凸凹の雪道を軽トラックがガタガタと進んでいきます。一度大きく車体が揺れて、荷台でウトウトしていた秋田犬がぴょんと目を覚ましました。
何事かと周りをキョロキョロ見回しますが、ただ近くに物言わぬ鹿と羆がいるだけで平和そのもの、あとは運転席から主人たちの楽しげな話し声が聞こえてくるのみです。秋田犬は首を傾げて、また丸くなりました。
「ママはいつも『学生時代? 語ることもない普通のものでしたよ』って言うのです」
「あー、先輩の中ではそうなってんのか」
「そうなんです。ママがママであるだけで特別なのに、そこのところをママは分かってないのです」
「確かに先輩は人の心が分からんタイプの人間だが、そもそも学園一の変人として有名だったぞ」
火伊那ちゃんがポロッと溢した悪評に、少女は目を輝かせます。火伊那ちゃんはツンデレなので遠回しの褒め言葉なのだと解釈しました。
「有名人! 流石ママです、カリスマです!」
「カリスマなぁ……んー……」
「どうしました、火伊那ちゃん?」
どこか遠いところを眺めて、火伊那ちゃんはこめかみに指を当てています。
「いや、先輩の実の娘に対して何をどこまで話したもんかと」
「え、洗いざらい全部ですけど」
「急に真顔になるじゃねぇの」
***
火伊那ちゃんが先輩と知り合うキッカケになったは一枚の絵画です。
美術室前の廊下に飾られたソレが目に入ったとき、火伊那ちゃんはキレイだなぁと思わず立ち止まりました。これまでキレイなものやかわいいものを好みながらも、絵画などの芸術品は高尚なものだと、つまりはよくわからんと、触れてきませんでした。しかし、目の前の絵にはグッと惹きつけられて目を離すことができません。
しばし鑑賞して、ほぅと息を吐きながら、この絵を描いた人は一体どんな人だろうと想像します。近くに名前くらいないものかと探しますが見当たりません。火伊那ちゃんは少し肩を落として、でもきっと素敵な人なんだろうな、とますます想像を膨らませます。そして、その想像は暫く頭の中に居座っていました。
「筒美さんはどっか部活入るの?」
なのでクラスメイトにそう話しかけられたとき、特に部活に入る予定はありませんでしたが、こう答えました。
「美術部、見学しようかな」
もしかしたら、あの絵を描いた本人がいるかもしれない。そうでなくとも、あの絵について何か聞けたらいいな、そんなことを考えていました。
放課後、宣言通りに美術部見学をしに行こうと教室を出れば、廊下にガラの悪い男子生徒が何人が集まっているのが目に入ります。ネクタイの色からして先輩たちのようです。
「てめぇら行くぞ」
「ッス」
リーダー格の男子生徒が歩き出し、その後ろを付いていく取り巻きたち。なんだなんだと思いながら美術室へ向かいますが、不良たちも同じ方向へ歩いていて、まさかと思った頃には先に彼らが美術室へ入っていました。
ポカンと口を開けて立ち止まっていると、もう一人、今度は女子生徒がやってきます。こちらも先輩でしたが、金髪のくせっ毛をしている彼女は、小脇にスケッチブックを携えており、見るからに美術部員のようです。そのまま不良が居座る美術室へ入ろうとしている彼女を見て、火伊那ちゃんは思わず声を上げました。
「ちょっ、待っ――」
しかし、止める間もなくドアを開けてトコトコと中に入っていきます。慌てて追いかけ、勢いそのまま美術室を覗き込みました。
「お勤めご苦労様です姉御ォ!!」
「「「ご苦労様です!!」」」
そこには、九十度のお辞儀をしている不良生徒がズラリと並び、女子生徒を出迎えていました。お勤めってなんだ、授業のことか? と混乱する火伊那ちゃんを置いてきぼりにして先輩たちは和気藹々とお話しています。
