みんな知ってるね。
蒼の身体が、殴られた勢いで横になぎ倒される。散々煽られ、頂点に達した白波瀬の怒りは拳一発では到底収まらず、倒れた蒼の腹に何度も強烈な蹴りが打ち込まれる。
「テメェがっ! 余計な真似しなけりゃ! 俺達はッ! 簡単安全に大金ゲットで! ハッピーだったんだよッ!!」
「げぶっ、がっ! ごっ、お、ぎいッ」
サッカーのシュートのように、足の甲が蒼の腹部にめり込む。その度に、蒼の口から空気と共に呻きが吐き出された。
ただ蹴るだけでは飽き足らない。白波瀬は更に、蒼の身体全体に乱雑に蹴りを落とす。昨日買ったばかりの勝負服が靴底の泥に汚される。白のキャミソールワンピースに、焦げ茶色の靴底の跡が刻まれていった。
「それをッ! めちゃくちゃにしやがってッ! テメェはッ! 女らしくッ!!」
「ぁ、ゔあっ、ぁがっ」
「黙って
白波瀬は蒼の腕を掴み力任せに引き上げ、カーテンに向かって投げ飛ばす。カーテンレールを弾けさせながら段ボール箱の山に突っ込んだ蒼は、その衝撃による崩落に身体が飲みこまれた。
未だ冷める気配の無い怒りに、白波瀬は荒い息を吐く。
「フーッ……フーッ……!」
「だ、ダイちゃん……?」
「あア゛!?」
小太りの男が不安げな声を向けるも、怒りに我を忘れた白波瀬にはもはや届かない。
「ヒッ! そ、その。あんまりやると五十右死んじゃうかもだし、程々にしないと……」
「ざけんな! あんだけ舐められてこの程度で腹の虫が治まるかよ! オラ出てきやがれ五十右! まだ終わっちゃいねえぞ!!」
吠えながら、白波瀬は段ボール箱の山を力任せにどかしていく。箱を放り捨てる度、中に詰まっていた用途もわからないプラスチックの部品が床に散らばった。
数分の発掘作業を経て、崩れた箱に横たわる蒼の全身が、再び白波瀬の眼前に晒される。
白波瀬は蒼の腰を跨いで立ち、蒼の髪を鷲掴んで自分へと顔を向けさせた。
「あゔっ!」
「よくもナメた真似してくれたなあ。女だと思って手加減するとでも思ったか? テメェの中身は男ってハナから分かってんだよボケが!!」
至近距離で唾を飛ばしながら吐き捨てる。蒼が無抵抗であることが、却って白波瀬の暴力性の箍を外していた。無邪気に虫を潰して遊ぶ子供のような、圧倒的に優位な状況でこそ発露する原始的な嗜虐性が、白波瀬の目をギラつかせる。
それでも、蒼の計画はまだ終わっていない。手を上げられようと髪の毛を引っ掴まれようと、白波瀬の挑発を止めるべきではないのだ。助けが来るまで持ち堪えなければ、全ての努力が水泡に帰しかねないのだから。
蒼は、唇をわなわなと震わせる。
「こ……」
「あ?」
だが。
しかし。
その口から発された言葉は。
「……
慈悲を乞う、謝罪だった。
信じられなかった。暴力を振るわれる事が、暴力に抗えない事が。こんなに恐ろしいものだったなんて。
手足の先から冷えて感覚が遠ざかる。歯の根が震えて合わなくて、ガチガチと音がなる。わけも分からず溢れた涙が、目尻からポロポロと零れていく。血の気が引いて平衡感覚が狂う。いっそ失神できたのなら、どれほど気が楽だったろうか。
中学生の頃に一度、似たような経験をしたことがあった。相手は当時の高校生で、変な因縁をふっかけられて同じようにボコられた。だが、その時はアスファルトを舐めながらも、足にしがみついて引き倒し、馬乗りになって反撃した。最終的に痛み分けのような形になったものの、当時の蒼は暴力に抗えたのだ。
でも、今は違う。
抗うなんて発想が欠片も湧いてこない。身を縛る恐怖に震え、只管に祈ることしかできない。火山の噴火を神の怒りと信じて、逃げることを忘れた古の人々のように。
蒼は、ただただ助かりたい一心だった。
そのあまりの豹変ぶりに、一瞬怒りを忘れたかのように目を丸くした白波瀬だったが、やがて理解が追いついてくると、堪らず派手に吹き出した。
「……ブフッ、アッハハハハハハ!! どうしたよ五十右さっきまでの威勢はァ!」
蒼を嘲笑う白波瀬の姿が、怖くて怖くて仕方ない。悪魔か、鬼か、はたまた魔王か。眼の前の男は蒼にとって、『敵うはずのない相手』に変貌しつつあった。無論、白波瀬自身に変化はない。蒼の心が、白波瀬という一人の人間に未曾有の脅威を見出していく。
