怪異に巻き込まれるが、それはそれとして腹が減った。

※ようぐそうとほうとふ様主催「インターネット都市伝説杯」参加作品です
※3月13日、匿名解除しました

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元ネタ:八尺様
注意:この物語はフィクションです。また、作中における行為を容認・推奨する意図はありません。



異界といえど腹は減る

「見たんか! お前さん、あれを見たんか!!」

 

 生来の方向音痴で苦労が絶えないが、今回ばかりはとんでもないことになった。

 近所の低山でハイキングしようと出かけて道がわからなくなったあげく、夕方、迷い込んだ山里で道を尋ねた結果がこれである。

 

 今は青ざめた表情でいずこへか電話を掛けている老人も、泣きながら数珠を片手に私を慰めてくれている老婆も、もちろん最初はこんな調子ではなかった。

 道を尋ねた時、見知らぬ来訪者である私に対して、農家と思しき彼らはとても親切に接してくれた。そして近場の(といっても徒歩では相当な距離にある)駅の所在地を教えてくれた後、老人がこう言ったのだ。

 

「しかし迷い込むとは、えらくお困りになりんさったろう。この辺りに住んどる者は、もうだいぶ少なくなりましたでな」

「そうなんですか。あっ、でもそういえばさっき、すごく背の高い女性に会いましたよ」

 

 垣根の向こうを歩いて通り過ぎていく、白い帽子とたなびく黒い髪を私は確かに見ていた。顔の造作はわからなかったものの、その一種異様な風体と、「ぽぽぽぽぽぽ」という謎の呟き声が妙に印象に残っていた。

 

 道を聞こうとしたのに無視して歩み去ってしまったことを踏まえて、私はてっきり「ああ、それはわしらの孫ですよ。まったく人見知りで困る」といったような会話の流れを想定していたのだが。

 

「背の高い女!? あんた、そりゃあ本当か! いつ、どこで見んさった」

 

 途端に顔色を変えた二人の様子に驚きながら私が質問に正直に答えた直後、老人は叫び、老婆は震え、私は彼らの家にあげられ、こう指示された。

 

 ――申し訳ないが、今日はここに泊まっていってほしい。宿代は要らないし心配も要らない、だからどうか明日の朝、日が昇るまで、決してこの部屋から出ないと約束してほしい――と。

 

 続けて彼らはこう語った。

 私が見たあの「女性」はこの近辺では有名な怪異で、「八尺様」と呼ばれている。それは非常に背が高く(ゆえに「八尺」なのだろう)、必ず頭に何かを被った女性の姿をしており、不気味な笑い声をあげながら付近を徘徊している。

 そして私くらいの年齢の若者を見つけると、取りついて殺そうとするのだそうだ。

 

「信じてくれんでもいい、だがどうか今夜だけは、ここに留まっていてつかあさい。でなければお前さんの命が、命が」

「わかりました、信じます」

 

 ほとんど反射的に私はそう答えていた。というより、二人の態度の変わりようとこの二階の部屋の様子を見たら、そう答えざるを得なかった。

 窓という窓が新聞紙で目張りされ、さらにあちこちに札が張られ、かつ四隅に盛り塩が施されたこの部屋。老人が八尺様について語っている間に、老婆が手早く用意した結果がこれだ。

 

 ――何か、大掛かりな劇場型詐欺に遭っている? いやいや。私は見るからに貧乏学生であり、実際貧乏であるから、たとえ騙してたかろうとしたところで大した利益が見込めないのは明らかである。

 かつ、仮に「八尺様」とやらが完全なる妄想の産物であり、私が老人たちの一種の偏執病(パラノイア)的な振る舞いに巻き込まれているだけなのだとしても、ここで無理に帰るのは得策ではない。

 もうすっかり日は沈んでしまったし、私は方向音痴で、スマートフォンの充電は切れている。今ここを飛び出せば、また道に迷うだけだ。

 

「ご迷惑をおかけしてすみません。この部屋にいればいいんですね」

「ああ、そうですとも。いいですか」

 

 と、老人は念を押すように言った。

 

