き上がりながら不機嫌そうにグルグルと静かに唸り声をあげ、ベシベシっと揺れる尻尾らしき部位で眠りこける吟遊詩人を叩いていた。
『獣域ハウンド』…世間一般的に危険な魔物として広く周知されているであろうその魔物の存在こそが、このエンジェルシェアに於ける静けさの原因だった。
ことの発端は非常に簡素なモノだった…何処からともなくやってきたこの吟遊詩人は、よりにもよってこの魔物を半ば無理矢理にこの酒場へと引っ張り込んで来たのだ。
何かの聞き間違いかと思われるかもしれないが断じて聞き間違いではない、この男はなんてことないように…それがさも当然のことであるかのように白毛の魔物をこの国へと自ら招き入れたのだ…当然ながら、正気の沙汰ではない。
モンドの住人は目を疑った、当然騎士団の人間も目を疑った、ディルックの顔馴染みも目ん玉仰天であったろうし他ならぬディルックですらそうだった…そして恐らく、その当の連れて来られたであろう魔物自身でさえも。
あの時の光景は覚えている…普段は使わぬであろう全身全霊とでも言うべき力で魔物を引っ掴み、此方へ向けて満面の笑みを浮かべながら歩いてくる借金男の姿…そしてその背後で引き摺られながら戸惑いの表情を覗かせる魔物の姿を。
意味が分からなかった…というのが正直な感想になるだろう、実際問題そんな状況に直面した場合、冷静に対処出来る人間がどれほど居るのだろうか…きっと居ないのだろう。
そうしてあれやこれやとやってる間に店に着いたこの吟遊詩人はあろうことか店の中にまでその魔物を引き入れようとしてきた…曰く、害は無いどころか有益そのものだから何も問題無いのだよ♪ なんてことを臆面もなく笑顔のままに言い切って。
当然それを是と、当然と受け入れるディルックではない…あまりにも特異な状況に対応が遅れこそしたが店の前にまで来たというのであれば話は別である。
害獣は駆除、魔物は排除、アビスの魔物は即滅殺…どのような形であれ色であれ、そうであるのならばそれがどのような存在であれ必ず殺さなければならない…そんな当たり前の思考と決意で以て眼前の魔物へと剣を振るおうとした…その瞬間だっただろう。
───ダメだよ…?
彼処まで深い怖気を覚えたのは、何時以来であっただろうか。
剣の間合いの更に内側、ほんの少し前へと進めばそれだけで身体と身体が密着してしまいそうな程の近距離…ディルックが剣を振るおうとしたその直後、ウェンティはその懐へと潜り込み…囁くように、その言葉を口にした。
瞬間、放たれる風神としての威…普段のソレとは別物と思える様な、かつて神の心を奪われただでさえ非力であるはずであったそこから更に弱体化したはずのかつて神と呼ばれたその存在は、当たり前にその暴威の片鱗をディルックへと向けた。
冷や汗が流れた…他の住人はウェンティの変化に気がついていない、ただウェンティが懐へと潜り込んだ事実に危ないと心配そうにしているだけ…ディルックだけを狙い撃ちにした威圧だった。
ニコリと笑う吟遊詩人、普段は見せぬ明確なまでの魔の面にディルックは何のつもりだと問いかけたくなった…が、出来なかった…それほどまでの圧があった。
何がお前をそこまでさせるのか…そんなことも聞けず、剣を下ろしてからはあっという間にあれよこれよと店の中に押し入られ、酒を大量に飲まれて…今に至る。
途中、何度か魔物自体が右往左往しながら逃げようとしたり、助けを求めるように此方へと視線を投げかけてくることもあったが…その尽くを他ならぬウェンティによって阻止され続けたことによって、諦めたようにちょこんっとその場でジッとしている。
ただ…やはり遺憾ではあるのだろう、機嫌が悪そうに低く唸りながら尻尾でウェンティの頭をバシバシと叩いているのがその証拠だ…しかし、そんな不機嫌な狼の行動など意にも返さぬように吟遊詩人は眠り続けていた。
そんな光景を魔物が店内に入ってからジッと見続けていたディルックは、ふと思った…もしや、この獣域ハウンドはウェンティ……つまりは風神バルバトスの眷属か何かなのではないだろうか…と。
ふとしたように浮かんだ妙な考えではあるが、ディルックは不思議とその疑問に納得感を得ていた…何せ、あまりに辻褄が合うのだ。
何てことはない、トワリンの際のウェンティの行動を考えてみれば別段可笑しな行動でもないのだ…執拗にあの白狼を庇っていた理由がかつての自分の眷属だからで、こうして連れてきたのは現在のモンドを見せたかったからだとしたら、妙な行動の理由の大凡が片付いてしまうのだから。
この推測が合っているのかどうかは分からない…答えを聞こうにも当の本人は眠っているし、先程の様子からして聞いたところで答えてもらえるとも思えない…もしも間違ってのならば、それはもうディルックの頭が腐っていたとしか言いようがないのだろう。
ただ、それはそれとして一つ分かっていることがあるのだとすれば、それは───
「───むにゃむにゃ……うへへ、お酒ー…♪」
「───グルルルルルッ…」
答えが合っていた場合、かつての主に抱き枕にされているあの白い狼は、きっと苦労したのだろうなという、同じく苦労させられた者同士による、一種の共感だった。
ディルック
今回の被害者、後に蛍に事情を聞かされるのと同時に蛍視点で白い狼域ハウンドの正体は草神の眷属であると教えられる。
ディルックはウェンティを殴った。