これは、火伊那ちゃんがまだ一度も羆と遭遇していなかった頃のお話です。
火伊那ちゃんはぼんやりと空を見上げていました。青々とした空から陽光が容赦無く降り注ぎ、茹だるような暑さに身を晒しています。庭には色とりどりの紫陽花が咲いており、もしも梅雨が存在するのならば、ザァザァと雨が降っている時期のはずです。
梅雨さえあれば、なにもかも雨のせいにできたのに、どうして空はあんなにも青いんだと、ぼーっとしたまま思いました。
「おねーさん」
庭に降りてきた幼女が、傘をパッと開き、火伊那ちゃんに差し出します。
「ねっちうしょーになっちゃいます」
差し出された傘は雨傘で、子ども向けのイラストがプリントされたピンク色のビニールは太陽の光を素通りさせていました。
「……ありがとな」
火伊那ちゃんはふにゃりと笑って、傘を受け取り、青い空に翳します。視界にはピンクが混じり、少し色が濁って、目に易しくなったと、あいも変わらず靄がかった頭でそんなことを思いました。
ガリゴリ、ガリゴリ、ガリゴリ。
かき氷機のレバーを回すと氷が削れていきます。
ガリゴリ、ガリゴリ、ガリゴリ。
ガラスの器にキラキラとした氷の粒が山をなしています。
「何味にします?」
「あかいのがいいです!」
ガリゴリ、ガリゴリ、ガリゴリ。
火伊那ちゃんはレバーを回し続けます。
ガリゴリ、ガリゴリ、ガリゴリ。
溶けるか削られるか、氷にとってどちらが良いのでしょうか。
「火伊那ちゃんは何味がいいですか?」
「んー?」
「色々ありますよ、赤と緑、黄色に青」
「あー……なんでもいい」
「ふむ。じゃあ黄色にしましょうか、紫の反対色ですし」
レモン味のシロップで氷山が染め上げられます。レバーを回す手を止め、一匙口に運んでみればシャリシャリとした食感がひんやり広がりました。家庭用のかき氷機なので粒は大きめです。ふわふわのかき氷にしたければ、もっと徹底的に砕く必要があるでしょう。
赤い山を掘削していた幼女が、青い山で土砂崩れ事故を引き起こしている母親に話しかけます。
「ママはあおがすきなのですか?」
「いえ、イチゴとかメロンとか分かりやすい子たちの中に当たり前のような顔をして存在するブルーハワイとかいう訳の分からなさが好きです」
「ブルーハワイってなにあじです?」
「分かりません」
何にせよ甘いからいいのです、とガラスの器から平皿に溢れたかき氷を掬い上げながら母親は言いました。
「あ! ママのベロあおいです! わたしのベロもあかいです?」
「真っ赤っ赤ですねぇ」
幼女がべー、と合成着色料に染まった舌を出します。楽しくて仕方ないのか、ニコニコと笑って、火伊那ちゃんの方に目を向けます。
「おねーさん! おねーさんのベロも見せてください! べーって!」
火伊那ちゃんは、んべ、と舌を出します。黄色になっている、とはしゃぐ幼女を眺めながら、当然のことではありますが、自分が何色に染まっているなんて自分では分からないものだな、と思いました。
トントン、と手首あたりで自分の頭を叩きます。それからワシャワシャと頭を掻きます。長かった髪は殺される前の戦闘で一部分切り落とされ、先輩が整えてくれるというので黙って見守っていたら、すごく短くなりました。
切ってもらった髪の毛の分、頭が軽くなったはずなのに、ずっとずっと頭が重たくてたまりません。どうにも眠たいのです。眠くて眠くて仕方がないのに、意識を手放すことができないのです。先輩と会えました、だから後はもう、いつまでも夢を見ていたいのに。
寝苦しく、外の空気が吸いたくて窓を開けます。真夜中、周囲に街灯どころか人工物も見当たらない中、木々が静かにざわめいていました。空を見上げれば憎たらしいくらいに雲が見当たらず、キラキラと星が輝いています。星に手を伸ばします。窓枠に手をかけて、身を乗り出して、もっと、もっと手を伸ばせば。
「危ないですよ」
腰に細い腕がまわります。振り払おうと思えば簡単に振り払うことが出来るでしょう。そうする理由はなかったので、火伊那ちゃんは先輩に引き寄せられるまま窓から離れました。
それでも、寝ぼけた頭に家の間取り図や人の気配から推測した位置取りは収められていて、へぇ、と口にしました。
「その饅頭、便利だな」
「ぎくっ」
先輩はばつが悪そうな顔をしながら、ポケットに仕舞っていた饅頭、自分の“個性”を取り出します。火伊那ちゃんが身を乗り出していた窓は、先輩のいた部屋からは死角になっています。たまたま様子を見に来たというには、足早が過ぎました。
「いいよ、別に……先輩なら、なんでもいい」
眠そうな目をしながら火伊那ちゃんは、ふにゃふにゃとまるで気にしていないように呟きます。脱力してまるっと身を委ねる火伊那ちゃんを受け止めながら、先輩は目を瞬かせ、優しく囁きました。
「火伊那ちゃんはいま、ちょっと疲れちゃっているのです。いいえ、疲れていることに気づけるくらい回復したとも言えます。だから、もっと休みましょう。のんびりしましょう。ゆっくりでいいのです、何事も」
幼子の手を引くように誘導して、火伊那ちゃんを寝床に寝かしつけます。手を繋いだままにして、なんとかタオルケットをかけたとき、あ、と声を上げました。
「ちなみに、学生時代に渡した子は生まれたてだったので、こんなことできませんからね? 誓って、ストーカー行為はしていませんから!」
「うん、うん」
火伊那ちゃんはウトウトと言葉を聞き流しています。繋いだ手をギュッと握って、静かに目を閉じました。
「ん、んん……ホントですよ? あのときの私は本当に考えなしで、ただ火伊那ちゃんがカァイイ顔をしていたから、渡しただけで……こんな”個性“なんて、発動しないほうがよいのですから」
先輩は小さな声で、独り言のように続けます。
「だって、死ぬのなんて一度きりで十分なんですよ。だからこそ、死なないでほしいのです。生きていてほしい、当然、それは幸福に包まれたものであってほしい」
温かな手のひらが火伊那ちゃんの頬に触れました。
「そうであるならば、急にいなくなってしまっても我慢できます。ある日突然、メールも電話も繋がらなくなって、家を訪ねたらもぬけの殻になってしまっていても、君が幸せに、笑って暮らせていたのなら、私はそれでよかったのですよ。本当、そうであったらよかったのに」
優しい手つきで頭を撫でられています。頭を撫でられるなんていつぶりだろう、という思考は眠気に紛れてなくなりました。
「……ゆっくりでいいから、いつかきっと、元気になってくださいね」
祈りの言葉に、うん、と答えたつもりでした。そのとき火伊那ちゃんの口から洩れ出たものは安らかな寝息で、先輩は彼女を慈しむように、目を細めて微笑みました。