グラスワンダーの短編です。


ちょっと強引に通い妻するグラスワンダーがうつつを抜かす話です。

トレーナー×ウマ娘ものですので、苦手な方はご注意ください。

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想いは、走る姿だけが確かに伝え、私たちを突き動かす

トレセン学園から少し離れた喫茶店。

美味しいスイーツを出すことで有名なこの店で、俺は一人のウマ娘と対峙していた。

トレセンの白基調として紫の入った夏服に身を包み、それとアンバランスなマスク……レスラーマスクやマスカラと呼ばれる覆面をつけた少女。

エルコンドルパサーだ。俺自身の担当ウマ娘であるグラスワンダーと同室で何度もライバルとしてぶつかってきた間柄でもある。

そんないつもの勇ましい姿とはかけ離れて、不安げに俺を見て彼女が切り出す。

 

「……ご相談ってなんでしょうか? グラスのトレーナさん」

 嫌な予感を感じているのか、耳が限界まで垂れ下がり、不審がっている。

 折角、わざわざ外の高めの喫茶店で接待をしているにも関わらず、目の前のパフェに手を出しては負け、というように頑なに動こうとしない。

「大したことじゃないんだ。その、グラスがね……」

「あの~できれば聞かずにこのまま回れ右、をして帰りたいのデスが……」

 掌を顔の横に掲げて、そんな殺生なことを言う。

 まぁ気持ちはわかるが、聞いてもらわなければ困る。

「そんな。せっかく頼んだんだからパフェだけでも食べて帰ってくれよ」

 パフェを食べている間に相談を済ませてしまおう。

 そう思いながら、彼女の眼前にて輝くパフェを指す。

 みずみずしいメロンがあしらわれた店で一番高価なパフェに、さしもの彼女も誘惑を断ち切れないようだ。

 辛い物ばかり食べている印象があるというか、グラスからなんにでも謎のホットソースをかける無粋者だと愚痴を聞いていたので心配だったが、杞憂であったことがわかる。

「い、いただきマス…それで、なんでしょうか。グラスがどうかしましたか? なんとなく想像が……」

 おずおずと、パフェに手を付けながら、聞き返してくれる。

 口に運んだ瞬間に、その苦虫を噛み潰したような表情が綻ぶのを見て、俺は話を切り出す。

「うん、よくぞ聞いてくれた。グラスはその、とてもいい子だと思う。その前提でな」

「よ、予防線を張らなくても言いません……」

「うん。ありがとう。あのさ、最近なんでか知らないけど……」

 俺は最近の悩みをエルコンドルパサーへ打ち明けた。

 担当であるグラスワンダーの最近の言動についてだ。

 その間もパフェはどんどんと彼女の口の中へと消えてゆく。

「話は分かりましたし、そうなんじゃないかな~とはずっと思ってましたが……」

 残り少なくなってきたパフェをほじくりながら、そう一旦言葉を切ると俺のほうに向きなおって、

「私にどうしろというのデスか……?」

 耳を再び垂らして、困惑の表情を向けてくる。

「いやその、それとなくたしなめてもらえないかな? 同室の親友の言葉ならさ……」

 俺は頼みたいと考えていた内容を伝える。

「できると思いますか? 私がレース外の事でグラスに勝てた試しが……あったでしょうか」

 基本的に隙のない性格のグラスと、奔放で私生活にムラの多いエルコンドルパサーでは、確かに日々窘められているのは、後者の方だ。

 それでも、彼女は要所要所でグラスに対して叱咤激励を入れるだけの胆力を持ち合わせているのはよく知っている。

「……た、頼むよ。学園一のルチャドーラが情けないことを言わないでくれよ」

 なので俺は用意していたとっておきの殺し文句を言う。

「うっ……それを言われると弱いデース……」

 案の定彼女は、自らの称号と立ちふさがる困難の間で思い悩む。

 そもそも、他のトレセン学園生にルチャ・リブレを嗜むウマ娘がいるのかは知らないが……。

 両手の人差し指を頭のあたりでグルグルと回して、体全体で悩んでいることを表現している。

 グラスもここまでわかりやすい娘だったら良かったなぁ……と思いながらも、

「じゃ、じゃあ……」

 話をまとめようとする。しかし

「でもでも、その……それはグラスとトレーナーさんで解決すべき問題だと思うのデス……これは私が恐れをなしている訳ではありませんからね!」

 結局彼女は両手を前に突き出してガードするようにすると、そう言って席を立つ。

 律儀にパフェごちそうさまでした!美味しかったデス! とまで早口でまくし立てると超特急で逃げて行ってしまったのだった。

 あとには、盛大にため息をつきながら伝票を見る俺だけが残されたのだった。

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

結局、怯えるエルコンドルパサーの協力を得ることはできなかった。

確かにグラスには時として思わぬ圧力を感じることはあるが、あそこまで怯えるとは、普段の二人の寮生活が思いやられる。

収穫も得られず対策もなく帰宅することになった俺は、トボトボと、自宅への道を歩く。

あまり集団生活が得意でないと自認していた俺は、トレーナー寮には入らずに、裏山へ向かう坂の途中にある少し離れたマンションで独り暮らしをしていた。

坂を上る足がいつもより重い。

傾く日に照らされたベージュ色の建物、その3階突き当りが我が家なのだが……どういうことか、家主がここにいるというのに部屋の電気がついてる。

消し忘れたわけではない。

何故も何もないのだが、部屋の前まで来るとその理由と対面する覚悟をする。

今日こそしっかりと叱るのだ。

いやでも、傷つけたくはないし、悪いことをしているわけでもなく、逆に助かってるし

……などとドアノブを握ろうとしたままその場で立ち往生していると、ひとりでにドアノブが下がる。

ドアがゆっくりと目の前にいる俺を気遣うように開けられる。

隙間からひょっこりと顔を出したのは、グラスワンダー。俺の担当ウマ娘だ。

栗色の髪を後ろにまとめ、いつもの制服の上に、可愛らしいわかば色のエプロンを締めている。

 

