もうじき日付が変わる、別荘の庭。
来たときは青々と茂って見えた緑の芝生は夜闇に呑まれ、家の光が届くごく狭い範囲以外はシュレディンガーと化していた。車で通ってきた道に点々と灯る街灯が、別荘と外の世界を繋ぐ橋のようで、遠くから聞こえる鈴虫の鳴き声と、崖下の漆黒の海に立つ小さな波が、不思議なハーモニーを耳に届けてくる。
雲ひとつ無い星空に浮かぶ二十六夜月が頼りない光を降ろす中、浴衣からブラウスとスキニーパンツの服装に戻った蒼と、ラフな出で立ちのままの出流は―――
「うぇーい!!」
「……振り回すとあぶないよアオイー…………」
―――線香花火で遊んでいた。
「はあぁぁぁ……」
出流は二人がけの折りたたみベンチ(なぜか別荘にあった)に腰を下ろし、右手で吊るすように持った線香花火のか細いスパークを眺めながら、深々とため息を吐いた。
(勝手にドキドキして内心がっかりして、我ながら情けない……この弱々しい火花みたいに情けない……いや、こんなに綺麗じゃないからそれ以下だ……)
穴があったら入りたい気分だった。純粋に夜という時間を楽しもうとしていた蒼に比べ、己のなんと醜く浅ましいことか。よこしまな考えを抱いていた自分を絞め殺してやりたい。
このまま自己嫌悪の泥沼に嵌っていきそうな出流だったが、そうは問屋が卸さない者が一人。
燃え尽きたすすき花火をバケツに突っ込んで、蒼が近づいてくる。両手を腰に当てて出流を見下ろした。
「なーにシケた面してんだよイズル。線香花火つまんねーか?」
出流は俯けていた顔をバッと上げる。自分がネガティブになるのは良いが、それに蒼を巻き込むのは望んでいない。出流は少し無理して楽しそうな顔を作った。
「あ、いや。そういうわけじゃ。ちょっと、思う所があって」
「どーしたよ、話聞くぞ?」
「え、えっとそれは……」
(い、言える訳ない……アオイと何かするんじゃないかって期待してたなんて絶対に……!)
代わりの話題が無いかと頭を捻る出流は、気になっていた事を思い出した。
「そ、そう! この線香花火、いつの間に用意したの? い、家から持ってきたとか!?」
なんとか話題転換を試みる出流は人差し指を立てて笑顔を作る。そんな意図には気付いていないのか、蒼は頭を軽く掻いた。
「あー……イズルが風呂入ってる間にこっそりコンビニ行って買ってきた」
「えっ」
バツが悪いのか顔を斜め上に向けた蒼に、出流はつい驚いた顔をする。蒼はわたわたと手を振った。
「も、もちろん、大神さんの書き置きは覚えてっけど。でも、ホラ、よ。明日には帰らなきゃってのに、このまま終わるのもどうかなって思ってさ」
蒼は出流の隣に腰掛ける。恐らく同じシャンプーを使ったはずなのだが、湯上がりの蒼の身体からは自分とは違ういい香りがして、出流はつい縮こまってしまう。
「海も、夏祭りもさ、周りに人がたくさんいただろ? それはそれで楽しかったけどさ、二人きりで遊ぶってのは、無かったじゃん」
蒼は落ち着かないのか、指先で髪を弄りながら、たどたどしく言葉を繋いでいく。
「イズルにも、大神さんにも悪いとは思ってるけど、でも……その、どうしてもよ……」
「………そっか」
だんだん萎れていく蒼の語気。出流は蒼の心境を理解し飲み込んだ。
それこそ、家から持ってきたと嘘をつくことも出来ただろう。だが蒼はそれをしない。もし出流が聞かなくとも、遠からず自分から話していただろう。
(ああ―――僕、アオイのそういうところ、好きだな)
頭の中からネガティブの霧が晴れていく。
出流は静かに立ち上がり、いつの間にか消えていた手元のスパーク花火を水の張ったバケツに入れた。
「わかった、じゃあ遊ぼっか。二人だけで思いっきり」
