蒼が女になって一ヶ月が経ち、世間は梅雨に差し掛かった。
ポツポツと弱い雨が降り続ける中、出流は傘を差して一人で家路を歩いている。手元のスマホには『体調悪い。休む』という親友からの簡素なメッセージだけが履歴に残っていた。
(最低限のことしか書いてないあたり、本当にしんどいんだろうなあ。でも珍しいな、アオイが学校休むなんて。めったに病気にならないし、風邪くらいだったら黙って登校してたのに)
迷惑行為に手を染めている友人の事を想いつつ五十右家の前を差し掛かると、玄関の扉が開く。中から出てきたのはウェーブがかった茶髪の、妙齢の女性。
あちらも出流に気づいたらしく、傘を広げて近づいてくる。
「こんにちは、アオイのお母さん」
「あらこんにちは、出流ちゃん。学校帰り?」
「あ、はい……」
蒼の母、
「丁度良かった。出流ちゃん、今時間ある?」
「え、まあ、はい」
「ちょっと買い物に行かないとなんだけど、うちの子のこと見ててもらえないかしら」
「あー……えっと、い、良いですよ」
先日発売された新作ゲームに後ろ髪を引かれたが、蒼の様子が気になるのも事実。出流は已む無く引き受けた。
「ホント? 助かるわぁ~。じゃあ早速――の前にちょっとこっちへ」
「は、はい」
出流は篠江に手招きされるまま、道路の上から軒下へ移動する。一旦傘を閉じた出流に、篠江はいかにも内緒話をしますと言わんばかりに片手で口元を隠して出流に近づける。
「うちの子、今日体調崩してるのは知ってると思うけど、理由までは知ってる?」
「いえ、体調が悪いとしか……」
ヒソヒソと、雨の音にギリギリ勝てる程度の声量で、篠江は密やかに囁く。
「ええっとねえ、病気って訳じゃなくて――月に一度訪れるアレ、というか……」
「っ」
言いづらそうな雰囲気の遠回りな説明に正体を察した出流は息を呑む。
それは、出流にとって少なからずショッキングな事実だった。
(
出流は少しだけ気が重くなった。
「それでね? うちの子はその、イライラしたりするみたいで……何かあっても、深刻に捉えないであげてくれる?」
「わ、わかりました」
「ありがと。じゃ、後宜しく!」
「は、はい……」
言うべきことは言ったとばかりに、ぱちゃぱちゃと水飛沫を跳ねながら車に乗り込む篠江を眺めた出流は、ともあれ蒼の元へと向かった。
校舎裏に、四人の男子生徒がいたのを、たまたま見かけた。
一人を、三人が囲む形だった。
ただ、虫の居所が悪かった。
自分が間違っている自覚はあった。
『五十右くんは、僕の―――』
時は遡り、同日の昼過ぎ。
ベッドで眠っていた蒼は、のそりと身を起こした。目元に溜まっていた涙粒をパジャマの袖で拭う。少しの間ぼうっと呆けた後、ボソリと呟く。
「……懐かしいな」
夢の内容が内容だけに、どうにもセンチメンタルな気分が抜けない。
だが気分と肉体は別のもの。女になっても特段可愛げがある感じにはならなかった腹の音に、蒼はベッドを出た。
気怠い身体を引きずり、寝間着のまま階段を降りてリビングへ向かうと、見慣れた茶色のウェーブヘアが、こちらに後頭部を向けてテレビを見ていた。
扉を開けた音を聞いていたのか、テレビを切って振り返る。
「どうしたの蒼、お腹減った?」
「おう」
「冷蔵庫に作ったのあるからチンして食べて。一人でできる?」
「できるできる」