「いつも言ってますけど姉御はやめてください、可愛くないので」
「押忍!! 承知しやした姉御ォ!!」
「お耳ついてます?」
小首をかしげた女子生徒は、視界の端に火伊那ちゃんの姿を捉え、そのままコテンと火伊那ちゃんを見やりました。今この美術室には、九十度でお辞儀している人間とシャフ度している人間が存在しています。芸術的ですね。
「……カァイイ」
金髪くせっ毛女子生徒な先輩はポツリとそう漏らしました。くるりと百八十度ターンして、地面を蹴り、一気に火伊那ちゃんとの距離を詰めます。
「へ?」
「絵のモデルになってくれませんか」
先輩は火伊那ちゃんの両手を取ると、ぎゅっと引き寄せて、目をキラキラと輝かせ、こう言いました。
「私は、あなたを描きたいです」
***
「は? 告白じゃないですか! うわーっ!! NTRですかぁ!?」
「寝てから言え」
「ママとは毎日添い寝でぐっすりですけど!?」
「はいはい」
***
最初は自分にモデルなんて務まらない、と断ろうとしていた火伊那ちゃんですが、根がお人好しの世話焼きなのですぐ口説き落とされました。
それから、放課後になったら美術室へ向かうことがルーティンになったころ、学校では昔から(具体的に言うと二年前、先輩が入学してから)『美術室には授業以外近づかない方がいい』という暗黙の了解があることを知り、遠い目になりました。確かにガラの悪い先輩たちがたむろしていますが、彼らは見た目の治安が悪いだけで、喧嘩もタバコもやりません、話してみると気のいい人たちだと火伊那ちゃんは好ましく思っています。
問題は美術部然としている先輩の方でした。ちょっと頭がおかしいだけで悪い人じゃないんだけどちょっと頭がおかしいんだよなぁ、と思っています。先日は「故きを温めて新しきを知る、ということで絵仏師良秀リスペクトです」とグラウンドに廃材で小屋を建てて燃やして校長室に呼ばれた後に「学校は燃やしてないのになんであんなに怒るんですかね?」と不思議そうな顔をしていました。授業中の出来事だったので火伊那ちゃんは止めることも出来ず、教室からグラウンドを呆然と眺める他なかったという、もの悲しい思い出です。
また、
「うわーっ!! こんなの火伊那ちゃんじゃないです、もっとこう火伊那ちゃんは可愛くてもっと火伊那ちゃんなんですうわーん!!」
「どうどうどう」
幼女返りしてスケッチブックを放り出しコアラのように抱きついてきた先輩を宥めながら、今日はわりとまともに狂ってるなぁ、と安心しました。何か自分の大切なものが狂わされている気配を感じますが、火伊那ちゃんは知らん顔します。
「てか先輩、また軽くなってない? ちゃんとメシ食ってるか?」
「やだなぁ火伊那ちゃん、前世の私ならともかく、今世の私はちゃんと食べてますよ」
「前世は食べてなかったのかよ」
「寝食惜しんで絵を描いてましたから。だから大人になれずポックリ死んじゃいました。不摂生はよくないねぇ」
唐突に投げつけられる前世トークもまぁ先輩だからなぁと受け入れました。火伊那ちゃんは理解のある後輩です。
「ちゃんとご飯を食べてきちんと寝る、それが出来るだけでとてもえらいのです」
そう言いながらお弁当バッグを持ち上げた先輩は「あれ?」と声を上げました。
「放課後なのに何故かお弁当箱がずっしりと重いです」
「食べてねぇじゃん」
「忘れてましたねぇ」
ぱかっと蓋を開けて、いただきますと両手を合わせ、もぐもぐと食べ始めます。ご飯の上に乗っている桜でんぶが淡い桃色で綺麗でした。
「思い出しました。お昼休みはずっと、どうすれば火伊那ちゃんの可愛さを余すところなく描き出せるのか悩んでたのです」
