グラスワンダーの短編を書きました。こちらに投稿するのは初ですので、見づらかったりしたらすみません~。

トレーナー×ウマ娘ものなので、苦手な方はお気を付けください。

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くゆる想いは、空にも溶けず

肌に触るひんやりとした空気にふと目が覚める。

 枕元に置いた時計に手を伸ばすと、朝5時ちょうど位を指していた。

 思ったより目覚めは悪くない。

 いつもの通りの目覚め。いつもの通りの時間。

 外を見るとまだ暗く、秋も深まった10月の空は私の心を表すように、まだ来ぬ朝日を待ち焦がれて寒々としていた。

「起きなければ……ですね」

 誰に言うわけでもなく、ポツリと漏らす。

 主のいない部屋の左半分は改めて見ても無機質で、それがなおさら早朝の冷えを深めているようだった。

 かくいう私の側も、段ボールが積み重なるのみで、似たり寄ったりな風景だ。

 そうだ。今一度その光景を見て再認識する。

 私は今日をもって、このトレセン学園を去るのだ。

「……もっと感傷的になる物かと思ってましたけど」

 独り言ちながら、部屋を出て顔を洗いに行く。

 自主トレーニングに出ていくウマ娘たちが幾人かいるだけで、まだ静まり返った寮の廊下を歩いていく。

 もう、ほぼ見知らぬ顔ばかりになった。

 黄金世代ともてはやされた同期たちも既に卒業し、それぞれの道へと進んでいる。

 同室のエルコンドルパサーもここを発ち、国の実家に戻っていた。

 大学に通いながらルチャリブレの修行に励んでいる様子が、手紙と共に送られてくるのは秘かな楽しみでもある。

 下の世代を含めたライバルたちが一人、また一人と辞めていく中で、惜しむ心を身に秘して、晴れやかに門出を見送ってきた。

 ついに、自分の番になってみると、これといった感慨もなく。

 顕彰と共に既にレースの上からは見送られた私は、誰にも知られることなく静かに身を引こうとしていた。

 

 顔を洗い、身支度を整えると制服に身を通す。これも今日で最後。

 少しは思うところはあるかと思ったけど、特になく。

 いつもの様に身支度を整えると、またもいつもの様に寮のキッチンへと歩を進めた。

 まだ当番のウマ娘が朝食を作り始めていないがらんとしたキッチンで、二つのお弁当箱を並べて黙々とお弁当を作っていく。

 昨晩作っていた煮物もいい感じに味が染みている。

 少し作り過ぎて余った分も、タッパーに入れていく。

 きっとあの人は、私がいなくなるとまた不摂生をする。

 少しでも、一日でも長くお役に立てれば、と考えて、未練だな、と思わず自嘲してしまった。

 6時ごろになってにわかに寮内が騒がしくなるころ、お弁当を詰め終わり、使った食器も洗い終えた私は、お弁当箱を提げて部屋へと戻った。

 いつからだろう。

 寮の食堂で食事をしなくなったのは。

 朝はお弁当を作りながら残り物で済まし、夜はあの人のおうちで。

 年々と知り合いもいなくなっていく私を慮ってか、彼も文句を言わなかった。

 部屋に戻り手提げにお弁当を詰める。

 私のいつからか当たり前になった朝のルーティーン。

 さぁ、この後は目的地へと向かうのみだ。

 しかし今日は、ドアの前に立つと部屋に向きなおって深々とお辞儀をする。

「長い間、お世話になりました」

 別に誰かが返事をするわけではないけれど、気持ちだけは。

 ベッドサイドの棚を挟んである2対のベッドに在りし日のエルと自分を幻視する。

 別にあの頃に戻りたいとは思わない。

 それは二人の積み重ねを否定することだから。

 懐古の念にしばし囚われながらも、私は胸を張ってこの部屋を、この寮を旅立っていく。

「では」

 身を翻して部屋を出る。

 授業やトレーニングがあるわけでもないが、向かわねばならない場所がある。

「これが、最後……」

 平静を保っていた心がわずかに揺れる。

 ダメだ。あの人の前では、強いウマ娘でいなくては。

 私は今一度心の緒を締めて、しっかりとした足取りでトレーナー室を目指すのだった。

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

まだ人もほとんどいない構内をひた歩く。

 トレーナー室へと向かう前に、事務所に立ち寄った。

「ああ、おはよう、グラスワンダーさん」

 顔なじみの用務員さんが挨拶をしてくれる。

「おはようございます。今日は少し寒いですね~」

 私もそれに応じて手をもみながら返事をする。

「そうだね。風邪をひかないように気を付けて」

 用務員さんは深く皴の刻まれた顔を柔和に崩しながら出迎えてくれる。

 この習慣を始めてからもう4、5年は繰り返した流れだ。

「はい~。用務員さんも暖かくしてください」

 彼は私たちが学園に入学するはるか前からここで用務員として働き、多くのウマ娘を見守ってきたそうだ。

 もうそろそろ、などと言いながら結局は私も見送られる側になった。

「ありがとう。そういえば、今日が最後かい?」

「ええ。今までお世話になりました」

 私は深く感謝を込めて腰を折った。

「そうかい……寂しくなるね。朝の時間にここに寄ってくれる生徒は君だけだったから……」

 そういうと、用務員さんは少し目を潤ませながら、本当に寂しそうな表情で名残を惜しんでくれた。

「お体には気を付けてください。毎朝ありがとうございました……今日も、トレーナー室のカギを頂けますか?」

 そういって鍵がずらりとかけられている壁の方を見る。 

「ああ、鍵なら君のトレーナーさんがもう持って行ったよ」

 彼の言う通り、目当ての鍵は所定の場所に掛かっていなかった。

「あら、珍しいこともあるものですねぇ」

 いつも遅くまで仕事をしているトレーナーさんが、私より早く来ることは今まで一切なかったので、虚を突かれた思いだ。

「君を待っているのかもしれない。早くいってあげなさい」

 用務員さんは目端を指で拭いながら、そう促してくれる。

「はい。それでは失礼いたします。くれぐれも無病息災をお祈りいたします。重ね重ね、ありがとうございました」

 私は再び深く腰を折ると、感謝を述べた。

「ああ、お元気で」

 彼もそれに頷き、それを見た私は、では、とその場を後にした。

 知り合いもほぼいなくなったこの寂しい終わりの日の中で、心が暖まるひとときであった。

 

 なんだかんだ彼も今日と言う日に動揺してくれているのだろうか、と口元が緩む。

 いつも通りで、とお願いしたのに、初っ端からいつも通りではないではないか。

 そう心中で悪態をついてみたものの、私たちの6年間ほどが彼の心の中に何かを残せたなら、それは十分に意味のあったことなのかもしれないと思った。

 トレーナー室の前に立って、少しドアを開けることをためらう。

 この扉を開けてしまうと、終わりの日が始まってしまう、そんな考えが頭をよぎった。

 そんな抵抗をしている間も、時間は無情にも過ぎ去っていくというのに。

 一つ深呼吸をする。

 前髪を整えなおして、柔らかい表情を心掛け、ドアに手をかけた。

「おはようごうざいます。トレーナーさん、今日はお早かったんですね」

 ドアを開けると、トレーナーさんが執務机に座ってこちらをじっと見ていた。

「ああ、グラス、おはよう。昨日はよく眠れたかい?」

 いつもの様に、挨拶ををしてくれるけど、やはりどこか硬いような気がして。

「はい~。ぐっすりと。今日も清々しく、一日を始めることができましたよ」

 そんな彼に対して、努めて柔らかくを意識して微笑む。

「そうか。よかった……今日はどうするんだ? あいさつ回りでも行ってくるか?」

 トレーナーさんは私の様子に少しホッとしたように表情を崩しながら、そう聞いてきた。

「いえ。挨拶はもう既に済ましてありますので。今日は……お片付けをしながら、こちらで過ごさせてもらおうかと。よろしいでしょうか?」

 答えがわかり切っている問いを投げかける。

「いいも悪いも。そこは、グラスの場所だから」

 トレーナーさんはそう言って自らの机の左脇を指さしながら、寂しげに笑う。

「そう……ですね」

 彼が指さした先には、彼の方を向く形で執務机に横付けされているサイドテーブルがあった。

 そこには、お茶を淹れる道具一式や、書道道具、簡易的な本棚など、私の私物が並んでいる。

 ここで日々を過ごし、彼の横顔をひそかに見守っていた。

 それも今日までかと思うと、心にぽっかりと穴の開いたような思いになる。

 だめだ。今日は、しっかりといつも通り過ごすと決めたのだ。

「そうだ。今日もお弁当を作ってきましたよ? 食べてくださいますか?」

 お弁当の入った手提げを掲げながら、またもわかり切った問いを投げかけてしまう。

 何を確認したいのか自分でもよくわからないけれど、私も私でいつも通りとはいかないようだ。

「もちろん。もちろんだよ。ぜひいただくよ」

 彼の方も、手提げを見てほんの僅かに痛みをこらえて顔を歪めたように見えた。

 他の人なら気づかないような瞬間のわずかな変化だったが、ずっと見てきた私だから気づけたのだろう。

 もしくは、私との別れにちゃんと傷ついてほしいという欲が見せた幻覚だったのかもしれないけれど。

「よかったです。では、お片付け、してしまいますね~」

 備え付けの壁際の本棚や収納棚、その他諸々より私物を抜き出して段ボールに詰めていく。

 それぞれの品に思い出があり、懐かしさで手が止まってしまうのはご愛嬌だろうか。

 ふと、隅に置いてあるガラス棚へ目を遣る。

 二人で勝ち取ったトロフィー、これはここに置いていきたい。

 彼の目に入るところに、証は残していきたいから。

 私を超える子が現れるまでは、彼の中でも1番として記憶に残り続けられるだろう。

 いつかここにまた来た時に片付けられてたらいやだなぁとも思ってしまう。

 トレーナーさんがそんなことをするはずもないだろうに。

「トロフィー、持っていくか?」

 じっと棚を見ていた私に気づいたのか、トレーナーさんが話しかけてくる。

「いえ、よろしければこのままで……」

 私は振り返らずにそう答えた。

「わかった。俺もそうしたいな。ずっと置いておきたいから」

 すこし低く真剣みを含んだ声でそう言ったきり、またキーボードを打鍵する音が響き始める。

 振り返るとまた作業に戻っているようだ。

 先ほどどんな表情をしていたのかは見れずじまいだった。

 ひとしきり回収した荷物を段ボールに詰め終えて、最後にサイドテーブルの荷物を片付ける。

 決意の習字などに使った書道具や、日々お昼に飲むお茶を淹れる道具一式、トレーナーさんとトレーニングの所感などを交換し合った10冊を超えるノートたち。

 それぞれが思い出深く、片付けがたい品々で、染み着いた日々の記憶たちは片付けるに忍びないものだった。

 ひとつひとつ噛み締める様にゆっくりと段ボールへとしまっていく。

 その最中も、トレーナーさんは何も言わずただPCに向かって淡々とキーボードの音を響かせている。

 いつもの様に、とお願いしたのは私だから。

 私の方も話しかければいいのに、こうやって黙ってしまっているのは、お互い似たような理由なのでしょうか。

 一通り片付け終えて、机を綺麗に布巾で水拭きしていく。 

 明日以降、私がいなくなったこの席は誰が座ることになるのだろうか。

 出来れば、この机は荷物置き場にして、誰も座らせてほしくない。

 明日以降、私がいなくなった彼の隣には誰が立つのだろう。

 本当は……でも、彼はトレーナーだから。

 次のウマ娘と夢を追いかけるだろう。

 次、か。私は彼にとってはこれから何人も担当するウマ娘のうちの一人でしかないのだ。

 そう思うと無性に悲しくなってくる。

 私にとってはただ一人のトレーナーなのに。

 貴方にとって私はなんなのでしょうか? そう問いかけるも、黙して画面を見る彼は何も答えてはくれない。

 いつもの様な無言の時間。

 だけれども、いつもとは違う、渦巻く心模様に、私は思わず胸を押さえた。

「どうした? 体調が悪いのか?」

「い、いえ。大丈夫です」

 彼に見られていないと思ったから、少し驚いてしまった。

 画面に集中しているようで、気にしてくれていいたことに少し胸が跳ねる思いがした。

 こうやって彼は私の事をよく見てくれていた。

 余り本心を語らない私の心をよく読みとってくれていたものだった。

 そのことがすごくうれしくて、最後の日であろうとそれは変わらないのだな、と感慨にふけるのだった。

「そうか……」

 トレーナーさんはややあって、続けた。

「グラス。君はその、あまり人に思ってることを言わないタイプだけどさ、ちゃんと調子悪いときとかは周りに言うんだぞ? もう、俺が見ていてやることもできないんだから」

「……はい」

 チラチラと横目でこちらを見ながら言う彼に、言いようのない感情を覚えて返事が遅れてしまう。

「なら、いいんだ……」

 トレーナーさんも今日は歯切れが悪いというか、気を使っているのだろうか?

