王冠がそこに在った。
夜に星は瞬く。瞳のように蠢き夜を埋め尽くす。月もまた既に瞳と化し、眼下たる星の仔細を主へと届ける。僅かな人。僅かな獣。僅かな自然。
瓦礫の玉座に、ヴォルデモートは笑った。
「俺様は遂に不死を成したが、まさか最後に立ち向かうのが君だとは」
運命は決着した。偉大な魔法使いは死に朽ち果て、稲妻の傷の子は敗北し、選ばれなかった子もまた蛇に飲まれた。
王冠は既に位置を崩さぬ。瓦礫の星に不死を叫ぶ怪物を前にして、ただ一人、老人は杖を握った。
「何年が経った?」
「百年には届かないだろう。君と俺様が決別して、惨めにもダンブルドア、ハリー・ポッター……ああこの名前さえ懐かしい! そいつらさえも利用して、俺様を殺す事が出来なかった無様! 一体、君の知識が何の役に立ったというのだ。ええ? 賢者と呼ばれ、魔法界の英雄と呼ばれ、俺様と唯一拮抗すると呼ばれた! その名声はこの瓦礫に届くか!」
げらげらと、蛇のような顔をした女は笑った。相対する白髭を生やした老人は笑わなかった。握る杖は黒く短く、裾にさえ隠せるようだ。しかし彼は屹然と指先に杖を握り相手へと向けた。
「お前を若年に殺さなかったことこそ、全ての間違いだった」
「今更だ。それこそ。間違いだというのなら、俺様達が出会ったことこそが間違いだろう」
ヴォルデモートは笑った。老人は笑わなかった。互いに杖を握り、既に終わった星の下、最後の決戦が始まった。
互いに呪文の詠唱はなかった。炎が舞う。氷が弾ける。死の呪文への耐性は既に解明されている。ならば互いを殺すには原始の摂理、肉体の物理的破壊に外ならぬ。
だが、ヴォルデモートは笑う。延々と、瓦礫の大地に勝利を叫ぶようにして笑う。
感嘆も恐怖も憧憬も、全てを無くした大地に尚も氷の龍を生み、炎の獅子に群れを与える。それで笑っている。力を。圧倒的力を成す己に絶え間ない自賛を送りながら、老人に引導を渡すべく、最強の杖へと力を込める。
声はない。衝突の、衝撃の音だけが聞こえている。閃光の、破裂の音だけが木霊する。
絶技。そう声を送る者は既に無い。王冠は一人に占められ、余人が介在する余地は無い。元より賞賛など意味はない。血縁にさえ意味はない。
ただ力を。己が納得するだけの力を。
「はっっはあはははは!」
ヴォルデモートは笑う。楽しいのか、嬉しいのか。星さえも手の内に収め、空さえも己の瞳として、尚も無聊はない。
楽しい。己が永遠に死なず、最強である事がただ楽しい。それを目の前の老人は分からぬだろうと思った。
憎たらしい顔。かつて老人が嫌っていた青色の瞳によく似て、まるで似ていない悲愴な顔を浮かべながら老人は決死に戦っていた。
だが、既に見えていた決着だった。
水晶玉を見ずとも分かっていたことだった。彼女は死を超越した。万人の運命の決着として訪れる死の上を、彼女は軽やかに飛翔し、ただひたすらに嘲笑を浮かべている。死は彼女を避けていく。必殺の魔術も、悪魔的な防御さえも、彼女には届かず、ただ嘲笑の色を深めるばかり。
「馬鹿だなあ」
何時のことか。どれくらい前だろうか。懐かしい口調に老人は瞳を細めた。
既に感傷はない。哀惜も哀れみさえもない。あるのはただ後悔ばかり。
『どうして僕は、あの時彼女を殺さなかったのか!』
詮無いことだ。意味のないことだ。杖を振るう腕に乱れはない。唇を噛む歯に力が入るだけだ。言葉など既に意味を成さない。そんな段階は既に終わっている。この星の、終わり尽くした有様を見て、そんな事を言える物か。