「ぁ、う。ご、ごめんなさ」
「謝って済むならァ、警察は要らねェだろうがよォ!」
「ひッ!」
白波瀬が拳を振り上げると、蒼はそれだけでみっともなく怯えた。肩を竦め、膝を曲げて縮こまる。手を前に上げてガードしたかったが、手錠のかかった腕は硬い音を立てるばかりで役に立たなかった。
蒼の浅ましい態度に、白波瀬は嗜虐的な笑みを更に深めていく。
「……ヒャハッ。マジかよコイツ、本気で俺にビビってやがる!」
白波瀬は振り上げた拳を開き、そのまま蒼の頬へと振り下ろした。小気味よい音が狭い事務室を反響して、掴まれた髪が勢いで何本か抜ける。蒼の左頬には、鮮やかな紅葉が描かれていた。
蒼は、頬を張られた勢いで真横を向いたまま、憔悴した表情を浮かべる。今の蒼は、先までの野良犬ではない。遠吠えしてみせる負け犬ですらない。男の暴力に怯えて震え、か細い鳴き声を上げるだけの、惨めな小動物でしか無かった。
「どうした五十右。さっきみたいに減らず口を叩いてみろよ。ンン?」
「ごめんなさい……ゆるして、ください……っ」
「許して、ねえ……?」
溜飲が下がった事で収まりつつある怒りの代わりに、嗜虐心が台頭する。白波瀬は蒼をどう苛めて己の欲を満たすか考え始め、一つ閃いた。
「許してほしいなら、それ相応のポーズってもんがあるよなあ?」
「え……?」
「土下座だよ土下座。床に額こすり付けて懇願してみろよ」
「……っ」
「できねえなら――」
白波瀬はゆるく平手を持ち上げる。蒼は直前の痛みと衝撃がフラッシュバックし、一瞬で顔を青ざめた。
「や、やりますっ……! やりますから、もう、叩くのは……」
「『やります』ぅ? なんか偉そうだなぁ」
「やっ、やらせていただきます……だから……」
「だったらさっさとやれや!」
ドスの利いた恫喝一つで、蒼の身体は言いなりになっていた。後ろ手に拘束された不安定な体幹で、もたつきながら蒼は立ち上がり、身体を左右に揺らしながら床に正座する。
だが、そこで蒼の動きが止まる。
「あ、あの……」
「あ?」
「手、手が、動かっ、なくて。これじゃ、土下座、できな」
「出来るだろ。床に額をくっつけるだけじゃねえか」
「で、でもっ、床、なんか散らばってて」
蒼がそのまま身体を前に倒した先には、先程白波瀬が散らかしたプラスチックの部品が転がっていた。薬研を手乗りサイズにしたような形状のそれに、刺さったり切れたりするような鋭さこそ無いものの、そんなものが散らばった所に倒れ込むのは平面の床より遥かに痛いだろう。当たりどころによっては痛いでは済まないかもしれない。
白波瀬は膝を曲げ、蒼に目線を合わせた。
「お前は、土下座を
「あ、ぁ」
「はぁぁ……しょうがねえなあ」
にこやかに笑った白波瀬に、蒼は一瞬、慈悲の予感を覚えた。
冷静に考えれば、そんなはずはないのに。白波瀬の僅かな挙動に救いを見出してしまう程に、今の蒼は追い詰められていた。
「手伝ってやる――よッ!」
「ぇ――ぁがっ!?」
白波瀬は蒼の後頭部を掴み、床に叩きつけた。蒼の額に部品がぶつかり鋭い痛みが爆ぜる。部品は蒼の顔と床の間から押し出され、蒼を避けるように転がっていった。
「おっ、良かったな。いい感じのスペースが出来たじゃねえか」
「ぅ、うぅっ……」
「メソメソ泣いてんじゃねえ男のクセによ。俺の気が変わらねえ内に、とっととやったほうが身のためじゃねえのか?」
「うぅうぅぅ……っ」
情けなさ、惨めさ、悔しさ、恐怖、後悔、罪悪感と絶望。様々な負の感情に心を掻き乱されながら、蒼は自ら上体を倒して額を床に押しつける。
「ごめんなさい…。もう、許してください……。煽っで、馬鹿にしでっ、ずみばぜんでじた……!」
白波瀬は、涙声で必死に懇願する蒼を無上の愉悦と共に見下ろしていた。かつて自分をぶん殴って邪魔しやがった、憎い男
だから、か。埃にまみれて尚月光に煌めく銀の髪が。上からはっきりと見える蒼の手枷が。恐怖にふるふると震える蒼の臀部が。
―――白波瀬に、嗜虐心とは明確に異なる欲を抱かせた。
「ああ。イイ事思いついた」