「あれ? どうかなさったんですか?」

 ドアから顔を出したまま、グラスが小首をかしげながら俺を見上げてくる。

 くりくりっとした青い瞳に見上げられた瞬間、先ほどの覚悟は吹き飛び、相貌を崩してしまう。

「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」

 それに対し、グラスも微笑み返すと

「おかえりなさい、トレーナーさん」

 というのだった。

「……ああ。ただいまグラス」

 これが悩みの種であった。

 何故だか知らないが、ここ最近のグラスは学園でのトレーニングを終えると、俺の部屋にやってきて世話を焼くようになっていた。

 それが悪いことだとは言いたくないし、できる限り彼女自身のやりたいことに付き合いたいという気持ちはあるのだが、程度もあるよなと思う。

「鞄お預かりしますね~。今日は少し遅かったですね? 何か御用事でも?」

 鞄を渡した後、グラスが振り返らずに言う。

 左右に揺れる尻尾がグラスの喋りに合わせて動くので、尻尾と会話している気分になる。

 まさか、本人の事について他のウマ娘と密談していたなどとは言えず、忙しかっただけ、と伝えた。

「そうですか……では、先にお風呂に入ってゆっくりなさってください。温めなおします」

 そういって、俺の鞄を所定の位置に戻すと、ぱたぱたとスリッパで音を立てながら、小走りでふろ場の方に消えていく。

 おそらく、いつもの帰宅時間を予想してお湯を沸かしてくれていたのだろう。

 事前に連絡を入れるのがこういった場合の筋なんだろうが、そもそもこれを止めさせたいがためだったので、複雑な心持ちである。

 ネクタイをほどきながら、初動は失敗だな、と独り言つ。

 グラスワンダーは、初めての担当ウマ娘で、共に成長しながら3年を共に過ごし、外の学校で言えば今は高校2年生になった頃の娘だ。

 つい先月ごろにURAファイナルズ中距離優勝という偉業を成し遂げたばかりだ。

 その反動なのか何なのかはよくわからないが、その頃よりほぼ毎日我が家に来ては夕飯を作って食べて帰るという日々を過ごしている。

 箪笥の方を見る。

 実家から持ってきた5段タンスは男一人で使うには広く、一番上の段がグラスに占領されていた。

 一番上の段は簡易的なカギがかかるようになっていて、その鍵ごと奪われた形だ。

 奪われた、というよりは俺がグラスに甘いのがいけないんだが。

 中には先ほどのエプロンやその他必要なものが入っているらしい。

「お風呂、今温めなおしてますから、ちょっと待っててくださいね~」

 俺がボケっと、箪笥の方を眺めていると、お風呂場から戻ってきたグラスが、キッチンへと向かっていく。

 我が家はカウンターを挟んでリビングとキッチンが併設されているので、キッチンの様子がよく見える。

 栗毛の尻尾を小気味良く振りながら、決して広くはないキッチンで料理をしている背中を眺めるのは正直好きだ。

「グラス」

 そんな背中に声をかける。

「は~い?」

 ぴくっと耳が反応して、やや遅れてグラスが振り向く。

「いつもありがとうな」

「いえいえ、好きでやっているだけですので~」

 一瞬口を開けて驚いたようにしながらも、すぐに口に手を当てながらニコッと微笑む。

「うん。それでもさ。ただ、その、寮生活は大丈夫なのか?」

 すぐに鍋に向きなおったグラスの背中に問いかける。

「全然問題ありませんけど?」

 耳だけをこちらに向けながら、グラスは振り向かずに答える。

「あ、いや、でもほら、夕食外で食べてばかりだと、変な噂されたりしないのか?」

 振り向いてはいないが、あごのあたりに人差し指を当てて、小首をかしげているがわかる。

「いえ、別に食堂に行かなくても……自炊している、といえばさほど変に言われませんよ?」

「そうか……帰るのが遅いとか」

 表情が見えないのは少し不安だが、何とか糸口を見つけようと続けてみる。

「皆さん、トレーニング後寄り道されたりしているので、意外と遅いんですよ?」

「そうか……それじゃあ」

 次はどんな恐れがあるか、と考えながら続けようとすると

「あの、ご迷惑ですか? こうやって来るの……」

 くるっとこちらに向きなおって見せた表情は、とても悲しそうで。

 滅多にしない顔にそれ以上詰問を続けられなくなる。

「迷惑だなんて。ただ、毎日来てもらってて、グラスも無理してるんじゃないかって」

 俺は慌ててフォローの一言を入れる。

「なら、大丈夫ですよ。こうやってトレーナーさんのお世話をするのもリフレッシュになってますので」

 頬に手を当てて微笑む彼女にそれ以上の追及をするのはあきらめた。

「そうか……うん、ならいいんだ」

 正直なところ、グラスが我が家に来てくれること自体は本当にうれしいことだし、他のトレーナーより強くウマ娘に好かれているのはひそかに誇らしくもある。

 ただ、先述の通り、トレセンと言えど外では高校2年生。

 トレーナーは外の世界で言えば……体育教師か部活顧問のようなものだろうか。

 体育教師の家に通う女子高生、という絵面はどう見ても問題臭しかしない。

 ただの女子高生ならいざ知らず、グラスワンダーは今や時のスターウマ娘。

 いつ下世話な記者にすっぱ抜かれたりしないものか冷や冷や物なのだ。

 そうじゃなくても、彼女にはこうやっている時間をレースへの考察か、もしくは友人との交流などに充てて欲しいのだ。

 どう考えても今の状況はいい方向にはないような気がしている。

 そう考えているのは俺だけのようで、先ほどのように躱されてばかりだ。

 愚痴を頭の中でこぼしていても食器の用意をしながらでは説得力はない。

 グラスに見られないように自嘲気味に笑う。

「今日はですね、時間があったので筑前煮にチャレンジしてみたんです。 筑前煮って奥が深いんですよ~。具材一つ一つの仕込みがですね……」

 楽しそうに両手を顔の横で合せる姿は、年の割に落ち着いた性格も相まってどこかの若奥様のようだ。

 マメ知識を言いながら盛り付けてくれる品々は毎回おいしそうで、無論実際においしいのである。

 筑前煮はごった煮だと思われがちだが、プロは一つ一つ別々に調理するらしく、おそらく見た目にはわからない工夫が丁寧にされているのだろう。

 料理は愛情と言ったりもするが、こういった食べる相手の事を考えて考えて時間をかけることを総称しているのだと、グラスを見ると思わずにいられない。

「どうかしましたか? 」

 グラスは、物思いに入ってしまった俺に小首をかしげる。

「ああ、いや。グラスはいいお嫁さんになるなって」

 頬を掻いてついそんなことを口にする。

 口にしてから、変ことを言ってしまったか、と冷や汗が流れる。

「えっ、急にどうなされたんですか……」

 ふわふわさせていた耳をピンっと立てて、グラスが驚いたようにこちらを見る。

 ま、まずかっただろうか。

「悪い悪い。誉め言葉だよ。グラスと結婚する人はきっといい人生を送れるなってこと」

 菜箸を持ったままの手で顔を半分隠すグラスに慌てて言い方を変える。

「それは……」

「ん?」

 ダイニングテーブルを挟んで立つ俺の顔を見上げて、グラスが何かを尋ねようとしてくる。

 その瞳から少し真剣めいた色を読み取れ、少し身構えてしまう。

「いえ……ということは、今トレーナーさんは幸せということでいいんですよね?」

 グラスは、人差し指を立ててそんなことを口にする。

 先ほどの色は消え、気のせいだったのかのように感じられた。

「あ、ああ。練習台として体験させてもらっちゃうのは、ちょっと悪い気もするけどね」

 そんな軽口を叩きながら席に着く。

「グラス?」

 正直少しおののいた。

 グラスは、席に着いた俺の顔を感情の読み取れない、凄みのある表情で見つめていた。

 数舜の事ではあったが、少し、時間が止まったようにも感じて、こちらも動けなくなる。

「あっ……いえ、麦茶、出してきますね~」

 俺がグラスに問いかけると、固まっていた事実に自ら驚いたようにし、冷蔵庫の方へと駆けて行ったのだった。

 

今日もしっかり夕飯をご馳走になってしまうと、二人でとりとめのないことをお茶を挟んで会話した。

ここ1、2か月のいつもの風景になっているのもあって、非常に心地の良いひと時だった。

この時間になるといつも、今は彼女にとってこういった時間を大切にしながら休息したい期間なのかもしれないな、結論してしまう。

それは、3年間を休みなくともに走り続けた俺自身の意志でもあったのかもしれない。

焦る必要はないさ、と目の前で柔和に目を細めてにこにこしている顔を見て思うのだった。

 

「それでは、今日もゆっくりと、おやすみなさいませ。筑前煮は朝も食べてくださいね~栄養満点ですから」

 ぺこりとお辞儀をするとそういってドアから出ていく。

「わかったよ。今日もありがとうな……いやほんと無理しなくていいからな?」

 俺も追いかけて外に出て見送る。

「大丈夫ですよ。私がしたいようにしているだけなので、気にしないでくださいね」

 少し困ったような顔をしてそういう彼女に、またも言葉を重ねられなくなる。

「ああ。それじゃおやすみ。気を付けて帰るんだぞ? 一応着いたら一言書いといてね」

 ウマ娘が一般の女子高生が警戒しなくてはいけないような事象に対してターゲットになることはないとは思うが、それはそれとして年頃の娘を預かる身としては心配が尽きない。

 帰ったら必ず連絡用アプリに一言残すように言づけていた。

「はい~。トレーナーさんも過保護ですね~。では、失礼いたします」

 そういって眉を下げると、廊下を歩いて行った。

 何度か振り返るグラスに手を振り、彼女が角に消えるまで見送ると、部屋へと戻っていくのだった。

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

トレーナーさんのおうちを後にして坂を下る。

少し小高い所にあるマンションからの帰り道は、ふもとの街の明かりが煌々として見えて美しい。

一つ一つの灯にそれぞれの営みがあるのだろうか? と考えながら帰るのが好きなのだ。

坂を少し進んで振り返ると、先ほどまでいたマンションのベランダからトレーナーさんが見送ってくれている。

こちらから手を振ると、トレーナーさんも返してくれる。

秘密のやり取りをしてるみたいで、この瞬間も好きだ。

腰を折ってから身をひるがえして進む足取りは軽い。

私は、きっと恋をしている。

その事実がとても、とてもうれしいのだ。

ふもとまで降りると、先ほどまでの熱も冷めてきて、私に一つの事実を思い出させる。

先ほどのトレーナーさんとの食卓でのやり取りもそうだが、彼は私がやってくることを止めさせたいような節がある。

少なくとも、ああいうことを言うのはデリカシーがなさすぎる。

そもそも私が、対象外だと言われているような気がして。

本来そこまで焦らず大人になっていく過程で認めさせればいい、と思っていたのだが、そうもいかない理由があって、こんなことをしている。

 

…………

 

そう……それはある日の事、URAファイナルズ明けの穏やかな春の日。

トレーナー室で今年度のトレーニング計画について話しているとき、私の元に青天の霹靂が落ちた。

トレーナーさんが座る執務机の目の前で資料をパラパラとめくりながら、雑談をしていた時。

いきなりその話題が私の耳に入ってきたのだ。

 

「い、今なんと? 」

 耳を疑うような内容に、引きつる顔を何とか繕いながら、聞き返す。

「え? ああ。先週末に葵さんと下見に行ったんだよ」

 こともなげに語るトレーナーさんに卒倒しそうになりながら執務机に手をつく。

「えと、あの、聞きたいことが五月雨に降ってきて……まずあの、どちらに……」

 頭痛がしてきた。

 頭を押さえながらも、今一度一つずつ問いただす。

「大丈夫か? ほら、福引の時に有名な温泉宿あっただろ。あそこだよ。ミークをねぎらいたいから、余念がないように下見に行きたいとかで」

 結局にんじん1本当たっただけだった記憶があるが、その特賞の話をしているようだ。

 温泉……温泉だと? 自分の体内温度が上昇していくのを感じる。

「なんで、トレーナーさんまで行く必要があったんですか……?」

 下見というなら一人で行けばいい。

 そもそも、下見ってなんだ……建前にしか思えない。

「ん? なんか、第三者の目線も欲しいとかでさ。俺なんかの意見が参考になる? とも思ったけどさ。葵さんにはお世話になってるから」

 彼は特にその点に疑問を持たず、純粋にほいほいついていったようだ。

「二人で、ですか」

 こめかみに青筋が立っていやしないか、おでこ辺りを触りながら辛うじて呟く。

「うん。いやーお互いに余った時間で食事採りながらトレーニング論について熱く語ってな。彼女は名門の出だっていうのに努力を惜しまないところは見習いたいもんだ」

 そんな私の様子にも気づかないのか、うんうんと頷きながら、そんな話をしてくる……葵、さん?

「そ、それは素晴らしいと思うのですが、いつの間に下のお名前で呼ばれるようになったんですか?」

 今度はサーっと体の熱が引いていく。

 冷や汗が背中をじっとりと濡らす。

「え?ああ。桐生院さん、だと長ったらしいから葵でいいって彼女がね。まぁ同い年だしな……大丈夫か?」

 衝撃すぎる情報の濁流に殴られたように、眩暈がする。

「あ、頭が……整理するので少々席を外してもいいですか?」

 目頭を押さえながら、かろうじてだけ言うと、覚束ない足取りでトレーナー室の外へと脱出する。

「ど、どうした……グラス? おーい」

 廊下に出て少しだけトレーナー室から遠ざかって立ち止まる。

 ゴンっ! と音を立て、苛立ち交じりに壁を拳の底で殴る。

 そのまま壁を支えにしながら、情報を整理しようと頭を働かせる。

 まずい。率直な感想がそれだ。

 桐生院トレーナーはお若いながら、とても素晴らしい指導者で、自身のトレーナーの次に尊敬する女性である。

 トレーナー同士が同期同年ということで関わる機会も多く、ハッピーミークと合わせて仲良くさせてもらっている。

 ただ、トレーナーさんが純粋無垢に、二人のお出かけの様子などを土産話として話してくるのを聞いて少し警戒もしていたのだが。

 彼も彼だ。

 付き合ってもいない女性と二人きりで旅行などと……警戒心がなさすぎる。

 警戒すべきは本来、桐生院トレーナーの側なのだが。

 それとも、トレーナーさんは彼女の事を憎からず思っているのでしょうか……嫌な想像が頭をめぐる。

 そもそも年齢や立場の点で大きく後れを取っているのに、そんなスパートを掛けられては。

 レース以上に負けたくないこの戦いをどう攻略すべきか。

 私は腹をくくった。母は言っていた。日本には「男は胃袋を掴め」という格言があると。

 私が和食を練習していたのは、きっとこの時のためだったのだ。

 自分でも恐ろしいほどの闘志が燃えてくるのを体全体で感じた。

 負けない。勝つ!

