雪が解け、桜が咲き、そして散り、溶我被身子は中学ニ年生の夏を迎えました。周囲には山と畑しかない土地にポツンと佇む一軒家で、少女は元気よくパタパタと廊下を走っています。
「火伊那ちゃん! あっさですよー!」
「ぐえっ」
助走の勢いそのまま、襖を開けて火伊那ちゃんの寝ている部屋に飛び込み、お腹あたりにダイブしました。そのため火伊那ちゃんの鳩尾、人体の弱点に的確なダメージが入ります。
「おま……おまえ、おまえなぁ……」
火伊那ちゃんはゲホゴホと咳き込みつつ言葉にならない怒りを飲み込みました。改めて身体も精神もすっかり鈍ってしまっていることを実感します。ここで先輩と再会してから十年ほど、命の危険なんて羆に殺されかけた一回、二回、三回……それなりの回数しかありません。
少女は無言の抗議を受け流し、火伊那ちゃんの布団をひっぺがしながら立ち上がりました。
「今日から夏休み! 北海道の夏休みは短いのです! なんでアニメだとみんな夏休みが八月三十一日まであるのかと思ったら内地だとそれが普通なんですね! 八月中旬に夏休みが終わる悲しさを共有しましょう!」
「そのぶん冬休みが長いだろ」
「冬は冬、夏は夏ですよぅ」
炬燵で食べるアイスも美味しいですけど、お日様の下で食べるアイスも美味しいのです、と少女は続けました。
「というわけで、ちゃちゃっと宿題を終わらせて短い夏休みを謳歌するのです!」
「宿題か。漢字ドリルとか?」
「そんな小学生じゃないのですから、中学生の宿題はもっと違うものですよ」
「ふーん」
「『現代超常社会における社会制度の問題点を提起せよ』と『子どもに関する社会制度について超常発現前後を比較し差異を論じよ』のレポート二本です」
「それ本当に中学生の夏休みの宿題か?」
教育委員会の目が届かないからって好き勝手しすぎじゃねぇかな。火伊那ちゃんはそう思いましたが、少女が楽しそうに学校へ通っているので、まぁいいか、と目を瞑ります。
「一個目の社会制度の問題点は『“個性”社会に法制度が追いついていない』って感じで書きます」
「よく言われてるな」
「身近な事例でいうと、“個性”で生まれた人の権利はどうなっているのか、という話ですね。代表的な事例としては『双子個性戸籍騒動』です。とある子どもが“個性”を発動したら二人に増えて、それからずっと二人のまま、でも戸籍は一つ。どちらかは母親から産まれて、どちらかは“個性”で産まれて。このどっちがどっちなのかわからないというのがまたミソでして、ただ戸籍を増やせばいいというわけではなくってねぇ」
「身近な事例でその話題に触れるなよ……」
火伊那ちゃんは頭痛が痛いような顔をして呟きましたが、恍惚の笑みを浮かべて喋り続ける少女の耳には届いていません。
「ふへへ、結論から言うと、最初から双子だったということになったのです。産まれたときは身体が一つだっただけで、元々二人だったのだと、どちらも母親から産まれたことに違いはないと! だから今でも“個性”で産まれた人という存在は、法律上定義されてないんだねぇ、不思議だねぇ、人は何を以て人になるんだろうねぇ?」
可笑しくて面白くて興味深くてたまらない、と少女の好奇で輝く瞳が雄弁に語りました。
「火伊那ちゃん、何者でもない火伊那ちゃん、社会的に死んじゃった火伊那ちゃんはどう思います?」
「最後のは別の意味に聞こえるからヤメロ」
火伊那ちゃんは深々と嘆息しました。そっくりだ、人の心が分からないところとか、好きなものには形振り構わずどっぷりなところとか、本当にそっくりな母娘だ、と。
「別に……私は私だ。戸籍が使えなくて多少不便だが、そんなに困ってないしな。普通に生きていくだけだよ」
「無免許運転火伊那ちゃん」
「うるせー」
三十代女性が女子中学生に小学生並みの罵倒をしたところで、ひょこっと少女の母親が部屋に顔を出しました。
「被身子、火伊那ちゃん、朝御飯が冷めちゃいますよ?」
「ママ!」
猪突猛進、勢いよく少女は母親に抱きつきます。なお北海道に猪は基本いませんが、“個性”で水上を歩けるようになった猪がブラキストン線を越えてやってきたことはありました。道民に牡丹鍋の味を伝えたのです。
「ごはん食べます! 食べ終わったらチウチウさせて!」
「はい、いいですよ」
まるでおやつをあげるような気楽さで母親が頷きましたが、チウチウとは吸血行為のことを指します。火伊那ちゃんはポツリと呟きました。
「母親が子どもに喰われるのってハサミムシだっけか」
「捕食じゃないですよぅ」
「火伊那ちゃん」
抗議の声をあげた少女を守るように抱きしめ、母親が真面目な顔をします。