白波瀬は片眉を吊り上げて獰猛に笑い、顎に手をやり考える。
(そうじゃん。眼の前のコイツは、元はどうあれ今は女だ。だったら―――それに相応しい罰があるじゃねえか)
「うぁ――?」
蒼は、顔を上げ白波瀬の機嫌を伺う。
(多少ボコったせいでちょいと歪んでいるが、それでも十分にツラは良い。今まで見て、喰ってきたどの女よりも格段に。胸がちょいと小ぶりなのは減点だが、全体で見るなら悪くねえ)
「お前を許してやる条件を思いついたって言ったんだよ」
「な、何を、すれば……」
(俺をさんざっぱら煽ってくれた五十右も、俺を出し抜くつもりでいやがる佐倉もクソ喰らえだ。そうさ、こうすりゃあ心底ムカつく奴等を同時に傷つけられる。ハッ、そいつぁ良い。最高の
「五十右」
白波瀬は所謂ヤンキー座りで腰を降ろし、顔を上げた蒼の前に握った拳を見せる。だが、ただの握り拳ではない。人差し指と中指の間から親指を出したフィグサイン。その意味する所は国によってまちまちと言うが、この場に於いては一つきりだ。
白波瀬は、蒼を見下す嫌らしい笑顔を浮かべた。
「ヤらせろよ」
「…………?」
言葉の意味が、理解できなかった。突然、異世界の言語でも使われたような気分だった。頭の中で反芻して、徐々に意味を掴んでいく。
(あ、そうか。俺が、可愛くて、美少女だから………)
その気付きを切っ掛けに、蒼の中に言葉の意味が染み込んでくる。理解できてくる。理解できてくるからこそ、理解ができない。さっきまで、蒼を男だと思っていたのに。どうして急にそんな話になるのか。
「よっと」
蒼の混乱をよそに白波瀬は、土下座と正座の中間のような姿勢を取っていた蒼の肩を掴み、蒼の上体を後ろに倒す。蒼は、舌なめずりしながらにじり寄る白波瀬の顔を見てようやく、周回遅れの危機感が吹き出した。
「う、ぁ! あ!?」
足をバタつかせ必死に後ろに退こうとするが、僅かに動いただけで段ボール箱の山に頭が当たって、それきり逃げられなくなる。
真正面の白波瀬の細めた目が、はっきりと見えた。その虹彩の奥に揺らめく情動までも。嗜虐心、喜び、愉悦―――快楽への予感。性欲の発露。
「オイオイ暴れるなよ。ちょっと痛い思いするだけじゃねえか」
獣欲に満ち満ちた、蒼を喰らわんとする目。その目を見て、蒼はそれまで感じていたものとは別種の恐怖を抱いていた。それまでの白波瀬の暴行に対する恐怖は、頭上のギロチンを見上げるような、既知の痛みと恐怖への畏れだった。
だが、これは違う。崖下の暗闇に突き落とされる直前のような、未知に対する恐怖。何かを喪うことへの恐怖。それは、蒼の冷静さを完全に奪い去るには十分なものだった。
「菓子パンごち。……ダイ、何してんの?」
「遅えぞゲン。いやさあ、コイツがクソめんどくせえ事しやがったから身体で償わせてやろうってとこ」
「あっそ……。じゃあ、まあ。俺外見張ってるから……ごゆっくり」
「おっ気が利くな。サンはどうする、一緒にヤっちまうか?」
「それダイちゃんの顔見て腰振ってるようなものじゃん。やだよう」
「ハハハ確かにな! 良かった……いや、残念だったな五十右。初体験が3Pじゃなくてよ! ハッハハハハ!」
暫く席を外していた
眼の前で今まさに一人の人間に対し、肉体と精神と尊厳への陵辱が為されようとしているのに、誰もその異常性を咎めようとしない。
その無関心が、残酷な現実が。蒼の精神に大きな亀裂を走らせた。
(あ、ぁ。もう、ダメだ。俺、ここで終わるんだ)
蒼は、自分が女になったことの意味、その全てを理解していなかった。
親友に好意を抱いてしまうこと。男と女の違いに苦しみ、精神が不安定になること。
十分苦しいと感じていたそれらですら、現在蒼の身に降りかかっている災難に比べれば、天国のようなひと時だったと今なら解る。
より根源的で露悪的な部分を、蒼は理解する。させられる。
「ぁ、あ………!」
―――
出流を好きになって、あの日の夢と似たような夢を見る度考えた。いつか出流と付き合ったのなら、自分の『はじめて』を出流に捧げることになるのだろうか、と。夜景の綺麗な何処かのホテルか? それとも蒼か出流の自室で?