 

…………

 

……そのように息巻いて、毎食夕飯を作りに行っては、トレーナーさんの身の回りのお世話をすることを初めて約1か月半。

なんだか、手詰まりを感じていた。

トレーナーさんから見たら私はやはり子供なのだろうか。

いつも慈しむような愛情は感じるのだが、それは私がウマ娘で、また守るべき対象だからなのだろう。

所詮は上から下の感情。私は隣に立ちたいのだ。

そのためには、より頑張る必要がある。

トレーナーさんが、ああいうのは心配もあっての事だというのは理解している。

だけど、それでも引けない戦がある。

ちょっと色香で惑わすというのは私の信条に反するし、そういったものがあるかと言われればそれにしてはちょっとスリムに育ってしまった。

大和撫子としてどう戦えばいいのだろうか、そう考えながら寮の玄関をくぐる。

 

「おや、グラス。今お戻りデスか?」

 お風呂上りなのだろうか。

 パジャマを着て、いつもの髪飾りとは違う、シュシュで濡れた髪を束ねたルームメイトが、寄ってくる。

 寮内の、しかも寝る前の格好をしているにもかかわらず、律儀にマスクをしている。

「エル、ただいま帰りました」

 靴を下駄箱にしまいながら、そう答える。

「最近いつもどこほっつき歩いているのデスか? 皆さんも心配していますよ?」

 背中から心配そうな声が掛かるのに少し罪悪感を覚える。

「大丈夫ですよ~。トレーナーさんとトレーニングをしているだけですから」

 努めて明るく答えながら振り返る。

「……ほんとデスか? できるだけ早く帰ってきてくださいね~。エルがみんなに説明するのもう疲れました~」

 半目で見ているエルが、やれやれといった風に両手を上げて、ジェスチャーする。

「あら、ごめんなさいねエル。そうですね。あまり遅くならないよう、気を付けますね」

 エルの方に歩いていきながら少しだけ早く帰ったほうがいいのかなと思う。

 ただ、トレーナーさんとの時間も大事にしたいし、少し迷う。

「グラスと過ごす時間減って、みんな寂しそうですし、エルエルもちょっとだけ、ほんのちょーっとだけ寂しんぼなんですよ?」

 エルがまなじりを下げて、悲しいという気持ちを前面にそういう。

 そうやって素直に感情を表現できるのはうらやましいなぁと思う。

 実際、とても申し訳ない気持ちになってくる。

「それは、本当にごめんなさい……やらないといけないことがあって、その」

 歯切れ悪く私はそう答える。

 そんな私を見てエルは苦笑すると、パンとっ手を打ってつづけた。

「ハ~お説教はおしまいデス! お、私がグラスにお説教するのは初めてじゃないデスか!? 遂に、エルエルはグラスに勝ちました! レース外においてもエル最強!」

 寮では静かにしろと、言われているのに騒ぐエルに苦笑する。

「もう、エルったら……私もお風呂入ってきますね」

 本当に可愛らしい。こういう素直さが少しでも私にあれば、物事もうまくいくのだろうか。

 そう思いながら、しばし友人に別れを告げて、お風呂へと向かっていった。

「ハイ! お部屋で待ってますよ!」

 背中からかかる声は、どこか切実な気もして、思わず振り返ったが、すでにエルは背を向けた後だった。

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

グラスのトレーナーに相談を持ち掛けられて以降、私もそれとなくグラスには苦言を呈するようになった。

あの様子ではなかなかトレーナーからグラスを強く叱りつけるということもできてはいまい。

そうと意識して親友の姿を観察していると、心ここにあらず、という状況が多いように思う。

私は、異常なまでのストイックさとたおやかな精神を持つ彼女の事を尊敬し、ライバルだと互いに認め合っていたとも思っている。

見た目はあんなにおとなし気なのに、他の誰にも負けない情熱を秘めているギャップも好きだ。

虚勢を張ってキャラクターまで作って自らを鼓舞しなくてはならなかった私からすると憧れにも似た気持ちを持っていた。

彼女がURAファイナルズを優勝した時も、私は別段驚きはしなかった。

それくらいの事はやってのけるだろうという信頼があった。

寧ろ誇り高い名ウマ娘のライバルとして奮起せよ、と叱咤を受けた気持であった。

絶対に本人には言わないけど。

だが、今の彼女は正直見ていられるものではない。

心ここにあらず、といったが心がレースにないように感じる。

私の事も他のライバルたちの事すら見ていない。

走りに意志を感じない。

あの情熱は誇り高き王者の姿は見る影もなかった。

 

 

「グラス、またお出かけするのデスか?」

 今日も練習を早めに引き上げたグラスと、敢えて一緒に寮に帰ってきた私は、私服に着替えて出かけようとする彼女に声をかけた。

「ええ。門限前には帰ってきますので、ご心配なく」

 振り返らずに彼女は言う。

 私は、自分の声が震えそうになるのを自覚して、必死に抑えて続ける。

「それは、レースの研究より大事なことなのデスか……?」

 私の言葉なら、彼女に届くかもしれないと一縷の望みを賭けて。

「比べる話じゃないですよ」

 彼女の足が止まる。

 私は、彼女の言葉を否定する。

 彼女が振り返ってくれることを期待しながら。

「いいえ、比べる話です。ライバルとして、私も、スペちゃんまでも無視をして行くことですか?」

 今日は、敢えて同期のみんなで過去のレース研究をする計画を立てていた。

 彼女が出かける時間を見計らって。

 きっとそこまでお膳立てをすれば彼女は踏みとどまるだろうと祈って。

「エル、それ以上は」

 でも、彼女は断った。

 その時の無念さたるや。自分の掌についた四条の傷跡をそれぞれの指でなぞる。

 そして今も、彼女は振り返らない。

「グラス……」

 声の震えが止まらない。

「ごめんなさい」

 グラスはそういったまま、後ろ手にドアを閉めて、部屋を出て行ってしまった。

「くううううっ」

 私は枕に顔を埋めると、抑えきれない気持ちを懸命にこらえようとした。

 しばしこらえてこらえて、そして顔を上げて決心する。

 心に燻ってきたこの怒りが熱い息となって口から漏れる。

 言葉は届かない。

 ならば、この脚で。レースで、あの横顔をぶん殴るしかない。

「うおおおおおおおお!」

 私はあらん限りの大声で天に向かって咆哮した。

 体中からあふれる闘志が、抑えきれず、部屋を飛び出す。

 驚く寮生達の間を縫って、寮の入り口まで駆けていく。

 すでにグラスの姿は見当たらず、外に出ても影も形もない。

「覚悟、していてくださいね。グラス!」

 握りこぶしを左手にぶつけるとそう唸った。

 騒ぎを聞きつけた上級生たちがドタドタとやってくる音を聞きながら、抑えられない自分の怒りを闘志を燻らせて、長時間に及ぶお説教と罰に勤しむのだった。

 そして、グラスがいれば反省文の書き方をきっと教えてくれていたんだろうな、と思いちょっぴり泣いてしまった。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

エルと少しだけもめた翌日。

私は生徒会室に呼ばれていた。

ノックをする。

入りたまえ、という声がしたので戸を開けて入室する。

「失礼します」

 中には窓際に立っている生徒会長のシンボリルドルフのほかに、誰もいなかった。

 いつもは、副会長のエアグルーヴを中心に多くの生徒会のメンバーが作業をしていると思ったのだが。

「やぁ、グラスワンダー、呼び立てしてすまないね。ほかの者には今外してもらっている」

 私の視線を察したのかそう説明をしてくれる。

 何か込み入った話なのだろうか。

「いえ、ルドルフ会長。何か御用でしょうか?」

 あまり時間もないので早速本題に入る。

「まぁ、立って話すのもなんだ、座りたまえよ」

 そんな私を制し、彼女は対面式のソファに手を向ける。

「失礼します」

 私は入り口側に座らせていただく。

 会長は、同性から見ても惚れ惚れする位長いまつげをした目を閉じ、少し切り出し方を迷うそぶりを見せたものの、数舜で切り替えると本題を切り出してくる。

「ふーっ。単刀直入に言おう。実はその、君が男の人の家にだな、その日々通っているという話が耳に入ってきてな……」

 何とも言いにくそうに、喋る会長を見て、彼女と言えど言いよどむことはあるのか、そんな場違いな感想を抱いていた。

「ああ……」

 内容に関してはやはりそういうことか、というところだ。

「その反応ということは、事実と認識していいのかな」

 会長の目が細まる。

「そうですね。でも、私服に着替えてから行っていますし、個々人の自由の裁量の範囲内だと思いますけれど……門限だって守っていますよ?」

 トレーナーの家、と言えば一発で理解してもらえると思うのだが、男の家、という文脈であまり出したくないと思ったので、手堅い部分で反論に前もって回答する。

「そうもいかない。君はURAファイナルズ中距離にて優勝したほどのスターだ。模範になれとは言わないが、影響は考えてほしい」

 彼女は腕を組んで、眉にしわを寄せる。

 ごもっともではある。私のイメージへの配慮も含んでの発言だろう。

 本当にやさしい人だな、と思う。

「……」

「グラスワンダー、聡明な君だ。私が何を言わんとしているかは、わかってくれていると思う」

 逡巡していると、会長は言葉を重ねる。

 次は返事を聞かせてくれということだ。

「はい……ですが、レースには勝ちます。練習だってちゃんとしていますし、成績も問題ありません。私にとってとても重要なことなんです。どうか、どうかお許しいただきたく」

 私は、深く深く身を折って、会長に嘆願する。

 校則の禁止要綱にもなく、やるべきことはやる、そこが交点だった。

「……認めるわけにはいかない、と言いたいところだが。君ほどのウマ娘がそういうんだ。頭ごなしに否定はできないよ」

 彼女は私の頑なな様子に嘆息するとそう締めくくる。

「すみません……」

 私は改めて頭を下げる。

「いいや、呼び立ててすまなかった。話は以上だ」 

 会長は立ち上がると、そう言って微笑んだ。

「では、失礼いたします」

 何度目かの腰を折り、退出していった。

「ああ。」

 納得はしていない、となんとなくわかる諾意を背中に受けて、生徒会室を後にした。

……………

 

「エルコンドルパサー、これでよかったのか?」

 ルドルフは、自らの執務机に向けて話しかける。

 それに応じるよう、ウマ耳がひょこっと顔を出し、次に持ち主が机の下から現れた。

「はい。わがまま聞いてくださって、ありがとうございました」

 いつになく深刻な顔をする彼女を見て、ルドルフはどう言葉を続ければいいか逡巡する。

 先日、彼女がグラスワンダーの件で暴走していると報告を受けたルドルフは、直接話を聞きに行った。

 二人だけの秘密ということで彼女が打ち明けたことは衝撃的で、頭の痛いものだった。

 それに対して今日直々に話してみると伝えたが、その内容を陰で聞いておきたいと懇願され、今に至る。

「この後は、どうするつもりなんだ」

 ルドルフの問いに対して、彼女は手に握りしめていた一通の封筒を見せてこう言った。

「手はあります。もっとも確実に伝えられる手段が」

 その封筒の文字を見て、ルドルフは目を丸くして、しかし、すぐに表情を戻すと深く頷き返した。

 その文字は……

 

…………

 

 

そう。練習だってちゃんとしている。

レースに向けての調整も怠ってはいない。

問題ないはずだ。

それ以上に負けられない戦いに今挑んでいるのだ。

このレースは人生に1度。しかも2位以下には価値のないもの。

必勝を期す必要がある。邪魔はされたくない。

そのためなら、破廉恥者のそしりを受けようとも、想いを貫き通すのみだ。

絶対に、絶対に負けるわけにはいかない。

この勝負だけは、私は一切をそぎ落としてでも勝つ。

廊下を歩きつつ、私は思いを強くした。

そんなことがあった日の午後の事だった。

最近会話もろくにしていなかったエルコンドルパサーから1v1の模擬レースを申し込まれたのは。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

トレーナー室でトレーニングの進捗度合いやグラスの仕上がり具合について悩んでいると、突然強めにドアがノックされる。

グラスではないな、と思いながら返事をする。

 