「知っていますか、ミルクというのは血液から作られているのですよ」
また何か言い始めたぞ、と半目で耳を傾けました。
「つまりチウチウは授乳であって、母娘の行為としてどこにもおかしいところはありません」
「娘が赤子じゃないところは?」
火伊那ちゃんはおかしいところを指摘しました。母親は、おや火伊那ちゃんは何を言っているのでしょうか? という顔をして、やれやれと肩を竦めます。
「娘はいくつになっても娘ですよ」
これで正気に戻るなら最初から狂うこともないわな、と火伊那ちゃんは神妙に頷きました。現実を直視したところで、それ以上狂気に立ち入らないよう話を打ち切ります。朝御飯は何かなぁ、と欠伸をして現実逃避しました。
***
朝御飯は鹿肉のハンバーグです。三人仲良く食卓を囲み、もぐもぐ食べていると、ふと火伊那ちゃんが首を傾げました。
「てか当たり前にやってるからスルーしてたけど、血って飲んで大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと血液検査してます」
「それもそうなんだが、食用って意味でさ」
「血を食べる文化もありますよ、フランスの料理でサンケットとかブラッドソーセージとか。エトフェと言って鳥を血抜きしないで屠殺したりもしてます」
「ママ詳しいねぇ」
「前世の知り合いに絵画を学ぶためにパリ留学して『芸術はフレンチだ』とシェフになって帰ってきた人がいたので」
火伊那ちゃんは類は友を呼ぶという言葉をしみじみと噛み締めつつ、でもそれ人の血じゃないじゃん、という言葉は声に出さないことにしました。血は血ですよ、という言葉に包まれて終わりだと目に見えていたからです。代わりに、前から気になっていたことを聞いてみましな。
「被身子は血が好きなのに結構しっかり獲物の血抜きをするよな」
「プリンとハンバーグが好きだからってプリンでハンバーグは作らないです」
「なんだその例え」
少女は一口大に切ったハンバーグをパクっと食べるとフォークを揺らしながら答えました。
「ようは嗜好ですよ。例えば食用で売られてる豚さんの血液、あれも味の調整がされていますからキライです。食べやすいようにってことだと思いますが、私にとってそれはジュースにお醤油を混ぜるようなものなのです」
「一度試しに買ったとき、一舐めで顔を顰めて『ヤ!』となっていましたね」
母親が昔を懐かしむように目を細めます。
「でも昔は被身子が何でも口に入れたのでよく慌てましたよ。野生動物は寄生虫とか本当に怖いですから……」
「今はちゃんと我慢できます!」
「とてもえらい」
よしよしと頭を撫でられながら褒められてご満悦な少女は、とてもえらいので朝御飯を好き嫌いせず完食しました。後片付けもお手伝いして、うんと伸びをします。
「今日はどうしますか? 私はいつも通りアトリエにいますけど」
「涼しいうちに犬のお散歩いってきます。帰ってきたら宿題です」
「罠の見回りと、岳山さんトコが人手足りないってんで畑仕事の手伝いかな」
予定を確認した母親は、なるほど、と頷きました。
「気をつけていってらっしゃい」
「いってきまーす!」
「いってきます」
少女はリードを片手に駆け出します。玄関から外に出ると、どこまでも続く青い空から目映い光が降り注いでいました。庭の犬小屋でくつろいでいた秋田犬が、大好きな飼い主を見つけてブンブンと尻尾を振ります。
「さぁ、行こう?」
首輪にリードを繋いで軽く引くと、秋田犬はすぐさま飼い主の隣に駆け寄りました。
「ふふ、いいこいいこ」
母親が少女にしてくれたように、少女も飼い犬を撫でながら褒めます。千切れんばかりに尻尾を振る秋田犬を連れて出発し、どこまでも続く畑に沿って伸びている砂利道を進みます。遠影には山々が連なり、人工的な建造物は目を凝らせば見つからなくもないといったところです。いつものお散歩コースも結構な距離を歩きますが、畑仕事をしている人にでも会わなければ、誰にも会わずに終わることもよくありました。
「いやー、まいったな。シャレにならん」
なので、砂利道がコンクリートで舗装され始めたあたりの道路脇で、バイクの傍にしゃがみ込む人影を見つけて思わず立ち止まります。
人影をよくよく観察すると、橙色の長髪をサイドで括った少女と同い年くらい女の子が眉を八の字にしていました。ほとほと困った様子が全身から伝わってきます。
少女が足を止めたので、秋田犬も足を止めて少女を見上げます。少女はちょっとだけ悩んでから、女の子の方へ歩き始めました。
「どうしたもんかねぇ……」
