駅を出て大きな階段を降りたところにあるタクシー乗り場には、すでに行列ができはじめていた。
最初から走ってでも終電に乗ろうとしない潔い人たちだな、と苦笑いが出る。
列の最後尾に加わりスマホを見るとまだ0時を少し過ぎたあたりで、つくづく終電が早くなったなと思う。
昔はもっと遅くまで電車は動いていたし、街だってこんなに早寝じゃなかった。コロナで営業時間が短縮された事に乗じて、鉄道会社は深夜整備の労働改革に乗り出したと言うのもあるらしい。
そういう社会にわたしたちは甘えていたんだな、と思う。
それなら鉄道会社がタクシーも運営すれば良いのに、いや、すでにあるか。そんな事を考えながら、次々とロータリーに戻ってくるタクシーを見ていた。
自分の前に並んでいる客と、ロータリーに並んでいるタクシーを照らし合わせて自分がどのタクシーに乗るのかを確認した。できれば好きな会社が良いけれど、わがままも言っていられない。
指差しながら見えた乗車予定のタクシーは、黒塗りの古い車で個人タクシーだった。
部品が弱っているのか、音も無く開いたドアはゆっくりとした動きだった。
わたしは白いカバーがかけられた後部座席に腰を下ろした。運転席や助手席にもレースのついた白いカバーがかけられているし、いまはもう使われていない灰皿もそのままだった。
「古いでしょう」
わたしの視線に気づいたのか、運転手が声をかけてきた。
ルームミラー越しに見た顔は物腰の柔らかそうな壮年男性のそれだった。
わたしも思わず「はい、実はこういうタクシーって久しぶりで」と返事をしてしまった。話好きな運転手だと面倒なので普段はあまり返事をしないのだが。
しかし今日のタクシー運転手はわたしの返事に乗じて昔話をするでもなく、ルームミラーの中で笑顔を保ったまま車を動かし始めた。
気を使いあった会話が始まらなかったことにわたしは安心して、背もたれに身体を預けて外の景色に目をやった。
わたしを載せたタクシーは駅前の繁華街を抜けて、高速道路の下を伸びる幹線道路に入った。今時のタクシーにしては珍しく車内にはラジオが流れている。AMだろうか、元気過ぎない声が車内の空気を和らげている気がする。
その時だった。
それまで道路沿いの暗い景色を映していた窓に反射してわたしの顔が急に浮かび上がった。驚いたのもあるが、わたしはふと何か厭な感じがして窓ガラスから顔を離した。
窓ガラスに映った自分の顔が何か変だった、ように思う。
化粧の具合だろうかと思い鞄の中にある鏡を探った。
それは学生の頃から使っている紫色をした折り畳み式の鏡で、いい歳をした大人が使うのも恥ずかしい気もするけれど、手に馴染んだ物はなかなか捨てられなくてずっと使ってしまっているものだった。
レリーフの様な彫刻っぽい飾りのついた紫色の鏡を覗いていると、急に運転手が声をかけてきた。
「紫色の鏡ですか」
わたしは驚いて鏡から顔をあげてルームミラーを見た。運転手はすでにこちらから目を外したのか、その目は前を見ていた。
しかし私の視線には気づいているのか「あぁ、急にすみません」と続けた。だが喋るのをやめる事は無く「最近では、紫色の鏡を使う事に抵抗は無いんですかね」と言った。
わたしは気になってそれがどうかしたのか、と訊いた。
運転手はちらとわたしを見ると、話しても良いのかと逡巡した挙句に
「私が若い頃は、ちょうどオカルトがブームでしてね」
と切り出した。
話し馴れているのか、まるで怪談を語る落語家の様によどみなく話すタクシー運転手は紫色の鏡について話し終えると「すみません、下らない話をして」と頭を下げた。
乗客から運転手に変な乗客を乗せた事は無いかと訊いたり奇妙な経験は無いかと尋ねる事はあるとは聞くけれど、運転手から話し出す事は滅多に無いだろう。
わたしは少し可笑しくなって「初めて聞いたけれど、面白かったですよ」と言って礼を述べた。