「はい、どうぞ」

「よしっ、グラスはいませんね……」

 ガララッとドアを引いて現れたのは、エルコンドルパサーだった。

 トレーナー室の中を覗き込んで、どうやグラスの不在を確認すると、平机の方で資料を広げていた俺に前に大股でやってくる。

「エルコンドルパサー......?」

 隣に立った彼女を見上げる。

「お邪魔します。エルと呼んでください!」

 そういうと、対面側の椅子に腰かける。

「ああエル、で、どうしたんだ?」

「その先日のお話ですが」

 用事を確認する。先日の事……

「あ、ああ。グラスの事か」

「はい。実は今スペちゃんにグラスを食堂へおびき出してもらっています。ですので手短に」

 いつになく真剣な面持ちの彼女に気圧されながら、グラス、スペシャルウィークのことお気に入りだもんなぁと独り言つ。

「お、おう」

「あれから、グラスの事をもう一度考えてみたのデス」

 机の上で両手を組んで語り始める。

「そうか! 協力してくれるのか」

「いえ。トレーナーさんはどう思っているのかをまず聞きに来ました!」

 組んだ手を放して、人差し指をびしっと突きつけてくる。

「おれ、か」

「明らかにグラスは、レースに身が入っていないように見えます。単刀直入に言って、 最近のグラスは腑抜けデス! 」

 エルコンドルパサーは頷くと、中々にすっぱりと評してきた。

「ふ、腑抜け……」

「そうデス! いつも心ここにあらずで、そそくさとお昼や放課後には去って行っちゃうし、寮に帰ってくるのも門限ギリギリ。グラスは一つの事にこだわったりするタイプなので、今は何にこだわっているかは一目瞭然デスが……」

 そう言って俺の方をにらむ。

「……そうだな」

「それでなぜ、グラスを放置しているのデスか?」

 俺が大枠を理解していることを確認すると、そう聞いてくる。

「放置だなんて……」

 俺は思わず言いよどむ。

「トレーナーとしての責任の放棄でもいいデス!」

「俺はグラスが望むように……」

 それ自体は偽りではない。

「それがレースに背くことになってもデスか!?」

 ガバっと立ち上がってこちらにせり出してくる。

「……そうだ。取り戻してほしいとは思っている。だが、彼女の意志が向かなくてはどうしようもないんだ」

 これも偽りではない。

 彼女の言いたいこともわかる。

 でもこればっかりはグラスの納得を得ないと進められないことだ。

 そのための手立てがあまりないのは否定しないが。

「呆れました……」

 彼女は思わずと言った感じで天を仰ぐ。

「すまん」

「グラスも、貴方も! あんなにレースに熱く情熱を燃やしていたというのに! 今や、見る影もありません!」

 部屋中に響き渡り、おそらく外にも漏れてるだろう声量で吼えたてる。

「……」

 言いぐさも言い草だが、否定しきれない自分もいて。

「わかりました……競い合った者としてせめてもの情け! 引導っ! 介錯っ! 冥途の土産っ! 貴方達の最期に敗北をプレゼントしてあげます……」

 途中までは威勢よく。ただ、最後は寂しそうに彼女は宣言した。

「これは果たし状?」

 握りしめたのだろうか、くしゃくしゃの封筒によれよれの字で、果たし状と、ボールペンで書かれたそれを受け取る。

「逃げるのもよし。それまでだったと、思うまで。そうなれば思い残しはありません……では!」 

 いうが早いか。身をひるがえして飛び去って行く。

 それがどこか焦りのようにも感じ、少し気にはかかったが、問いかける相手もなく。

 嵐の去った後に残ったのは、不格好な果たし状だけだった。

 

トレーニングのためにやってきたグラスに、先の話を伝える。

その内容は、まさに衝動的なものだった。

本日夕方、芝2400mで勝負、とだけ書かれている。

模擬レース場、ちゃんと借りれるのかな……

 

「……模擬レース、ですか?」

 俺の内面と同じように怪訝な表情をするグラスにさらに続ける。

「ああ。果たし状だってさ。今日の夕方って書いてあるけどどうする? 」

「急ですね。走ってもいいですが、なぜ突然こんなものを?」

 眉間にしわを寄せて、尋ねるグラスに、はぐらかして答える。

「……さぁ。思うところがあるんじゃないのか?」

 諸々の経緯は伝えるわけにもいかないので、説得に時間がかかるかな、と心配になる。

「うーん」

 腕を組んで思い悩むグラス。

「どうする? やっぱ調整もしてないし断るか?」

 そんなグラスに問いかける。

「いえ、特に逃げる理由もありませんし。走ってきます」

 グラスは思いのほか快諾した。

 きっとエルコンドルパサーは俺たちになにかを伝えようとしてくれているのだろう。

 そんな予感を持っていた。

「そうか。それじゃあ、先方には参加で伝えちゃうな」

 グラスは最後まで納得のいかないような表情のままであったが、最終的には頷き、夕方に1v1レースの運びとなったのだ。

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

 

ギリギリになって会場に着くと、そこは多くの生徒とトレーナーであふれかえっていた。

URAファイナルズ中距離決勝1位と3位の模擬レースとなれば当然のことかもしれないが、すぐに終わらせるつもりなのに大ごとになったなぁと額を抑える。

エルも急になぜこんなことをやろうとしたのか。私が少しレース外の事に目を向けていたから? それの何が悪い? 人生は優先順位をつけなければいけない時は多くある。

レースが1位の座を逃すことだってあるはずだ。

若干の苛立ちを覚えながら、レース場入りする。

周囲からかかる声に最低限答えながら、ターフ上で腕を組んで静かに待ち続けるエルに歩み寄っていく。

目をつむっていて仁王立ちしていたエルは、こちらの気配に応じて、声をかけてくる。

「おや、まだ走る気があったとは驚きデスね」

 こちらを見る瞳は非常に落ち着きを払っていた。

 エルがエルでない様だ。

「エル……なぜこんなことを、いきなり」

 今日の目的をエルに問いかける。

「グラス、言っておきますが、私がこの決闘を思い立ったのは、昨日あなたと会話した後です。どの時点かはわかりますね」

 それに対して、エルは見当違いの回答をする。理由になっていない。

「だからなぜ」

 再度問いかける。

「私がこう言ったのは、お互い今の素の実力でぶつかり合うのだ、ということを再確認するためデス」

 それを無視してエルはそう締めくくると、出走位置へと歩いてく。

「エル! 」

 その背中に追いすがって肩を掴もうとするが、

「言葉はいりません!走れば理由はわかりマース!さぁ、グラスワンダー! 位置に着くのデス!」

 エルはその手を払いのけると、出走位置に立って、こちらを見るだけとなった。

「……やりたいこともあるので、手早く終わらせちゃいませんと」

 私はため息をつきながら、この不本意なレースを早く終わらようと、思った。

「……」

 

このレースがなければ、スーパーのタイムセールに間に合ったのに、と思いながらも目の前のレースに集中する。

審判をやってくれるウマ娘が、手を上げる。

互いに出走の準備に入り、言葉もなくなる。

こうなっては是非もない。集中して、勝つ!

 

審判の手が落ちる。

その瞬間、足へ力を溜めるのが遅れて、一拍子スタートが遅くなる。

周囲から「あっ!」という声が聞こる。

問題ない。エルは前へ。

レース展開上はエルが先行策、私が差し切り。

この出遅れはレースには響かない。

前を見る。エルの尻尾がたなびき、挑発するかのように振れている。

なぜ、エルは急にこんなレースをすることにしたのだろう。

確かに昨夜ちょっとしたやり取りはあったかもしれない。

その時も言ったはずだ。

今この時だけはレースよりも集中したいことがある、と。

それが気に入らなかった? それは勝手ではないですか!

苛立ちに足が力む。

エルとの距離が近づき、遠心力に耐えながらカーブを無理めに走ってゆく。

差し切りのための距離ができてくるのを見て私は心中で微笑む。

練習だってやっていないわけではない。

優勝からの状態の維持だって欠かしてはいない。

そのうえで好きなことをやって何が悪いのか!

2回目の直線が終わり最終コーナーへ差し掛かる。

そのタイミングで私は徐々に残した足を使いながらエルへ肉薄していく。

苛立ちが現れたような、私の荒い走りに目を向けると、エルは薄く笑った。

遂に並ぶ。このまま抜けるか、と思った矢先の最終直線直前。

 

「こんなものですか」

 確かにそうエルが呟いたのが聞こえた。

 その次の瞬間。

 ぐんぐんとエルが前へと突き進んでいく。

 思わず、嘘だっ、と叫んでしまいそうになるのをこらえて懸命に足を動かす。

 そんな私をおいてエルはぐいぐいと差を開いて行く。

 どこで誤った!?

 動揺で、心拍が上がってしまったか、心臓が、肺がギリギリを伝えてくる。

 残り200mバ身差5。

 その背中は、とても寂しそうで、勝利を確定したというのに泣いているように見えた。 

 結果、私は9バ身というとんでもない差で敗北したのだった。

 結果にざわめく場内。

 敗北に足が震えて立っているのがやっとになる私にエルが近づいてくる。

 

「いかがでしたか?」

 出走後とは思えないような冷ややかな声だった。

 わかっていた結果を引いただけ、というような口ぶりに、私の頭に血が上る。

 そんな私を見てエルは場内に向けて高らかに勝利宣言をする。

「グラスワンダー、恐るるにたらず! 内なる情熱を失った貴方に、負ける道理はありまセン! 」

 私に向けて人差し指を突きつけ、宣言として吼えた言葉が場内に響き渡る。

「……ッ」

 言い返したいことは山ほどあった。

 だからどうした、勝負の綾だ、今日は調子も悪ければ、直前で調整もなかったことだった。

 しかしそれは、調子の差、勝負の綾と呼ぶには大きすぎる結果差、そしてエル自身も調整の時間はなかった事実に否定される。

 そもそも、今はそれどころじゃないと言ったではないか。

 そんな言葉が喉の下まで来て、はたと気づく。

 トレーナーが私を見つめる姿に。

 その表情に驚きや悲嘆はなかった。

 ただただ罪悪感とも憐憫ともつかぬ表情。

 その口が、ごめんな、と動く。

 ごめんな? それはこの結果を予期していたという事?

 そもそもの前提として掛け違っていたのではないかと予感がした。

 私は彼にすら敗北を確信されていたのか。

 歯の根が合わなくなる。目の前で私の言葉を待つエルの顔も見れない。

 私は一刻も早くここから立ち去りたかった。

 

…………

 

エルコンドルパサーは色めき立つ会場と裏腹に非常に醒めた心地で敗者を見つめていた。

こんな弱弱しく、吹けば消えるようなライバルの姿を見たかったんじゃない。

もしかしたら、走りだせば、挑発を続ければ奮起して勢いを取り戻すんじゃないか、という期待があった。

でも、結果は。

真っ青な顔でトレーナーの方を見て、そして俯くだけ。

どんな後悔をしているのかはわからないが、こちらに焦点が合うことはない。

私を見て欲しい。

こっちを見ろ。

貴方が今、対峙するべきはこの私でしょう!