 いつもの様にはっきりと意思を伝えてくるのではなく、あくまでアドバイスするような。

 そこまで考えて、ああ、と納得する。

 それはそうだ。明日からは他人なのだから。

 私はトレーナーさんに見えない位置で拳を握る。

 明日から彼の庇護を離れ、また彼は私への責任がなくなり、だからこそ、気がかりではあるが責任も負えないような言い口になっているのだ。

 明日からは元、が付く関係に。

 それは最初から分かっていた終わりで、納得して今日を迎えたはずだ。

 未練たらしくこのまま契約を続けることもできた。

 でも、それはお互いのためにならないと結論しての今日のはずだ。

 それでも私の心の波が静まることはなく、逆にトレーナーさんと言葉を重ねるたび、トレーナー室での時間が過ぎるたびに大きくなっていく。

「ご心配されずとも大丈夫ですよ。もう、レースに出たりはしないわけですし」

 誤魔化すように笑う私に、彼もまたあいまいな笑みを浮かべて、そうかと言うとまたPCに向きなおる。

 トレーナーさんの様子を気にしながらも、清掃を終えた机の上で伝票にあて名を書く。

 それは、これから通う大学にほど近いアパートの住所。

 学園からもさほど遠くない場所にある国立大学。

 それが私の進路だった。

 いっそのことアメリカの実家へ戻ろうかとも思ったし、両親も勧めてくれたものの。

 私はその大学を選んだ。

 やはり日本の伝統をより深く学ぶには日本がよいという理屈だったが、それ以外の欲もあったかもしれない。

 改めてサイドテーブルに向かうと、初めてこのテーブルが自分の物になった時の事を思い出す。

 きっかけはなんだったか。

 それまではミーティング用の平机の方で過ごしていたのだが、コミュニケーションが取りづらいとかの理由で、トレーナーさんの書類や本などの荷物に埋もれていた机を明け渡すよう要求したのだ。

 きれいさっぱり机の上を整えたときの達成感は今でも覚えているし、片付けているときに潰れた菓子パンなどが出てきたときにはこめかみに青筋が立ったのもはっきりと覚えている。

 最初のころは少しイヤそうにしていたトレーナーさんも、今や当たり前の様に受け入れてくれていて。

 それから5年間と少し。

 私はこの机で学び、昼食を取り、本を読み、お茶を楽しみ……そして彼の横顔を眺め続けてきた。

 文庫本越しに盗み見るトレーナーさんはいつも難しい顔をしていて。

 でもそれは大体が私の事だとわかっているから、それがちょっと嬉しかったりして。

 幸福な日々だったと思う。

 再びまっさらになった机が、それも終わりだということを告げる。

「荷物……まとまったのか?」

 机に手を当てて物思いふけっていた私にトレーナーさんが声をかけてくる。

「はい。後ほどメールセンターに届ければ身支度完了ですね」

 私がこの学園で過ごした形跡は、段ボール一つ分に綺麗にまとまってしまった。

「そうか……そろそろ昼だな」

 トレーナーさんが顔を上げて、時計の方を見る。

 確かにもう時計は11時半を指している。

 荷物を片付けただけなのにそんなに時間が経っていたのかと驚く。

「はい。荷物は帰り際でも大丈夫なので、お弁当を頂きましょうか」

 平机の方に避けていたお弁当入りの手提げを持って、サイドテーブルに並べる。

「そうするか」

 彼もPCの画面を落として、こちらに向きなおる。

「では、お茶をお淹れしますのでしばしお待ちくださいね」

 私は棚に置いてある彼の湯飲み、私が昔プレゼントしたものと来客用の湯飲みとを手に取る。

 私用のものは、もう段ボールの中だからだ。

 お茶もこれを見越して水筒に入れてきた。

「いつもいつも、ありがとうな」

 湯飲みを並べて、お茶を淹れる私にそう言ってねぎらってくれる。

「いえ~。好きでやっていたことですので」

 本心だ。彼のためと言いながら結局は自分のためだったから。

「このお弁当も、今日までかぁ」

 ぱかりとお弁当箱を開いて、感慨深げにトレーナーさんが漏らす。

「これから大丈夫ですか? ちゃんと栄養あるもの食べてくださいよ?」

 私のお弁当がなくなるということは、食生活が戻るという事、そこが心底心配なポイントだった。

「気をつける」

 彼は言葉少なに、また気まずげにそう答える。

「カップ麺とか、栄養補助食品とか、そういうのばっかりじゃなくて、ちゃんと生鮮食品で栄養を取るんですよ?」

 私は、心配でなおも言い募ってから嘆息した。

「お、おう……俺の方が心配されてるようじゃ世話ないな……」

 弱々し気に苦笑する彼に、大丈夫かなぁ?と心の中で再び息を漏らす。

「しっかりしてくださいね? 次の担当を困らせないようにしませんと」

 彼には次があって、そのときに次の担当にちゃんと指摘しておけと恨まれたくない物だ。

 そう思いながらも、次かぁ……と心の中でポツリと漏らす。

「そうだなぁ。次かぁ……」

 それとほぼ同時に彼も同じことを言ったので少し驚く。

「どうされたんですか? 何か問題でも?」

 思わず聞き返す。

「いやぁ。俺にできるかなぁって」

 彼は、難しい顔をしてそんなことを言った。

 あまり自信家な方ではないのは知っているが、あれだけの結果を残して何を言うのだろうか。

「まぁ。自分で言うのもおこがましいとは思うのですが、ここまでの結果を残したのに、ですか?」

 最後に勇気づけるのも私の仕事か、と思って、思ったことをそのまま言った。

「うん……いや、それはグラスとだったからできたことでさ」

 彼はそれにも苦笑すると、またそんなことを言い出す。

「それはどういう意味です?」

 少し脈が速くなったように感じつつ、私は急いて答えを促す。

「なんというか……」

 彼は箸を置いて窓の外を見つつ、言葉を探すように視線をさまよわせた。

「ここまでこれたのは、ただグラスが優秀だから、とか指導の内容が、じゃなくて、二人だったからだ、と俺は思っているんだよね」

 それはお互い様なんだけどな、と思った。

 私もトレーナーさんだったから、ここまで来れた。

 その認識が同じだったことは素直にうれしい。

「そこまでの関係になれるかなって」

「そう、ですね……」

 でも、そう寂し気に語る彼に、なれますよ、とはとても言えなかった。

「悪い。ただの弱音だな。どうあろうと、新しい担当とはその子との関係性を築いていかなくちゃな」

 彼は頬を打つと、そう言ってお弁当を勢いよく頬張り始めた。

「頑張ってくださいね」

 それを見て私はもう、それだけしか言えなかった。

 色々聞きたいことがあったけれど、彼のそんな姿を見てまで聞けることでもなかったし、またその意気地もなかったのだ。

「ああ。グラスとの6年に恥ないよう頑張ってみるよ」

 ひとしきり咀嚼してからそう言う彼に、あいまいに微笑んで私もお弁当へ手を付けた。

 その後は、言葉少なだった午前とは変わって、トレーナさーんと色々なことを話した。

 一日を費やせるほど、または足りないほど二人にはたくさんの想い出があった。

「もう、そろそろか……」

 やがて話がひと段落した頃、トレーナーさんが壁掛けの時計を見上げて呟いた。

 彼は気づいていなかったかもしれないが私は明確に18:45である、と時間を把握していた。

 秋口は日が早く、既にとっぷりと日が暮れて、右手に見える窓の外はもう真っ暗だ。

 窓越しに映る自分を見て、無意識に垂れていた耳をしゃんと立て、顔を引き締める。

「はい……」

 トレーナー契約は、明確に離籍当日の19:00まで、という区切りが引かれていた。

 それは、=ウマ娘の最終下校時間を指しているためでもある。

 彼は椅子を回して、左わきに座っている私に向きなおった。

「グラス、6年間、本当にありがとう。君の活躍を隣で見続けられたことは、俺にとって最高の栄誉だよ」

 トレーナーさんは、真剣に、だけど慈しみのこもったやわらかい眼差しでそう語る。

「私……は」

 私にはその態度が余裕の籠った物に見えてしまい、それが自分の内面とのギャップに思えて、目をそらしてしまった。

「うん」

 彼は、度々そうしたように、私が思いを形にする時間をゆっくりと待ってくれる。

 きっと、私がこの終わりのタイミングに感極まって言葉が出ないでいるのだと、考えているのかもしれない。

 だが、その実そうではなかった。

 今日この場で幾度確かめようと思って、終ぞ確かめられなかったあることを、今話そうか迷っていた。

「その、やはり、あと10分で他人になってしまうのは、なんだか口惜しく……」

 ちゃんと笑えているだろうか?

