トクトクと真っ赤な血潮が滴り落ちています。
少女は、その光景を恋でもしているかのような表情で眺めていました。頬を赤らめ、瞳は蕩けて、手にしていたスコップもそのままに、うっとりと惚けています。
「素敵だねぇ」
「わん!」
少女の言葉に、近くに座っていた犬が答えました。赤毛の秋田犬で、主人が作業している間も傍で動かず待っていたため、身体にはすっかり雪が積もっています。動き回っていた少女も鼻先は赤く、しばれるような寒さの中、主従揃って白い息を吐いていました。
「カァイイねぇ、食べちゃいたいなぁ」
少女は犬を撫でながら、にんまりと笑います。弓なりの目が、弧を描いた口元が、人によっては怖気づくような笑顔でした。少女の視線の先で、止め処なく溢れる鮮血が地面に積もった純白をジワリジワリと赤く溶かしています。それも凄惨な光景だと、目を覆う人もいるかもしれません。
けれど、ここには少女以外の人はいません。真白に塗りつぶされた世界にいるのは少女と、犬と、つい先ほど仕留められて放血中の鹿だけです。
「食べちゃいたいもなにも食べますけどねぇ」
「わふん!」
放血が済めば、少女は解体用のナイフを取り出し、手慣れた様子で鹿の腹を開きました。傷つけないように内臓を取り出し、事前に掘っておいた穴へ放り込みます。
「くぅーん」
「ダメですよぉ、おうちに帰ったらちゃんとお肉をあげますから、そっちのはダメです。生で食べると危ないって、ママが言ってましたから、私だってチウチウを我慢してるのです」
名残惜しげな犬を下がらせて、雪混じりの土を被せます。きちんと埋め直したら、鹿を綺麗な雪と一緒にソリへ乗せました。それから、スコップを背負い、ライフル銃を肩にかけ、道具を仕舞ったポーチを腰につけます。
そうしてシンシンと雪が降りしきる静かな山を、少女と犬はゆっくりと降りていきました。
***
少女がまだ幼女だった頃、彼女は遠い土地から引っ越してきました。その日は、今日とは比べものにならないほど吹雪いており、ビュウビュウと鳴る風の音と視界を覆い隠す雪の白に幼女は怯えて、ずっと母親にしがみついていました。
「いいですか被身子。君の母は異常者です」
「いじょーしゃ?」
「普通ではない、ということですよ。私は、前世の記憶があると思い込んでいる頭のイカれた人間なのです」
幼女の母親は淡々と、そして穏やかに告げます。幼女は母親の穏やかな語り口が好きでした。例えばお気に入りの髪型――彼岸花を思わせるお団子二つ――を初めて結ってくれたときも『カァイイねぇ! ママ、これどーやったの?』とはしゃぐ幼女に『ふっ……私にも分かりません』と優しく微笑んでくれました。
「重ねて言うのなら、前世も普通に異常者でした」
「ふつーにいじょーしゃ」
「絵筆を握らねば死んでしまうと、本気で信じていたのです。しかし、馬鹿というものは死ねば治るみたいですね。前世ではあれほどまでに感じていた苦痛を一切感じることなく、私は普通に擬態して生活し、成長し、結婚して、君を産みました」
母親が幼女の頬に手を伸ばし、そっと撫でます。
「しかし結局、今も昔も私は異常者です。だから、異常者の論理で君を育てています。普通に押し込めることは無闇矢鱈と君を傷つけるだけだと、そう信じて君を、ムリヤリここに連れてきました」
「……ムリヤリじゃないよ。パパなんかよりママといっしょがよくて、わたしがママについてきたんだもん」
「選択肢がなければ選択したとは言わないのですよ」
ポンポンとあやすように頭を撫でると、少し身体を離して、母親は幼女の目を見ながら語りかけました。
「ですから、どうかよく学んで、被身子自身がやりたいことを見つけてくださいね。君には生きたいように生きてほしい。そのためには、どう生きたいかを知ることが第一歩ですから」
幼女はコクリと頷きます。本当は、難しい言葉も混じっていて、ママが何を伝えたいのか、分からないところもあったけど、それでも、自分を大切に想ってくれているのだと、その想いを受け取ったから、頷きました。
それから幼女が甘えるように抱きつくと、応えるように母親は幼女を抱き上げます。トントンと背中を叩きながら、ふと、口を開きました。
「そういえば、被身子に選んでほしいことがありました」
「なぁに?」
「離婚して親権がこちらにあっても子供の名字が自動的に変わるわけではないそうで、変えることも変えないこともできます。被身子は父と母の、どちらの苗字が良いですか? いずれにせよ読みは同じトガですけどね」