心の中で語り掛け続ける。

言葉を待った。どんな言葉でもいい。

私と会話して。そして、次は負けない、と言ってほしかった。

 

「……ッ」

 しかし、グラスは背中を向けるとこの場から逃げ出そうとした。

「グラス、聞いてください! 」

 私はたまらずその背中に声をかける。

 びくりと肩が震える。

 一瞬立ち止まるも、校舎へ向けて走る足は止まらない。

「私は、世界に飛び立ちマス! 貴女が腑抜けてうつつを抜かしている間に世界最強を勝ち取って見せます!貴女はどうなのデスか! 私の一番の友にして、最大のライバル! 蒼き炎を瞳に宿す幽鬼! 新世代の怪物! 」

 どんどん小さくなる背中にありったけの大声で語り掛ける。

 私では貴方の心に届くことはない、その程度の相手だったのですか、と。

「誇りを取り戻せ! グラスワンダあああああ!」

 しかし、私の叫びもむなしく、この後グラスが私の元に現れることはなかった。

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

その日、グラスワンダーが俺たちの前に戻ってくることはなかった。

所属する美浦寮寮長のヒシアマゾンとも連絡をってはいるが寮にも戻っていないらしい。

急激に崩れた天気の中、同僚たちの協力も得ながら方々を探したのだが、見つからず、

明日まで戻ってこなかった場合は、捜索願を出そうということで一旦解散となった。

変に自暴自棄になっていなければよいのだが。

一般的にウマ娘は人間では太刀打ちできない膂力を持っているので、本人が変な考えを起こさない限りは問題ないという結論だった。

すっかりびしょ濡れになり、歩くたびに水が染み出るようになった靴に顔をしかめながらも、この寒空の下、傘も持たずにどうしているのだろうかとグラスの身を案じた。

マンションへと続く坂道からみた自室に明かりはついていなかった。

もしかしたら、と期待したのだが、今は誰とも顔を合わせたくないのだろう。特に俺やエルとは。

陰鬱な思いでマンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗る。

そこまで普段から明るくはないのだが、今日はより一層暗く無機質な物に感じる。

エレベーターを降り、歩く度にべしゃべしゃと音が立つのにうんざりしながら、部屋の前の廊下に差し掛かる。

蛍光灯に照らされたコンクリの床には、湿った軌跡が続いている。

それが各部屋の住人が同じように雨に濡れていただろうことを暗示していた。

そして……俺の部屋の前にも同様の足跡がついている。

「も、もしかして!」

俺の部屋の前へと続く足跡は、小さかった。

ドアの間へと駆け寄ると、ドアノブに力を込めてみる。

ドアノブは抵抗なくあっさりと下がり、ドアを開ける。

部屋の中は一切の電気がついていない。

足元を見ると、女性ものにしても小さいローファーが脱ぎっぱなしのままおかれている。

持ち主らしからぬ乱雑さで放り出された靴には水たまりができていて、持ち主がどれくらい濡れたかを物語っていた。

俺はいてもたってもいられず靴を脱ぎ捨て鞄をその場に投げ捨てると、リビングへの扉へ向かった。

月明りがすりガラス越しに漏れているその扉をあけ放ち、名を呼ぶ

 