「わしらは絶対に、外からお前さんに声をかけたりはしません。部屋から出そうともしません。もし今夜お前さんに声をかける者がいたなら、それは八尺様だと思いんさい。とにかく絶対に返事をなさらず、ここから出んように。よろしいですか」

「わかりました。必ずここにいます。返事もしません」

 

 私がきっぱりと応えると、彼らは何か敬虔な態度で、こちらに向かって深く頭を垂れた。しかしそれは実際のところ、私にお辞儀したのではなく、部屋の中央に安置された小さな仏像に対しての拝礼だったのだろう。

 

 襖が閉じられ、外から何か紙を貼り付けるような音が聞こえた。部屋は密室になり、私はここに閉じ込められた。

 

「まあ、こうなっては仕方ない」

 

 私は呟いた。恨むべきは私の方向音痴だ。あの老人たちが私を助けようと心を砕いてくれているのは確かであり、仮に八尺様が実在するにせよ、しないにせよ、その心遣いに対しては感謝するべきであろう。

 

 そう考えた途端、急に腹が鳴った。朝食以来、何も食べていないことに私は気づいた。迷子になった不安感と、ここまでの急展開のせいで麻痺していた空腹感が、今一時の平穏に頭をもたげたのだろう。

 

 そういえば、リュックを背負ったままだった。中には今朝、家で作って持ってきたおにぎりがある。寝坊して慌てて作った単なる塩むすびだが、何もないのよりはましである。

 私は畳の上に座り、リュックを下ろして、ラップに包んだおにぎりを取り出した。

 するとまるでそれを見計らっていたかのように――そうと思えるほどぴったりのタイミングだったのだが――コツコツ、と誰かが窓ガラスを叩くような音がした。

 

 直後、声が響く。

 

「おおい、大丈夫ですか」

 

 さっきの老人だ。

 

「さっきはああ言ったが、無理せんでつかあさい。こっちに来てもええんですよ」

 

 なんという短時間での心変わり。

 一瞬そう思ったが、よくよく考えてみればおかしい。

 老人が私を呼ぶのなら、襖を叩くはずだ。どうして今、窓ガラスが()()()叩かれているのだろう。ここは二階なのに。

 

「おおい。おおい」

 

 老人の声はなおも私を呼び、窓ガラスがやや強く、バンバンと叩かれる。

 

「おおい。おおい。おおい」

 

 壊れたおもちゃのように何度も、老人の声はまったく同じ調子で繰り返された。窓ガラスを叩く音が絶え間なく続くなか、やがてその声はさらにしゃがれ、変質していく。

 

「おおい、おお、お、お、ぽっ、ぽぽ、ぽぽぽぽぽぽ……」

 

 あの声だ。あの「女性」と同じ声音だ。

 さすがに私はぎょっとした。どうやら八尺様というのは実在するらしい。

 しかも老人たちの話が正しいなら、八尺様は私を殺すつもりなのだ。

 

「ぽぽぽぽぽぽ、ぽぽぽぽっ、ぽ、ぽぽぽぽ……」

 

 八尺様の声は低く、暗闇に鳴く牛蛙を想起させた。呼び声と、平手で叩かれていると思しき窓ガラスがたてる騒音が、両の鼓膜にびっとりと纏わりついている。

 私は生理的な不快感と緊張感に冷や汗をかき、しかし、同時に困惑していた。

 

 ――このおむすび、全然味がしない。

 舌の上に粒だった米の自然な甘みだけを感じつつ、私は首を傾げる。

 

 いや違う。恐らく八尺様のせいではない。

 この握り飯を作った時、私はあまりにも慌てていたがために、両手に充分に塩をまぶしていなかったのだ。そのために、このおむすびは塩むすびでありながら塩味がしないという中途半端な、祝福されない存在と化してしまったのに違いない。

 

 なんということだ。私は天を仰いだ。だが被造物の不手際はすべて造物主の責任。私が文句を言うのはどだい誤っている。

 しかし今、この状況での空腹がどれほど危険なことか。

 八尺様に狙われたまま夜が明けるまで待つには、精神力が必要である。精神力を保つためには、空腹を満たすのが肝要である。そして空腹とはただ満たされればよいわけではない。生命に感謝し、人生に感謝し、つまりはできるだけ旨いもので満たすのが重要だ。