幼女は悩むことなく母親の苗字を選びました。大好きな母親と少しでも同じになりたい。例え既に血を継いでいたとしても、もっともっと同じになりたいという気持ちはどこまでも湧いてくるものなのです。
***
少女が左手に犬のリードと右手に鹿のソリをひきながら山の麓まで下りてくると、後ろの方から軽トラックがやってきました。
「火伊那ちゃーん!」
軽トラックは元気よく手を振る少女の近くで止まり、窓が開きます。運転席には、ダークブルーとピンクの髪色をした女性が座っていました。どこか呆れた目で少女を見やります。
「おまえなぁ……学校はどうした」
「先生が雪かきで腰を痛めたのでお休みです!」
「ゆるゆるかよ」
「先生一人に生徒も一人ですからこんなものですよ」
少女の通っている学校は、というより住んでいる場所は、おおよそ人よりも鹿の方が多く暮らしています。小中一貫校という名の小学校と中学校が統合されたナニカには、引っ越してきた当時もう一人通っている生徒もいましたが、「こんなところに収まらないわ! 私はもっとビッグになるんだから!」と卒業後、農業高校に通いながらヒーロー免許を取得し、内地の方へ行ってしまいました。優ちゃんは名前の通り優しい子なので、もしテレビで見かけたら応援しようと、少女は心に決めています。
そうして、少女が鹿を荷台に載せようと覗き込むと、羆のつぶらな瞳と目が合いました。
「火伊那ちゃん! 荷台にクマさん載ってます! クマさん! べあー!」
「死んでるから気にすんな」
火伊那ちゃんの言葉通り、羆も撃ち仕留められたのでしょう。ある程度解体された状態で荷台に載せられています。しかし、生きていても死んでいても羆は羆だと、はしゃいでテンションの高い主人に釣られて犬も元気に吠えました。
「わんわん!」
「おお! 戦いますか? 戦いましょう! それゆけ! 絶 天狼抜刀牙ー!」
「わふん?」
「だから死んでるって」
「あ、クマさんとシカさんとワンちゃん載せたらトガが荷台に乗れません!」
「被身子、いいからさっさと助手席に乗れ」
「はーい」
首根っこを掴まれて助手席に放り込まれた少女は、運転席でシートベルトを締め直す火伊那ちゃんの顔を満面の笑みで見つめています。火伊那ちゃんは怪訝そうに口をへの字に曲げました。
「なんだよ」
「んー? 一緒だから嬉しいなって思うのです。こうして同じことをしてますし、同じ人を好きですし」
「あ?」
「火伊那ちゃんのことはママの次くらいに好きだから、一緒で嬉しいのです」
ケースにしまったライフル銃をぎゅっと抱きしめます。火伊那ちゃんは、少女からふいっと目を逸らして前を向きました。
「同じことはともかく、同じ人ってなんだよ。先輩のことじゃないだろうな」
火伊那ちゃんの言う『先輩』とは、全校生徒一名の学校モドキ関係者のことではなく、少女の母親を指しています。
「好きでしょ火伊那ちゃん、ママのこと」
「…………まぁ、人として。恩もあるし」
「えー? ちょっぴり娘に面影を重ねちゃったりしてるのに、そういうこと言っちゃうのです?」
「そうか、歩いて帰りたいならそう言え」
「はぁい、早く帰りたいのでお利口さんにしまーす」
お口チャックです、と口の前にバッテンを作る少女を、火伊那ちゃんは胡乱なものを見るような目で見ます。お手本のようなジト目です。
「ママには言いませんよ? 私は火伊那ちゃんと恋バナがしたいだけなのです。もし本当に火伊那ちゃんとママがそういう仲になったら……うぅ、脳味噌が壊れちゃいます」
「もう既に壊れてるだろ」
「ひどい!」
少女はシクシクと泣くフリをしました。これくらいの軽口は二人の間でいつものことです。火伊那ちゃんは気にせず雪道ドライブに集中しています。
「とっても傷つきました。火伊那ちゃんに傷物にされたってママに泣きつきます」
「やめろ、本当にやめろ」
「じゃあ、学生時代のママのお話を聞かせてください。そしたら心の傷も癒される気がします」
火伊那ちゃんは眉を顰めて無言になり、少し唸って、深々と、それはもう深々と溜息を吐きます。その様子を、少女は鈴を転がすように笑いながら眺めていました。
第一種銃猟、第二種銃猟、わな、網が全部一纏めになってハンター免許になって年齢制限とか10年ルールとかも撤廃された世界です。ハンターのトガです。