 努めて唇は上弦に弧を描くようにしているつもりだが、彼の瞳にはどう映っているか。

 気遣うように笑みを深くした表情からは、何ら心の揺れも読み取れない。

「他人には、ならないさ。俺たちの6年間はちゃんと絆として残っていく、そうだろう?」

 トレーナーさんはそう言ってくれる。

 それは間違いはない。契約という繋がりがなくなろうと、過去までが消えたりはしない。

 だがこの契約が終わるという意味は、共にいるべきである、という契約に縋るしかない私にとって、多分彼とは違う意味を持っていた。

 彼にとっては、形を変えていくつながりの一つの形なのかもしれないが、私にとっては唯一の物で喪失なのだ。

 彼我の認識のズレが、どうしようもなく苦しく、口惜しい。

「他人ではないのでしたら、ならばどのような関係になるのでしょうか」

 内面のどろりとした感情が声音に乗ってしまったかもしれない。

 でも彼は気づいた風もなく、こう続けた。

「二人でレース人生を完走した元トレーナーとウマ娘。何よりも素晴らしく、トレーナーの身としては誇らしい関係だと思うけど?」

 確かに、一般的には怪我で終わることなく、顕彰を得て華々しく終わりを迎えた私たちの関係は、最高の結末を迎えたと言っても過言ではない。

 でも、彼にとって私はやはり、パートナーではあったが同時に最後まで庇護するべき子供であったのだろう。

 ああ、やはりそうなのだ。

 結局、私の手は届かずじまいだった。

 満ち足りていた心の器からごっそりと何かが抜け落ちていくような感覚に囚われて、軽いめまいがした。

「グラス?」

 トレーナーさんは、私の顔を覗き込んで、心配そうにしてくれる。

 これもあれだ、結局は保護者としての愛情で。

 一緒にいた時間、一向に進展しない関係性に心中で一喜一憂して、色々思い悩んでいた自分が途端にばかばかしく思えてきて、私はふっと、息を漏らす。

「そうですね。特に特別なことではありませんよね。過去の物として私はただ在り、トレーナーさんは次のウマ娘のトレーナーへと変わっていくだけ」

 落胆は苛立ちへと変わり、自分でも驚くほど冷たい声が出る。

「別にそういうわけでは」

 彼は、それに対して困ったように訂正しようとした。

 その姿が子供をなだめるようで、

「では何ですか! 貴方にとって私は!」

 瞬間、抑えられなくなった私は、彼に声を荒げて問う。

 至極理不尽で身勝手で、彼にとっては意味不明の怒りだとはわかっている。

 でも、それでも私の中の制御できない何かが私から冷静さを奪っていった。

 もしかしたら、私の理解とは違った彼の本音を引き出せるかもと言う一縷の希望を込めたかもしれない。

「俺は……」

 しばらく、呆気にとられた彼は、ややあってもこの期に及んで言い淀む。

 言葉を選ぶように目を伏せて逡巡する彼を見て、私は、私を傷つけず穏便に収めようとするための言葉選びをしているのだ、と受け取った。

 もう、これ以上は耐えられない。

 この後に続くであろう言葉を聞きたくない。

「……声を荒げ、大変申し訳ございませんでした。6年間、お世話になりました。では」

 その一心で手荷物と、段ボールを持ち上げると、私は足早にトレーナー室を出ようとドアへと向かう。

「待ってくれグラス! まだ話が」

 背後で椅子が倒れたような音がして、ほぼ同時にトレーナー……いや。

「いいえ。いいえ。もう、刻限は過ぎました。貴方と私は……」

 私は段ボールを片手で支え、もう片方の手を離して、壁掛けの時計を指差した。

 他人ですから、と捨て台詞の様に言うと、時計を指した手をそのままの流れで扉へかけてスライドさせる。

 できる限りの早歩きで、これでいいのだ、と繰り返して灯りの落ちた廊下をひた進む最中。

 誰も追いかけてくることもなく、私はその勢いのままトレセン学園、そして6年間身を置いたこの街を後にしたのだった。

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 あれから2年ほど。

 大学に通う私はそこそこに充実した日々を送っていた。

 勉学に励み、課外では同好の士と共に日本文化/芸術の研鑚も行っていた。

 友人にも恵まれ、トレセン学園で得られるものとはまた違った日々を送っていた。

 傍から見れば、まさに大学生生活を謳歌していると言っても過言ではない。

 しかし、それでも私はどこかに心の一部を置いてきてしまった喪失感のような、どこか空虚な痛痒を抱えていた。

 今日も引退間近と噂される老教授の国文学史の授業が淡々と進む中で、私はぼんやりと過日の事を思い出してしまっていた。

 散漫になった意識も相まって、後ろの方の学生たちの抑えたしゃべり声にピクリと耳が反応してしまう。

 階段状に長机と付属した折りたたみ式の椅子が設置された講義室では、やはり階上後方の座席は単位狙いのみの学生たちが騒がしくする。

 故に、私は最前から3列目の左端と言う、目立ちもせず、極力雑音の届かない場所を好んでいた。

 友人たちも私が私語を好まないのを知っているため、真面目に受けるつもりのない……出るだけで単位が出るこのような授業では、私とは別の場所で授業を受けているようだった。

 後方から聞こえてきた私語の内容に嘆息する。

 ウマ娘の聴力を甘く見過ぎではないか。

 男子生徒の集団が、私について話している内容を聞いて頭痛がしてくる。

 トレセン学園にいた頃はあまり意識をしていなかったというか、比べられるようなこともなかったので気づかなかったが、どうやら異国的な私の容姿は日本では物珍しく映り、またそこそこ男性受けするものらしかった。

 そんなことを言われても全くうれしくない。

 最も落としたい相手を落とせなかった容姿など……

 そこまで考えて、眉間を押さえる。

 まただ。また思い出してしまう。

 なんとかして消そうとしたこの痛みは、幾度となく再燃しこの身を苛んできた。

 今のような外野の視線から直接的なアプローチまでさまざまであったが、男性から接触を受けるたびに、記憶の中の彼と比べてしまう。

 また、そうしてあの日の事をあわせて思い出すたびに、チリチリと胸が痛んでしかたなかった。

 1年のころは、遊びに誘われたり、告白されたりと近づいてきていた同級生や先輩方も、私が一様に拒絶するさまを見て、今や声をかけてくることもなくなった。

 今では、男性嫌いであることで通っているようだ。

 噂もそんなものの一部で、私の恋愛対象が女性なんじゃないか、あのイケメンの先輩でもダメだった~などと言った下世話な物であった。

 初めて出逢った頃の彼は、ほぼ今の彼ら位の年齢だったにもかかわらず、信念ともいうべき芯が通っていた。

 私の微かな瞳の揺らぎのような感情から本質に近い部分に触れ、そんなあやふやなものを信じて通い続けてくれていた。

 ウマ娘のために心身のすべてを賭して、考え抜いて行動する姿は何とも頼もしく、逆に心配になるほどだった。

 そんな彼と比べて……そんな風に日々考えてしまうほどに、私は客観的に見て"拗らせて"しまっていた。

 それこそ、彼らの事を笑えない。

 幼稚で、偏執的で、自罰的な過去へのこだわりが、この2年で薄まるどころか、より濃くなっているように思われた。

 軽く頭振って前を見れば、板書に次の授業範囲が書かれている。

 最後10分ほど、本格的に意識が内側に飛んでいたようだ。

 老教授が授業の終わりを告げるとほぼ同時にスピーカーからチャイムが流れる。

 教室が一気に騒がしくなって、私もハッと現実へと呼び戻された。

 こういう時は静かな場所で独りになるに限る。

 私は荷物を手早く片付けると、階段を上って部屋を後にしようとする。

 先ほどの集団らしき男子生徒数名がこちらを見ているのがわかったが、それを努めて無視する。

 友人たちが私を探しているような雰囲気で視線を巡らせてるのも視界の端でとらえていたが、今日は退散することにした。

 独りになりたい。

 大学生になってからそう思うことが増えたように思う。

 息苦しい。

 彼の隣にいた頃はどこまでも駆けて行けそうなほど自由だったのに、何者からも解放された今こそ、私は不自由を感じていた。

 そんな中途半端な日々を送っていた最中だった。

 文字通り世界中に散らばっていたトレセン学園同期組、覇を競った旧友たちと集まることになった。 

 きっかけはキングさん、キングヘイローの来日だった。

 母親について世界中を飛び回っている彼女が、久々に日本に戻ってくることに端を発して久々に集まろうという話になったのだ。

 私以外の面々はそれぞれの道へと進み忙しくしているのもあって、直接、しかも全員揃ってというのは久しぶりである。

 故に決まったときからずっと楽しみにしていたのだが、場所だけが少しだけ気がかりだった。

 独り逃げ出して末期を汚したあの場所へ。

 私は、明かりを消した自室でSNSの同期グループトークを見ながら嘆息していた。

 当然の帰結だが、我々が集まるとしたらあの街なのだ。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

当日まであう場所のせいで気が重かったが、よく考えれば商店街にあるカフェなのだから、あそこの方に近づかなければ何も問題はないと結論した。

 そう考えながら2年ぶりの駅に降り立つと、気持ちも軽くなって街の変化を楽しむ余裕も出てきた。

 街の人々の装いはすっかり秋模様に代わっており、冬が近いのだな、と言うことを嫌が王にも感じさせる。

 やはりトレセン学園の学園城下町と言うことで大学よりも圧倒的にウマ娘の数が多い。

 かつては私もその中の一人であったのだな、と思うと懐かしくもあり、そんな彼女たちに対して無条件に先輩的な情を感じてしまう。

 変わらない場所、新しくなったお店。

 それぞれ一つずつを楽しみつつ、目的のカフェへと歩いていった。 

「お~い! グラスちゃ~ん! こっちこっち!」

 約束のカフェにたどり着くと、テラス席から大きく手を振る見覚えのある姿があった。

 2年ほどなので大きく変わるはずもないが、件のカフェは私たちが時たま通っていた頃と変わらないままだった。

 手を振ってきた相手、スペちゃん……スペシャルウィークに釣られて、他の二人もそれぞれ思い思いに手を振ってきた。

 それに小さく手を振り返す。

「グラスちゃん、久しぶりだねぇ。 元気してた?」

「全く、キングを待たせるなんて偉くなったものね」

 どこか含みのある間延びした声の主はスカイさん。

 相も変わらずツンとしたお嬢様はキングさん。

 そして

『グラァス! 主役は遅れて登場とういやつデスか!? 流石は我がライバル! わかってますね!』

 スペちゃんが持ち上げたスマホの画面には、懐かしいマスク姿のウマ娘が映っていた。

 彼女、エルコンドルパサーはこのためだけに来日とはいかず、実家の方からの参加になった。

 今向こうは夜の20時かそこらだろうか。

「皆さん、エルも。お待たせしてすみません~」

 軽く会釈して私がそういうと、皆一様に笑って応えてくれる。

「ううん! みんなほとんど今集まったところだよ。久しぶり、グラスちゃん!」

 相も変わらず人懐っこい笑顔でスペちゃんが、にっこにことしながら代表して応えてくれた。

「本当ですねぇ。皆さんそれぞれの道を進まれて、なかなかお会いする機会もなくて」

 エルは残念だったが、他のみんなの生身の姿を見るのは久々だ。

 大なり小なりの変化はあるが、変わらず元気な姿が見れて僥倖と言えよう。

「今日のためにわざわざ1日早く帰ってきてあげたのよ。お母様ったら中々離してくれないんだもの」

 キングさんが長くウェーブのかかった髪を払いながらそう言った。

 今はパリを拠点にデザイナーの母親を手伝ってると聞いた。

「そういえば、キングはお母さんについていってるんだっけ」

 スカイさんが、頭の後ろで腕を組みながら、横にいる彼女へ横目で話を向ける。

「ええ。勝負服のデザイナーになるには、癪だけどあの人についていくのが近道ですもの」

 キングさんは不服そうにしながらもどこか嬉しそうに話している。

 悪態をつきながらも、母親を尊敬してやまない彼女の事だ。

 今とても充実した日々を送っているに違いない。

「デザイナーさんか~。将来私の担当ウマ娘になる子の衣装は、キングちゃんに頼みたいなぁ」

 スペちゃんがそれに対して空を見上げながら、そんなことを言う。

 それが、今の彼女の目指す道だった。

「スペちゃんはトレセン学園付属の研修センターに在籍してるんでしたよね?」

 以前会話した時に覚えることがいっぱいで大変だべ~と言っていたのを覚えている。

 トレーナーの方々はこともなげに日々のトレーニングを組んでいるように見えて、多くの知識を下敷きに様々なことに考えを巡らしていたのだろう。

 トレセン学園のトレーナーになるということはたやすくないと、彼女の話を聞いていて思う。

「うん! 今では少しずつ実地研修も増えてきて、本格化してきたんだ~。あっ、この前ね、グラスちゃんの担当だったトレーナーさんのところに行ったんだよ?」

「えっ、あ、そうなんですか?」

 あの人の話が出てきて、つい過剰に反応してしまう。

 スペちゃんが実地で行くとしたら、ちょうどいい年次なのだから彼のところに行ってもおかしくはない。

「そうなんだ。やっぱりすごかったなぁ。色々話してもらったけどレベルが高すぎで理解できないことも多かったよ……あんなふうになれるか心配だべ~」

 耳を垂らして肩を落とすスペちゃんの肩に手を置いて励ましながら、嬉しいような聞きたくなかったような複雑な心持ちになった。

「まぁ、新人でグラスちゃんを育てあげたトレーナーだもんねぇ。そりゃあすぐには。でもそんなもんでしょ~、初めはさ」

 スカイさんも、気楽にいこうよ、とスペちゃんを励ます。

『スペちゃんなら、きっといいトレーナーになれますよ!』

 エルもやたら大きな声で励ます。

 そんな二人の励ましに、スペちゃんもありがとう、と言って意気を取り戻す。

「そうね。名選手が名トレーナーになるとは限らないとは言うけれど、スペシャルウィークさんなら、いいトレーナーになるでしょうね。衣装を作れる機会を楽しみにしているわよ」