 そう判断したからこそ、私は手にしていたおにぎりをパクついたのだ。

 

 しかるにこの握り飯はろくに味がしない。

 恐るべき悲劇である。

 

 さてどうするべきか。どうすれば、この握り飯を旨く完食できるか。

 今なお響きつづける八尺様の笑い声を耳にしながら、私はしばし考えこんだ。

 

 そしてふと、部屋の隅に視線を向ける。

 隅には――盛り塩があった。

 

 ああ、と頭の片隅で私は手を叩いた。

 そうだ、ないのなら足せばいい。あの盛り塩をちょっと使わせてもらえば、この握り飯はより旨くなる。さすれば精神力は保たれ、私は八尺様の誘惑に負けることなく夜を過ごせるし、老人たちは明朝、部屋に飛び散った私の死体(残っているならばだが)を回収する憂き目に遭わずに済む。

 問題ない、このプランでいこう。

 

 しかし頭のもう片隅で、もう一人の私が抗弁した。

 いや何を考えている。盛り塩を食すなど前代未聞の不敬である。しかも今、まさに怪異に襲われているという緊急時に、身を守る手段だと思しき盛り塩に手を出すなどなんたる命知らずか。

 現実に、視線の先にある盛り塩は、どういうわけか上のほうが黒く変色しはじめている。

 黒ずんだ塩など食べたことはないし、腹を下してしまうかもしれない。腹を下したとて、ここには用便の手段がない。つまり最悪の場合、明朝になって老人たちが目にするのは、失禁した状態で死を迎えた私の姿である。いくらなんでもそれはごめんだ。

 

 私はふむと唸った。もう一人の私の意見も一考に値するものである。

 盛り塩を食ってしまった場合、いわゆる神聖な結界的なものにどう悪影響を及ぼすのか、肉体にどのような変化があるのか、今までに深く考察したことがなかった。

 己の不勉強を恥じつつ、私はそっと部屋の隅に近寄った。そして塩が盛られている皿を、まじまじと見つめる。

 

 そこで気がついた。これはファミレスのキャンペーンで貰える皿だ。

 正確には、合計三千円以上飲食した客が数量限定で貰えた皿である。同じものを私も持っているからよく知っている。

 

 それを理解した瞬間、私の認識は変わった。

 つまり盛り塩という儀式を神聖たらしめているのは、それを行う人間(この場合は老婆)の祈りの心や想いひとつ。どのような皿に盛るかというのは、大した問題ではないのだ。

 

 であるならば――

 その塩が皿ではなく胃の腑に収まっていたとしても、問題はないはず。

 なぜならば老婆は私という見ず知らずの人間を八尺様から救うためにこの盛り塩を行ったのであり、すなわち老婆の祈りの気持ちは既に神仏に捧げられた後なのであるから、儀式の後にこの塩がどのような状態に変容しようと、効力は変化しないであろう。

 

 第一、色が変わっているからどうだというのか。バナナやアボカドは熟れれば色が変化するが、そのほうが旨いのである。変色した塩のほうが旨いかもしれない。

 それにみかんを短期間に大量に食べた場合、みかんのβ-クリプトキサンチンの脂肪酸エステルが皮下脂肪に蓄えられて手足の先が黄色くなることがあるが、健康に悪影響はない。

 それと同じで、盛り塩の変色も大した問題ではないのではないか。

 

 一口食べた米の続きを求める胃が激しく鳴るのを感じながら、私はもはや切迫した思いを抱えていた。

 

 最悪、この後私が八尺様に殺されるとしよう。その場合、得られる結末は二通りしかない。

 美味しく握り飯を食べて死ぬか、食べずに死ぬか。

 となれば当然、選ぶべきは前者。すべての食事は可能な限り旨いものであるべきであり、私にはその手段が残されている。実行しないわけにはいかない。

 