「グラス!いるのか!?」

 そこにはあれだけ探しても見つからなかった彼女がいた。

 背を向けて、椅子に座りもせずに床でじっとうずくまっている。

 いつもの漏れ出てくるような覇気も、大和なでしこ然とした毅然とした居住まいもなく、小さく震えるただの少女がそこにはいた。

 垂れた耳、栗色の髪、そして投げ出された尻尾が、多量に水分を吸っているのか、月明りを浴びて重く輝いている。

「グラス……ずっとそうしていたのか?」

 項垂れるその背中に声をかける。

 ややあってゆっくりと振り返るその表情に、胸を鷲掴まれるような衝撃を受けた。

 印象的な蒼い瞳は光を失い、俺に視線を向けるどころか、何も写し取っていないようにうつろだった。

 いつもなら決して口元を緩めず凛としていたのに、半開きとなった口からは、グラスの生気そのものが漏れ出ているように幻視した。

 その口がおもむろに動き、グラスが言葉を紡ぐ。

「……はい。すみません。床を汚してしまいましたね」

 ぽつりとつぶやかれたその言葉は感情が乗っておらず、その場にいるのにも関わらず、俺に生死を疑わせるようなものだった。

「それはいいんだ。いいんだよ。とにかく無事でよかった。このままだと風邪をひく。お風呂沸かすから、その間にシャワーを浴びていなさい」

「……はい」

 普段なら、頑なに俺より先に入ろうとしないのだが、今日は抵抗されない。

 そのことに、強く歯噛みする。

 こうなるまで何故ほおっておいたのか。自分をぶん殴りたい気持ちだったが、やることをやらねばならない。

 風呂を熱めにセットし、グラスにタオルと着替えを渡す。

 脱衣所に入り、俺が出る前に脱ぎだそうとする彼女に、慌てて退室してドアを閉める。

 魂が抜けたように、言われた行動をするだけな様を頭の中で振り返って、俺は大きく嘆息する。

 風呂でおぼれたりしないといいのだが……

 やがて、お風呂の戸が開き、シャーっとシャワーの流れる音がするのを聞くと、各所へと連絡を入れる。

 上がってきたグラスのために、彼女が普段ここに置きっぱなしにしている茶葉でお茶を淹れながら、同僚やたづなさんへ無事とともに謝意を伝える。

 皆一様に無事でよかった、気にしなくていいと返してくれた。

 いい仲間を持ったと改めて思う。きっと恩返しをしなくては、そう心に決める。

 ヒシアマゾンにも連絡を入れ、無事を伝えつつも、今夜はこちらで預かる旨を申し伝える。

 途中から代わってきた生徒会長シンボリルドルフとも会話をすると、それが彼女にとって一番良いだろうという判断で、グラスの外泊が特例で認められた。

 お茶を教わった作法で入れる。

 あの時はとっても穏やかな時を過ごせていたのに、どうしてこうなったのだろうか。

 形を成さないあやふやな自責の念を覚えつつ、蒸らしている茶葉を放置して、脱衣場へと向かう。

 彼女がまだ出てきていないのを確認すると、努めて平静を保って中へ入る。

 お風呂場からの明かりが照らす室内。

 無造作にその場に脱ぎ捨てられた衣服が、彼女の精神状態を示すようで無念さを感じる。

 戸をノックして中にいるグラスに声をかける。

「グラス、湯加減は大丈夫か?」

 はい、とかろうじて聞き取れるほどの声が届く。

「制服だけ預かるな。乾かさないと着る物もないだろ」

 ありがとうございます、という言葉を聞き取ると、ゆっくり温まれよ、と声をかけて、制服を回収する。

 傍らに脱ぎ捨てられた下着には目を向けないようにして、上からタオルを掛ける。

 制服は水を吸って重たくなっており、こちらはタオルで水気を抜き取ると、ハンガーで干す。

 男物の服と比べてウェストも肩幅も大幅に小さい。

 こんな小さな体でどれだけの物を背負ってきたのか。

 そして、俺は分かち合ってきたつもりでも、肩代わりできていなかったんだな、と独り思いふけっていた。

「その、お湯ありがとうございました……」

 ドアのあく音がして、背中越しに声がかかる。

 振り返ると、若干生気の戻ったように顔に赤のさしたグラスが立っていた。

「あーシャツ、でかかったな……すまんな」

 男の一人暮らし。都合よく着替えがあるわけもなく、ダブついたTシャツを着て胸元には、意図を理解してくれたのだろう、先ほど被せておいたタオルを抱えている。

 部屋着用の短パンもぶかぶかで、完全にお父さんの服を着た子供の風体だった。

「いえ、これで大丈夫です……その、制服、ありがとうございました」

「構わないよ。さて、お茶でも飲んで落ち着きな」

「すみません……」

「俺もシャワー浴びてきちゃうから、ゆっくりしてな」

 もともと小さな体を更に縮こまらせる姿に後ろ髪をひかれつつも、自分が風邪をひいてはしょうがいないと風呂場へ足を向けた。

 風呂場で普段嗅ぎなれない微かな香りを極力意識しないようにして蛇口をひねる。

 シャワーを浴びながら考える。

 なぜ、彼女は今あのようになっているのか。

 エルコンドルパサーとの一騎打ちに負けたから? それもあるだろう。が、それだけではない。

 もっと前、元々彼女がレースから気を逸らしていたからの勝負だった。

 そうなると、きっとここ最近の行動が、つまりは俺にも原因があるのかもしれない。

 さてどうしようか、と独り言ちながら、蛇口をひねってお湯を止める。

 絶対に今度は最後まで逃げず逸らさず、向き合わなくてはならない。

 部屋に戻ると、先ほどからほぼ動いていないように見えるグラスの背中があった。

 いつもは伸びている背筋も耳も垂れてシュンとしている姿を見て、こちらは表情を曇らせないように努めて彼女の向かい側へ座る。

 しばし無言でお互い時を過ごす。

 いつもの心地よい会話のない時間ではなく、気まずい沈黙。

 それでも、無理にでも問いただしたい気持ちを抑えて、グッと奥歯をかむ。

「なにも、お聞きにならないんですね……」

 湯飲みを見つめながら、グラスがそうぽつりと漏らす。

「ああ。まぁ、話したくなったらでいいよ。待つさ」

 でも、絶対にまた前を向かせるからな、と心の中で語り掛ける。

「私、もう走らないほうがいいのかもしれませんね」

 俺の全身に緊張が走る。

「それは、なぜ?」

「いろいろなことに気を取られて、レースに集中せず……エルも言っていた通り、腑抜けて耐えられるものではありませんから」

「そうかもな……」

 否定は、できない。その恐れはあると思っていたから。

「……トレーナーさんは止めてくださらないのですね」

 俺の相槌に対して、グラスワンダーは自嘲的に笑う。

「もしお前が心に決めていたのなら、引き留めて止まるお前じゃない。なにより、本人の選択を邪魔したくない」

 エルには誹られたが、その部分の俺の意見は変わらない。

 グラスが身を引いて次のステップに進もうというのなら、それはそれで止めるつもりはなかった。

「……」

 グラスの口が静かに引き絞られるのを見て、自分の考えは間違っていないと確信する。

「だけど、おれにはわかってるよ。グラス。君の闘志はまだ消えていない。グラスワンダーは、また立ち上がる」

 俺は当初から、グラスがレースから逃げているとは考えていなかった。

 区切りの後の揺籃期のようなもの。次へ飛び立つための整理期間。

 それとなく誘導しようとしたり、苦言を呈してはいたものの、あまり強く言わなかったのはそのせいでもある。

 だけど、そう言い訳してまともに向き合っていなかったせいで、今回のような結果を招いてしまったのも事実だ。

「……」

 グラスは俯き、微動だにしない。

 しかし、その耳だけは俺の方をしっかりと向いていた。

「ここ最近少し、気持ちがよれ気味だったのに気づいていながら、日和見していた俺もよくなかった。エルコンドルパサーの言葉、胸に突き刺さったよ」

 エルコンドルパサーはそんな俺たちの中途半端さを露わにしていった。

 悠長に構えていた俺に、彼女は今を問うたのだ。

 優勝にうつつを抜かしていた俺たちに、休んでいる暇はないのではないかと。

 ライバルたちは、今この時も切磋琢磨し、グラスワンダーという王者を打ち倒そうと歯を食いしばっている。

 そのざまではすぐに敗北を舐めることになる。それを走りで証明して見せたのだ。

「そんなことは……」

 グラスの肩に力が入ったように感じる。

「くやしかった、よな」

 膝の上では握りこぶしでも握っているのだろうか。

 誰よりも悔しくて、誰よりも自分を情けなく思ったのは彼女自身に他ならないだろう。

「……」

 グラスは、微動だにしない。 

 だが、それは先ほどまでの無気力さに起因するものではない。

 必死に抑えている。暴れだしそうな感情を。

 グラス、俺に聞かせてくれ。お前の心を。

「負けたことじゃない。一番強気でいたい相手に走りで横っ面を叩かれたんだからさ……」

「くっ……」

 あふれ出た涙は頬を伝い、あごの方へと濡れた軌跡を描いていく。

 あとからあとから流れ落ちる涙をぬぐいもせず、声だけは漏れないように奥歯を噛み締めているのがわかる。

「グラス。言われたまんまで辞めるなんて、悔しくないか? 俺は悔しいよ。俺の最高のウマ娘が、俺たちの積み上げてきた走りが、あんなことを言われたままなんて」

 グラスは目をつぶって下を向く。誰にも泣き顔を見られたくない。

 大和撫子とは、強き者でもある、と異国生まれの彼女から学んだ。

 そんな彼女は、とめどなくあふれ出てくる弱さを必死に隠す。

「俺のグラスワンダーは、こんなとこで終わらない。終わらせないよ」 

「私はっ……!」

 その時の彼女の表情は生涯忘れることはないだろう。

 グッと嗚咽が漏れぬように噛み締め、頬には朱が差し、感情の戻った瞳は、まるで月夜に照らされて波打つ海のように、キラキラと揺らいで輝いて見えた。

 きっとその揺らめきは瞳の奥に燻る情熱そのものだったのかもしれない。

 ああ、やっと彼女が戻ってきた。

 そう、一瞬のうちに理解した。

「負けたくないです……でも、どうしたらいいかわからないんです!」

 目をこすりながらも、そう話してくれる。

「ああ。俺もわからない。だから話そう。俺にも背負わせてほしい」

 俺は頷き、自分の胸に手を当てながら、そう伝える。

「でも、これは私が解決すべき問題で、トレーナーさんには関係が」

 グラスがいやいやをするように首を振る。

「グラスの事で、俺に関係のないことなんて存在しないよ」

 すべて受け入れると決めたのだ。

 なんだって最後まで一緒に考えたい。

「だって......こんなの絶対受け止めてもらえないです」

 もしかしたらとは思っていたけど。

「……俺の家に毎日通ってたのと関係があるのか?」

「……ッ」

 グラスが、再び俯いて縮こまってしまう。

「そうか。思えば俺が目をそらしてたんだよな。」

「違いますっ! 私が勝手に押し付けていただけなんです……結局は独りよがりで」

 そうつづけた俺に対して、顔を上げて否定してくるグラス。

 言いながらどんどん、声も耳もしおれていくのが見ていられない。

「いいよ」

 だから俺は続けた。

「え?」

「独りよがりでも、身勝手でもなんでもいい。俺はグラスのありのままが知りたい」

 すぐに答えの出せる問題なのか、予想している内容を含めてわからないけど。

 まずは彼女の言葉で聞きたかった。

 何を想い、何に悩んでいたのか。 

「言えないです……いえるはずが、ないじゃないですか」

 グラスは、今度は瞳をそらさずに、すねたようにそう言う。

「それでも待つ。今度こそ俺も真正面から受け止めるって決めたんだ」

 どれだけ彼女が否定しても、拒絶されても、俺は肯定で返す。

 いつか、グラスが言いたいときに気兼ねなく言えるように。

「わかりました……でも今は言えません。それは私が言うべき時じゃないと思っているからです。」

「そうか……」

「今言えるのは、身が消え入りそうになるほど悔しいってことです。そしてすべての戦いで私は勝ちたい」

 そう言い切った。

 もう、昨日までの彼女はいない。

 俺を見る瞳には、情熱が灯り、蒼穹の如き澄み渡った輝きを放っていた。

「なら、走りで見せなきゃな」

「みせます。エルにも、トレーナーさんにも」

 握りこぶしを作って、意気込む彼女を見て、ここ1,2か月で停滞していた二人の関係も、彼女自身のレース人生も前に進めるのだと確信できた。

 そのあとは、あまりここ最近の話題に触れないようい他愛のない会話をして過ごした。

 最後にどっちがベッドを使ってどっちがソファで寝るかなどひと悶着はあったものの、無事グラスを寝室に押し込めることに成功し、人心地着くのだった。

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

トレーナーさんにおやすみなさいの挨拶をして、ベッドルームに入った。

ベッドを譲ろうとするトレーナーさんに固辞し続けたのだが、結局押し切られてしまった。

彼の寝室兼書斎の空気を吸い込んでみる。

寮とは違う、トレーナーさんの生活の空気。

書棚には、トレーニング関係の本がずらりと並び、端っこには私がおすすめした小説なども徐々に増えている。

彼の生活に私が徐々に浸透しているようで、少しうれしい発見だ。

書斎机に近寄ると、ちょっとこれは迂闊ではないだろうか。

私をどうレースへ心を向けるか、これからどのように計画を立て、接していけばいいかを山のように書き連ねているノートがあった。

ノートを手に取って表紙を見る「グラスワンダーノート vol.13」ひねりもない名前だなと苦笑する。

目の前のラックに並んでいる古いノートを一つずつ手に取ってめくってみる。

最初の方は、私とどのようにコミュニケーションをとるかで悩んでいたようだ。

自分としても、まぁ扱いやすい性格でないと自負するところなので、大変だったのだろう。

セクハラ関係の注意書きで埋め尽くされているページもあった。

そこから徐々にどうレースに勝たせるか、今どういう課題があるか、どう克服するかを書き連ねる分量が多くなっていき、自分自身の記憶とも重ねながら、彼の試行錯誤の軌跡を追っていった。

後半に差し掛かると、彼自身のプレッシャーとの戦いもありありと見て取れた。

そんな様子、おくびにも出さなかったのに。

桐生院トレーナーを含む多くの同僚トレーナーや、他のウマ娘から得たようなヒントも所狭しと書かれていた。

あの人の生活すべてが私とのトレーニングにあったのだと理解する。

不意にポタっとノートに染みができる。

 

「あ、あれ」

 涙。自然と流れ落ちていた。

 これ以上ノートを汚さないように閉じる。

 辿ってきた軌跡の最後の1冊。

 「グラスワンダーノート vol.12 URAファイナルズ優勝!」そう書かれた表紙。

 どれだけうれしかったのだろうか。大きく大きく書かれたその文字を指でなぞる。

 そして、私は理解した。

 このノートが示すもの。

 これこそが、彼と私の絆。

 彼がかけた試行錯誤の時間。私が歯を食いしばって励んだ時間。

 その全てが、私の走りとなって結晶し、それこそが誰にも邪魔することのできない絆の糸となって、彼と私を強固に結び付けているのだ。

 ならば私はもう二度と、二度と負けるわけにはいかない。

 少なくとも無様をさらすことは許されない。

 なにより自分が今自分を許せないように、私は二人で築いた誇りを汚すことはもうない。

 汚辱は、レースですすぐしかない。

 私の決意は身をあふれ出し、抑えられない熱となって身を焦がす。

 ノートを抱きしめ、熱い息を吐きながら、暴れだしそうになる身を必死で抑える。

 今すぐ走りたい。今すぐ、見せつけたい。私の、私たちの正真正銘の本気のレースを。

「会稽の恥は、必ずお返ししますよエル。感謝とともに」

 

 

 

しばらくして気持ちが落ち着いてくると、ノートを元の位置において、いつもトレーナーさんが使っているベッドに身を横たえる。

ふわっと、私の好きな彼の匂いが鼻腔をくすぐる。

私は、ふと気づいてうつぶせになる。

匂いの元は枕だった。

ちょっとはしたない気もしたが、うつぶせで寝ることにした。

枕を抱きしめて、頬にあてて目をつむる。

再確認する。

私は彼に恋をしている。

初めての恋で、すこし暴走してしまったかもしれない。

間違ってしまったかもしれない。

でも、この気持ちは依然として弱まることはなく、強くなる一方だ。

私は、契約前に根気強く通ってくれた彼に対し、敢えて嫌なところをさらけ出して遠ざけた。

自分でも理解する私の刺々しい部分。

それでも、それらをひっくるめてすべてを受け止めてくれた。

思えばあの時に私は陥落していたのだろう。

彼の魅力に一番最初に気づいたのは私だ。

彼の一番近くにいるのは私だ。

彼の事を一番よく知っているのは私だ。

彼と一番艱難辛苦を分かち合ったのは私だ。

私は、この勝負も勝ちたい。絶対に。

先ほどやっと落ち着いた気持ちが再燃してくる。

でも、もう小細工を弄したりはしない。

私は枕を強く抱きしめて、決意する。

直球だ。彼を私の走りで魅了する。

それが私の告白。

そして、レースにも勝つ。

それが私の返礼。

どちらかだけじゃない。

私は二つの勝負を勝って見せる。

そう、私は最初から頑固で欲張りな性格難なウマ娘だったのだから。

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

 

トレセン学園中を騒がせた、グラス失踪騒動はどうやらトレーナー宅で見つかり保護されたことで無事終息したようだ。

きっかけというか原因そのものである身としては、一旦は心臓を撫でおろせた。

きっとトレーナーさんがケアをしてくれるはずだ。

しかし、ここからだよな~と独り言つ。

あれで彼女が折れたのか、立ち上がってくるのか。

あれだけ盛大にへし折っておいて言えた義理ではないが、立ち上がってきて欲しい。

いや、立ち上がってくる。

それがグラスワンダーというウマ娘なのだから。

私の信じる彼女を信じぬくのみ。

私は私で、目標へと突き進もう。

そして、のこのこ戻ってきたときに、まだそんなところでくよくよしていたのですか、と笑ってやるのだ。

そう思って少しだけ愉快な気持ちを取り戻していた最中、ガチャリ、とドアの開く音がする。

 

「ケッ!? グ、グラス!?」

 まだ心の準備ができていない、というか気まずい。

 おろおろする私とは対照的に、グラスは非常に落ち着きを払っていた。

 それがなんかやっぱり怖い。

「エル、ありがとうございました」

 深々と頭を下げるグラス。

 綺麗な栗色の髪が下に垂れるのを私は呆けて見ていた。

「え」

「腑抜けた私を全力で殴り飛ばしてくれたことです」

 お辞儀をしたまま顔を上げ、少し意地悪そうな表情でそういうグラス。

「な、殴ってなんかないデスよ~。暴力は振るってないデース」

 あれだけ啖呵を切っておいて、ちょっぴり仕返しが怖くてつい、そんな冗談にまじめに返してしまう。

「比喩ですよ。私のしてきたことが間違っていたとは思いません」

 腰を戻すと、そのように言う。

 よく見れば、目は腫れぼったくなり、ちょっと目の隈もある。

 もしかして、とちょっぴり身が固くなる。

 そんな私に苦笑するとグラスは言葉を続ける。

「ですが、貴方の言っていた、いやレースで見せてくれたこともまた私にとって重要なこと。それを思い出させてくれたのは貴方です」

 グラスはそう言って私に近寄ってくる。

「う、うう~グラス……」

 その言葉が聞けただけで感無量になって目頭が熱くなってしまう。

 しかし、グラスの言葉はそれだけで終わらなかった。

「お待たせしました。私はまた立ち上がり、貴方に挑みます。お覚悟を」

 そういって鞄から、果たし状、と書かれた文を差し出してくる。

 私がボールペンで書いた不格好なものと違って、鬼気迫るような達筆な筆遣いで書かれた果たし状は、命でも賭けるのでは、という迫力がある。

 でも、私はそれを臆せず彼女の手からもぎ取った。

「いいでしょう! 寛大なエルエルは、無様を晒した元・ライバルの挑戦を受けてあげますが、中途半端な覚悟で勝てると思っているのデスか?」

 いつもより強めに、自らを鼓舞する意味も込めて、グラスに挑発をたたきつける。

「何も言うことはありません」

 それに対して、彼女は目を閉じてそれだけ言う。

 再び目を開けたその時、ゾワり、全身の毛が逆立つ感覚が襲う。

 その瞳からは、その視線だけで相手を屈服させられそうな熱圧が漏れ出していた。

 全身に気迫が漲っているのが私にもわかった。

 グラスの身体からうっすらと蒼い炎が覆っているように幻視するほど、その小さな体躯の何倍もの気を放っていた。

 自分が以前、幽鬼と表現したうすら寒い感覚が、今まで史上最高に漂ってくる。

「走りでのみ、語ります。私が未だ貴方の超えるべき壁であると」

 怪物、蘇る。

 エルは、彼女が持つもう一つの異名を思い出した。

 『不死鳥』いかな不調、いかな怪我であろと克服しターフに舞い戻る姿をしてそう呼ばれることとなった彼女。

「怪鳥 vs 不死鳥……相手にとって不足はありません! 対決! 激闘! そして! エルが勝利しマアアス! 」

 私が唯一心底恐れるライバルが今ここに蘇った。

 そのことに心が張り裂けんばかりの歓喜を以って叫ぶ。

 決闘は2週間後、先日のレースと同じく芝2400m。相手にとって不足なしデス!

