自室に戻った出流はベッドに顔面からダイブした。夏休み前の最後の関門、期末テストを控えているため、授業内容の復習をするべきだが、そんな気も起こらない。
頭を占めるのは、母からのお見合いのお願いのこと。返事は急がないと言ってくれたので一旦保留にしたが、だからといってスパッと割り切れるほど出流は切り替えが早くなかった。
(お母さん……なんで急に……)
仕方のない部分もあるかもしれない、と出流は思う。自分の家が裕福であることは自覚している。身体に流れる血に歴史があることも知っている。そして、そういう人間は往々にして、家の為に、血の為に―――私を滅さなければならない時があることも。
出流にとって、八重は滅私の人だった。
この家の家長たる八重は、佐倉の血を引く家との政治や、他の有力な家庭との外交・折衝の全てを一手に担ってきた。出流も何度か、家同士の全然理解できない『お話』の場や、まるで気の休まらないパーティーに出たことがある身。その心労の程は察するに余りあるものだった。
そんな環境に身を置きながらも――少なくとも出流の前では――、八重は笑顔を絶やさなかった。出流の16年の記憶の中には、喜び、楽しみ、時には哀しむ母の姿はあっても、怒った姿だけは一度たりとも無いのだから。
母がずっと、この家の為に身を粉にして奮闘しているだろう事は、幼い頃の出流にも理解できた。だからこそ
このお見合いは、そんな母からのお願いなのだ。
(できれば、応えてあげたい。けど、正直心の準備ができてないというか……)
何分急な話で出流も困惑している。それに、今の出流には、何よりも優先しなければならない事があった。
(アオイ……)
ずっと出流の心を独占する彼女の存在。お見合いの相手と比べれば、家柄は比ぶるべくもない格下。出流の家と立場を考えれば、そんな相手を選ぶ事は間違っている――と、本来は考えるべきだ。
(いや違う。なんで僕はアオイと結婚する前提で考えてるの。アオイの気持ちだって……じゃなくて、まずそもそも、僕自身の気持ちもわからないのに……)
それは、本当にわからないのかもしれないし、頭のどこかではわかっているが、感情が目を逸らさせているのかもしれない。今の出流にはその判別がつかない。
出流は枕を抱き寄せ顔を埋め、もぞもぞと身じろぐ。
普段の楽しそうな笑顔が。
調子に乗った時の好戦的な笑みが。
課題に取り組む真剣な表情が。
出流の腑抜けた姿に本気で怒った激情が。
なぜか出流の顔を見ただけで飛び上がるほどに取り乱した様が。
女性特有の現象に疲れた姿が。
突然怒り出して出流を外に放り出した態度が。
それ以降の、どうにも余所余所しさのあるぶっきらぼうな様子が。
蒼の全てが出流の心をどうしようもなく捉えて離さない。蒼の事を考える度、胸が切なく締め付けられて、息が苦しくなる。まるで病気だ。
(でも。アオイは……友達で、親友で。そんなこと、考えるのは、多分違う……)
出流は、我慢が出来る。自らの信条に殉じる意思の強さもある。
だが今は、その長所が『頑固さ』に反転していた。一度頭に刻み込んだ『蒼は友達だ』という認識を、出流はそう簡単に手放すことが出来ない。
しかし、出流とて理解している。あやふやなままではダメだと。蒼へのスタンスを定めなければならないと。でなければ、この先どの道を選んでも未練と後悔が残ると。
出流はベッドの上で正座して、寝間着のポケットから自分のスマホを取り出す。メッセージアプリを起動し、蒼とのトーク画面を開いた。
「ふぅ……」
いつにない緊張感の中、出流は目を見開いて文字を入力する。
普段なら寝ぼけ眼を擦りながらでもできる行為が、今はギンギンに目が冴えてしょうがない。一文字打つ度に興奮と不安が積み重なって、自分は何かとんでもないことをしているのではないかと思えてしまう。
いっそ先送りしてしまいたい。テストの後に、夏休みのどこかで、八月に入ったら。そんな誘惑が、出流の背中に忍び寄る。
だが。
(うん、うん。わかってるよ、アオイ。『こういうのはな、後に回せば回すほど面倒になってくもんなんだよ』ね)
他ならぬ親友の言葉を熱意に変えて、出流はメッセージを打ち終える。それは遊びへのお誘い。あるいは――親友に向けてこの表現を使うのは出流としては全く間違っているとしか思えないが――デートの、お誘い。
「だ、大丈夫だよね。誤字とか無いよね……?」
神経質な程に入力した内容を読み返し、誤字を見つけ次第修正し、変な表現を手直しして文章を推敲していく。普段ならばこんな事絶対にしない。何か間違えていたらその後に訂正すればいいだけだから。
だが、できない。初めての恋文を認めるように、取り憑かれたように文章の完成度を高めていく。
「………よ、よし。送……信っ!」
そうして出流はメッセージを送った後、既読はついたが中々返信が来なかったため、秒ごとに膨れ上がる後悔の念に苛まれる時間を過ごすことになった。
――『明後日の日曜日、二人で出かけない?