 片目をつぶってウィンクしながらそういうキングさん。

 二人の夢が交差する瞬間を想って少し羨ましくなる。

「そこは、衣装を発注する権利をあげる~じゃないの?」

「スカイさん、あなたは相変わらず余計なことを言う癖は治らないのね」

 スカイさんがすかさず、昔の口癖をいじりに行く。

 それに対して、嘆息しながら睨めつけるキングさん。

 こういったところは時を経ても変わらない。

「まぁまぁ~。絶対、キングちゃんの勝負服に相応しい結果を出すから、楽しみにしててね!」

 スペちゃんはそんな二人のやり取りに苦笑しながらも、両手を胸の前にもっていって握りこぶしを作る。

『ブエノ! 燃えてますねスペちゃん! キングも!』

 画面いっぱいにサムズアップしてエルが二人の熱意を称えた。

「私は別に」

「ふ~ん?」

 そっけない風を装うキングさんに、すかさずスカイさんが含みのある目線を向ける。

「スカイさん、言いたいことがあるなら言ってくださる?」

「べっつに~。よく時差も考えずに電話してくるのはなにかな~と思って」

 意外だ。どうやら、キングさんはスカイさんに色々と相談か何かをしていたようだ。

 彼女が他人を頼るとは、そういった意味では変わったなぁと思い、少しまぶしい。

「あ、あれは……そんなことより、貴方の方はどうなのですか?」

 照れて少々顔の赤くなった彼女は、ティーカップに顔を隠して言い淀みながら、話題を強引に切り替える。

「え? 私? 毎日昼寝して、釣りして、気ままに過ごしてますよ~」

 スカイさんは手元のケーキをぱくつきながら、のんびりとした口調でそんなことを言う。

 大事な前提条件が抜けている、というか意図的に言及しないのだろうが。

「ご結婚、されたんですよね?」

 そう、その前提とは。

 驚くことに、彼女は地元の方に戻って結婚していたのだ。

 相手は幼馴染のようなものだ、と言っていたが、まさかまさかである。

「まぁね。三食昼寝付きだっていうからね」

 そうは言いつつ、在宅で投資などを介して生活費を入れていると聞いたことがある。

 そもそも素直に働いている姿など想像できなかったが、駆け引きの世界で生きているのは、トリックスターと言われ、私たちも戦いづらかった位の巧さを持つ彼女らしい。

「いいなぁ~。写真見せてもらったけど、素敵な人だった~」

『まさかスカイが一番最初に結婚するとは思いませんでしたよ!』

 と、いうより私たちの間でそういった色恋やその先の話が話題にあがるということ自体、現役時代は思いもしなかった。

 それほどまでに、私たちは走るということに恋をしていた、と言っても過言ではないだろう。

『あ、そういえばグラスはトレーナーさんとは会っているのデスか?』

「え?」

 いきなり話を振られた私はつい反応しかねてしまう。

「そうだよそうだよ。お弁当を作ったりしてた間柄なんだから、なんか進展、あるんじゃないの~?」

 スカイさんがさらに便乗してくる。

 二人ともにやにやしているところを見るに、何か惚気のようなものを期待しているのだろう。

「特にはありませんよ。元担当と元トレーナー、ってだけですから」

 あの日から連絡を取ってすらいないのだから、本当に何もない。

 そう思うと、また胸が痛みだす。

「そういえば、グラスちゃんのトレーナーさんに、グラスはどうしているか?って聞かれたけど……」

 あんな別れ方をしたのだ、同期に会えば聞きはするだろうが。

 スペちゃんがどう答えたか聞きたかったが、あまりこの話題を長引かせたくなかったので、黙っていることにした。

『なーんだ。じゃあ、特に面白い話もないってことデスねぇ~エル、ちょっぴり残念デース』

 あからさまにやれやれ、と掌を上に向けながら両手を顔の横でかくかくと動かすエル。

「エル~?」

 ずい、と画面に顔を近づけて、笑顔で威圧する。

『ケッ!? その声、その顔! 久しぶりに聞きました! 相も変わらずの鬼っぷり、ブエノ! デース!』

 彼女は座っていた椅子から転げ落ちるように逃げると椅子の陰から顔をのぞかせながらも、嬉しそうにけらけらと笑う。

 そんな彼女に、私も調子を取り戻して居住まいを戻せた。

「あはは。いつも何かと折檻されてたもんねぇ」

 スカイさんが腹を抱えて笑い、みんなで顔を見合わせて笑い合う。

「最初はびっくりしたよ~。いきなり肘でこう、ドンっ……て」

 スペちゃんが転入してきた初日の事だったか? 無意味にスペちゃんを挑発するエルに肘を叩き込んだ気がする。

「あれはエルが……」

 エルの明るさに助けられて、私も調子をすっかり取り戻して会話を続けられた。

 その後、同期の話は尽きることがなく、エルが寝る時間になるまでみんなで歓談をした。

 久々に晴れ晴れとした気持ちになることができ、ともに研鑚した仲間の有難さを嚙み締めたのだった。

 

日も僅かに傾き始めた15時ごろ、学園に用事があるらしい皆さんとカフェで別れることにした。

 皆と別れた後、すぐには帰らずに、私は懐かしい街をそぞろ歩いていた。

 所々変わっているお店はあったものの概ね昔のままで、少しあの頃に戻ったような心持ちになる。

 カフェからしばらく無計画で歩いていると、川沿いの方へと自然と足が向かっていた。

 そこまで来てはたと足が止まる。

 目の前に広がるのは、川に沿うように作られた公園だった。

 土手から道路を挟んで長く伸びる公園は中々に広く、芝生の敷き詰められた箇所で良く野点と称してのんびりとお茶を頂いたものだ。

 川沿いの道は自主トレにもよく使ったし、それに……

 そこまで考えて胸の前を握りこぶしで押さえた。

 鈍い痛みのような、熱のような何かがせり上がってきて、ざわつく心を鎮めようとする。

 終わったことだ。

 もう、終わったこと。

 踵を返して駅に向かえば事もない。さぁ。

 そうは思うものの、足は一向に動かない。

 公園の入り口に立ち竦んで暗い顔をしている横を、怪訝な顔をした親子が通り抜ける。

 その視線から逃げるように、公園へと足を踏み入れた。

 常緑樹に混じってまばらに色づく葉を眺めながらゆっくりと歩を進めていく。

 見渡せば、落ち葉の様にそこらかしこに想い出がちらばっている。

 それらにできる限り意識を向けないようにしながら、途中道を折れて公園を抜けた。

 公園のレンガの塀や木々で見えなかった土手沿いの風景が一気に開ける。

 眼下の下道では4名ほどのウマ娘が走り込みをしていた。

 そういえば、私も土手上のアスファルトの道ではなくて、土の道を走れと言われたっけ。

 そう思いながら、何の気なしに彼女たちが走り去っていった下流の方へと顔を向けて……

 わが目を疑った。

 そうだ、いつも彼はその古ぼけたベンチにもたれかかりながら見守ってくれていたんだ……

 下流の方に向けた顔は私の方からは見えないけれど、きっと慈しむような優しい目で彼女たちを見守っているのだろう。

 私は何度も何度もせりあがてくる熱を、ゆっくりと気づかれないように吐き出して心を落ち着ける。

 目の端から、あふれ出そうとするものを強引に瞼で抑え込んで、息を整える。

 そしてあくまで自然にゆっくりと、何でもないようにその背中に近づいていった。

 あの時と変わらない短くそろえた髪、定期的に買い替えていないのがバレバレな縒れたYシャツに、皴の入ったズボン。

 若干痩せたように見えるが、光の加減だろうか。

 彼の姿が近くになると、不意に少し意地悪をしたい気持ちが湧いてきて、努めて音を立てないように脇に立つ。

 斜め後ろから見た彼の横顔は、予想と反してどこか遠くを見ているような、そんな気の抜けた目をしていた。

「ごきげん、いかがですか?」

 昔の様に、何気ない言葉で問いかけた。

「ああ、グラス……えっ、うえええ!?」

 一瞬、ボケっとした声で振り向きざまに私の名を呼んだかと思いきや、目をひん剥いて飛び上がった。

 反応としては上々だ。

「その、お久しぶりです……」

 心の中で小さくガッツポーズを取りながらも、その次になんと話そうか考えていなかった私は、尻切れな細い声を出してしまう。

「あ、ああ。久しぶり……その、おかえり、グラス」

 少しはなじられたり、怒られたりすることを覚悟していたが、彼は昔の様に微笑むと、何も言わずに受け入れてくれた。

「あちらの方々は、今の担当ウマ娘の皆さんですか?」

 彼を見て胸に抱えていた罪悪感はより一層密度を増して重くのしかかる。

 そんな私を見られたくなかったか、私は咄嗟に彼の視線を誘導するように眼下を走っている彼女たちに手を向ける。

「ああ。あの後チームを持てって言われてな」

 彼は頬を書いて苦笑する。その笑顔がなんだか遠くまぶしくて私は目を逸らした。

 お互いやはり気まずさが出て、しばし無言の時が流れる。

 ウマ娘たちが走り終えて膝に手をついているのを見た私は、潮時か、と独り言ちて彼に向きなおった。

「それでは、わたしはこれで……」

 腰を折って彼の表情を見ないようにしながら踵を返す。

「ま、まってくれ」

 彼が咄嗟にと言う感じで、私の左手を掴んだ。

「見られますよ……」

 私は逸る動悸を悟られぬよう、努めて冷静に返す。

 とても後ろを見られない。

「このあと、時間あるか? その……どっかで待っててくれ。夕飯を奢るから」

 彼は構わずといった風にそう続けた。

 私は迷った。

 こんなつもりはなかった。

 ただ旧友に会って散歩して、僅かな未練を残しつつもこの地を後にする。

 私の人生においてちょっとした揺らぎのような日になる予定だった。

 でも、これはどっかの神様が与えてくれたチャンスかもしれない。

 この再会が必然だったというのなら、きっと機会を与えてくれたのだ。

「その、逃げませんので……」

 私は彼の手をやんわりとほどくと、向きなおる。

「ご、ごめん。つい……」

 彼は、少し悲しそうな色を見せながらも、申し訳なさそうに手を降ろした。

「外でなくて、あの時の様に、夕飯を作らせてもらえませんか? 」

 これが最後の機会なら、全力を尽くしたい。

 そう思ったのだ。

「いいのか?」

「はい。作らせて、欲しいんです。鍵、お貸しいただけますか?」

 問いかける彼に対して、私は強く頷いて右手を差し出す。

「あ、ああ……これ。食材ないぞ?」

 彼はポケットから鍵を出しつつ、そういった。

「商店街に寄って参りますので」

 ほんのり温かい鍵を握りしめて、私は駅前の商店街へ行く算段を付ける。

「じゃあひとまずこれでな」

 彼は、別のポケットに入っていた財布を取り出すと、私に預けた。

 昔も似たような事があったなぁと思う。

 途中からまとまったお金を預かっていたものの、初めのうちはこうだったんだ。

「はい。では」

 私は、まだ何か話したそうにしていた彼に背を向けて歩き出した。

 ここに来る時とは違って力強く歩を進める。

 よかった。これで。

 まだ熱の残る左腕を触り、顔を上げた。

 

 

 ―――これでちゃんと、終わりにできる。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

部屋の前に立って先ほど渡された鍵ではなく、もう一つ、少し色あせた桜色の組み紐のついた鍵を取り出した。

 彼にわざわざ部屋の鍵を借りたものの、実はポケットに自分用の合鍵を持っていたのだ。

 最後の数年間ほど、ほぼ毎日夕食をこの部屋で済ませていた頃、夕食の準備のために、残業をするトレーナーさんより先に出て夕飯を作ることが多かったので、合鍵を貰っていた。

