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三番線のプラットフォームには見たことのない列車が停まっていた。電車というよりも前時代的な蒸気機関車のような様相のその列車は、彼女を待っていたように扉を開けたままそこに存在していた。
聖園ミカは驚いて電光掲示板を見やるが、次の電車は七分後に出発する予定で、蒸気機関車の発着を知らせるものはどこにも認められなかった。夢でも見ているのだろうか、と彼女は疑った。それにしてはやけに、頬を撫でる風の生温さがリアルだった。
駅の外には散りかけの桜の木が風に揺れていて、その向こう側に薄ぼんやりと光る月があった。銀河鉄道みたいだ、と彼女は思った。周りに立つ人たちは、その列車がそこにあることに対して何の違和感も無いように、あるいはそんな列車は初めからそこに存在していないかのようにしていた。
彼女はベンチに座って、その列車が駅を出発し、七分後の電車がやってくるのを待つことにした。目の前の汽車は、おそらく何かの記念列車が走っているのだろう、と納得した。客車のボディは空よりも黒く、艶があり自分の姿が反射して見えた。
ふと、その車窓に目を向けると、驚くべきことに、そこには
〇
「先生?」
客車の中は機関車然としていて、二人掛けの席が縦にずらりと並んでいた。彼はその一つの窓際に座っていた。
「ミカ、さっき振りだね」と彼はにこやかに笑いながら言った。
「う、うん。私を追い越して乗ってたの?」
「そうだよ、トリニティに急用ができてね」
車内には二人を除いて誰も乗っておらず、音が木の板の隙間に染み込んでいるようだった。
「もうすぐ出発するよ、ここにどうぞ」と彼は隣の席をぽんと叩きながら言った。
「えっと、トリニティ行きなんだよね?」
「そうだよ」
〇
彼女が腰を下ろしてからしばらくして、客室の扉は閉まり、列車はゆっくりと動き出した。
列車が小刻みに揺れるのに呼応するように、ミカの心臓も張り裂けそうなほどに拍動していた。隣に座る彼が好きな気持ちに、もはや嘘の吐きようもない。好きな人の隣に座るだけで胸が苦しく、息がつまるようだった。小説で恋を患うと表現していたのがあったが、これは本当に病熱のようだった。
「ミカ?」と車窓から彼女に目線を移した彼が言った。
「何? 先生?」彼女はできるだけ平静を装って答えた。
「顔が赤いから、具合悪かったりする?」
「大丈夫だよ、ちょっと暑かっただけ」
「ならいいんだ。何かあったらすぐに言ってね。私はミカの味方だから」
少し前、初めてティーパーティーの席で会った時なんかであれば、私は「わーお。大人の余裕ってやつかな? 優しいんだね」と冗談っぽく受け答えていたのかもしれない。しかし今の私は、答えることすら忘れてぽかんとしていた。それが現実として私に向けられた言葉であると認識するのに、脳がしばらくの時間を要していたのだ。
「ミカ?」
「んっ、わーお。大胆だね」
久し振りの感覚だった。出会った頃から、先生は無意志にこちらを勘違いさせてくるような、甘い毒を持っていた。それは多感な子供の私には、あるいは私以外の子にとっても、致死足りえる猛毒だった。
エデン条約の件が表面上では落ち着いた頃から、私に対してそういう毒を刺してくることは少なくなったような気がして、心臓に優しいような、少し距離を置かれているような気がして複雑に心の底に溜まったものが、今の彼の言葉でどろどろに溶けていく。
列車は快速のようで、途中の駅をいくつか無視して夜の暗闇の中を進んでいった。先生と二人きりの車内は、まるで特別な楽園のようだった。
〇
「そういえば、来月はミカの誕生日だね」
彼の言葉で、そういえば来月の八日に誕生日がやってくることを思い出した。これまでの誕生日に対して、今年の誕生日にはあまり前向きになれない、というのが正直な所だった。産まれてきたことを祝福される権利など、私はどこかで捨ててしまった気がするのだ。
「そう、だね」
「何か欲しいものはある?」
