ちょっとした幕間のつもりが想定より長くなってしまいました。
幸いにして家が近かったため、とりあえず一緒に登校しよう……という蒼の提案は、出流がリムジン送迎で登下校しているため叶わず(しばらく後に出流の計らいで一緒に歩いて登校するようになったが)。
飽き性でミーハー気味の蒼に対し、ゲームに一直線のオタク気質の出流では共通の趣味も話題も無い。
そんなわけで、二人の友情の記憶は一緒に昼食を摂るところから始まった。
「五十右くん。一緒にお弁当……食べない?」
「う、おう」
その様子を見ていた周囲がザワつく。小柄な金持ちの息子と、先日まで謹慎していた不良生徒の取り合わせは、彼らには考えられないことだった。
奇異の視線を避けるべく、二人は屋上に移動する。
「……佐倉は、よく食べるんだな」
「え? あ、違うの。これは五十右くんにも食べてもらおうと思って、二人分用意してもらったんだ」
「俺は俺の弁当があるんだが」
「あっ」
時が経てばこういうのも思い出になった。
蒼にとっては、この地域での始めての友達であり、出流にとっては対等な友人というものがそもそも居なかった。二人は互いの人生の空白を埋めるように、思いつく端から楽しいこと、楽しそうなことを実践していった。
時には二人で一日中ゲームして。
「なあ佐倉、俺一回も操作してないのに負けたんだけど」
「ごめん……ネット対戦のノリでついフルコンボを……」
「二度とお前とは対戦やらねー」
「あう……じゃ、じゃあ協力系で遊ぼうよ!」
「ったく、今度はちゃんと楽しませてくれよ?」
近場にあったボルダリングの施設に赴き、二人で身体を動かしてみたり。
「佐倉、下にマットあるんだからちょっと落ちるくらい平気だって」
「ほ、本当に? 怪我しない?」
「ちゃんと足で着地できれば?」
「ひぅっ……ぼ、僕見学で良い?」
「少しは体動かしてからにしろよ。金もったいないだろ」
「『もったいない』……? あ、そう……そうだね?」
「もったいないの概念を知らない奴って居たんだな……」
出流の蔵書を読んで時間を潰すこともあった。
「出流、何読んでんだ?」
「……ライトノベル」
「よく読めるな文字ばっかの本」
「ま、まあ挿絵とかあるし、ちゃんとした小説よりは読みやすいんじゃないかな」
「ほーん……まあ俺は漫画でいいや」
「あ、この作品は漫画にもなってるんだよ。僕両方持ってるから読む?」
「んー……まあ読むだけ読んでみるか」
特に意味もなく肩車なんかしたことも。
「出流、しっかり木に身体預けてろよ」
「大丈夫、たぶん」
「行くぞ……ッシ!」
「うわ、うわわっ! 蒼くん凄い凄い! 視点が高い!」
「ハハ、そうかよ。こっちも……思ったより、軽くて助かったな。手離しても良いぜ」
「うわあ……! 蒼くん、将来きっといいお父さんになれるよ!」
「先の話過ぎんだろ」
二人でファストフードを食べに行った。
「出流はハンバーガーとか食べたことねーだろ? 俺が教えてやるよ」
「食べたことあるよ。松阪牛をパテにしたのとか美味しいよね」
「待て出流、俺の知らないハンバーガーの話をするな」
「ハンバーガーって二百円くらいで買えるんだ。安いのもあるんだね」
「待ってくれ出流お前普段いくらになるハンバーガーを――いややっぱいい聞きたくねえ!」
不思議なことに、蒼は出流と一緒なら長続きしなかったゲームが楽しめたし、出流は蒼と一緒なら苦手なスポーツも楽しかった。
なんでもない日々が思い出になり積み重なっていく。二人の呼び方が「イズル」と「アオイ」に変わる頃。蒼に大きな転機が訪れた。
中学二年生の二学期―――進学先を決める時が迫っていた。
その日、出流は自分の部屋でゲームを一人で遊び、蒼はそんな出流を眺めながら出流のベッドで寝転がっていた。