 当時はそれが誇らしくて、ちょっとそういう関係っぽいなと浮かれていたものだが。

 あのときは返す間もなくこの街を去ってしまったので、ずっと借りたままになっていた。

 そも今日ここに来る予定はなかったのに、なぜかポケットに忍ばしてしまっていた。

 別に勝手に開けて入りに来たとか、何かを期待していたとかではなかったのだけれど。

 これもまた未練か。

 自嘲気味に口元を歪めて息を漏らすと、自分の鍵を差し込む。

 一瞬もしこれで開かなかったらと、胸の内側が瞬間締め付けられるような心地を覚えながら回す。

 鍵穴は特に抵抗することなく回り、カチャンッと軽い音を立てる。 

「た……失礼します」

 ただいま、と言いかけて。

 玄関へと入ったと同時に鼻腔をくすぐる懐かしい、彼の部屋独特の匂いに記憶がフラッシュバックする。

 いつもこんな時間、こんな夕暮れ時だった。

 先に帰った私は、誰に言うわけでもなく「ただいま」といって、今日の様に買い物袋を提げ、献立を思い浮かべながら鼻息交じりに靴を脱ぐのだ。 

 そして、廊下を進んだその先の景色は、ああ、あの時のままだ。

 相も変わらずトレーニング中心の生活を送っているのだろう。

 寝て起きてのためだけのスペースとなった部屋にあまり生活感はなく。

 変わらぬ様相で、ただ若干衣服などが乱雑に置かれているところに、少し安堵感を覚える。

 荷物を置くために、よく食後に映画を見たりレース映像を二人で生真面目に見たりしていたソファーに近づいていく。

 そこには、恥ずかしいから買うなと言った現役時代の私を模したぬいぐるみが、寂しげにソファーに座らされていた。

 得も言われぬ感情に襲われ、私は立ち尽くす。

 こみあげてくる熱い感情を噛み潰して、息としてゆっくりと吐きだす。

 彼の中にもまだ私は居続けていたのだろうか。

 置かれた人形は、2年の時を経ても埃を被ることなく。

 それが彼の中の私と同じであればいいと思ってしまう。

「買わないようにって、いったのに……」

 私の悪態が静かな部屋の中へと溶けてゆく。

 裏腹に脈打つ感情は、もしかしたら、を期待している。

 自分から閉ざした可能性なのに、身勝手なものだ。

「いけません。早く作ってしまいませんと」

 私は自らを叱咤してソファーに持参した荷物を置くと、買い物袋だけ持ってキッチンへと向かう。

 キッチンは、あの時のままだった。

 最後にお夕飯を作ったときのまま……

 彼の事だ。

 一切料理をせず、冷凍食品や即席めんなどなどで済ませているのだろう。

 あの日の前日の夕飯で使ったお皿、調理具が洗われたそのままで放置されている。

 そして、一番手前には。

「煮物ちゃんと食べてくれたんですね……よかった」

 最後の最後に彼のためにと残したタッパーに手を伸ばした。

「これは、持って帰りましょう」

 敢えて口に出して言う。もう残していかない。

 最後だから。これが本当に最後だから。

 そう決心して彼から鍵を受け取ってここまできた。

 でも、そう思う度に、胸が締め付けられるような切なさが私を苛む。

「ふぅ……今日は、お魚と、お味噌汁と、おひたしとそれから……肉じゃが、ですね」

 一汁三菜。どれも彼が好んで食べてくれていたもの。

 食材を並べて順序を組み立てていく。

 まずは、煮物の下ごしらえをしながら、おひたしを作ってしまう。

 お湯を沸かしながら、野菜たちを水洗い。

 ほうれん草は茹ったお湯に入れて、それ以外の根菜たちはごろっとした大きさにカットする。

 煮崩れしないように角を取りながら丁寧に下ごしらえ。

 あの頃は喜ぶ顔を思い浮かべながら、栄養を取ってほしいなと思いながら込めていた手間。

 でも今は、少し違う感情だった。

 彼の心に残る最後の私だから。

 少しでもおいしく。

 心に染みて、ふとした時に思い出してくれるような、そんな料理にしたい。

 そんな自分都合な想いだけで作りこんでいく。

 茹った小松菜を冷水でしめて、再び鍋に水を溜めて火をかける。

 いつもはインスタントな出汁を使っているのに、今日に限っては鰹節と昆布から丁寧に引いていく。

 ちょっとの差だけれど、それがわずかな違いとなって私だけの味となればと考えて。

 頃合いを見て魚をコンロに入れ、二つの鍋で肉じゃがとお味噌汁を煮込み。

 そうやって料理を進めていくうちに、これで最後、という想いが再び膨れ上がってくる。

 このまま料理が終わらなければいい。

 ずっと、ここで過ごしていたい。

 こうやって久しぶりに彼のために心を注ぐ時間がどうしようもなく幸福で、穏やかで、暖かなものだったから。

 最後だと思うと自然と溢れてくる涙をぬぐう気にもなれず。

 そのまま黙々と作業する。

 終わりたくないという感情とは裏腹に、身体に染み着いた料理の所作は終わりへと着実に進めていく。

 そうしてすっかり準備が終わって盛り付けるだけとなった頃には、私の心もある程度の整理がつき、涙も自然と止まって乾いていた。

 これですべての準備は整った。

 あとは……火を止めて、洗面台へと向かう。

 目が赤く腫れないよう、こすらずにそっと涙をぬぐう。

 特によく見せたい相手もいない大学生活だったのもあって、お化粧を学ばなかった自分を少し悔いる。

 こういう時、顔を無造作に洗えるのはいいけれど、髪の毛を整える以外に良く見せる方法を知らない。

 それでも泣き跡が残っていないか、表情は自然に見えるか、髪は乱れていないかなどは入念にチェックする。

「これで、もう思い残すことも……ありませんね」

 鏡に映った自分に問いかける。

 口元が真一文字に結ばれた顔は、我ながら感情の読み取れない硬い表情をしていた。

 無理矢理両手で笑顔を作るとそのままリビングへと戻る。

 日もすっかり落ち、外は暗くなった。

 ソファーに身体を沈めて、そっと目を閉じる。

 普通の人よりも鋭敏な聴覚を玄関扉の向こうへとむけてじっと待つ。

 揺れる水面が静まるように、心をゆっくりと落ち着けながら、昔聞きなれた革靴の音を待つ。

 待ち遠しいような、いつまでも来ないで欲しいようなざわついた感情が、私の心の水面を幾度なくかき乱す。

 やがて、カツカツ、と懐かしい音が聞こえる。

 私は目を開けて立ち上がるとゆっくりと玄関へと向かって、昔の様に彼を出迎えた。

「おかえりなさい」

 玄関の扉を開くと、どこか間の抜けた表情で彼が立っていた。

「……あ、ああ。ただいまグラス」

 そしてややあって気を取り直したように目をこすって、挨拶を返した。

「はい。どうなされたのですか?」

 私はなんとなく理由を察しつつも彼に敢えて質問してみる。

「いや、なんというか……あの頃に戻ったような気がして」

 頭を掻いて少し寂しそうに笑いながらも、靴を脱いで上がってきた。

「お鞄、お預かりしますね?」

「う、うん」

 彼はまだ慣れないようで、ぎこちない動きで鞄を預けてくる。

 私もここまで落ち着くのに時間がかかったのだから彼の事は笑えない。

「チームの皆さんの調子はいかがですか? 」

 歩きながら無難なことを尋ねる。

 彼のチームのウマ娘たちは生き生きとした表情をしていて、きっとうまくいっているだろうとは思いつつ。

「ま、もう2年もやってるしな。それぞれの目標に向けて順調に進みながらうまくやっているよ」

 後ろから聞こえる彼の声に、改めて年月を自覚する。

 2年。少し前のようで、でも時間以上の距離が空いてしまうのに十分な期間だ。

「そうです……よね。すみません2年間も……」

 途端に現実を突きつけられたような感覚に心が冷えると共に、あの終わり方もあって申し訳なさが湧いてくる。

「あ、ああいや。ほら、もう過ぎたことだ。積もる話もあるし、な?」

 振り返って見た彼は、見た目には何の気負いもなく、気にもしていないように見えた。

「わかりました。準備しますので、お箸と取り皿の準備をお願いできますか?」

 過ぎたこと。過ぎたことか……やはり、私のあれこれは彼にとって過去の事になったのだろうか。

 未だにこじらせているのは私がまだ未熟だから?

 お料理やご飯をよそいながら、ふつふつと浮かんできた自分でも理不尽だと思う苛立ちを必死で押し込めようとする。

「持っていくよ」

「あ、お願いします」

 頃合いを見計らって受け取りに来た彼が、よそった小鉢やお椀をトレイに乗せて持っていく。

 ここら辺の役割分担は自然とできてしまう。

 習慣というものはそこまで風化しない物らしい。

 いそいそと食卓にトレイを運んで卓上に配置する姿を見て、苦笑する。

 大柄で不器用な彼が、汁物を零さないようにおっかなびっくり配膳する姿は、普段の印象とは違って可愛らしく思ってしまう。

 食卓に料理を並べてみると、二人分の配膳がとても懐かしい。

 彼も似たようなことを考えているようで、とてもうれしそうな顔をしている。

 この喜色を満面に浮かべた表情を見れただけでも来てよかったと思えた。

 どちらともなしにいただきますをすると、彼が食べるのを自然と見守ってしまう。

 最初は必ず水を一口飲む。そして、主菜、今日は肉じゃがだが、に口をつける。

 味を確かめてご飯へと……変わらないなぁ、と心の中で独り言ちる。

 理由を聞いたことはなかったが、いつも同じ食べまわしをするのだ。

 それを見守った後、私は飽きもせず毎回こう聞くのだ。

「おいしいですか?」

 男子学生の様にご飯とおかずを掻き込んでいた彼は、口を急いでもぐもぐ、とさせて、おいしいよ、と答えてくれる。

 これもまたいつか当たり前だった光景。

 一度だけでもまたこうしてやり取りをすることができて、目の奥にジワリと熱が湧いてくる。

 それをごまかすように、私も汁物に手を伸ばして一口すする。

 丁寧に引いた出汁と、煮物に使った残りとしていれた根菜の甘みも相まって、今日は完璧な出来なんじゃないかと思う。

「まともな食事は久しぶりだなぁ」

 彼がそのようにぼやくのを聞いて、不謹慎でもう無意味なのに昏い喜びを禁じ得ない。

 彼の服装、部屋、キッチン、その他を見ていれば、女性の影がないのはわかってはいたが、そういった状況証拠を一つずつ確認する度に、まだ誰の物にもなっていないことに浮き立つものがあった。

