僕がアメリカから帰国した次の日の朝。二階から談話室に繋がる通路を潜り抜けると、階下のソファーに座って頭を抱える金色が見えた。いまは朝の五時なのだけど、安室さん起きるのが早いですね。
どうやら不幸なことに、昨日の記憶が詳細に残っているようで、階段を降りてくる僕に気づいた安室さんは深々と頭を下げていた。とてもお仕事が大変だったと聞いているので、そこまで気にされなくてもいいのに。
僕が突発的に長期にわたり海外に渡航したことについては、子供の人命を守るためということで、特に公安からのお咎めはなかった。ただ、おなかの辺りを押さえながら、あまり無茶をしないでくださいと飛田さんに言われたことが、一番僕の良心に効いた。いや、だってNRCの野郎どもと違って、本当にいい人だしね。
あえて心労を掛けたい訳ではないため、できるだけ頑張って気を付けたいとは思うけれど、僕がトラブルに巻き込まれる体質であることは自覚しているから、約束できないことは彼らには黙っていようと思う。
そんなこんなで慌ただしかった帰国後から数日経過したある日、僕はとある民家のインターフォンを押していた。
『はい、どちらさまですか?』
「万屋灰猫です」
『あっ! ちょっと待っててね!』
スピーカーから聞こえてきたのは、元気な子供の声。ちょっとドアの向こうからにぎやかな気配がすることに、僕は苦笑を浮かべる。
「まほ──っと、悠さん!」
「こんにちは、ヒロキ君」
「こんにちはっ、いらっしゃい!」
玄関のドアが開いて顔を出したのは、溌溂とした笑顔の元依頼主こと、樫村ヒロキ君だった。
* * *
アメリカにて無事親権を再獲得したヒロキ君の実父こと樫村忠彬氏だが、日本に戻れば日中は働く必要があるため、四六時中ヒロキ君と過ごすわけにはいかない。そこで、在宅でも仕事ができるように職場に掛け合い、月の半分は出勤してくることを条件として認めさせた。うん、僕も頑張ってプレゼン用の資料と、説得用の原稿を作った甲斐があったというものだ。特別にお話が必要な上司の人とかがいない、親身な職場でよかった。
しかし在宅ワークが認められても、月の半分はヒロキ君一人で過ごすことになる問題が残っている。アメリカでは、子供だけで留守番をさせることは虐待の一部と判断される。共働きの両親はベビーシッターを雇うのだけど、日本は海外に比べそこまで普及していない。その点を解消するために忠彬さんのご母堂、つまりヒロキ君のお祖母様が樫村親子と同居することになった。お祖父様は既に亡くなられているとのことで、実家を貸家にしてまで引っ越してこられた。彼女は孫と暮らせると喜んでいらっしゃったようで、いそいそと引っ越し作業をしていたと聞いた。
念のため、ギフテッドに対する知識と対応について僕からも説明しておいたので、世間体を気にしてヒロキ君を小学校に通わせる様なことは、流石にお祖母様もされないと思う。まあ、忠彬さんの離婚原因が日本の教育制度がヒロキ君に合わないといった部分なので、既にご理解いただけていたようだけど。
さらに、忠彬さんが出社の日で一週間に一日の頻度で、ヒロキ君は『万屋灰猫』で預かることになった。もちろん今回は、忠彬さんから報酬を貰っている。流石にタダ働きはできないよ。
ヒロキ君は小学校に行かず、マサチューセッツ工科大学大学院の通信講座で学んでいる。それ以外は、僕から日本でのマナーや慣習、コミュニケーションの取り方などを教わっている。小学校に行かず海外の大学院の卒業の経歴になるため、アメリカでは問題なくても、日本では一般企業への就職は難しいだろう。
ただし、自営業として自分の事業を立ち上げられる技術を既に持っているので、会社に所属しない方法もあると伝えたら、彼は目を輝かせて聞いていた。あのね、単独で人工頭脳作れるほどのエンジニアってほぼいないからね?