誰にも望まれない私にも手を差し伸べてくれる彼は、創作の中の王子様のようだった。でもそんな資格は私には無いのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。毒林檎を食べさせようとした私は、キスをされるお姫様じゃない。
「ミカの欲しいもの、何でもあげるよ」
彼の言葉がこんなに疎ましいことは無かった。不相応の幸せを与えられることへの罪悪感で潰れてしまいそうだった。同時に、それが悪いことだったとしても、彼を求めてしまいたくなった。何もかも忘れて、この列車の終点まで彼と逃げてしまいたかった。そして今ならそんな我儘も、彼は笑って受け入れてくれるような気がしたのだ。
「例えば、先生が欲しい、って言っても?」
車輪がレールを踏みつけ、その段差で鳴る音だけが聞こえた。耳鳴りのような沈黙が終わった後、先生が口を開いた。
「ミカが欲しいなら、あげるよ」
先生が欲しい、と声に出すだけで、この楽園は永遠に私のものになってしまう。彼に与えられる幸せに身を委ねて全部溺れてしまうのは、極上のハッピーエンドのように思えた。しかし何も言えなかった。口は言葉の発し方を忘れてしまったように、小さな嗚咽だけを繰り返すばかりだった。
何も言えない内に、列車は徐々に速度を落とし、そして緩やかに止まった。
「D.U.シラトリの停車場かな? 二十分くらい、この駅に停まるんだ」と彼が言った。「降りてみる? きっと、星が綺麗だよ」
〇
客車を降りる時にさえ、彼は彼女をお姫様のように扱った。先に降りて手を取ると、足元に気を配りながら彼女を先導した。
「先生、そんなこと他の子にもしてるの?」と彼女が言った。今の彼女にできる、最大限のささやかな抵抗だった。
「まさか」と彼はにこやかな表情を崩さないまま答えた。「ミカだけだよ」
駅に降りたのは、二人だけだった。それどころか、駅の外にも人は誰一人としていなかった。世界はたった二人のためだけに進行し始めていて、この列車はその途中駅にいた。
バケツ一杯の星の光をこぼしたような夜空は、夜空というよりもむしろ湖の底から見た水面のようだった。夜は彼女を包み込むように深く、もっと溺れるようにずっしりと重かった。
「こんな駅があったの、初めて知った」
「もう使われてない駅でね、停まる列車も少ないんだ」
「そうなんだ、それで」と彼女は納得したように答えた。「誰もいないんだ」
この世界が夢であることに、彼女は少しずつ気づき始めていた。しかし彼女はそのこと忘れるように、違和感を拭い、夢の世界の欠陥に目を瞑るように努めた。覚めてしまうには、あまりにも惜しい夢だったのだ。
〇
「あれっ」
ミカは駅のベンチにいつの間にか座っていた、あるいは初めから座っていたことに気づけないほど静かな人影に気が付いて小さく声を上げた。
「セイアちゃん?」
駅の外を見つめているのか、眠っているのか、百合園セイアはその駅のベンチに二人に背を向けるようにして座っていた。
「話しておいで。私は少し冷えてしまったから、先に席に戻っているから」と彼が言った。
彼はポケットに手を入れて、逃げ込むように客車に戻ってしまった。駅に残された彼女は、無視をするのも気が引けて、そのベンチに近づいていった。
〇
「セイアちゃん?」
近くで声を掛けると、セイアは微睡の中から這い出すように瞼を上げ、ミカを不思議そうに眺めた。
「ミカ。君が……どうしてここに」
「……?」
「いや、迷い込んだのは私の方のようだね。ここは君の夢の中だ、ミカ」セイアはきっぱりと言った。
セイアの何気ない言葉は、ミカが必死に目を背けてきた事実を直視させるものに他ならなかった。落胆と同時に、全て嘘ならばいっそよかったと思う部分もあった。
「予知夢の力はなくなっちゃったんじゃなかったけ?」とミカが聞いた。
「その通りだ。しかしその残滓は残っているようで、時折他者の夢に迷いこんでしまうことがある」
セイアはベンチから腰を上げ、スカートの裾を手で払ってからミカに向き直った。
「一つ、忠告をしよう。恐らく私はそのためにここにいるのだろうからね」
「忠告?」とミカは聞いた。