 もう終わったことなのに、未練がましい自分に嫌気がさす。

 後悔は先に立たないと言うが、今抱えている感情はまた違って、この期に及んでまだ自分でも掴みあぐねていた。

「また不摂生をなされているんですか? いけませんよ? トレーナー業は体が資本ですから。自分は走らないとしても、です」

 そういった感情を抑えに抑えて、私はいつもの調子を装って彼の不健康さをとがめる。

「あ……いやぁ、ははは」

 彼は私の追及とは裏腹に、ハッとした顔をすると、そのままうれしそうな、照れくさそうな顔で笑う。

「わ、笑うところでした?」

 彼の意外な反応に少し戸惑いを覚えてしまい箸が止まる。

「こういうのも久しぶりだなって。昔はよくグラスには怒られていた」

 彼は、そういって懐古するように噛み締めている。

「そんなに怒っていました? 私」

 怒られる方が悪いのでは、という私なりの軽口をいったん抑えて聞き返す。

「はは。まぁ、でもうれしかったよ。中々今ではこうやって、なんていうのかな」

 ん~と言いながらジャガイモをほおばりながら逡巡する姿は、少し抜けているが、仕事中とのこのギャップも好ましく。

 そういうところも変わらないなぁと何度となく感じた感想を頭の中で繰り返す。

「私生活まで二人三脚で距離を詰めてくれる子もいないし、チームだとなかなかっていうのもあるしね」

 私は思わず、当たり前でしょう、と心の中でつっこんだ。

 本当に鈍いのか、敢えて気づかないふりをしてるのかはわからないけれど、料理まで作りに通っていたら普通の感覚ならもうわかってくれていいはずだ。

「そうですか……ご迷惑ではなかったですか?」

 私はそう毒づきながらも、反面、実は私に無理に合わせてくれていただけなんじゃないか? という疑念もあった。

 ずっと彼の答えが怖くて聞けなかった問だが、終わった後だから素直に聞ける。

「迷惑だなんて……それだけは絶対になかったよ。グラスとの6年間は俺にとって掛けがえのないものだった」

 彼は、私のその問いに、箸と茶碗をテーブルにゆっくり置くと、真剣でかつ真摯なまなざしでそう答えてくれた。

 私に契約を持ち掛けてくれたあの時と同じ瞳。

「わ、私も……」

 どうしようもなく気持ちが昂って、うまく言葉が紡げない。

「ん?」

 彼は、下を向いてしまった私の言葉を待ってくれる。

「私も、そうでした……」

 やっと言えた言葉はそれだけだった。

「それはよかった。その、まぁあんな終わり方もしたからずっと心残りだったんだ。本当に分かり合えていたかって」

 彼も彼で、気にしてくれていたようだ。

 それもそうだ。

 あんな別れ方をして音沙汰なしだったのだから。

「ごめんなさい……」

 心底ほっとしたように話す彼に向ける顔がなく、相変わらず食卓に目を落としたままで謝罪する。

「ほんとにいいんだ。今こうして一緒にまたグラスの料理を食べれているだけで。それだけで俺はうれしいよ」

 そんな私に、茶碗を掲げてそういってくれる。

 気遣ってもらっているのに、抜け目なくその指に目が行ってしまう自分の浅ましさが憎い。

「その、えっと……」

 そこまできて、彼に呼びかけようとしてはたと気づく。

「どした?」

「今さらですけどなんてお呼びすればいいか……もう、トレーナーさん、でもないわけですし」

 小首をかしげる彼をどう呼べばいいのか。

 意識せず避けていた問題に直面する。

「今まで通りでいいよ。グラスにはそう呼んで欲しいな」

 私の葛藤をよそに彼はこともなげにそんなことを言う。

 それに対して私はようやく顔を上げて、座っても少し高い位置にある彼の顔を目線で見上げる。

 そうして再び口にする。

「はい。トレーナーさん。こうお呼びするのもなんだかお久しぶりです」

 2年間口から出していなかった言葉だったが、口にした瞬間に馴染んでどこか落ち着きを得られる。

 私にとっていつでも帰るべき場所は彼の隣で、その単語を口にするときは、必ず隣にいたから。

「ようやく笑ってくれたな」

 彼はそう言って、微笑んだ。

 もしかして、ずっと仏頂面だった?

 そう思って、記憶をさかのぼるも、ちゃんと意識して笑顔を作っていたはずだ。

「え、わ、笑っていたと……思いますけれど」

「そう? ずっとなんだかぎこちなかったから」

 しかし、彼はきっとその意識した顔の内側を見抜いていたのだろう。

 眉をあげて違ったかな? と言う彼。

 最初からずっと私の表面的なものではない、内側に渦巻く複雑な感情と向き合ってくれたことが思い出される。

 本当にずるい。私の事をどうせ子供かなんかだとしか思っていないくせに、私の一番欲しいものをくれる。

 わかりづらい性格をしている癖に、表面上は穏やかに取り繕おうとする私だから、誰か私のこのめんどくさい中身を理解して、共有して欲しかった。

 無論、そう思っていたわけではない。

 でも、彼が私の瞳の奥にある物と向き合ってくれた時に、求めていたことに気づかされた。

 思えばあの時、私はもう彼を必要としていたのかもしれない。

 昔の様々な想いがワッと溢れてきて、不意に顔が熱くなってしまった。

「恥ずかしいのであまり見ないでください……」

 今さらそんな優しくしないで欲しいのに、諦めさせてほしいのに。

 本当にずるいと思う。

 今度は先ほどとは違う感情でまともに彼の顔を見ることができなくなっていた。

「ごめんごめん。そういえば話は変わるけど、大学の方はどうだ? 友達出来たか?」

 彼は私の微妙な雰囲気を察してか話題を切り替えてくれた。

 私も一旦大きく息を吐くと、心を平静に落ち着けて返事する。

「はい~。皆さんとてもよくしてくださって。茶道と、書道と、華道と……薙刀のサークルに参加させていただいているんですよ?」

「おお。俺は大学に行かなかったからわからないけど、そんなに入る物なのか?」

 あごに人差し指を当てながら中空で思い出すように話す私に、彼は驚いたように聞き返す。

 そうか、彼は大学へは進学せず、トレセンの予備学校に進んでいるので、大学生活と言うものに馴染みがないのだ。

「人に寄りけりと思いますけれど、やりたいことが多くて多くて。あぶはち取らずにはならないように、と思いつつ、つい~」

 自分でも少し入り過ぎてしまったかという自覚はあったので、苦笑気味に答える。

 それに対して、彼は安心したようにそっかそっか、と頷く。

「そか。充実してるんだな」

「はい! 勉学も課外活動も全力で邁進しております」

 それ自体は嘘偽らざるものだった。

 それと、無駄に拗らせてしまったものは別の話だ。

「うんうん。トレセンの同期とは会ってるのか? スペシャルウィークがウチで研修しているのは知っているんだけど」

そういえばスペちゃんが会ったと言っていた。

 実地研修が始まったと言っていたので、やはり持ち回り教官の一人をやっているのだろう。

「実は先ほどみなさんと集まってて。みんなそれぞれの道に進んでいます。スカイさんなんか、なんとびっくり。ご結婚されて」

 ちょっと驚かせたいな、と思って自分たちの中でも最も意外な道を進んだスカイさんの話をしてみる。

「えっそうなの? セイウンスカイだよね? こういっちゃなんだけど、一番興味なさそうだったのに」

 彼は、口に入れていたご飯を咀嚼し終えるか否かで、案の定驚きに大きい声が聞こえる。

 口から米粒が一つ飛び出してテーブルに付着した。

「ふふっ。どうやら地元の幼馴染さんとご結婚されまして、決め手が自然の多い地元で一日中昼寝ができるからだそうで」

 私はしてやったりと笑いながら、その米粒を摘まんで食べ終えたお皿にくっつけながら、彼女が嘯いていた理由を話す。

「……納得」

 彼はそんなことにも気づかず、はーっと息を吐きながら大きく頷く。

「照れ隠しだと思いますけど。すごく幸せそうでしたよ」

「そうか。みんなそれぞれ充実しているならよかった。燃え尽き症候群に陥って進路に迷う子も少なくないからね」

 彼は嬉しそうに、または寂し気にそう語った。

 そして僕らは、それに関わることができないから、とも続ける。

 こうして会うことはできても、その先の進路に、人生にまでかかわって責任を取ることができない。

 そこがトレーナーの限界なんだ、と寂寞たる感情と共に語られる。

「そういう意味では、現役時代もその後の進路も恵まれていました」

 それに対して、多くの感情や言葉が頭の中を駆け巡ったものの、彼にとっての誠実な線引きなんだ、と納得した。

 だから私も、私は大丈夫ですよ、という想いと共に返事をした。

「そうだな……」

 彼もそう呟くと、お互いしばし無言の時間が流れる。

 黙々と冷え始めた料理を口に運びながら彼を盗み見るも、いかような感情も見いだせず、最後の同意の言葉が、どういう感情をはらんでいたのかはわからずじまいだった。

 ただ残された側の寂寥たる想いなのか、関わりたいけど関わることができない葛藤なのか。

 わからない。わからないが、彼が初めて担当し、卒業したウマ娘たる私に、綺麗な整理をつけられていないことがわかってすこし嬉しかった。

「すまんすまん。なんだか湿っぽくなってしまった。そういえばさ」

 重い空気を払しょくするように苦笑しながら、やけに大きな声で彼は続ける。

「大学になると共学になるだろ? 彼氏とか、気になる奴とかできたりしたか?」

「……ッ」

 ピシリと私の周りの空気が凍る。

 彼が重くなった空気を慮って、一番軽めでお互い話しやすそうな話題を選んでくれたのはわかる。

 わかるが……

「グラス?」

 彼はそんな私の硬直を不審に思ってか、私の顔を覗き込むようにして様子をうかがってくる。

「あ、いえその……特には」

 咄嗟に取り繕うようにそう返したが、繕えたかどうか。

「そうか……まぁ焦ることはないさ。グラスならきっといい人が現れるよ。こんなに気立てがよくて、芯もしっかりしている子は中々いない」

 料理もおいしいしね、と彼は苦笑してそう言った。

 私が大学でまだ彼氏を作れていない、と言うようなことで気に病んでいるとでも思ったのだろうか。

 彼は悪くない。だけど、煮えくり返りそうなこの感情が噴出しないように努めて、瞳の奥に力を入れ、歯を食いしばった。

「ありがとうございます」

 自分でもどうかと思うくらいな平坦な声が出てしまう。

「その、もしよければだけど……」

 彼はそれに気づいたか、どうか。

「将来結婚することがあったら、端っこくらいには呼んでくれよな」

 彼がそう言った瞬間、人生で初めて、自分の理性が音を立てて切れる音がした。

「貴方は……ッ!」

 怒気をはらんだ声と共に音を立てて立ち上がった私に、彼は茫然とした表情で見上げている。

「え……グラス?」

 いきなりの私の行動に、あっけにとられつつも私の名を呼ぶ。

「く……」

 彼我の温度感の差が、更に私の感情を逆なでする。

「どうした。何か悪いこと言ったか……? なんで泣いて……」

 彼に言われて頬を触る。

 ああ、ついにこぼれてしまったなぁ、と私の心にあるどこか冷静な部分が独り言つ。

「私……私は……いえ……すみま、せん……」

 袖でこぼれる雫をぬぐいながら、私は再び椅子に座る。

 何か言わなくてはと思いながらも、のどが詰まって、うまく喋れない。

「とりあえず、袖じゃなくてほら、これで拭いて……」

「来ないで!」

 彼が席を回って、ポケットに入れていたハンカチを手渡し来ようとするのを、私は大声で制す。

「すみません、そこに座って。今、気持ちを落ち着かせますから、お願いです」

 顔を両手で覆って俯き、彼に表情を見られないようにしながらも、そう懇願する。

「あ、ああ……」

 拒絶されて彼は傷ついただろうか?