 そう叫ぶ私にまたもや上級生たちが駆け込んでくる。

 またお説教と罰……でも、今回はグラスも一緒に受けてくれたので心細くなかったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

「万全か?」

 俺は傍らを歩くグラスに声をかける。

 ピンと立った耳、小気味良く波打つ尻尾、そして今の表情を見る限り気力充実といったところか。

「もちろんです。走りたくてうずうずしちゃってます」

 腕の前で拳を握って意気込みを語る。

「勝とうな」

「無論です」

 それきり、話題が途切れた。

 勝つといったのだから、あとは信じるだけだ。

 俺は立ち止まる。ここから先は、走る者のみが一人で行く道だ。

 グラスが、一歩大きく踏み込んで振り返ってくる。

 くるりと翻ったスカートと栗毛の尻尾、そしてきれいに広がるさらさらとした長い髪。

 まるで映画の名シーンを切り取ったかのような光景に、可憐、という言葉が浮かぶ。

「トレーナーさん。今日は私自身と貴方のために走ります。二人の誇りを取り戻しに」

 胸に手を当てて、瞳を閉じしみじみと語るグラスに、少し涙腺が緩みそうになる。

「もうひとつ、想いを込めて走りますので、ちゃんと受け取ってくださいね? 」

「もうひとつ? それは……」

 と、俺が言いかけると、彼女は一歩踏み込んで、人差し指を俺の口元に当ててくる。

 ふわっと仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐり、間近の距離感も相まって否応なく心拍が跳ねる。

「答え合わせ、楽しみにしていますよ? 」

 固まって、あ……ああ、と気の抜けた言葉しか出てこない俺に、にっこりと微笑んで、

「それでは、いって参りますね~」

 いつもの通り穏やかにそういうと、勝負服をひるがえしてコースへと向かっていく。

 今日はエルコンドルパサーの壮行会も兼ねた模擬レース、いや決闘レース。

 それゆえ、敢えて二人とも勝負服着用を選んだのだ。

 その背中を見て、先ほど渡された宿題のやりとりを一瞬忘れるほど感情が激しく脈打った。

 先ほどまで可憐、と表現していた少女の気配が裏返る。

 青を基調とした衣装は彼女の瞳の色であり、穏やかな印象を与えるが、俺の目には真逆に見えた。

 全身から湧き起こる蒼い炎、普段抑え込んでいる彼女自身の熱情が、赤よりもより熱い彼女の闘志が全身から漏れ出すような錯覚。

 俺はその光景に涙する。

 グラスワンダーはやはりこうでなくてはならない。

 俺が心底ほれ込んだ背中が戻ってきた。

 俺のウマ娘は、今この時を以って、URAファイナルズの時よりも強力な意思を宿してターフに舞い戻ったのだ。

 

「逃げなかったとは感心ですね。グラァス!」

 前回と同じように、先にターフの上で仁王立ちしていたエルは、なんとも嬉しそうに挑発をしてくる。

 燃えるような赤いマントは彼女の情熱そのもの。

 静と動。青と赤。奇しくも私たちは正反対の選択をして道を歩んでいく。

 対をなす存在がいることがとても心強く、だからこそ燃えるものがある。

「逃げるなど。エルには申し訳ありませんが、今日は貴方より高く飛ばせていただきますね」

 私も微笑みながら、静かに挑発に応える。

「笑止! 世界の空を飛ばんとするこの怪鳥を超えられますかっ!? いいえ! 超えさせません! 」

 大きく身振り手振りをしながら、はしゃぐエル。

 ありがとうを言いたいけれど、ここから先は無粋。

「もう言葉は不要。私の走りで、貴方を送ります」

 スタート位置につけるとそれだけ言って前を向く。

「 Muy bueno! せいぜい私の背中を見送ってください! 」

 エルも同じく。最後に一吼えすると精神を集中させていく。

 

ギャラリーの喧騒も静まり返り、レースの準備が整っていく。

私は出走位置に立ち、そっと瞑目した。

結局私はレースも、トレーナーさんとの関係もどちらも選ぶことはできませんでした。

否、そもそも取捨選択をするという前提が間違っていたのです。

トレーナーさん、頑固で欲張りな私を許してください。

私は、勝利も、貴方も両方勝ち取りたいのです。

どちらかを諦めるなぞ、私らしくありませんでした。

どちらが欠けても、私でなくなってしまいます。

故に、全て勝つ。それができることを今証明しましょう!

 

再び目を開ける。

審判役のウマ娘の片手が上がり……両者構える。

その瞬間、私の感覚から音も、色も消えていった。

極限の集中。

振り下ろされる手が、スローモーションに見える。

私は目を見開き、歯を食いしばり、最初の一歩に全神経を集中させる。

そして、振り下ろされると同時にその足を踏み込んだ。

スタートは同時、二人一斉に飛び出す。

次第にエルが前に出て、私が後ろをつける形になる。

色を失った景色においても彼女の鮮烈な赤いマントだけはくっきりと見える。

わかっていたこと。エルは前目の先行策。これでいい。

彼女だけ視界に入れて追いかけながら、呼吸に集中する。

走って徐々に上がっていく体温と逆行するように、私の心は冷静に冷えていく。

ふっふっふ、という規則正しい私の呼吸音が、やけに大きく響く。

最初のコーナー。彼に教わった無駄のないコーナリング。

私のスロースターターな気性に合わせてスタミナをためるレース展開を作り上げてくれた、彼の作品。

それが私の走りだ。誰にも負けるはずがない。

だからこそ、悔しかった。情けなかった。

彼のために尽くしていると思いながら、その実その想いを裏切っていた。

私と彼を繋ぐものは、そういった無理やりな時間ではない。

私と彼の絆はこの、レース。この走り。

誰にも付け入る隙のない、たった一つの約束。

勝つ! 誰よりも早く、ターフを、駆け抜ける!

 

 

…………

 

立ち上がりは理想的。

順当に走っているように見えただろう。事実そうだ。

しかし、俺の目からは少し違って見えた。

坂路の走り方、序中盤でのコース位置取り、加速のタイミング、相手を意識するときの立ち回り、コーナーでのスタミナを消費しない走法。

グラスと交わしてきたレース策は数えきれないほどある。

それを丁寧に、二人のこれまでの道のりを振り返っているかのようにグラスは走っていた。

数々の想い出が、グラスが一歩踏みしめるごとに溢れてくる。

あれは、俺たちだけの走りだ。

絆、時間、あらゆる努力の結晶。

実際のグラスは無論走っているのだが、アルバムをめくって愛おし気に二人の軌跡をなぞる姿が想起された。

 

『もうひとつ、想いを込めて走りますので、ちゃんと受け取ってくださいね? 』

 

彼女の直前の発言が思い起こされる。

連想されるものは前後の状況を鑑みれば、ある。

でも結論を出す前に、まずはこのレースを心に刻み付けよう。

答え合わせはそのあと、だ。

気持ちを切り替えて、周囲を見渡す。

レースを見た誰もが言葉を失っていた。

それほどまでにグラスワンダーの走りは静謐で、誰の言葉をも許さないあふれ出んばかりの圧力を放っていた。

それを直に感じるエルコンドルパサーはどれほどのプレッシャーを受けているだろうか。

 

「……怪物」

 誰ともなく、そう呟かれる。

 エルコンドルパサーは、彼女の事を幽鬼と表現したが、誰もが今、そのことに納得を得ているだろう。

 はじめは大人しく、レースへの執念にかけ、走らないだろうと言われていた少女だったが、俺だけは知っていた。

 これが、グラスワンダーだ。

 内に秘めた情熱は誰よりも熱く、鮮烈で、そして寒気がするほどに恐ろしい。

 さぁ、ここからだ。ラスト600m。

 怪物が、追い詰めた獲物を差し喰らいに行く時間だ。

 俺は思わず、手すりから身を乗り出して叫んでいた。

「勝てっ! お前の走りを刻み付けてやれ! 」

「限界を超えろ! グラスワンダー!」

 

…………

 

 

音を失った私の感覚の中で、彼の声が聞こえたような気がした。

レース中であるにもかかわらず、私の口角があがる。

微笑んだつもりだが、周囲の人から見れば、もしかしたら獰猛な笑みに見えてしまったかもしれない。

さぁ、行きますよ。エル。

貴方のライバルは、不滅。貴女が世界のどこに行こうとも、前を走るのは私なのです。

最終コーナー。エルが上半身を前傾してスパート態勢に入る。

それを認めると、私は一度大きく息を吐き出して、身をかがめた。

噛み締めた歯がギリリ、と軋む音がする。

ここだ。ここから……

 

"差し殺す!"

 

私は、不思議なほどに残っている末脚に、今だ、と鞭を打つ。

ターフをえぐり取るように踏み込みをかけ、一気に前へと飛び出す。

それはさながら、鞘から抜き放たれた一閃の刃の如く。

静かに、だけど確実に。前を走る赤に肉薄する。

ラスト200m。

きっと実際の私は、足も重く、肺も悲鳴を上げ、死に体なのかもしれない。

でも、そんなことは、どうでもいい。

痛みも辛さも何も感じない。

今は、ただ全力を超えて、足を前に振り出すのみ。

今はただ! 精神、一到!

身体全てを使ってをばねのように深く身くを沈ませると、最後の力の先にある何かを無理矢理に絞り出す。

次に大地を分つ勢いで踏み込んだそのとき。

自身の身体が何か透明な壁のようなものを突き破る、そんな音がした。

エルが視界から完全に消え失せる。

そのままの勢いで審判の脇を抜けたとき、一瞬。

観客席の彼と目が合ったように感じた。

その一瞬で伝わっただろうか。

 

私は、勝ちました。この力は愛ゆえに。

二人だから、限界を突き破れたのです。

私はこれだけ強く、貴方を愛しています……!