「……ふーん」
火伊那ちゃんは自分が可愛くないことを自覚しています。それは容姿を卑下しているとかではなく、単純に可愛らしい子供服と落ち着いた大人っぽい服のどちらが似合うかといえば後者だという話です。だから自分のことをカァイイカァイイと愛でる先輩をやっぱり変人だと苦笑していました。でも少しだけ複雑な想い、コンプレックスも持ち合わせているのが乙女というもの。
「それで、ふと火伊那ちゃんの“個性”を知りたいなと思って」
先輩の言葉に、知らず表情を曇らせました。人の心に疎い先輩は気づくことなく、おもむろに手のひらを見せます。
「人に尋ねるときは先ず自分から、ですよね」
手のひらからドロリと溶け出た“個性”は丸くモチモチと形を成し、それから「みぃ」と鳴きました。
「私のはこんな感じで、みぃみぃ鳴くモチモチを生み出せます」
「みぃ!」
「か、かわいい……」
火伊那ちゃんは強張っていた表情筋を緩めます。思わず溢れた言葉が届いたのか、先輩は“個性”をポイッと火伊那ちゃんに投げ渡しました。
「あげます。お世話とか必要ないので適当に転がしておいてください」
受け取ったモチモチは元気にポムポムと跳ねています。指先でつんつんすると「みぃ?」と鳴きました。かわいいですね。
「あ、食べたらピザの入っていないピザまんみたいな味がしますよ」
「は?」
正気かこの人、と火伊那ちゃんは訝しみましたが、いや狂っているのはいつものことだな、と納得しました。
さて、次は火伊那ちゃんが自分の“個性”を明かす番です。とはいえ、明かさない、という選択肢も取れるでしょう。入学式の日にあった自己紹介で、趣味は『天体観測』だと言って『ぬいぐるみ集め』は言わなかったように、将来の夢は『未定』だと笑って『ヒーロー』という言葉を胸の奥にしまったように、取り繕うのは決して悪いことではありません。何もかもを曝け出して、これが自分だと社会へ投げ出すことは、一步間違えればただの自傷行為です。
なので、例えばこれが出会ったばかりの頃なら少なくとも一回は断っていたでしょう。今やっているように、どうぞご覧くださいとばかりに右腕を『ライフル』にするなんて絶対にしませんでした。一緒に過ごして、会話を交わして、稀によく奇行を目撃したり止めたりしたからこそ、火伊那ちゃんは先輩をちょっと頭がおかしいけど悪い人じゃなくて、絵に対しては真摯で誠実な人だと理解しています。
「……ほら」
「おぉ」
だからといって緊張しないわけではなく、普段のサッパリとした態度ではなく、少し不安げに先輩の顔色をうかがっていました。先輩は呑気に感嘆の声を漏らしています。
「“個性”というだけあって火伊那ちゃんらしい“個性”ですね」
「私らしい?」
「とってもカァイイという意味ですよ」
いやぁインスピレーションどばどばです、そう言って先輩はイーゼルに載せていた真っ白なキャンバスに筆を滑らせます。
それから暫くして、出来上がった絵画には、少し成長した火伊那ちゃんがコスチュームを身に纏い、活き活きとヒーローをしている姿が描かれていました。
***
「ただいまぁ! ママ聞いてください! ママの昔話を火伊那ちゃんから聞きました!」
「おかえりなさい二人とも。昔話ですか?」
「ただいまー、ん、学生時代の話を少し」
「へぇ、そんな語ることもないでしょうに」
「どんなことでもママのお話なら聞きたいんですよぅ」
「……ところで先輩、自分の学生生活のどのへんが普通だと思ってんの?」
「どのへんも何も、ちゃんと学校に行ってる時点でまるっと普通じゃないですか。火伊那ちゃんは変なことを言いますね」
「ねー」
「おまえは今日学校行ってねェだろ」
「休校ですもん!」