 でも今は、もっと傷つけばいいと思ってしまう。

 2年間、そして今日再開してからのすべての時間を使って落ち着けて整理しようとしていた私の心に燻り続ける感情が、遂に噴き出してしまった。

 一度露わになってしまったこの複雑な感情は、一向に収まってくれず。

 嗚咽だけは上げないようにと歯を食いしばりながらも、抑えきれずに痙攣してしまう。

 荒い息をあえて吐いて、胸中の熱を全部吐き出してしまう。

 徐々に落ち着きを取り戻す中。

 視界にはいない彼は、じっとその様子を見守ってくれていた。

「ふぅ……お見苦しいところをお見せしました」

 やがて、最後に一つ大きく息を吐いてもうぶり返さないと十分に確認して、覆っていた手をどける。

「いや、うん。訳を聞かせてくれるかな……」

 彼は眉を下げて心配そうな、また何かを恐れるような心もとない表情でこちらを見ていた。

「……今更こんなことを言っても、言われてもご迷惑かもしれませんが」

 私は一度瞑目して決意すると言葉を紡ぐ。

「グラスの事で迷惑なことなんか」

「聞いてください」

 彼が咄嗟にそう返した内容を遮る。

 相手の反応を待っている余裕が、さすがになく。

「私は、貴方の事が好きです。ずっと。きっと契約したあの時から」

 彼の瞳をしっかりと見据えて、8年越しの告白をした。

「……」

 彼は、大きく表情を変えたりと反応をすることはなかったけれど、瞳は言葉を選んでいるように迷いで揺れていた。

「わかっています。貴方が私に向けてくれていた好意は、愛情は、そういった類のものではないと」

 私は、彼の選んでいるであろう言葉を先回りする。

 ただ彼の口から否定の言葉を聞きたくなかったのかもしれない。

「俺は……」

 それでも彼は、唇を嚙みながら言葉を重ねようとした。

「みなまでおっしゃらずとも。本当は胸に秘しておくつもりでした。今日、笑ってお別れして、一区切りつけられればと」

 私はそれを手で制する。

 貴方が誠実で、ちゃんと自分の言葉で答えたいと考えるような方なのは知っています。

 でも、その口で、声で、貴方から現実を突きつけられたくない。

「でも、ごめんなさい。貴方の事を愛した私を、貴方に知られないまま封印してしまうなど、とても耐えられませんでした」

 私はそう言いながら決心する。

 ちょっと不器用な終わり方だったけど、やっと、やっと告げることができた。

 だから、終われる。

「グラス、俺はな……」

 彼はどこか苦しそうな顔をしながらも、なおも言い募ろうとする。

「お願いします。優しい言葉で私を惑わせないでください。また引きずってしまう。前に進めなくなる」

 きっと、私の事を想って、いい風に言ってくれようとしているに違いない。

 でも、それが私の新たな未練になる。

 また囚われて、先に進めなくなる。

 だから、彼のいかなる言葉も耳に入れたくなかった。

 いや、心に入れたくなかったのだ。 

「……」

 彼は、抵抗をやめて下を向いて黙り込んだ。

 私はそれを認めると、最後の最後の別れの言葉を彼に向ける。

「これまでの日々は、とても輝かしく鮮やかで、そしてかけがえのないものでした。それでも、今日までの私は、ここに置いていきます」

 私は、ポケットにある自分用の合鍵を卓上に置いた。

 鍵から指先が離れ、取り返しのつかない何かを切り離したような喪失感と痛みが私の胸を襲う。

 彼は、恐らく音で鍵が置かれたこと、それが何を意味するのか知ったのだろう。

 こちらを見ないものの身体が強張るのを感じた。

「どうか。どうか、心の片隅にでも、そのようなウマ娘がここにいたことを、覚えておいてください」

 彼がゆっくりと、私の方を見る。

 言いたい言葉を必死に抑えるように、口を真一文字に結んで静かに私の言葉を聞いている。

 私は今どんな顔をしているだろうか。

 最後の最後でやらかしてしまったけど、彼の記憶に残る私ができるだけ魅力的であればいいなと思った。

 それこそ、あとで後悔するほどに。

「今まで、素敵な思い出をありがとうございました。これからは、一元担当としてお付き合いいただきたく。今日は、失礼します」

 そこまで言って一礼をすると踵を返してまとめてあった荷物を手に取ると、出口へと歩いていく。

 彼は何も言わない。

 私が喋るなと言ったからだろうか。それとも。

 ですが、それももう、終わったこと。

 迷いの晴れた足取りは思ったよりも強く、そして軽かった。

 これでよかった。

 気持ちの整理もついたし、私はまた次の日々へと進んでいける。

 依然、彼は席を立つような気配を見せなかった。

 でもいい。もう挨拶は終えた。

 外に出て後ろ手に扉を閉める。

「ふぅっ……くっ」

 いいわけなんてあるはずがない!

 部屋を出た瞬間、強がりの糸が途切れてまた涙が後から後から溢れてくる。

 せめて、嗚咽は漏らさぬように唇を噛み締める。

 決心が揺るがぬうちに階段を駆けて下る。

 一歩一歩、最も大切にしていた感情から遠ざかっていくのが辛かった。

 外へ出て、私は走った。

 もう後ろは振り返らない。

 未練を残さない。

 断ち切って進むと決めたのに、心はずっと彼の方へと戻ろうとしてしまう。

 私の決意が負ける前に、いち早くこの街から立ち去りたかった。

 幾度と走った専用レーンを突きすすむ。

 今までも、前へ前へと進むために走り続けた道だ。

 きっと、今回も私を導いてくれるはず。

 そんなぼんやりとした期待もあったかもしれない。

 にじんだ視界から見るなじみ深い風景を横目にしながら駅へと辿り着く。

 荒い息を整えながら、私はわき目を振らず駅に入っていく。

 私の有様にすれ違う人の何人かは驚いたような表情になる。

 構わない。もうほぼ戻ってこない街だ。

 袖で目元をぬぐうと、電光掲示板を見上げる。

 まだ20分もある。

 それでも一刻も早く逃れたかった私は、そのまま改札をくぐってホームへと足を進めた。

 乗車位置に立って、空を仰ぎ思う。

 もっとうまいやり方はなかったかな、と。

 とても、綺麗な終わりとはならなかった気がする。

 一方的に言い募って出てきてしまったし。

 せめて彼の言葉をしっかり受け止めるべきだったか。

 いや、多分どんな言葉でも私は揺らいでしまっただろう。

 あれで正解だ。

 彼はとてもやさしく、私をいつでも尊重してくれるから。

 喋るな、動くな、と言えば彼は従うだろうとあの瞬間で理解していた。

 でもほんとは……ほんとはどうして欲しかったのだろう。

 私は首を振ってその考えを振り切る。

 せんのないことだ。

 終わったこと。今自ら断ち切ってきたこと。

 電車の到着を知らせる構内放送が流れる。

 遠くで、電車の警笛の音が聞こえる。

 もう、これで本当に最後だ。

 トレセン学園での私はこれで過去の一ページへと、過ぎ去った記憶として心のアルバムに加えられるだろう。

 そうやって、あとで思い出して、こんなこともあったな、と笑い飛ばせるくらいになるまで、ここにはもう来まい。

 電車がホームへと入ってくる。

 風圧にスカートと髪を押さえながら、そう思った。

 ドアが開き、車内へ入って入り口に向きなおる。

 早く閉じろ、閉じろと念じながら目をつむる。

 動きそうになる脚を押さえる。

 私の理性とは別の部分が、このドアが閉まると本当に終わりになると理解しいているのだろうか。

 奥歯をかみしめて、不動を貫く。

 また来れる。いつか、想い出に変わった時。

 一人の元担当ウマ娘として、旧知の元教え子として訪れる日が来る。

 それまでは。この胸にまだ燻る残火に焦がれつつ、その痛みを忍びましょう。

 発車メロディーが鳴り終わり、いよいよとなる。

 私は瞑目したまま、その時を待つ。

 閉扉する警告音が発せられ、これまでのすべてに心の中で礼をしようとしたその時。

 胸に当てて痛みに耐えていた私の腕が、何者かに引っ張られて……

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

「きゃっ」

 目を閉じていた私は抵抗もできず、何か大きなものに顔から突っ込んでしまった。

 突然の事に気が動転していると、上から荒い息遣いが聞こえる。

 鼻に触れた微かな匂いで分かった。

「と、トレーナーさん……」

 見上げると、私の腕を掴み、蒼白な顔を汗だくにしながらも、なんとか息を整えようとしている彼の姿がそこにあった。

「ま、間に合った……」

 彼は心から安堵したようにふにゃりと笑う。

「どうして……」

 何についてどうして? なのか、自分でもわからなかった。

「今手放したら、二度と会えないような気がして……」

 彼は、荒い息を未だに吐きながらも、私の問いに答える。

「そんなことは! いずれまた来ます」

 私は彼の手を振りほどこうと、掴まれた左手を引いた。

「いずれっていつだよ」

 でも、怒気を孕んだ声と共に彼に強く引っ張りなおされて、さらに一歩前に詰める形となってしまう。

 私の目線にかがんだ彼の顔が、瞳が、体温までもがすぐ目の前に現実のものとして私の感覚に飛び込んでくる。 

「知りません。それでも別に二度と会わないわけではないです。それではご納得頂けないのですか?」

 初めて怒りの感情をぶつけられた私は戸惑いながらも、強がって睨み返してしまう。

「ああ、納得できないね」

 いつもならそれで怯んで離してくれるような彼だったのに、今日だけは強く強く私の視線を受け止めている。

 私の力なら、彼の手を振りほどいたり、つき飛ばしたりできるはずなのに、気圧されて動けない。

 いや、それ以外の感情だったかもしれない。

「そんなの勝手すぎますよ! 私にどうしろっていうんですか?」

 逆に私は思わず目をそらして、彼にぶつけるように問いただす。

「とりあえず、うちに戻らないか?」

 彼は、一転優しそうな声で、返してくれる。

 怒られた子供が、最後優しい言葉を親に投げかけられて泣き出してしまうように、緩んだ私の目から涙がこぼれそうになってぎゅっとつむる。

「お断りします」

「……」

 彼は、そこで初めて私の腕の力を緩めた。

 私は彼の手をやんわりとほどくと、瞑っていた目をゆっくりと開いて、一転放心したような彼を見上げる。

「ここまでしたからには、ちゃんと説明して欲しいです」

 そんな彼に助け舟を出すように言葉を求める。

 あいまいじゃない、ちゃんとした言葉。

 さっき、逃げてしまった彼の気持ちに向き合おうと思った。

「俺は、グラスの人生にちゃんと関わっていたいんだ」

 彼は放心していた表情を改めるように顔を手でひとぬぐいすると、そういった。

「それはどういう意味でおっしゃっているのですか?」

 薄ら理解してしまって体温がにわかに上がり鼓動が早くなるのを、まだ勘違いするな、と極めて平静を装って彼に確認する。

「わからない。もう色んな感情が混ざり過ぎて良くわからないんだけど」

 彼は、首を振ってそういった。

「ちゃんと聞きたいんです。お願いします」

 私は、そう言って、彼のその戸惑いをはらんだ瞳をしっかりと見据える。

 まとまっていないくてもいい。

 私の欲しい答えじゃなくてもいい。

 彼が追いかけてきてくれた理由を、彼が2年間抱えた想いをしっかりと聞きたかった。

「……俺はね、グラス。君の担当トレーナーとして、もちろんのこと信頼と親愛の感情を抱いていた。夢を託していた。運命だと感じていた。でも重要なのはそこじゃない。一人の人間として素直に、君の生き様に尊敬と憧れを抱いたんだ。それほどまでに、君の走る姿は魅力的で、信念をもって生きる姿は美しかった。でも……」

 彼は、複雑に絡まった感情を一つずつ解いていくように、とつとつと語り始めた。

 鼓動がどんどん早くなる。

 一区切りつけた彼は、逡巡言い淀んで、更に言葉をつづけた。

「いつからかは覚えてないけど……一人の、その、異性としても、徐々に惹かれるような気持ちがあった。自分でも少し驚いたよ。一回りも下の子にだよ。でもそれは絶対に表に出したくないと思ったんだ」

 なぜ?と問いかけたかった。

 言ってくれれば、いやあの日々の最中でその想いを少しでも表現してくれていれば、こうはならなかったのに。

 彼は私が問うているのを察しているように、そのまま言葉を続ける。

「だって、俺たちの日々には二人だけで築き上げた何か尊い宝物のような関係があって。積み上げた確かなものもあって。それを壊したくなかったし、なにより邪な想いを抱いてしまうのはその日々を汚してしまうような気がしたから」

 彼はそう言って弱々しく笑う。

 ああ、彼は。どこまでも誠実で。だからこそ……

 うれしいような、彼の葛藤を想って苦しいような、ないまぜな気持ちになって、つと涙がこぼれて頬を伝う。

「さっきも、グラスが区切りをつけて前に進むなら、離れていくなら、それがお互いのためだとも思ったよ」

 彼は、あのとき、そんなことを思っていたのだ。

 私が感情を爆発させてしまった裏で。

 思い出して、新たにちょっと恥ずかしい気持ちも湧き上がって、更に顔が熱くなる。

 彼は、そこまで言って一呼吸置くと、ふにゃりと笑って頬を掻いてつづけた。

「でも、いやーダメだったな。もうこれで終わりかって思ったら、もう今までのグラスと会えなくなるのかと思ったら、自転車で爆走してた」

 彼のまっすぐな想いがうれしくて。

 私のためにしてくれたすべてが愛おしくて。

 今すぐ抱き着いて顔を埋めたい衝動に襲われながらも、スカートのすそを握りしめて、じっとその場で彼の言葉を待つ。

「その、まだ間に合うかな?」

 彼は、問う。

「……なにが、でしょう?」

 私は問い返す。

 わかりきった問答だけれど。

「グラスはこの先どんな大人になって、社会に出てどう活躍するのかわからないんだけど、俺はそんなグラスのこれからにちゃんと関わっていきたいんだ。今まで以上に支えたいし、その、隣にいたいんだ。グラスワンダー、君の人生を一緒に歩かせてほしい」

