翌日――月曜日の朝。
制服に身を包んだ出流は、五十右家の敷地前で蒼が出てくるのを待っていた。本来なら出流は車で送迎されて然るべきだが、蒼と一緒に登校したいがために徒歩と公共交通機関を使っている。
手元のスマホに目を向けるが、蒼からの返信は数分前の「もうちょっと待ってくれ」で止まっていた。
(まあ、仕方がないか。女性の身支度って時間かかりそうだし、アオイも戸惑ってるんだろうなあ)
適当に暇をつぶしながら待つこと数分、ようやく玄関扉が開く。
「すまん遅れた!」
輝く銀髪を振りながら飛び出す蒼の姿は、背景のごく普通の一軒家をも煌めかせ、何かの物語が始まりそうな雰囲気を漂わせる。
現実離れした美貌は在るだけで周囲にまで影響を及ぼす。出流は世界の真理を一つ知った。
「おはよう、アオイ」
「言ってる場合か走っぞ!!」
「だよね」
キラキラとファンタジックな雰囲気は瞬く間に霧散し、二人は駆け出す。
ただでさえ諸々の事情説明で教室に行く前に担任に今の蒼を見せないといけないのだ。歩いていてはとても間に合わない。
カラリと晴れた空の下、初夏の風が住宅街を吹き抜け、身体と心を軽くさせる。走るには絶好の
「アオイにしては珍しいね、寝坊なんて」
「昨日は気づかなかったけどっ、この身体朝に弱え!」
「制服、似合ってるね。なんか転入生みたい」
「採寸の時間は色々と苦痛だったけどな……。『近道』行くぞ」
「わかった」
蒼に促され、二人は大通りから路地へと曲がる。
普段、二人が駅に向かうときは防犯上の理由で大通りのみを使う。だが大通りはタイミングが悪ければ信号に足止めされるし、若干遠回りになってしまうため時間の面で都合が悪い。二人で見つけた『近道』は、信号を避け道のりも短いルートだ。
畦道を駆け、路地裏を抜けて、用水路を飛んで渡る。
(最後にこのガードレールを越えてっと。これなら間に合うかな)
『近道』を通って駅の近くまでたどり着いた出流。駅前広場のモニュメントクロックはショートカットの成功を示していた。
振り返れば蒼がダッシュでガードレールに突っ込んでくる。そのまま足を大きく振り上げ跳躍し、飛び越えようとする。
「っしゃあい!」
が、
景気よく飛び越えようとした蒼の足が、僅かにガードレールに引っかかる!
「――あっ」
「ッ危ない!」
出流は咄嗟の判断で、前方斜め上から倒れ込んでくる蒼を体全体で蒼を受け止め、さらに腕を回して支える。蒼も突然のことでパニックだったのか、出流の肩にしがみつく。
諸共倒れてもおかしくなかったが、出流はギリギリで踏ん張れた。ほう、と安堵のため息をつく。
(アオイが元の身体だったら絶対に倒れてたな。危ない危ない……――待ってこの柔らか)
「っ、わ、ご、ごめんアオイっ!」
蒼の無事に安堵したのもつかの間、向き合って密着したことで二人の間で潰れている『何か』の感触に意識が向きかけ、慌てて蒼を下ろして離す。
「………」
蒼の顔が見られないというより、動揺している自分を見られたくなくて、出流は明後日を向く。
(お、落ち着け。相手はアオイ、親友で、男で! これはなんというか……そう、釣り場思考……じゃない、吊り橋効果ってやつ!)
脳内理論武装で誤った認識を改めつつ、出流は蒼に先を促す。
「ほ、ほらアオイ。駅に行こうよ。近道は出来たけど結局電車に乗れなきゃ意味ないし」
「………」
「向こうに着いても急がなきゃ。まず職員室に行って……アオイ?」
さっきから反応が無い蒼に出流が目を向けると、蒼は魂が抜けたような表情で棒立ちしていた。
「あ、アオイ? 大丈夫??」
「………、!」
顔の前で手を降ってようやく、蒼の意識が現世に戻ってきた。
「お、あ……わ、悪ぃイズル。なんかボーッとしてたわ」
「それはわかってるけど。まだ眠い?」
「立ったまま寝こけるほど器用じゃねーよ……ん?」
踏切の降りる音が無情にも駅前に響き渡る。
選手二名、50m短距離走の開幕であった。
満員電車の中で揺られながら、蒼はさっきの失態を思い返していた。
(あーみっともねえ……。この身体に早く慣れねえとな)
電車の扉には、ぶすっと頬を少しだけ膨らませた美少女が映っている。蒼は――昨日今日だから当然だが――この身体が自分自身である認識に乏しい(それはそれとして、ガラスに映る美少女が16年で見てきた何よりも可愛いことは理解している)。
隣に立つ出流を、蒼は横目で見る。
こっくりこっくり。つり革を握ったまま頭を縦に動かしていた。
(コイツ、俺がこんな身体になってたのにいつもみてーに夜更かししてゲームしてたな?)