適当に相槌を打ち、蒼は冷蔵庫からラップに包まった皿を二つ取り出し電子レンジで順番に温めていく。
湯気を立てる皿を両手に持ち、足で椅子を引いて皿をダイニングテーブルに置きつつ座る。
「いただきます。……なんでレバニラ炒めと麻婆豆腐?」
「そういうのが大事なの」
「ほーん」
普段ほど食欲はなかったが、身体が食えと言っている。白米をプラスして目の前の飯を腹に詰めていく。
普段と変わらない味のはずだが、心なしか臓腑に染みる感じがした。
「あ、晩御飯はお赤飯炊くわね」
「いらねえよ別に」
「お母さんが作りたいから作りまーす」
「………」
母は強い。
食事の後再び気分が悪くなったので、蒼はいそいそとベッドに潜り込み身体を横向けにして布団を被る。
生理というのは初めての経験だったが、蒼の場合は重めの風邪に近い症状が発生していた。
頭にズキズキとした鈍痛が居座り続け、全身の倦怠感でベッドから起き上がる気力が削がれる。食後に催してトイレに行ったら、二度目とは言えショッキングなものを目にしてしまったのも尾を引いていた。
頭まで掛け布団を伸ばし膝を曲げて丸まりながら、蒼は独りごちる。
(生理、かぁ)
ゲームをする気分でもないが、寝るには少し目が冴えていた。蒼は自然と、自分に起きた現象に考えを巡らせていた。
(なんで……も何もねえか。女の身体だもんな、そりゃあなるか)
原因はまあ分かりきっている。今更とやかく言う気もない。
(これが起きたっつーことは、アレだよな。俺の身体は―――やめとこ)
蒼は、考えかけた思考を中断する。
考えただけで、何かが進んでしまう気がしたから。
(別に、今日日
言語化しなかったせいか脳内にふわふわと漂う概念を押し流そうとするかのように、蒼は思考を絶やさない。
(第一ゴメンだね。俺は、男……なんだ。何が……悲しくて……)
そうしていると、徐々に脳の回転が鈍り始め。
(男と付き合うなんて……冗談じゃ、ねえ………)
緩やかに思考が微睡んでいく。
やがて。
……
…………
「ほい、鞄」
「あ、ありがとう」
片手で持ったビジネスバッグを突き出すと、アイツは俺に背を向け革靴に踵を押し込み鞄を受け取った。
「ホラ、お父さんにいってらっしゃいしなー?」
力加減に気をつけて、左腕の中に抱いた小さな命を優しく揺する。
「だうあー」
生後三ヶ月の幼い命が、未発達の手を伸ばしふりふりと動かす。
そのさまを見ていると感慨深いなにかが背筋を駆け上り、ついつい口元がニヤけちまう。
「そうだね、パパ頑張ってくるよ。――ねえアオイ」
「? ……ッ!?」
声をかけられて顔を上げる。
途端、顎を指で持ち上げられた俺の頬に唇がそっと触れる。
「んなっ、な、なにしやがっ」
「ええっとほら、いってきますの~ってヤツ……」
相変わらず伸ばした前髪で目元の隠れたその顔で、照れくさそうに頬を掻く。
その髪型のせいでどうにも冴えない雰囲気が漂うが、まあ別に良い。コイツの格好いいところも可愛いところも、俺だけが知ってりゃいいんだからな。
「チッ。頬出せ頬」
「右の頬を殴られたら左の頬を……」
「殴ってねえだろ」
恥ずかしそうに差し出すくらいなら
まあ言わぬが花か。
「――んっ」
「……思ったより照れるねこれ」
「じゃあやるなよ」
結局言っちまった。
「行ってきます、アオイ」
玄関の扉を開け、仕事に向かう夫に向けて手を振る。
この笑顔はサービスだ、たっぷり食らってけこの野郎!