 ――南無八幡大菩薩。神仏よご照覧あれ。

 心を決め、私は盛り塩の最上部(すっかり黒くなっている)を指で掠め取り、おにぎりに擦りつけるようにして食べた。

 瞬間、口の中に広がる味わいと共に自然に思い出されたのは、小学生だった頃の記憶だ。

 

 理科室での授業――食塩水を使った実験を行うために机に並べられた食塩を、幼き日の私は舐めた。どんな味がするのか、どうしても試したかったから。

 大人の立場で考えれば、試すまでもなく結果は明白だ。塩は塩、家にあるものと変わるはずもない。

 しかし当時の私は、“学校の塩”という一種の非日常的存在に興味津々だったのだ。で、教師の目を盗んで塩を舐めた。

 

 今、この盛り塩は、あの時の理科室の塩と同じ味だ。

 塩分。確かにそうだ。しかしそれはどこか苦く、不思議と舌に粘りつくような奇妙な感覚を残していく。さらに、胸に広がるこの感傷――大掃除の最中に開けた引き出しの中から、昔貰った手紙を見つけて読み返している時のような、どこか切ない郷愁めいた感情。

 

 塩を足して三口ほど食べた時、私は静かに感謝していた。

 ありがとう、おばあさん。ありがとう、八尺様。こんな味のするおにぎりは生まれて初めてだ。

 

 それに黒ずんだ塩を食べても幸い腹に異常はないし、部屋の状態にも変化はない。八尺様はなおも笑い声をあげながら、窓ガラスを叩き続けている。けれども慣れてしまえば、窓を打つ雨垂れと同じだ。これは単調な音の連続に過ぎない。

 腹がある程度膨れて安心感を得ていた私は、そんなふうに考えた。

 

 だが――その時。

 ぴたり、と音が止む。

 

 八尺様は見えずともこちらの様子を窺う能力を持っているのか、あるいは盛り塩を食べたことで、私には感知できないなんらかの変化が生じていたのかもしれない。

 一瞬の静寂の後、八尺様は再び老人の声を借りて、このように声をかけてきた。

 

「おおい。そんな、塩むすびなんて食わんでも。もっと旨い握り飯をこっちに用意しとるで、来んさい」

 

 ――もっと旨い? この玄妙なる塩むすびよりも?

 どんなおにぎりだろう。

 

 老人の言いつけを守って返事はせずとも、私は胸の内で呟いた。

 すると、やはりこちらの胸の内を読むなんらかの手段を持っているのだろうか、八尺様はこのように続けた。

 

「梅むすびとか……鮭むすびとか……塩昆布むすびとか……」

 

 シックだが悪くない組み合わせだ。私も朝時間があれば、そういうラインナップを用意して出かけたことだろう。

 私は八尺様のセンスに内心で頷いた。だがしかし、次に八尺様が告げたのは耳を疑うような言葉だった。

 

「山菜むすびとか……鮭はらみおむすびとか……ツナマヨとか!」

 

 ――ツナマヨ。

 鮮烈な怒りと共に、私は目を見開く。

 

 ツナはいい。問題はマヨだ。あの白く黄色く、どこにでも顔を出し、いかなる料理であろうと我が味に染め上げてしまう、卵と酢の混合物。

 卵は最高だ。酢もいい。だがマヨネーズは許さない。少なくとも、私は許していない。

 

 誤解なきように明言しておくが、私はマヨネーズを愛好する人々や、マヨネーズを使った料理を作る人々、マヨネーズを精製し売却することで生活している人々を否定するつもりは微塵もない。

 そうではなく、「お子さんが大好きなマヨネーズ味!」とか「マヨネーズかければなんでも食えるっしょ」といった耳ざわりのよい言葉と共に「人間はみんなマヨネーズが好きで、それ以外はあり得ない」という誤った認識を無自覚に表明して、それを恥じもしない人々の態度が嫌いなのだ。

 

 マヨネーズに関するこうした認識は、例えば「男はみんな巨乳が好きで、それ以外はあり得ない」「女はみんなワルっぽい男が好きで、それ以外はあり得ない」といったような認識と同様に誤っており、かつ罪深い。