「あの列車は君の眠りの終点へと向かっている。一度終点に辿り着けば最後、目覚めることはできなくなると思ったほうが良い、ミカ」
「ただの夢なのに?」ミカはきょとんとして聞いた。
「ただの夢ではないだろうさ」とセイアは首を横に振りながらそう言った。「君の強い欲望が作り出した願望夢だろう」
「セイアちゃんの難しい喋り方、分かりにくくて苦手なんだけど……」ミカは苦笑いしながら頬を掻いた。
セイアはやれやれ、といった具合にため息を一つついてから、続けて話し始めた。
「君が先生に向ける特別な想いが作り出した、都合の良い世界とでも呼ぼうか。一度入ってしまえば、自分の意思で出ることは困難を極めるだろう……おや、何だいその反応は。まさか先生への感情を隠しおおせているとでも思っていたのかい?」
ミカは先生への恋心を指摘され、真っ赤になってどぎまぎとしていた。
「やれやれ、本気で隠せていたと思っているなら、君は周りよりもよっぽど自分が見えていない」セイアはすっかり呆れてしまっていた。「忠告はそれだけさ」
「ねぇ、セイアちゃん。もし私が列車に乗るって言ったら、セイアちゃんは止めるの?」
「いや」とセイアは答えた。「止めないさ。夢の悦楽を抜けることの難しさを理解しているつもりだからね。ただそれは現実世界での死に等しいということを、君は理解しているのかい、ミカ」
「うん……でもここだけなんだ。先生が私をお姫様にしてくれるのは。甘くない現実より、甘い夢で生きていたほうが幸せじゃない?」
「ミカ、君は……」セイアは悲しそうな顔をして、ミカを見やった。目じりには涙が浮かぶミカの顔は、幼い我儘さと大人びた諦めを帯びていた。
「君は」セイアは言葉を詰まらせて、ひと呼吸置いた。
先生がどうしてミカに一線引いた対応を続けるのか、どうにも二人の関係性が複雑に拗れていることを、稀に見かける二人の様子からセイアは感じ取っていた。
先生、君はミカのことが嫌いなのかい? いや、そうでは無いだろうね。君は寧ろ……やれやれ、私は恋のキューピッドでは無いのだがね。
「君は先生が何故君に一線引いた対応を取るのか、考えたことはあるのかい?」
「……きっと鬱陶しいんだよ。本当はさ、私みたいなのの相手するのは面倒くさいんじゃないかな? あはは、言ってて辛くなってきちゃったよ」そう答えるミカの瞳には、涙が浮かぶ。
「愚かだね、ミカ」
「好きに罵倒してよ。いっそその方が」
「先生は君を愛しているというのに」
〇
「ど、どういうこと、セイアちゃん」ミカは再び顔を赤くした。
忙しいな君は、とセイアは思った。
「言葉通りだよ、ミカ。私には全てを説明することは叶わない、仮にできたとしてもすべきではないんだ。考えてもみればどうだい? 好きでもない相手のために仕事を中断して飛び出し、距離のあるトリニティまではるばるやってきてプールに連れて行くかい?」
「待ってよセイアちゃん、何でプールのこと知ってるの?」
「ここは君の夢だろう? 夢の主の記憶の断片を共有してしまうんだ。意図して見てしまった訳ではないが、謝罪しよう」
ミカは戸惑いや気恥ずかしさが入り混じった複雑な顔をしていた。
「でも、じゃあ何で先生は」とミカは愚痴をこぼすように言った。「距離を取って接するのかな、冷たい、よね」
「私の与り知る所ではないが……与えることだけが愛ではない、という事なのかも知れないね」とセイア自身も自分に問いかけるように言った。
「与えることだけが……」
ミカがセイアの言葉を反芻していると、どこからかホイッスルを吹く音がした。
「列車はもう駅を出るようだね。ミカ、君はどうするんだい?」
〇
瞼を開いたのは、寮の自室のベッドの上だった。カーテンのレースが、スズランと一緒に揺れていた。窓の外を見ると、白みだした星空が良く見えた。どこまでが現実でどこまでが夢だったのか、寝覚めの頭では区別がつかなかった。私は反射的にモモトークを開いて、先生にメッセージを入力しようとした。言いたい言葉も、言いたい想いも沢山あったけれど、文字にしてしまうとあっさりとした簡単なものだった。
「いつもありがとね」
数舜迷ってメッセージを送ってから、私は顔を洗うために洗面所へ向かった。