「なあ、イズル」
「なに?」
出流は背中を向けたまま答える。
「イズルは……高校どこに行くか決めたのか?」
「えっとね、紫凰高校ってとこ」
「ッ、へ、へー……」
紫凰高校は――後に二人が通うことになるのだが――蒼達の地域ではトップクラスの偏差値の高校である。優秀な成績を納めている出流はまだしも、中央値程度の成績の蒼には不相応な世界だった。
「……なんで紫凰なのか、聞いても良いか?」
「なんでってこともないよ。お父さんにオススメされたから。お母さんの母校なんだって」
「そう、か……」
父に対して絶大な信頼を置いている出流だ。蒼が何か言ったところで首を縦に振るかは怪しいし、出流の説得はつまるところ間接的に
蒼は迷いの中にいた。
一年半近く共に過ごした蒼にとって、出流は既に手放し難い親友だ。進学先が別れれば友情なんて脆いもの。それは小学校時代に転校してきた蒼が、『毎日メールするから!』と言って離れ離れになった友人からのメールが数通で途絶えた経験から学んだことだった。
出流とこれからも友達でいるためには、同じ高校に行くことはほぼ必須。その為には、残り一年半を全て成績向上と試験対策に回さなければ活路は拓けない。
自室に散らばった虚栄の残骸が脳裏をよぎる。ただでさえ障害に弱い蒼には、それは流代の説得と同程度の難易度に思えた。
自分一人では決められない。蒼は、この一年半聞けなかったことを、今だからこそ聞く気になった。
「なあ、イズル」
「ん?」
「なんで……お前は、父親を信じられるんだ?」
「えっ、アオイまさか」
「いや俺が俺の父さんのこと疑ってる訳じゃねえけどさ」
蒼は咳払いをする。出流の心の古傷に、踏み込む時は今だった。
「お前は……その、小学校の頃からずっと、虐められてたんだろ?」
「うん、そうだね。アオイのお陰で今はもう無いけど」
出流は、ゲームを一時停止させた。
「それなのに、お前の父親は助けてくれなかった」
「まあ、うん」
「おかしいだろ。普通、そうなったら父親なんて信じられなくなるもんなんだよ。『どうして助けてくれなかったんだ』って。後で謝られたとしても、心に負った傷は消えたりしない」
「………」
「なあ、教えてくれイズル。お前の中の何が、父親をそんなに――」
「疑ったことは、あったよ」
出流の声は、いつにもなく弱々しかった。
「っ」
「だから
「大神って……あの使用人兼SPの人か」
蒼は筋肉でパッツパツになった黒スーツの肌の焼けた黒マッチョマンを思い浮かべる。
「うん。そしたら大神さん、僕を抱き上げて言ったの。『坊ちゃまのお父上は、坊ちゃまと奥様の為に毎日頑張っていらっしゃるのです。私共もあまり頑張りすぎないようにと忠言してはいるのですが、聞き入れてくださりません』って」
「……それで?」
「? 終わりだけど」
「……え?」
出流は床にコントローラーを置き、立ち上がって身体ごと蒼に向き直る。その表情は、いつもの笑顔だった。
「お父さんは、僕とお母さんの為に頑張ってるんだってわかったんだもん。
「……な、に?」
「まあ、アオイに助けられたときはつい声が出ちゃったけど……」
出流の声が耳に入らない。蒼は鳩尾に響くような、静かに重い衝撃の只中に在った。
(振り返れば違和感があった。イズルの態度は、六年近く虐められてた奴にしては目に光がありすぎる。自主性がありすぎる。今まで特に深く考えずに流してたが――)
蒼は出流を、ずっと気弱だと思っていた。小柄で非力で気弱、だが心は純粋な人物なのだと。
(違う。イズルは、気弱なんかじゃない。むしろ異常なほどに強固で、信じ難いほどに純粋。一度自分がそう信じたのなら、何があっても自分を貫く。曲がらない、折れない。そういう心の持ち主……!)