 彼の言葉はとても、とてもうれしかった。

 でも、もっと直接的で、確かな言葉が欲しかった。

「……はっきりちゃんと言ってください」

 私がまた迷わないように、彼にどういう対象として見られているのか、心に刻んでほしかった。

 彼はぎこちなく頷くと、一瞬瞑目し大きく息を吐いて、再び開いたとき決意のような色が見えて。

「だから……け、結婚してください!」

 彼の、大柄な体から発せられる声が駅中に響く。

「なっ……!」

 いろいろ過程をすっ飛ばした彼のプロポーズに、平静を保とうとしていた態度はあっけなく崩れ。

 彼も口走って、同じようにあっとした顔をして。

「あ、間違え……」

 そのしまったという表情から彼自身いっぱいいっぱいの中で発言したのがありありとわかった。

「その、間違えでなくてもよいのですが……お気が早すぎますしその……さすがに大声で叫びすぎです」

 恥ずかしさの限界を超えて俯きながらも、駅のホームの人がいる方向へ指を指す。

「えっ……ああ~」

 彼は、やっちまったと言うように、苦笑いすると、そのままフリーズしてしまった。

「仕方のない人ですね……ほんとうに」

 彼の慌てように逆に落ち着きを取り戻すと、私も表情を崩して、つい笑ってしまう。

「ご、ごめ……」

 彼が謝ろうとするのを遮って、私は答えを返す。

「こんな気難しい頑固者でもよろしければ……不束者ですが、よろしくお願いいたします」

 しっかりと腰を折って答えたけれど、その実顔から火が出るように真っ赤になっていると自覚していたための照れ隠しだった。

「あ、ああこちらこそ」

 彼は、抜け出ていた魂が戻ったように、はっと、表情を改めた。

「そ、その恥ずかしいので、戻りませんか……おうちに」

 そうなって二人の間の話が落ち着くと、途端に周囲の目線が痛い。

 日も暮れ切った頃、まばらではあるもののそこそこいた乗客たちが一様にこちらを見ている。

「そうだな……帰ろう!」

 彼も顔を真っ赤にして、周囲を伺う。

 このあと、成り行きを見守っていた方々よりそれぞれ思い思いの拍手や声掛けで祝福され、私たちは何とかそれに愛想笑いで答えながら、足早にホームを後にするのだった。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

帰り道は彼の自転車の後ろに乗せてもらった。

 自転車の荷物載せの部分に横乗りして、右手を彼の腰にまわしている。

 どっかいつかにみた映画やドラマの一シーンようだ。

 またはいつか、私がランニング中にけ怪我をした時も、似たようなことがあった気がする。

 私は口元を緩めて、腰にまわした手にぎゅっと力を込めた。

「トレーナーさん、聞こえますか?」

 あまり周りに聞こえないようにトレーナーさんに話しかける。

「ああ、聞こえてるよ」

 トレーナーさんは振り向かずにそう答える。

 先ほども思ったが、こんなに近くで見上げるのは殆ど初めてかもしれない。

 今さらながら胸が高鳴ってしまう。

「その、本当によろしいんですか? 私、その、かなりめんどくさいですよ?」

 トレーナーさんが、少し笑ったような気配がする。

「それがいい」

 そう短く答えた。

「本当ですか? その、一度決めたことを曲げないし、妥協もしないですよ?」

 彼の背中に頬をつけながら、また聞き返す。

「そこに惚れたようなもんだ」

 また彼の短い答え。

「たまに、独りで抱え込んで、暴走してしまうこともあります。貴方を振り回して、傷つけてしまうかも」

 そういって少しだけ手に力が入ってしまう。

「君に振り回されるなら本望だよ。今までとさほど変わらない」

 彼はサドルを掴んでいた手を、少しの間自身の腰にまわされた私の手に重ねる。

「う……仲の良い人ほど厳しくなる時もありますし、辛辣なことも言っちゃいますよ?」

 その返しと、いきなり触れられた風で冷えた手に、ドキッとしてしまう。

 驚かされたお返しにすこし意地の悪い言い方になってしまった。

「あーそこは」

 彼は天を仰ぎながら、返事してもよいものか答えあぐねる様に逡巡し始める。

「そこは肯定してくれるところですよね?」

 私は自然と笑顔になりながら、彼に確認する。

「優しくしてほしいなー、なんて、いてっ」

 彼はちらっと振り返って、そんなことを言う。

 背中にまわしていないほうの手で彼の背中を軽く小突く。

「もうっ……他にも」

 大げさに痛がる彼に苦笑しながら、さらに続けようとすると……

「グラス」

 彼は再びちらっと背後を振り返って私の名を呼んで遮る。

「は、はい」

 その声がどことなく真剣みを帯びていて、私は見上げた状態で、固まってしまう。

「それもこれも全部ひっくるめてグラスワンダーだろ? 一個でも欠けたらそれは君じゃない」

 彼は前に向き直るとそう言った。

「……」

 私は続きをじっと待つ。

 カラカラと音を立てて回る自転車の車輪の音がやけに大きく聞こえる。

「俺は君が君であること、その全てが好きなんだ。だからこそ、ずっと支えていきたい。だから、ま、そのままでいてくれよ」

 最初からだ。最初から、私のすべてを受け入れて、慈しんで支えてくれたから。

 時には私の性格を分ったうえで対立し、言葉を重ねて私の理解をじっと待ってくれた。

 頑固なくせに本心を語らず、自分で完結しようとする私を諦めず、一歩ずつ距離を詰めてくれた。

 私が私であることを肯定し、しかし間違った道を歩まぬように導いてくれた。

 最初から決まっていたのだ。

 私にとっては、もう彼じゃないとダメで。

 わかってしまったからには、二度と離れられないだろう。

「ずるい」

「なんか言った?」

 彼が私のぽつりとつぶやいた悪態に反応する。

「前みてください!」

「わ、わかったよ。睨むなよな~」

 それに対して少し膨れて睨むと、ぼやきながらも前を向いた。

「私も好きです。貴方のすべてが」

 彼の背中に顔を埋めてつぶやいたその言葉は彼の耳には届かない。

 それでいいと思った。

 いかに私が彼の事が好きかどうかは、これからゆっくりわからせていけばいい。

 まだまだ先は長いのだから。

 そっと私は微笑んで、トレーナーさんの肩越しに空を見上げる。

 夜も更けて空に散らばる星たちが、いっそうに輝いて見える。

 月もなんだか一層綺麗に見えるのは、主観の問題なのかもしれない。

 それでも、この人と一緒だからなのかも、と思うと、体温をもっと感じたくて彼の背中に頬も耳もくっつける。

 早鐘を打つような心臓の音は、彼の物か私の物か。

 触れた暖かさが確かに互いを伝えあう。

 私はその温もりに浸りながら、そっと目を閉じて身を委ねるのだった。

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

帰り道は彼の自転車の後ろに乗せてもらった。

 自転車の荷物載せの部分に横乗りして、右手を彼の腰にまわしている。

 どっかいつかにみた映画やドラマの一シーンようだ。

 またはいつか、私がランニング中にけ怪我をした時も、似たようなことがあった気がする。

 私は口元を緩めて、腰にまわした手にぎゅっと力を込めた。

「トレーナーさん、聞こえますか?」

 あまり周りに聞こえないようにトレーナーさんに話しかける。

「ああ、聞こえてるよ」

 トレーナーさんは振り向かずにそう答える。

 先ほども思ったが、こんなに近くで見上げるのは殆ど初めてかもしれない。

 今さらながら胸が高鳴ってしまう。

「その、本当によろしいんですか? 私、その、かなりめんどくさいですよ?」

 トレーナーさんが、少し笑ったような気配がする。

「それがいい」

 そう短く答えた。

「本当ですか? その、一度決めたことを曲げないし、妥協もしないですよ?」

 彼の背中に頬をつけながら、また聞き返す。

「そこに惚れたようなもんだ」

 また彼の短い答え。

「たまに、独りで抱え込んで、暴走してしまうこともあります。貴方を振り回して、傷つけてしまうかも」

 そういって少しだけ手に力が入ってしまう。

「君に振り回されるなら本望だよ。今までとさほど変わらない」

 彼はサドルを掴んでいた手を、少しの間自身の腰にまわされた私の手に重ねる。

「う……仲の良い人ほど厳しくなる時もありますし、辛辣なことも言っちゃいますよ?」

 その返しと、いきなり触れられた風で冷えた手に、ドキッとしてしまう。

 驚かされたお返しにすこし意地の悪い言い方になってしまった。

「あーそこは」

 彼は天を仰ぎながら、返事してもよいものか答えあぐねる様に逡巡し始める。

「そこは肯定してくれるところですよね?」

 私は自然と笑顔になりながら、彼に確認する。

「優しくしてほしいなー、なんて、いてっ」

 彼はちらっと振り返って、そんなことを言う。

 背中にまわしていないほうの手で彼の背中を軽く小突く。

「もうっ……他にも」

 大げさに痛がる彼に苦笑しながら、さらに続けようとすると……

「グラス」

 彼は再びちらっと背後を振り返って私の名を呼んで遮る。

「は、はい」

 その声がどことなく真剣みを帯びていて、私は見上げた状態で、固まってしまう。

「それもこれも全部ひっくるめてグラスワンダーだろ? 一個でも欠けたらそれは君じゃない」

 彼は前に向き直るとそう言った。

「……」

 私は続きをじっと待つ。

 カラカラと音を立てて回る自転車の車輪の音がやけに大きく聞こえる。

「俺は君が君であること、その全てが好きなんだ。だからこそ、ずっと支えていきたい。だから、ま、そのままでいてくれよ」

 最初からだ。最初から、私のすべてを受け入れて、慈しんで支えてくれたから。

 時には私の性格を分ったうえで対立し、言葉を重ねて私の理解をじっと待ってくれた。

 頑固なくせに本心を語らず、自分で完結しようとする私を諦めず、一歩ずつ距離を詰めてくれた。

 私が私であることを肯定し、しかし間違った道を歩まぬように導いてくれた。

 最初から決まっていたのだ。

 私にとっては、もう彼じゃないとダメで。

 わかってしまったからには、二度と離れられないだろう。

「ずるい」

「なんか言った?」

 彼が私のぽつりとつぶやいた悪態に反応する。

「前みてください!」

「わ、わかったよ。睨むなよな~」

 それに対して少し膨れて睨むと、ぼやきながらも前を向いた。

「私も好きです。貴方のすべてが」

 彼の背中に顔を埋めてつぶやいたその言葉は彼の耳には届かない。

 それでいいと思った。

 いかに私が彼の事が好きかどうかは、これからゆっくりわからせていけばいい。

 まだまだ先は長いのだから。

 そっと私は微笑んで、トレーナーさんの肩越しに空を見上げる。

 夜も更けて空に散らばる星たちが、いっそうに輝いて見える。

 月もなんだか一層綺麗に見えるのは、主観の問題なのかもしれない。

 それでも、この人と一緒だからなのかも、と思うと、体温をもっと感じたくて彼の背中に頬も耳もくっつける。

 早鐘を打つような心臓の音は、彼の物か私の物か。

 触れた暖かさが確かに互いを伝えあう。

 私はその温もりに浸りながら、そっと目を閉じて身を委ねるのだった。

 

 

 


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