恐縮していた運転手は安心したように笑った。
最近ではすぐにエコーカードを書かれたり、インターネットに陰口を載せられるから内心では「やってしまった」と思っていたらしい。乗客優位の気苦労が伺え知れる。
運転手は気を良くしたのか
「お客さんは、何か不思議な経験とかをされた事はありますか」
と尋ねてきた。
「わたし自身は霊感も何もないですし、不思議な経験なんて言うのは無いんですけど」
と前置きをしてから、私は自分の話をした。
興が乗ったのか、自分の機嫌が良い事にわたし自身も驚いたが何となく話をしてしまった。
「それに都市伝説とか、ホラー映画なんかも苦手で」
と言うと、運転手は申し訳なさそうに「あんな話してすみません」と謝った。
「大丈夫ですよ。面白かったですし。……それで、そんな感じなので怪談話にも疎いんですけど、どうもわたしの名前がその手の話に出てくるひとの名前に同じみたいで」
ここで一旦区切ったのは、知らない運転手に自分の名前を言ったものかと考えてしまったからだ。
帰る凡その地域と名前、それらの立派な個人情報を簡単に渡すのはどうかとも思ったが、ここまで来て何も話さないのも興醒めだと肚を決めた。
「カシマレイコ、って聞いた事ないですか」
わたしが尋ねると運転手は首を傾げてしまった。
「昔からあるかどうかはわたしも知らないんですけど、結構有名な話みたいで、それでその名前を呼ぶかどうかすると夜中に現れるって言うんですよ。そのカシマレイコっていう幽霊が。職場の若い子でそういうのが好きな子なんかは、わたしの名前が同じだからってもう嬉しそうだったり怖がったりで仕事にならないんですよ。参っちゃいますよね」
わたしをその都市伝説だか怪談話のカシマレイコだと思ってるひとはいないにしても、夜中にわたしが来たら怖いだの名前を呼ぶのもドキドキするだの、挙句にはわたしがもう何十年も生きているなんて言う事を言い出すひともいるらしい。
局所的な話題にいちいち付き合っていては仕事にならないので取り合わないけれど、どうにも居心地の悪い感じがするんですよ、と苦笑いをしたわたしに運転手は「それって言うのが、呪いの本質らしいですね」と真顔で返した。
「え?」
「呪いって言うのは、相手の精神に重しを掛ける行為なんですよ。だから、そうやって居心地の悪さを感じさせるって言うのは原始的な意味での呪いと言うものらしいですよ。……インターネットで見た知識の受け売りなんですけどね、すみません」
運転手はついつい口走ってしまったことに後悔した表情で、しきりに申し訳なさそうに謝った。
「でもそうなると、さっき運転手さんが話してた紫色の鏡って言うのも、そういう呪いの一種ってことになるんですか」
「そうですね、そういう事だと思います」
わたしが会話を続けたことにやはり安心したように運転手は笑った。
上機嫌になった運転手は、端数があがらないギリギリのところでタクシーを停めるとこちらを向いて「ありがとうございます」と頭を下げた。久しぶりの楽しい実車でしたよ、本当にありがとうございましたと礼を重ねた。
わたしも悪い気はしなかったのでお金を渡しながら「お釣りはいらないです、取っておいてあとで缶コーヒーでも飲んでください」と言ってタクシーを降りた。
「それじゃあ、おふたりともお忘れ物はありませんね」
運転手はそう声をかけると自分でも後部座席を指差し確認をした。
わたしはふたりと言われたのが気になって運転手を見ると、運転手は笑って帽子を軽く上げた。
なんだ、いたずらか。
わたしが笑ってお辞儀をすると、タクシーはすっと走り去っていった。
屋根の上にしがみつく、酷く痩せた女《カシマレイコ》を乗せたまま。
インターネット都市伝説杯投稿作品。
元ネタはカシマレイコ、カシマさんです。
いやな感じを愉しんで戴けたら僥倖です。