一年半前に見えた扉の正体を、垣間見た知らない世界の真実を理解する。
(俺は、あの時――
思考がクリアになっていく。出来る出来ないで考えていた自分が酷く未熟に思えた。
(今なら……少しは近づける気がする。イズルみたいに、俺もなるんだ、なりたいんだ)
蒼はベッドの上で身を起こし、へりに腰掛ける。
「イズル、俺紫凰受けるよ」
「えっ!?」
「だからさ、勉強教えてくれよ。俺今日から必死に成績上げて、受かって見せるからさ」
「………ッ!」
「おわっ」
出流は感極まって蒼に抱きつく。蒼は突然の行動に対応しきれず、諸共ベッドの上に倒れ込んだ。
「どうしたいきなり!?」
「ご、ごめん。嬉しくって……アオイと一緒に高校通えるんだって思ったら、つい……!」
蒼は苦笑して、出流の背中をポンポンと叩く。
「……まだ受かるって決まった訳じゃねーっつの」
「いや……いや! 絶対に合格させる! 僕がしてみせる! アオイが泣き言言っても勉強付き合わせるからね!」
「そいつは――まあいいか」
蒼は出流を押し退け、出流も身体を起こして再びベッドの脇に立つ。蒼は寝転がったまま出流に向けて手を伸ばした。
出流は蒼の手を取り、引っ張り上げて蒼を立たせた。
出流が見上げて、蒼が見下ろして。
しかし、二人はどこまでも対等だ。
「改めてよろしくな、イズル」
「もちろん。僕に任せてよ、アオイ!」
一年半の後、猛勉強の甲斐あって無事に紫凰高校に合格した蒼は、流代の部屋を訪れていた。
整理整頓され、クラシックな調度品で整えられた気品のある部屋だった。本棚には日本各地のツーリングガイド本が収められており、付箋も入って随分使い込まれていることがわかる。
部屋のほぼ中央に置かれた机を挟み、蒼と流代は向かい合う。
「おめでとう蒼くん。無事に紫凰に合格できたんだってね」
「おう。イズルのお陰でな」
「紫凰は今の中学校よりは格段に治安が良いし、蒼くんの手を借りる必要はないと思っていたが……まあ続くならその方が良いか」
「それより約束――忘れてねえだろうな」
流代は眼鏡を取り、眉間を揉みほぐしてから眼鏡を掛け直した。
「勿論。『君が紫凰に現役合格したら、次に出流が自分の意志で何かわがままを言った時、何も聞かず賛同する』――だったね?」
「ああ」
「出流の意思やわがままの基準は、私が決めて良いのかな?」
「好きにしてくれ」
「ふむ。私としてはさしてデメリットのある取引じゃないから応じたけど――どうしてまた?」
(あんなにも……あんなにも出流は父親を慕ってるんだ。このくらいのコトがなきゃ報われねえだろ……!)
「……流代さんはまだ、出流の事を全部わかってるわけじゃないって事、です」
「これは手厳しい。時に君も、三年前よりは敬語……上手になったね」
「そりゃどうも」
何を言っても流代の表情は飄々として崩れない。出流の神経の太さは親譲りかと、納得と共に腸が煮えくり返りかけたが、ここで癇癪を起こすほど子供ではない。踵を返して扉に向かう。
「じゃあな。約束、忘れるなよ」
「しっかりと覚えておくよ」
幼少期に蒼は、生まれ故郷から遠く離れたこの街に引っ越した。環境の激変は蒼の精神の安定を崩し、いつしか常に周囲を警戒するようになっていた。そんな蒼を、誰も彼もが避けていた。
だが出流は違った。日本有数の名家たる佐倉家と比べ、中流階級の五十右家の格はまさに月とスッポン。にも関わらず、出流は蒼を、心から尊敬する相手として扱ってくれた。
同級生による苛めの対象になっていた出流を、蒼が助けた時からずっと。
それがどれほど蒼の心の救いになっていたか、出流は知らない。
蒼がどれほど出流を愛し、尊敬しているかを、出流は知らない。
もしも、このまま何事もなく進んでいたのならば。
出流は自らの道を歩み、蒼も形はどうあれその傍にいただろう。出流を守るSPでも、秘書でも良い。蒼はそうなる自分を心のどこかで夢想していた。
だが、そうはならなかった。
蒼は女になり、互いに友情と異性愛の狭間で翻弄されていく。蒼が出流の傍にいるための手段は、再考を余儀なくされるだろう。そして環境は常に流動し、二人の準備が整う時など待ってはくれない。
―――結末は、遠からず来る。
次話から後編が始まります。
あと約半分……の予定ですが、また間が開くかもしれません。あしからず