出流がお見合いの件を切り出したのは家に帰って四十分後、夕食を終えた後のこと。
楕円形のダイニングテーブルの片側に座る出流。その向かい側に並んだ母と父。流代は食後のワインを口に含み少し上機嫌で、八重は丁度食べ終わり皿を片付けさせていた頃合いだった。
出流は静かに機を伺っていた。自分の我儘を通すには、少しでも二人の機嫌の良いタイミングで切り出すべきと考えたからだ。
出流にとって父と母はどちらも尊敬する相手である。その意に反することをこれから言わなければならないことに、出流は多大なプレッシャーを感じていた。
だが、言わねばならない。蒼と今後の人生を歩むのならば、両親の説得は必要不可欠。駆け落ちという手段も考えなくは無かったが、短絡的・衝動的だと切って捨てた。蒼と歩む未来を盤石なものにするためには、この家は絶対に手放せない。
出流は、下げられる皿に向けていた視線を母へと向け直す。
腹は決まった。
「お、お母さん」
出流は震える声で話を切り出す。
「なあに?」
「その、お見合いの件……なんだけど」
「もう決めたの? 急がなくてもいいのに」
八重は出流が答えを急いだのかと心配げな顔をした。流代は空になったワイングラスを置き、音を立てずにその場を離れようとして。
「あなたも聞きましょうね?」
「む………」
目線一つ向けないまま言い放った妻の言葉に従い、座り直した。
「それで、出流はどうしたいの?」
出流は、テーブルの下で静かに拳を握りしめた。
「お見合いは……断らせてほしい」
「……あら」
八重は朱い瞳をわずかに細める。ただそれだけで、出流が感じるプレッシャーは何倍にも膨れ上がった。正座したまま頭を地面に押さえつけられているかのような強烈な重圧感に、出流の心臓が悲鳴を上げる。
「どうして?」
責めるのではない、純粋な疑問の言葉。頭ではそうだと分かっているが、心が勝手に生み出す重圧感は出流に息苦しさを覚えさせていた。
出流は、心の中で蒼を想起する。蒼の言葉を想起する。
熾火のような勇気が生まれた。
「そのっ、好きな人が、できたんだ。交際するなら……結婚するなら、その人だけでっ。だから」
「蒼くん――ああ、もう蒼ちゃんね。あの子のこと?」
「!」
図星を突かれた出流が言葉につまる。八重は悩ましげに頬に手を当てた。
「出流の気持ちは尊重したいけど……結婚となると、うーん」
「な、なんで……? アオイは、悪い人じゃないよ? 僕を助けてくれたよ!?」
「それは知ってる。付き合うだけなら全然おっけーなんだけど……」
八重は、座りを正して出流に向き合う。出流は母の静謐な雰囲気に気圧されて空唾を飲んだ。
「いい? 出流。結婚は、家と家の結びつきなの。当人同士の気持ちは確かに大事。だけど、それ以上の意味が夫婦の契りにはある」
「……そんなの、昔の考え方じゃ――」
「ええ、今は殆ど廃れた考え方ね。でも、私達みたいな旧家にとってはそうじゃないの。市井の一般人との婚約なんて、簡単に認められることじゃない」
「でもお父さんは――!」
「ええ、お父さんは家柄自体は一般人。でもその才覚で私達の歴史にも引けを取らないほどの価値を手にした。だから、うちの親戚達もお祖父様も、お父さんを認めたの」
流代はワイングラスに注がれた水をちびちびと飲みながら露骨に目を背けた。外では飛ぶ鳥を落とす勢いを誇るIT企業の創始者も、家では妻子との付き合い方に悩む一人の父親でしかないらしい。
「蒼ちゃんが良い子なのは私も知ってる。出流と同じ高校行くためにとっても頑張ってたし、それで合格できる実力もある。その上見た目まで可愛くて綺麗になっちゃったら、出流が惹かれるのも納得ね」
「あ、えと、み、見た目は重要じゃないっていうか……」