「お困りごとですか?」
困っている人がいたら手を差し伸べる。それはきっと普通のことで、母親も火伊那ちゃんもこうするだろうと、少女は思ったのです。
***
「十二歳で一人旅! もしかして現実世界をポケモンと勘違いしていらっしゃる?」
「あれ十歳で旅に出てヴィランと戦ってるからすごいよね」
「ねー、現実じゃ考えられないはずなんだけどねぇ」
「まー、エビワラーより強い自信あるし」
「うーん、お馬鹿っぽい言葉。キライじゃないです! むしろ好き!」
一通り事情を聞いて、少女の女の子に対する好感度がぐーんと上がりました。女の子の名前は拳藤一佳。中学一年生です。春休みに免許を取り、夏休みに長期一人旅を敢行した剛の者でもあります。
「じゃあこれ一佳ちゃんのバイク?」
「そ、父さんからお下がり貰ったんだ」
「おっきいねぇ」
「リッターだもん、馬力もあるよ」
一佳ちゃんはブラックの缶コーヒー(この近くにコンビニや自動販売機があるはずもないので、買ってからしばらく経ってヌルくなっているもの)を片手に、ニカッと笑いながら答えました。
「来年になったらもう受験だなんだでフラフラ出来んくなるし。いや本当、小卒で免許が取れる時代に生まれてよかった」
「そうですねぇ。各種免許の低年齢化は超常による子ども社会政策の転換において飴とされています。幼児期に“個性”が発現することで、危険物規制の年齢制限が意味をなさなくなりました。車より速い速度で公道を駆け抜けることも、銃刀法で制限されている凶器よりも凶悪なものを手にすることも、“個性”は可能にしましたから。社会秩序の乱れに対して、当時の政府は公共の場における“個性”使用を一律禁止にして対応しましたが、当然それだけで解決するはずもありません。最も影響を受けたのは教育関係で、初等教育において道徳教育・倫理教育が大幅に増加となりました。“個性”カウンセリングなんかもその一環ですね。ですが一方的な規制や負担の増加は民衆の反発を招きます。その対応として行われたのが各種免許の低年齢化でした。とはいえ賛否両論というより喧々諤々と色々言われていたみたいですけどねぇ、えへへへへ」
「急にスイッチ入ったな」
少女の浮かべた凄みのある笑みに若干冷や汗をかいた一佳ちゃんでしたが、困っている自分に声をかけ、話を聞いてくれた相手に無礼な真似はすまいと居住まいを正します。
そんな一佳ちゃんの様子に全く気づかず、少女はうんうんと頷きながら、夏休みの宿題の二つ目のテーマはこれにしようかな、と考えていました。頭の中を整理するように、思考を口にします。
「でもまぁ各種免許の低年齢化を飴とするなら、学習指導要領の変更は一応鞭に入りますけど、鞭として例示するのなら少年に対する厳罰化が妥当でしょう。死刑制度こそ適用されませんでしたが、場合によってはタルタロスへの収容もありえます。しかし少年法の根底にあるのはあくまでも社会復帰支援。成人するまでの報道規制は超常以前のままですね」
一佳ちゃんは缶コーヒーを飲み干すと、ふむ、と顎に手を当てます。
「タルタロスって聞くとタルタルソース食べたくなる。エビフライ……いやカキフライかな」
「そこは白身フライでしょう、アジフライでもいいですね」
「いいね、うーんお腹空いてきたな」
「腹ペコなのはバイクも一緒でしょう?」
少女が指さしたのは一佳ちゃんの大型バイクです。ガス欠で動けなくなったソレはなんとも言えない哀愁を背負っていました。聞くところによれば中学生特有の万能感でバイクを転がしていたら、スマホの充電が切れて道に迷ってガス欠するというトラブルフルコンボを叩き出したそうです。
「それね、まいったまいった。近くにガソスタない?」
「ありますよ」
「え、どこどこ?」
「まずここから車で三十分ほど北上します」
「はい遠い!」
「冗談です」
実際ここから一番近いガソリンスタンドまでは車で小一時間かかることは事実でしたが、一佳ちゃんに大型バイクを押して歩いてそこまで行けというつもりはありませんでした。
「うちに来てください。車があるのでガソリンもなんとかなると思います」
「うわ本当に助かる。地獄に仏とはまさにこのことだ」
「私の地元を地獄にしないでくださいよぉ」
「ごめんごめん」
「まったく……では行きますか。行きますよー」
「わふん!」
飼い主の話が終わるまでずっとバイクの傍で静かに伏せていた秋田犬が元気よく返事をしました。
前半および中継ぎが終わり次回から後半戦の極道編スタートです。
なおマザコンなトガちゃんはマザコンですがカップリングは母娘百合ではなくおねロリする予定です。