「……その、ごめんな。勝手なことして」
「いいよ。でも、次からちゃんと相談してね」
出流の顔を伺うように下から覗き込む蒼に、出流は――それまでの作った笑顔とはまるで異なる――自然な笑みを浮かべた。
「僕は、アオイが一人で危ない目に逢うくらいなら、一緒に悪い子になるのを選ぶから」
「っ」
蒼が、驚きに目を見開く。それがどんな感情によるものかは分からないが、きっと悪いものでは無いはずだ。
「ありがとよ」
「うん」
「じゃあやるか! 俺いっぺんアレやって見たかったんだよな! 指の間にすすき花火挟んでドラゴンクローみたいな!」
「うん、火事にならないように気をつけようね」
「……うっす」
「いやー遊んだ遊んだ!」
「こっちはいつボヤが起きるかとヒヤヒヤしたけどね……」
板チョコめいた扉を開け放ち、無数の線香花火だったものが刺さった水入りバケツを持った蒼がカラカラと笑いながら屋内に戻る。その後ろを追うように、似たバケツを持った出流が扉を閉め鍵をかけた。
「
「花火は処分して水は捨てて、バケツは少し洗えば良いんじゃないかな?」
「じゃあそうするか」
そうした。
「うっし、じゃあ後はいよいよ寝るだけだな」
「うん――」
部屋の照明を落としてから二階に上がり、各々の部屋へと向かう。ルート上蒼の部屋が手前にあり、出流の部屋はその奥だ。
蒼は自分の部屋のドアノブに右手をかけ、出流が背後を通り過ぎるのを待つ。出流が自分の部屋に行ってから「おやすみ」を言いたい、ただそれだけだった。
だが。
「――そうだね」
「えっ」
さしもの蒼もこれには驚き、後ろを振り返―――ろうとして。
その前に、出流の空いた左手が蒼の腹を周って右の腰を抱き、背後から蒼を抱きすくめていた。
「っ!!」
蒼の顔に血が集まっていく。心臓は早鐘を打ち、肌が粟立つ。全身の感覚が鋭敏になって、体温が上がっているのが自分でも分かった。
自分が熱くなっているからか、出流が緊張しているからか。重ねられた出流の手は冷たく、腰に回った手はかすかに震えていた。
物理的に、そして精神的にも動けない蒼の肩に、出流は鼻先を埋めて。
「僕、今日は。アオイといっしょに、寝たい」
緊張がひしひしと伝わる声で呟いた。
いくらなんでも、この状況で意図を読み違える蒼ではない。うるさい鼓動を意識から除きながら、蒼は俯けて言葉を零す。
「……俺、一応は元男なんだけどな」
「関係、ないよ」
蒼はいつからか、出流は自分を
蒼が何をしても、どんな格好になっても。出流はいつも『かわいい』『綺麗』と言ってくれる。だが、出流の視線に好意以上の欲を、蒼は見出せなかった。
それは出流が必死に自分の中の欲を隠そうとしていた為であり、普段の周囲の男連中の態度や白波瀬の一件により、『胸に視線を向けられるくらいどうってことない』と無意識にハードルを上げていた為でもあった。
水着になっても、浴衣になっても。出流の態度は蒼の認識に於いてはさして変わらないもので。その不満は蒼の心の中で、小さな棘になっていた。
「アオイは怒るかもしれないけど、僕にとってアオイは、もう女の子なんだ」
身も蓋もない表現をすると、蒼は出流にエロい目で見られたかった。ただ美しい、ただかわいいだけではなく、女としての性的な魅力を出流に見出されたかった。
「…………」
だが、だがしかし。
男だった頃の自分も忘れてほしくなかった。心の片隅に未だ残ったままの僅かな断片が叫んでいる。俺がいた事を忘れるなと、声を上げ続けている。
もっと女として見られたい。男だったことも覚えていて欲しい。出流の告白は、蒼の中の歪んだジレンマを浮き彫りにしていた。