母にルックスの話を出されると出流は反応に困った。蒼の容姿を褒める目の前の女性は、曰くもう40歳であるはずなのに外見はどこから見ても20代前半にしか見えないからだ。
「でも、蒼ちゃん自身にお父さん程の実績はない。五十右というお家にも、無い。敢えて悪い言い方をするけど――付き合う旨味が無いの」
「――ッ!」
母の無慈悲な言葉に出流の怒りが突沸する。椅子を蹴立てて怒りに任せ、声を張り上げようとしたが、八重の冷たい瞳に射竦められた。
頭から冷水を被ったかのように、怒りが霧散して―――
「出流、意地悪で言ってる訳じゃないの。私達みたいな資産と歴史のある家に取り入ろうとする輩は、探すまでもなくごまんといる。特にこの家は傍流だから、手を出しやすいなんて思ってる者もいるでしょう。だからこそ、私たちは付き合う相手を――腕の中に迎え入れる相手を選別しなくてはならないの。家を守るため。使用人達を守るため。私は、そうやってこの家を守ってきた」
静かに、しかし大きな自負を背に述べる八重に、出流は言葉が返せない。
「蒼ちゃんは、本当に良い娘。でも、蒼ちゃんのご家族は? 親戚は? 蒼ちゃんを利用して甘い汁を啜ろうなんて目論んでいる人が一人も居ないって言える?」
「…………」
「家が人なら私は免疫。病気から守るために私は正しく防疫する。蒼ちゃんは、家を危険に晒すリスクを負ってでも迎え入れるべき相手?」
言葉のハンマーで頭を殴られた出流は、テーブルに手を突いたままぐらりと揺れた。そのままテーブルの上に倒れ込みそうになる。
だが、
「お母さんの言う通りだ。アオイはともかく、アオイの家族や親戚のことまでは、僕は知らない」
(………でも)
出流は肘に力を込めて上半身を支える。ぎゅっと瞼を閉じると、白いテーブルクロスにポタポタと雫が垂れた。
(――それでも、僕はアオイと一緒にいたい)
出流の覚悟は、最初から変わらない。目的が明確なら、あとはそこへ向かって突き進むだけだ。腕で乱暴に目元を拭い、バッと勢いよく顔を上げる。
「知らないなら、調べればいい。アオイの事も、アオイの家族も親戚も、全員調べてそんな人がいないって証明できれば、良いんだよね?」
八重は一瞬、目を見開き。
目の前にいる出流も気付かないほどに一瞬―――口元を綻ばせ。
すぐに、鉄面皮を被り直した。
「結婚までに調べられたとしても、私達と付き合う中で邪な考えに目覚める者だっている。喪う物が少ない人ほど、安易な誘惑に流されやすい。確かな社会的地位のある人こそ、出流の結婚相手には相応しいの」
「そんな起きるかどうかもわからないこと、気にしだしたらキリがないよ。もし危ない兆候があるのなら、お母さんに代わって僕が守る!」
会話というよりも議論と表現したほうが正しいような親子の舌戦。八重の投げかける疑問に出流が返し、逆に出流が指摘した八重の発言の穴を八重はすかさず塞ぐ。
ダイニングテーブルを挟んで繰り広げられた即席のディスカッションは、八重の一言で風向きが変わった。
「ふう。――ねえ。お父さんはどう思う?」
「……私かい?」
「……っ!」
八重は流代に水を向ける。流代は少し困惑する表情を浮かべ、出流は戦慄を覚えた。
父は、母を慕っている。今、おそらく拮抗しているであろうこの状態。父が母に付いたのなら、出流の旗色は一気に悪くなる。ここまでの戦いで八重はまだ隙のある発言をしているが、流代にそれはないだろう。
流代の言葉に簡単に丸め込まれた、蒼の姿が脳裏に蘇る。
流代が何も言わず出流を見る。出流も、口を引き結んで流代を見つめ返した。
数秒間の沈黙が、ダイニングに広がる。
(お願いお父さん。僕についてとは言わない、せめて中立で……!)