―― 観たい映画があって
―― テスト前だけど、勉強の気晴らしにどうかな』
「……な、なんだ。映画を観に、行くだけか。だよな」
自室でテスト勉強をしていた蒼は、出流からのメッセージを見て微かな落胆混じりの安堵でほっと胸を撫で下ろし。
「なんでほっとしてんだよ俺はァ!!!」
ベッドに飛び込んで枕に頭を打ち付けた。
「ックソ! 違う! そういうんじゃねえって!!」
二階であまり騒ぐと下から母が突撃してくるので、深呼吸して胸のざわめきを無理やり鎮めた蒼は、寝転がったまま出流からのメッセージを見直す。
「『観たい映画』って。タイトル書いてくれよ」
苦笑しながら、蒼は文面を読み返していく。
「『テスト前』ね……ったく、勉強しなくても点取れる奴は羨ましいな。まあ、まだ二週間あるし、一日くらいなら大丈夫か? その後はイズルにも勉強付き合――手伝わせればなんとかなるかな。今回の範囲はまだ取れそうだし……あーでも二年のテストの点って内申への影響でかいんだっけ。イズルといっ――同じ大学に行く、なら! なるべく高得点取っとかないとダメだよな。その為にも勉強はするとして、気晴らしは大事だよな。うん」
テストを控えていながら遊びに行く事に後ろめたさを感じる蒼は、独り言で理論武装を固めていく中、ふと小さな引っ掛かりを覚えた。
覚えなかった方が良かったかもしれない引っ掛かりを。
「……『二人で』?」
普段、出流が蒼を遊びに誘う時、態々『二人で』なんて言わないし書かない。そもそも出流から誘ってくる時点で二人なのが殆ど確定しているから。
とすれば、彼が敢えて人数を明示したのには何らかの理由があるべきであり。
まさか。もしやそれは。
「―――ッ!!」
蒼の顔に血が集まる。この時点で蒼はもうテスト勉強どころではなかった。
(まさか、まさか? い、いや、そんな筈は。でも、そういうことだよな。これ………
蒼は勝手に緩みそうになる口元を手で押さえ、喜びに必死で蓋をする。
そして喜びを覚えていること自体が間違っているのだと、枕に額を埋めて手足を暴れさせてもがいた。
部屋に乗り込んできた母親に軽く叱られた後、蒼はスマホを握りしめる。その瞳は決意に満ちていた。
(決めた。明後日、俺は俺自身と決着を付ける。女の身体になろうとも、俺と出流は親友だって事を証明する。こんなのは一時だけの感情に決まってんだ。もうこんなことばかり考えるのはうんざりなんだよ!)