そんなことを思う度、我が事ながら気が狂いそうな程に恥ずかしく、ほんの少しの喜びを覚えていたのは事実だった。
でも、それを。こんな場所で、こんな奴に―――!
「待てよ? フツーに犯してもつまんねえな」
蒼の目の前で何かを考え始めた白波瀬。恐怖に完全に屈した蒼は、心変わりの僅かな可能性に賭けながら行く末を見守ることしかできない。
逃走も抵抗も、今の蒼には忘却の彼方にある選択肢だった。
やがて何かを閃いた白波瀬は、その嗜虐的な笑みを更に深めた。
「そうだ五十右、俺の女になれよ」
「へ……、?」
言葉の意味が理解できずまたしても呆ける蒼に苛ついたのか、白波瀬は感情を消した顔のまま握り拳を振り上げる。蒼は再びのフラッシュバックに膝を立て目を瞑る。
「ひっ!」
蒼の反応に気を良くしたのか、白波瀬は一転して穏やかな笑みを浮かべる。それは、絶対的な優越感からくる無慈悲な笑みだったが、蒼の中に『白波瀬の機嫌を損ねてはならない』という認識を植え付けさせた。
「な? 五十右は俺に殴られるの、もう嫌だよな?」
「う、うんっ……」
「嫌なら、俺の女になれってことよ。俺は身内は大切にするからよお、お前が俺のモンにさえなりゃあ、悪いようにはしねーぜ?」
「っ……」
にこやかに、笑いながら。白波瀬は五十右に語りかける。地獄に落ちた気分だった五十右にとって、それは天から齎された慈悲の糸に見えた。見えてしまった。
心の亀裂が大きくなり、その隙間を白波瀬が侵食していく。白波瀬への恐怖に軋む心が、白波瀬の見せかけの優しさに染められていく。
白波瀬は、忌々しい二人の仲を引き裂く昏い悦びに、隠しきれない興奮と喜悦を覚え口角を釣り上げる。耳まで裂けたかのような、悪魔めいた邪悪な表情だった。だが、蒼の目にはソレが爽やかな好青年の微笑みに見えていた。
「佐倉の事は心配すんなよ。アイツは金持ちで家もでけえんだから、アイツに相応しい相手がきっと見つかるって。むしろ、お前みたいな平民がアイツと付き合うほうがおかしいってもんだろ?」
諭すように穏やかな白波瀬の言葉に、蒼は出流のお見合いの件を思い出していた。
(確かに、そうだ……イズルにはお見合いの話が来てて、俺のためにそれを断ろうとしてて……)
今を助かりたい。蒼の深層心理に植え付けられた恐怖が、蒼の心を歪めていく。己の認識を捻じ曲げ、今の自分にとって―――白波瀬にとって、都合の良い理屈を紡いでいく。
(
蒼は、自らに嘘をつく。現実を、事実を曲解し、自分を納得させる。自分を騙し、自分を誤魔化し、楽な方へと流れていく。堕落していく。
良心の呵責が、雫に変わって頬を伝う。蒼は、恐怖から逃れる為に、ほんの一時の安心の為に。それ以外の全てを、手放そうとしていた。
地位も、夢も―――己の恋心でさえも。
「五十右――いや、
「………っ」
出流に当てつけるように、白波瀬は蒼を下の名で呼ぶ。蒼はそれを、親密さの証だと錯覚した。
震える膝を、ぎこちなく動かす。外へ。開くように。
視界が暗く染まっていく。白波瀬の顔が、もう見えない。だが、恐怖だけは蒼の網膜にこびりついていた。
(イズルなんて、忘れた方が、良い……その、方、が……………)
軋む心に、ハリボテの優しさに、己の弱さに流されようとしていた―――その時。
殴られて、叩かれて。痛みと疼きが残響する蒼の頬を、小さな風が優しく撫でる。窓もない屋内にも関わらず。
七月の夜に吹いたその風はどうしてか―――
TS娘が好きでもない男に性欲を向けられ襲われる。これもまた、TSの通過儀礼の一つとされています。(東雲。調べ)
避けて通ることは出来ないんです。だって通過儀礼ですからね。
さてここまで、陰鬱&凄惨な、純愛もへったくれもない展開に長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。ここが最後の曇らせポイントでして、後は上がるだけとなっております。
残り数話ほど、宜しければお付き合いください。
話の区切りの為に次話分からごそっと文を持ってきたので明日の投稿は確約できませんが、GW中の本編完結を目指して頑張ります。
P.S.
この作品にどういうタグつければ良いのか分からないままここまで来て、今更ながらタグを増やして説明文に注釈付けました。
多少は伝わるようになりましたかね?
本作にR-17.9のタグあった方が良いと思いますか?
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いる
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いらない