「いってらっしゃい! イズ
…………
……
「どあああああああああああああああああああああああアアアァァァァァーーーーッッ!!!」
蒼は掛け布団を跳ね上げ飛び起きる。全身に嫌な汗がぐっしょりと滲み、心臓が良くない感じのビートを刻んでいた。
「はあっ……はあっ……はあッ……!」
倦怠感も頭痛も月まで吹っ飛ぶ恐るべきショック。今後二度と味わう機会は無いであろうレベルの衝撃。
蒼は右手の親指と中指で左右のこめかみを押さえ、変調とは別の理由で痛む頭を項垂れる。
「………なんつー悍ましい夢だ」
「どんな夢だったの?」
ベッドの傍らにいた出流が疑問を投げかける。
「ああ……お前が夢に出ええええええええええええええェェェェェ!!?!?」
蒼はもう一度同等のショックを味わった。
「アオイ、あんまり騒ぐとご近所迷惑になっちゃうよ?」
「ッ……! ぐっ…………!!」
紛うことなきド正論をかまされた蒼は言葉に窮する。内なるメーターを振り切った感情が何かを叫ばせようとするが、なんとか喉元で抑え込んだ。
「………ぶはあ」
やがて荒れ狂う衝動を飲み込んだ蒼は、残った残滓を深い溜息に変えて吐き出す。
幾分落ち着いた思考回路は、すぐに当然の疑問に行き着いた。
「で、なんでイズルが俺の部屋に?」
「アオイのお母さんに頼まれて。アオイの様子を見るとの留守番を」
「クソ、いらねーことしやがって……」
唸るように悪態をつく蒼に、出流は心配げな視線を向ける。
「ねえアオイ」
「! ……な、何だよ」
夢と同じ呼びかけに蒼は一瞬肩が震えたが、努めて冷静に言葉を返す。
「ええっと……大丈夫?」
「んーまあ、ぶっちゃけ大丈夫じゃねーなー。頭痛えし身体は
「うわあ……」
蒼は、一度起こした身体をまたベッドに投げ出す。重たい頭を枕が受け止めてくれた。
できれば今は、出流の顔を見たくなかった。さっきの夢がまた顔を出してきそうだったから。
「これから毎月コレだと思うと憂鬱だぜー。薬とかあるらしーけどなー」
しんどさからか、口調が投げやり気味になっている。蒼はそれを自覚しつつも止める気はない。
「熱とかはないの?」
「無い、朝測ったけど平熱だったし」
仰向けた視界の端に、出流の顔が映り込む。重力に垂れ下がった髪の隙間から、普段は見えない出流の瞳が見えた。不安そうな顔をしているな、と蒼はぼんやり思った。
そんな事に気を取られていたからなのか。
「そう? でも――」
撫でるように。滑り込むように。
出流の手が、蒼の頬に添えられる。
「――顔、赤いよ?」
「――ッ!!」
瞬間的に蒼の感情が一色に染まる。心を何かが埋め尽くして溢れそうになる。突沸する衝動を抑えつけるには、今の蒼の自制心は不足していた。
「少し熱い気もするし……」
「ッだあああああっ!!」
蒼は咆哮と共に出流の手首を掴む。掛け布団を跳ね除け飛び出した蒼は、目を白黒させる出流を部屋の外まで引っ張っていく。訳が分からずされるがままの出流を室外に放り出し、力任せに扉を締めた。
『あ、アオイ!?』
扉越しにくぐもった声が、蒼の内側を掻き毟る。やり場のない衝動のまま扉を殴りつけ、理解の出来ないもどかしさに身体を戦慄かせた蒼は噴き上がる熱情のままに口を開いた。
「うるせえっ! とにかく今日は帰れっ! 今は気分が悪いんだよ!!」
『え、ええっ!?』
扉の向こうの気配はしばらく立ち往生していた。だが、数十秒ほど経って。
『わ、わかった。じゃあまた明日ね、アオイ』
心の底から申し訳無さそうな声音が、冷水を浴びせられたように蒼の激情を吹き散らす。
激発が収まって口の中に苦味が広がった。
「……おう。また……明日な」
トントンと階段を降りる音が、次第に遠ざかる。
蒼は扉に背中を預けてズルズルとへたり込む。もう、ベッドに戻る気力すら無かった。
寝間着の胸元を、キツく握りしめる。
「………くそ」
鼓動はバクバクと高鳴っていて、身体に熱が籠もっているみたいだった。全身の感覚が鋭敏になって、血流まで感じ取れる気さえする。
思考がまるで纏まらない。何かを考えようとすると途端に、寝転がった蒼を覗き込んできた出流の顔が蘇る。チラリと見えた不安げな瞳を思い出す度に、胸が切なく疼く。
「……そんなわけ、ねえよな」
ミキサーにでもかけられたみたいに、頭がぐしゃぐしゃになっていた。感情がコントロールできなくて、訳のわからない涙が溢れてくる。
「俺達は、親友だよな。お前も……そう思うよな? イズル………」
右手の付け根を眉に当てて蹲り、思わず口をついて出た独り言は、虚栄の残骸が散らばる部屋に溶けていった。
TS恋愛モノ通過儀礼三種盛り(1つは夢の中ですが)。
(現時点の想定における)前半が終わりました。と同時に書き溜めを使い切ったので以降の更新は多少遅くなります。ご了承ください。