彼らの戦いは美しかった。或いは芸術と称えようか。世界の終わりに相応しく、二人の出会いも交友も、まるでこの瞬間に伏線として誂えられていたようだった。
──やがて、老人が息を切らした。
死は万人に訪れる。魔法族のそれはマグルの物より遅いとは言え、老人は分かっていたはずなのに。
血を吐いて、最後の魔法さえも無意味に帰して、老人は倒れた。それでも瞳は死んでいなかった。彼は言った。
「……だが、お前は必ず負けるだろう。お前が認めなかった」
「なんだって?」
老人の末期の息。瓦礫の丘に身体を伏せて、息も絶え絶えに繰り出す言葉を、ヴォルデモートは笑いながら聞いた。
「今更、俺様が何に負けるって? この俺様に。この、死さえも超越し、死の秘宝を過去にし、星の支配者となった俺様に!」
「愛と、絆と」
「今更だなあ! いや、いや! 今更ではないな。君、ダンブルドアに感化されてしまったな。すっかり正義に愛に絆に!」
「──歴史に」
「……ふうん」
ヴォルデモートは笑みを潜めた。
がちゃがちゃと、瓦礫が崩れ落ちる音が響く。ヴォルデモートは凱旋の歩みで老人に近付く。
「歴史。この世界に、最早それは存在しない。過去も未来も既に存在しない。あるのは今だけだ。予言者もタイムターナーも意味を成さない。過去も未来も全てを殺した。あるのは今この瞬間、俺様が勝利した今だけだ」
「歴史はある」
「君の頭の中にだけだがね」
「果たして、どうかな」
老人はにやりと笑った。
「ヴォルデモート、お前は確かに王者だ。この世界の神だ。だがな、お前はただ一人、不死に浸るだけで終わるのか?」
老人は、最早杖を振るう力も無く、呪文を使う力さえ無いというのに笑っていた。
「いいや、いいや! お前は、きっと作るさ。お前は何時だって、歴史を求めていた。グリフィンドール! レイブンクロー! ハッフルパフ! スリザリン! 歴史を蒐集して、それを手の内に収めて、それで悦に浸っていただろう!」
ヴォルデモートは笑わない。杖を突き付けることさえしない。ただ無表情に老人の声を聞いていた。
「お前は確かに歴史を見ていた。それを何より己の価値としていた! だからこそ、お前は己の価値を後世に残すだろう。お前を崇める人間だけを残して、それで世界を支配した気になって! だが、それで歴史が終わると思うな。歴史は何時だってたった一人の人間の思うままになるものか! お前が支配者を続けるのなら、世界は何時だって……!」
ヴォルデモートは杖を振った。
老人は死んだ。絶対の死と、そう呼ばれた呪文はかつて二人の手によって解き明かされたというのに、老人は傷一つ無く死に落ちた。それを眼下にして彼女は笑っていなかった。
「何時のことだよ」
ヴォルデモートは老人の死体を見つめつつ呟いた。
「君は、それまでしか知らなかったんだな。僕はもう、そんなものに価値を見出してはいないというのに。引きずっていたただ一つの歴史も、今、こうして終わったっていうのに」
老人は光の失った瞳を空に向けていた。彼女はその向けられる瞳を月から見つめていた。青色の、くすんだ、老いた眼を見つめていた。
「王冠はここに在る」
それの何が不満だと。死を超越し、死の遥か上を飛翔し、絶対の支配者として君臨したことの何が不満だと。
帝王が完成した。
永遠に死なず、星を支配し、ただ一人瓦礫に笑う──そんな帝王は、帝王になる前に、老人の墓を作った。そうして、そのすぐ傍に玉座を作った。
過去もなく、未来もなく、まるで歴史を馬鹿にしたような顔で、彼女は永遠に君臨した。