祈る出流をよそに僅かに顔を俯けた流代は、口の中だけで小さく呟く。
(―――
流代は顔を上げ直し、隣の八重に自然な笑顔を向けた。
「八重さん、私は――出流の好きにさせてあげたいと思うよ」
「!?」
出流は驚きに目を見開く。祈ってこそいたが、父は母を選ぶと思っていたから。
「あなたは、出流の方につくの?」
「ははは、できれば八重さんに味方してあげたかったんだけどね。これだけはそうもいかないんだ」
「そう………そうなの」
困ったように頭をかく流代を見て、八重は一度目を伏せ―――けろりとした笑顔を浮かべた。
「じゃあ決まりね。お相手には断りの連絡を入れなくっちゃね」
「えっ?」
信じがたいほどあっさりと意見を引っ込めた母の姿に、出流は内心つんのめりそうになった。八重はきょとんとした顔を出流に向ける。
「? どうしたの出流」
「え、だって、その。そんなすぐ認める……の?」
「それはもう。多数決で一対二って結果が出たんだもの。しょうがないでしょう?」
「えっ、ええ……?」
(あ、あれだけ熱量挙げて反対してたのに……?)
出流は内心やるせない気持ちになったがしかし、蒼が認められたのは事実だ。その事を認識し、あの母に意見を通したという確かな手応えに喜びを覚え、出流はガッツポーズを取った。
「ふふっ。そうと決まれば式場やプランを考えなくっちゃ。蒼ちゃんは和式と洋式、どっちの挙式が好きなのかしら!」
「八重さん八重さん、気が早すぎるよ。年単位で先のことだからね?」
「あ、あら。そういえば……そうね?」
天然で突拍子もないことを言い出す八重、それを嗜める流代。さっきまでの緊迫した空気が弛緩し、いつもの我が家が帰ってきた。
出流は安堵の深い息を吐いて席を立つ。
(早く部屋に戻ってアオイに知らせなきゃ。『ちゃんと認められたよ』って……!)
廊下への扉に向かいながらポケットのスマホの画面を点けた出流は、おかしなものを目にして足が止まる。
数分前の不在着信。蒼の家から掛かってきたものだった。
蒼がかけてくるのなら、蒼のスマホからかかってくるはず。電池切れか、あるいは家族から掛けてきたのか。
不思議に思いながら出流は折り返しの電話を掛ける。1コール目ですぐにつながった。
『出流ちゃん? 今どこにいるの?』
蒼の母、篠江のものだった。
「えっ、普通に僕の家ですけど」
『あ、そうなの。蒼はそっちにいる?』
「? ……アオイとは家の前で別れたので……もう、帰っている、ハズ……」
『………』
電話越しに、不安の感情が伝わってくるようだった。
『……蒼、まだ帰ってきてないの。メッセージ送っても既読もつかないし……』
「――!?」
出流の家と蒼の家の間は公園すら無い住宅街。寄り道するような場所が無いにも拘わらず、四十分以上経っても帰っていない。
出流の中で、急速に恐怖が膨らんでいく。
『ま、まあ。どっかで適当にブラついてるのかもね! ホラ、うちの子やんちゃだったから』
励ますような篠江の声音。出流は自分からも蒼にメッセージを送ろうとして気付いた。
通常の通話とは別で、メッセージアプリ上での通話の着信。相手は―――蒼。
「い、今アオイから電話掛かってきました! すみませんが一度切ります!」
『わ、わかっ――』
出流は焦燥に駆られて返事を待たずに通話を切り、メッセージアプリからの通話に応答する。
慌ててスマホを取り落としそうになりながら耳に当てた。
「アオイ!? 今どこ――」
『イェーイ佐倉クン久しぶりぃ~!』
それは、軽々しく、薄っぺらく。
―――
ウェーイオタクくん見てる~??