 たとえ悪意がないのだとしても、マヨネーズを好まない人間――私のような――がいるという事実に目を向けずに、ラインナップに平然とマヨネーズを加える行為には配慮がない。

 せめて好きかどうか、かけてもよいかどうか、前もって尋ねてほしい。

 

 とりわけ今回の場合、部屋の外に押しかけてきたのは私ではなく八尺様のほうである。つまり私をたぶらかそうとしているのは相手のほうだ。

 結果的に私を取り殺すためならばなおのこと、私がマヨネーズを愛好する人間かどうかは事前に考慮に入れておくべきであり、それができていない時点で、非常に浅薄であると言う他ない。

 

 さらに「ツナマヨ」と告げた時の八尺様の物言いの調子も気になった。

 彼女(と仮に称すが)の声音はどこか弾んでいて、いっそ得意げですらあった。

 あたかも「私は山里で暮らす怪異ではありますが、ツナマヨという都会的なおにぎりがあるのは存じておりますよ」と誇示するような、聞こえよがしな態度だ。

 これもまた、様々な意味で浅はかである。

 

 そう思った瞬間、もうだいぶ薄れていた八尺様への恐怖感は、ほとんど消えてしまった。

 今、窓を叩いてアピールしてきているのは恐るべき怪異ではなく、ただのマヨネーズ中心主義者にすぎない。きっと同じテーブルを囲んだところで、尋ねもせずにサラダにマヨネーズをかけるだろうし、唐揚げもレモン汁でびしゃびしゃにするのであろう(レモン汁のほうは私は許容できるが)。外にいるのは、そういうタイプの奴だ。

 

 塩むすびを平らげた私は畳の上に寝ころび、瞼を閉じる。窓の外では何か、八尺様が「違う」とか「唐揚げもある」とかズレた文言を必死に放っているが、腹も膨れたし、眠気のほうが勝ってしまった。

 

 私は自然と眠りに落ちた。

 そして目覚めた時、既に窓の外は明るく白んでいた。

 

 

***

 

「お前さん、昨晩は本当に災難じゃったねえ。しかし無事で何よりだ。さあ、お地蔵様のあるところを抜けたでな、もう八尺様は追って来ん。安心して、まっすぐに家に帰りんさい。駅に着くバスの停留所はすぐそこだし、後の道のりは、渡したメモに書いてあるでな」

「……」

「お前さん……? おい、どうしんさった!」

「あっ、すみません。もう顔を上げてもいいんですね」

 

 うとうとしていた目を(念のため俯いたまま)擦りながら、私はぼんやりと返事をした。

 

「昨日はさすがに熟睡とはいかなくて、ちょっと眠くって。でも、車で送ってくださったお蔭で、よく休めました。本当にありがとうございます」

「いやいや、こんなのは大したことじゃない。それより」

 

 顔を上げた私の視界の中で、運転席からこちらを振り向いた老人は驚いたような顔をしている。

 

「八尺様に魅入られてしまった若者は、これまでに何人かおると聞くが……お前さんのように肝が据わった人間は初めてだ」

「いえ、実は恥ずかしながら方向音痴なもので、妙なところに迷い込むのは初めてではないんですよ。そのせいですかね。それに、昨日はちょうどおにぎりを持っていたので」

 

 私はリュックを背負って車から降りた。外の空気は澄んでいる。

 

「お腹が空いていないなら、たいていの問題はなんとかなります。ああそうだ、おばあさんに、お塩ありがとうございますとお伝えください。さっき言いそびれてしまったので」

 

 深くお辞儀をしてから、私は老人に背を向け、メモを頼りに歩みだす。

 地図があっても迷うのが私だが、今回は気を付けなければ。なんでも、もしもう一度この地を訪れたなら、再び八尺様に命を狙われてしまうのだそうだ。そうなれば、またあの老人たちに迷惑をかけてしまう。

 

 空は青く、道端に咲く野花が春の兆しを告げている。

 出がけより軽くなったリュックを背に感じつつ、私はゆっくりと歩を進めていくことにした。

 

 

(おわり)


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