あるいは、蒼がこうなってしまったからこそ、いつものように過ごしたのかもしれない。その可能性に思い至った蒼は出流をひとまず許すことにしたが、ふと昨日から覚えていた違和感の正体に気づいた。
(ああ。もう横に並んだ時に、イズルの顔を見下ろせないんだよな)
女になった蒼の背丈は、出流と同じか少し低いくらいだ。友を見る視点が変わるという、傍から見れば小さいかもしれない変化が、蒼にはとても大きく感じられる。
(俺、これからちゃんとやっていけんのかな。将来、どうなっちまうんだろ)
変化は不安を抱かせ、不安は恐怖を生み出す。心がじわじわと薄靄で覆われるようだった。
(出流は頼っていいって言ってくれたけど、それに甘えすぎたら出流を『佐倉家の子供』としか見なかった奴等と同じ、だよな。自分の事は、自分でなんとかしなきゃならねえ)
気持ちを仕切り直した蒼を祝うように、車内アナウンスが響く。
『―――高校前。お出口は左側です』
自分たちの降車駅に着いた事に気づいた蒼は、静かに踵を持ち上げる。
(そう例えば――さっきから尻触ってやがるオッサンとかなァ! ムズムズして気ッ色悪ィんだよオラァ!!)
狙いを定め下手人のつま先を踏み抜く。背後で上がったくぐもった悲鳴に何人かが眉を顰めるも所詮は他人事。甲高いブレーキ音にいそいそと降車の支度を始めていく。
蒼はスカートから離れた手には意識も留めず、出流の脇腹を肘で突く。
「イズル」
「ふがっ。……あ、着いた?」
「おう」
駆動音と共に開いた扉から外へ出る刹那、蒼は肩越しに背後を見る。満員電車の人混みの中、バーコード頭にスーツの中年男性が額に脂汗を浮かべていた。
嫌悪感は少なからずあるものの、蒼としては『中身が男とも知らずにご愁傷さま』という嘲り混じりの憐憫が強い。
(元同性の
挑発的な笑みを苦悶の表情をした中年男へ向けてから、蒼は悠々とホームに降り立った。
電車を降りてからは恙無く、二人は学校にたどり着いた。
担任の教師は最初こそ変性系性徴に懐疑的だったが、出流の証言と医師の診断書の写しを渡してとりあえず信じてくれた。
ちょうど一限はその担任が教鞭をとる。そこで説明するため、出流は一旦蒼を職員室に残し教室に入る。
「あれ、五十右は休み?」
「あー、まあ……そのうち来るよ」
「?」
出流はクラスメイトの疑問を適当にやりすごしながら席に着く。会話が苦手なのもあるが、『蒼が登校する』事を実感する程に募る不安で精神的に余裕がなかったからだ。
『クラスメイトがいきなり女になりました』という異常事態が、同級生達ににどう受け止められるか全く予想できない。変性系性徴は名前こそ存在すれど、市井の高校生にとっては都市伝説だ。
もしも、かつての出流と同じように、苛めの対象になってしまったのなら。このクラスは今のところそういった事も無く平穏に回っているが、事が事だけに何が起きるかわからない。
(どうか、どうか変に拗れませんように……!)
出流が両手を組んで祈る中チャイムが鳴り、教室の前側の扉が開く。無言で教壇に立った教師を前に、騒がしさは波が引くように静まっていった。
「さて。授業を始める前に聞きたいことがある。変性系性徴という言葉を知ってるか?」
教室にさざ波が立つ中、生徒の一人が手を上げた。
『聞いたことはありますけど……でもそれってネットの噂っていうか』
それを聞いて、担任は大仰に頷いた。
「ああ、そうだな。先生も正直そう思っていたんだが……入ってくれ」
教室の扉がカラカラと静かに開く。自然、クラス中の視線が集まり、その中を蒼が進み出る。学生鞄の持ち手を両手で掴み、身体の前に下げながら、目を伏せ淑やかそうに歩く様はまるでお嬢様のようだった。
身体の動きに合わせて靡く銀の髪、見る者を否応なしに引き付ける紺の瞳。極端に出る所の出ていない、スマートなモデルのようなプロポーション。
その非現実的に美しい容貌に、クラスメイト達は性別の垣根を越えて思わずのため息を漏らす。だが何人かは教師の話と一つだけ空いた席の関連性に気づき、顔を驚愕に染める。
「……自己紹介してやれ」
「――五十右 蒼。昨日目が覚めたらこんな身体になってた。まあ……改めてよろしくな!」
銀髪紺眼の深窓の令嬢が、親指を立てながら元気満面に言い放った言葉の波が教室の隅まで行き渡り、静寂が場を支配する。
やがて、その意味をクラスメイトが理解した時。
教室が爆発。そう表現できてしまうほどの阿鼻叫喚が巻き起こる。
ある者は打ちひしがれて嘆きを上げ。
ある者はただただ驚き。
ある者は嫉妬の悲鳴をがなり立て。
ある者は食い入るように今の蒼を注視する。
「じゃあ自己紹介も済んだところで、授業はじめんぞー」
『できるかぁ!!!』
クラスの心が一つになった。
出流は廊下側の中央端、蒼は中央前寄りのイメージです(席の位置)
蒼の登場人物紹介は次回にやった方がタイミング的に相応しいと判断したため、そのようになります。ご了承下さい。
三話目は明日の18:00に更新予定です。