出流の顔をまともに見られない現状が嫌だった。出流に名前を呼ばれるたびにときめく感情が邪魔だった。出流と他愛のない話がしたいのに話せなくなる緊張が恨めしかった。
出流に異性を求める自分が嫌いで。
出流に見てもらえないと不安になる自分が嫌いで。
出流に思われるだけで嬉しくなる自分が嫌い。
出流が蒼を好いている所は、四年前のあの日のような蒼の『男らしくカッコいいところ』なのだから。それと対極に位置する『女々しい』要素のすべてが、今の蒼からすれば敵でしかない。
蒼はパジャマの胸元を一度キツく握りしめてから、出流からのメッセージに返信する。
『良いぜ、映画は何時から?』
一瞬で既読が付いて驚いたりしつつも、蒼と出流は予定を詰めていく。
『オッケー。十一時に家を出れば良いんだな?』
――『うん。明後日はよろしくね』
「ふー……疲れたしもう寝るか」
気力と体力を使い果たした蒼は、勉強に戻る気も起きなかったのでそのまま寝た。
(あ、なんの映画見るのか聞き忘れてた。まあいいか)
翌朝蒼は、恐るべき事実の認識と共に飛び起きた。
「よそ行きの服が無え!!」
なんと蒼、女性用の私服を持っていない。制服やら体操服は性転換したその日の内に用意したが、私服に関しては「よく分かんねえし、マジで必要になったら後で買う」として買わなかった。そしてなんとこの約一ヶ月の間、そのまま生活が成り立っていた。
学校帰りに出流と遊ぶ時は制服のままだし、土日は外に出ず予備のジャージで過ごす。出流と遊ぶ時もお互いの家に行くだけなので、私服が無くてもなんとかなってしまっていたのだ。
(女性の服……スカートとか着るのは、制服のせいでまあ平気になった。が……)
明後日はどうしたって外出せざるをえない。女になってから初めての、休日の外出を。
であれば当然私服は必須。下手な装いは恥でしかないし、何より隣に立つ出流が恥ずかしい思いをすることになるだろう。それは蒼の望む所ではない。
だが
(まあ、こういうのは詳しい奴に聞けば良いか)
頼るべきは同性の友。蒼は朝食後、連絡先を交換していたクラスメイトの女子に電話をかける。
「もしもし」
『五十右さんから掛けてくるなんて、どうしたの?』
電話の相手は暫く前に蒼にメイクをしてくれた女子生徒。会話の中でファッションに詳しいと知っていた故の人選だった。
「あーその、なんだ。私服を選んで欲しくて」
『服? 実際に手持ちを見てみないとどうにも……何持ってるの?』
「ああいや、そうじゃなくて……女物が一着も無い」
『えっ?』
「男用のしか無えんだわ」
しばしの
『嘘でしょ……今までどうしてたの……?』
明らかにドン引きした声が返ってきた。
「なんとかなった」
『なんとかなっちゃうんだ……じゃあ、逆になんで今必要に?』
蒼は一瞬、理由を適当に濁すか迷ったが、正直に言ったほうが目的に合致した服を選んでもらえる可能性が高いと判断した。
「まあ、なんつーか……明日、イズルと映画を観に出かけるからさ。必要になっちまって」
『………』
「だからまあ、隣歩くのに恥ずかしくないような無難なヤツを――」
『なるほどね。完全に理解したわ』
さっきのドン引きから打って変わって、何かを確信した声音だった。
「? とにかく、そういうわけで知恵を貸してほしい。女性服の選び方とか着こなしとか全く分かんねえし。あと、あまり高くないと助かるんだけど」
『任せてちょうだい。
「たっか。女の服ってそういうモンなの?」
『そういうものなの』
妙に圧の強い女友達の調子に小さな疑念が浮かんだ蒼だったが、それはすぐに意識の底に沈んで消えた。
そして、蒼はクラスメイトの手を借りて無事に『無難な服装』を選び終え、日曜日を迎える。
―――尚、『無難な服装』を選ぶために十数件の洋服店やらブティックやら古着屋やらを巡り、買い物を終える頃には陽はとっくに暮れていた上、予算も殆ど使い切っていた。
想像以上の長丁場と出費と袋の重さに、蒼は『女の買い物って時間も金もかかるって聞いたことあるけどこんなレベルなのかよ。大変だな』と思った。
なんでこんなに時間かかったんやろなあ……安くて良い服探してたのかなあ……
次回からドキドキデート編です。
登場人物紹介
・蒼にメイクした女子生徒
自分の恋より他人の恋の方が気になっちゃうお年頃。