 

気が付くと、ゴールを大きく超え、次のカーブをも超えてしまっていた。

ちょうどカーブを挟んだ反対側では、膝に手を当てて息を整えながら、こちらを見るエルの姿。

「はぁ……はぁ…あれ?」

 私の口から間抜けな声が漏れる。

 鼻からは血が垂れ、それを手でぬぐい取って、確認した。

 過集中の代償か、未だに視界がぐわんぐわんと拡大と縮小を繰り返している。

 バランスを崩し、倒れかける私を大きな腕が抱き留める。

「グラス……よくやった。よくやったな……」

 最後にかろうじて見えたのは、顔をくしゃくしゃにして泣くトレーナーの姿だった。

 

「ひ、非公式レコード……」

 見学に来ていたトレーナー達の中からうめき声が聞こえる。

 芝2400m、非公式レコード。

 のちに伝説となる『栗毛の怪物 vs 世界の怪鳥』の一騎打ち。

 記録に残らない歴史の証人になった観客はのちに語り継ぐ。

 ラスト200m、グラスワンダーがウマ娘の限界を突き破る音がした、と。

 そして、こうも言った。アレは、まさしく怪物だった。

 

「グラス……」

 担当トレーナーの腕の中で倒れるライバルを見ながら、エルコンドルパサーは自らの肩を抱きしめる。

 震えが止まらない。グラスから発せられた尋常ならざる"殺気"とでも呼ぶしかないプレッシャー。

 あれはウマ娘の、人の発していい気迫ではない。

「くっ……私は、また! 」

 そのままの姿勢で跪き、天を仰ぐ。

 しかしそれでもあふれ出る涙は、止まらず。

「一番負けたくない相手に負けてしまった! 本気だったのに! 」

 ラスト200m。グラスワンダーの放つ鬼気ともいえる迫力に気圧された。

 敗北を予感してしまった。

 足は緩めなかった。限界を超えて力を注ぎ切った自覚もある。

 それでも、勝てない、と思ってしまった。

「世界を軽くひねったら、すぐに戻ってきますよ……その時は、もう一度勝負です」

 袖で涙を無理やりにふき取ると、立ち上がってグラスに背を向けた。

 次ターフの上でまみえるときは、世界を食らった後だから。

 

 

 

 

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 

 

 

 

次に私が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。

 

「起きたか……?」

 トレーナーさんの声が、聞こえる。

 そちらの方へ目を遣ると、トレーナーさんが穏やかな顔でこちらを見ていた。

 こんなに穏やかな顔は久々に見るなぁ、なんてぼんやり思っていると、トレーナーさんが心配そうに声をかけてくる。

「どうした? 何か違和感あるか?」

「いえ、特には。というより、走った後あまり記憶がないのですが……」

「ああ。圧巻の走りだったよ。非公式だが芝2400mのレコードだってさ」

 興奮気味に語るトレーナーさんの話を、どこか他人事のような気分で聞いていた。

「まぁ、それはすごいですねぇ」

「いや君の記録なんだけどね。そのあと、糸が切れたように倒れちゃってさ。鼻血も出してたから大事を取って病院に運んでもらったんだ。足も脳も別条なし、だ」

 こういうところはのんびり屋だなぁ、と言って苦笑しながらも、かいつまんで状況を伝えてくれる。

「よかった。よいしょっと……」

 それがわかれば、ここからが本題だ。

 私は横たわっていた体を起こそうとする。

「おい、無理して起きあがるな」

 慌てて止めに入るトレーナーさんを手で制す。

「大丈夫ですよ。ダメなら起きあがりません」

「わかったよ。水飲んどけ。補給できなかったんだから」

 ペットボトルからコップに水を注いでくれる。

「あ、はい……ってそうじゃなくて、聞きたいことが」

 自然に受け取ってしまったが、それよりも先にやりたいことがある。

 一口飲んで口内を湿らせると、話を切り出す。

「ん?」

「今日の私の走り、どうでしたか?」

 私の伝えたかった事が伝わっているかが重要なのだ。

 真剣な顔をして聞く私にトレーナーさんが親指を立てて答える。

「どうって、最高だったよ。過去一番だった」

「トレーナーさんを、その……魅了できるような走りでしたか?」

 もう少し具体的に言ってみる。

 この人は割とレース外の事は朴念仁寄りなので、しっかりと詰めていきたい。

「ああ。勿論。胸が熱くなったよ」

 大きく頷くトレーナー。あやしい。

「トレーナーさん、私の言いたいことわかってますか?」

 私の少し、しつこいくらいの念押しに、

「……わかってるよ」

 トレーナーがいつにない真剣な顔で答えてくれる。

 その表情を見て一気に胸が高鳴り始める。

「では、改めて。どうでしたか? 」

 こちらも居住まいを正して、真正面から対峙する。

「今答えないとだめか?」

 しかし、トレーナーさんはこの期に及んで、及び腰になっている。

「流石に怒ってもいいですか?」

 ちょっとムッとして見せる。いや、実際ムッとしたけれど。

「わかった。わかったよ言うな? ……二人じゃないと、ここまでこれなかった。二人だからここまでこれたし、この先もいくらでも強くなれる」

 トレーナーさんは大きく息を吸って吐くと、言葉を選ぶように、整理するように話し始めた。

「きっと、俺の人生にはグラスが必要で、グ、グラスの人生にも俺が必要で」

 少し詰まったが、良しとしよう。

 その実私だって今いっぱいいっぱいなのだから。

「はい」

 胸の高鳴りが最高潮になる。

 顔から火が出るように熱い。

 月明りのみの夜で良かった。

 明るかったら、ゆでだこの様になっているのがバレてしまうだろう。 

「だから……あのそういうことで」

 決定的な一言を濁そうとする意気地なし。

「ちゃんとした一言、おねがいしますね?」

 でも、逃がさない。

 私のしつこさはトレーナーさんが一番よく、知っているはずですよね?

「……俺の人生には絶対に君が必要だ。これは好きっていう感情じゃ語れない話だと思う」

 ようやく覚悟を決めたようにトレーナーさんがその言葉を紡ぐ。

「だから、愛しているよ、グラスワンダー。一生、俺だけのウマ娘でいて欲しい」

 ああ、手に入れた。

 私の両目からは涙があふれだす。

 紆余曲折を経てしまったけど、ついに勝ち取った。

 いや、これも結局は二人の勝利なんだろう。

「はい。私もずっと、ずっとお慕いしておりました。二人でこれからも歩んでいきましょう」

 涙声交じりになってしまったが、しっかりとそう返事する。

 トレーナーさんの手が、膝の上で握っていた私の両手に触れてくる。

 私もその大きな手を握り返す。

 暖かい。想いが伝わってくるようで。私はその手を何度も撫でて握って、その温度を確かめる。

 自然、二人の距離が縮まって、どちらともなく口づけを交わす。

 初めてのキスは涙の味がしてちょっとしょっぱかったけど、心の底から満ち足りた幸福な瞬間だった。

 

 

 

あの夜の後から、正式にお付き合いを始めることになり、しかしトレーナーとウマ娘、という関係性が優先されるとお互いに納得した。

私がラストランを走り切るまでは、今までの関係性を保つ、ということだ。

毎日料理を作りに行っていたのも、週末だけに留めている。

個人的には、トレーナーさんの週末をおさえつつ、日々はトレーニングで独占できるのだから、それでいいかな、と思っている。

別に誰がどう、とかいうわけではないが、油断はしない主義なのだ。

今日はその週末。

お昼ごろからお邪魔して、だらしのないトレーナーさんの世話を焼きつつ、楽しく時間を過ごした。

「……まさか走りで告白されるとはなぁ」

 トレーナーさんは呑気に、私の作った料理をつつきながら、先日のレースを反芻する。 

「ええっと、その前からずっと意思表示はそれなりにしていたつもりですよ」

 憮然とした表情を作って、そう言ってみる。

 そもそも、毎日料理を作りに来てる時点で気づけ、という話だ。

「いや~そう言われればそうだなぁ。よく懐かれててうれしいくらいに……いったァ!」

 デリカシーのない言いように、机の下で軽く蹴りを入れる。

 スリッパを履いているのだから、痛くないでしょうに。

「そういう、ちょと抜けたところは直してほしいですね」

「わかったから蹴らないでくれ……これDVでは?」

 大げさに痛がる彼に思わず笑みがこぼれる。でもDVとは失礼な。

「ふふ……もっとしっかりして頂かないと。将来困るのは私なんですからね」

「へいへい。まったく。私生活じゃどっちがトレーナーかわからんなぁ」

 トレーナーさんは、頭を掻きながら、苦笑する。

「それは良い表現ですね~。一人前の男子に育て上げて見せますね」

 将来の夫としてもっとしっかりと、そしてカッコよくなってもらわなくては。

 今でも十分、その、カッコいいですけれど……

「末恐ろしい……」

 トレーナーさんが私を恐ろしいようなものを見る目でつぶやく。

「なにか?」

 ちょっとしたときめきを邪魔されて、思った以上に冷たい声が出てしまう。

「いえ、なんでもございませんとも」

 トレーナーさんはそういいながらお味噌汁を口に運ぶ。

「そうですか。ではまず、肘をついてお食事なさるのから直していきましょうね」

 小さいころ習わなかったのだろうか……やはり私がしっかり育てなくては。

 恋人も伴侶も通り越して母親のような気持に達していると、トレーナーさんが別の話題を振ってくる。

「あっうん。そういえばさ、エルコンドルパサー、フランスに飛び立ったな」

 エルとはあの勝負の後、色々と二人だけで会話して今まで以上に並び立つ存在として絆を深められた。

 あの後リベンジを吹っ掛けられるかと思っていたのだが、どうやらエルが世界最強になるまでお預けのようだ。

「はい。戻ってきたら絶対に勝負して勝つ、と息巻いていましたよ。ほんと、エルったら」

 空港で、大声で勝利宣言をされたときはさすがに恥ずかしかったが、ああやって恐れず懐に入ってきてくれるところが、本当に愛らしい。

「そうか。彼女には本当に世話になったな」

 トレーナーさんもしみじみと言う。

「そうですねぇ。お互い器用ではありませんけど、宿敵というのは得難いものです」

 彼女と私は正反対の性格をしているけれど、だからこそお互いに刺激があり、尊敬できる。

 そんな彼女が世界の優駿達とこれから渡り合うかと思うと、誇らしい。

 ……あと勝ち越しているので彼女が勝った相手より、私の方が強いということになる。

「そうだな。戻ってきたとき、がっかりさせないように頑張らないとな」

「無論です。次も全力で戦えるよう、しっかりとトレーニングお願いしますね?」

「わかったよ。世界最強を超える最強を目指そう」

 きっとまた勝てる。そしてエルが戻ってくるまでも負けないだろう。

 永遠の好敵手と、将来の伴侶の両方を一気に手に入れてしまった私は、ちょっとした無敵なのだ。

 それでも油断せず、弛まず、エルがあの時背中にかけてくれた叱咤を心に刻んで、この先を歩んでいこう、そう改めて誓ったのだった。

 

 

-fin-

 

 

 

 

 

 


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