(あー……自分のことだけど気持ちわりいなこれ)
「でも。……これは自分でも何言ってるんだろって感じなんだけど、アオイが男の子だったから、良かったな、とも、思ってて」
「!」
まるで心を見透かしたかのようなタイミングに、蒼は目を見開く。
とつとつと、こぼれ落ちる出流の言葉は続く。
「アオイが、男の子だったから、アオイは僕を助けてくれた。…………アオイが男の子だったから、アオイと友達になりたいって思えた」
「………」
「だから、その……僕にとっての、アオイは。恩人で、親友で。それで、恋人で……大好きな、女の子、なんだ」
「―――っ」
蒼の鼓動の毛色が変わる。ドキドキと激しい拍動から、とくんとくんと、静かに、されど熱を孕んだ律動へと。
自分の吐息が熱を帯びているのが分かる。心が、身体が。何かの準備を整えていく。
「……イズル、俺のことそーゆー目で見てたんだな」
「ごめん。ずっと見てた。水着とか、日焼け止め塗る時とか、本当に大変だったんだから。その……我慢、するの」
肩にかかる息が少し荒い。蒼には見えていないが、黒い髪の奥で出流の紅い瞳はギラギラと欲望に赫いていた。
出流が後ろで蒼が前。その体勢で抱きつけば、必然的に蒼の腰に当たるものが。蒼には、もう無いものが。
それが、何よりも雄弁に、出流の気持ちを蒼に物語る。
蒼は、ドアノブを握っていた手を離しだらりと下げる。出流の手は蒼の手首をゆるく掴んだまま。
「状況に流されてる自覚は、ある。間違ってる事をしてる自覚も、ある。アオイの気持ちを考えてない、独りよがりな言葉だってのも……分かってる」
蒼の手首を握る力が強まる。蒼は出流が今まさに勇気を振り絞っている最中であることを理解した。
「だから、嫌なら……そう言って欲しい。アオイの事は大好きで、アオイの全部が欲しいけどっ、アオイが嫌なことは……したくない、から」
心臓が締め付けられるどころか、雑巾みたいに絞られるようだった。後ろに居る恋人は、不意打ちで抱きしめておきながら、必死に想いの丈を全部言葉にして、その上で蒼を慮ろうとしている。なんていじらしく、可愛くて健気で――愛おしいのだろう。
それに対する蒼の答えは、一ヶ月前から決まっていた。
「イズル、あの日俺が言ったこと、覚えてるか?」
「………う、うん」
「あの日」も、「俺が言ったこと」も。ただそれだけならば何を指しているかもわからない抽象的な言葉。だが、今、この流れで蒼が持ち出す蒼の「俺が言ったこと」を、出流は一つしか思い浮かべられない。
『俺、イズルの事が本当に大好きなんだよ。アイツにされそうになった事、全部イズルにされたって構わないくらいに!』
「あのときは正直、勢いで言ったよ。家に帰って寝て起きたら、まー俺はなんて恥ずかしいコト言ったんだって軽く死にたくなったね」
「っ……」
「で、まあ。その後更にもう一度冷静になって考え直したんだよな。俺は実際のところ、イズルとどうなりたいのかって」
蒼は、自分の腹を抱き腰に回った出流の手に、自分の手を重ねる。出流の手の甲を、指でかりかりと優しく掻く。
痛みも、痒みすら感じさせない弱いひっかきは……出流の欲望を煽るかのようで。
「雰囲気に流されてても、間違ってても、独りよがりでもいいじゃねーか。俺らくらいのヤツはきっとそんなもんだよ。それに俺も――もう、同じ気持ちだから」
「……それ、って」
欠けた月の光を頭に浴びて影の落ちた
「俺と、イズルだけの思い出。もう一つだけ……作っちゃうか」
多くを語ると雰囲気を損ねるので一言だけ。
これが書きたかった。
あと1、2話でラスト(の予定)です。お盆の間には完結できるんじゃないかなあと思います。