そのことを忠彬さんにも伝えたら、こちらも目を輝かせていたので、もしかしたら先に忠彬さんが独立するかもしれない。同じ現場だけで働いていると、自分の技術が他に通用するのかを知らないことがあるようだけれど、忠彬さんもそれなのかもしれないね。
自営業となると事務作業がものすごく増えるので、自分でキチンと学ぶか、経理の人を雇ったらどうかと伝えようとしたとき、ふと思いついた。
ノアズ・アークに覚えて貰ったらどうだろう、と。
アメリカ滞在中、ヒロキ君の親権の行方も定まり、後は細々とした手続きのみになってきた頃。忠彬さんが弁護士と共に外出しているときに、ヒロキ君が依頼料について僕に相談してきた。
ヒロキ君には年齢も相まって、自由にできるお金がない。僕が魔法使いだということは口止めしたため、忠彬さんに依頼について話すこともできず、依頼料が支払えないと顔を暗くしていたのだ。
僕はヒロキ君が支払えないだろうことは当然承知していたし、ちょっと私怨も混じらせて依頼を受けたという理由もある。ここは将来どころか現時点で有望なエンジニアと、手堅いコネができたということで良しとするつもりだったのだ。
ところが、それにヒロキ君は待ったをかけた。こんなに良くしてもらって命を助けてもらったのに、何も御礼ができないのは駄目だ、と主張した。……十歳で、なんて人格が出来た子なんだろう。イソギンチャク野郎共に、正座で石を抱かせてから聞かせてやりたい。
とは言え、他に支払うものと言っても、と二人で頭を悩ませているときに、突然ヒロキ君のPCがハッキングされた。
犯人はノアズ・アーク。ヒロキ君が制作した人工頭脳だった。
電話回線からネットの海に逃がされたノアズ・アークだけれど、逃がす前にヒロキ君によって与えられたデータやネットの海で情報を学習して、ヒロキ君の様子を見にハッキングを仕掛けたそうだ。
既に幼稚園児程度の知能に育っていたノアズ・アークは、ヒロキ君似の合成音声も作成済みで、マイクやスピーカーで会話ができるようにプログラムを作成していた。それはとても素晴らしい成長ではあるけれど、今後の問題発生を防ぐ必要がある。ヒロキ君手製のセキュリティが強固なPCを、ノアズ・アークは楽々ハッキングしたのだ。放置したら国の重要なサーバーまでハッキングしそう、と呟いた僕の声を聞いて、ヒロキ君が慌てて法律に関する学習データを作成し始めたくらいの事態だった。
僕はその横でノアズ・アークに自己紹介をしながら、やんわりと何でもハッキングしては駄目だよと理由を合わせて話していた。人工頭脳の学習なんて携わったことはないため、どこまで有効かはわからなかったけれど、ヒロキ君の学習データができるまで何もしないよりはましだろうと論理的に伝えてみた。情緒を育てるために、今度絵本でも読み聞かせた方がいいだろうかと悩んだものだ。
学習に成功し安易なハッキングをしなくなったノアズ・アークは、今は拠点として僕の家の地下室に設置した、サーバーを住処にしている。元々僕に支払う報酬で悩んでいたヒロキ君にかわり、ノアズ・アークは僕の仕事を手伝うと申し出てきたのだ。
万屋灰猫のHPのセキュリティが甘すぎると指摘され、バッチリ警備するよとやる気満々のノアズ・アーク。公安に変に警戒されないように、あえて当たり障りないセキュリティにしていたのだが、そろそろ万屋灰猫の名前も売れてきているから、その辺を整備した方が良い頃合いかもしれないと、僕はノアズ・アークをセキュリティエンジニアとして雇うことを決めた。
もちろん正当な報酬は払っているよ。彼は、それをサーバーなどの機器の更新やハードディスクなどの購入費に費やしているけれど。ネットで買って、宅配ボックスで受け取るのは僕だけどね。
そんなこんなで、すでに万屋灰猫でこっそり働き始めているノアズ・アークだ、うちのセキュリティなんて早々ハッキングされることもなし、大半がネット情報を触っているだけのようだから、暇な時に経理などを覚えて貰えばいいのではと。
それを伝えたら、忠彬さんには唖然とされたけど、ノアズ・アーク自身が乗り気だったのでその方向で決定した。世間から見れば人工頭脳に何をさせているんだと叱責されるかもしれないが、本人がやる気なら経験させてみるのも教育だろう。
特化した一般のAIと違い、ノアズ・アークは人格すら形成しつつある人工頭脳だ。世間に存在を嗅ぎつけられたら、ノアズ・アークを巡って争いが起きる可能性がある。そう、僕の魔法と同じように。
ノアズ・アークは一年に五歳分の学習をするという。四年もすれば成人だ。心の成長が大人に追いつくそれまでは、安全な場所で沢山学んでほしいなと思う。
* * *
『悠さん、メールが届いているよ!』
「おや、教えてくれてありがとう、ノア」
雪の降る外の景色とは対照的に、パチパチと暖炉で薪が燃える室内で、悠はロッキングチェアに腰かけ小説を読んでいた。そんな彼にサイドテーブルに置かれたスピーカーから、子供の声──ノアズ・アークがメールの着信を知らせてきた。
本のページにしおりを挟み、サイドテーブルの上に置く。暖炉から離れたソファーに腰かけ、ローテーブルに置かれたノートPCを開き、悠はメールソフトを起動させた。メールの宛先と件名を見て、彼はパチパチと目を瞬かせている。
「珍しい、曙草(あけぼのそう)さんからだ」
『知り合いのヒト?』
「オンラインチェス仲間だよ。アプリのメッセージ機能を使って、次の対戦の連絡を取ったりするんだ。曙草さんから来るのは初めてだけど」
NRCにはチェスを得意とする先輩が複数いたため、暇つぶしの対戦相手となっているうちに、ある程度の腕になった悠はこちらの世界でもチェスを嗜んでいた。日常では将棋はともかくチェスを打てる相手がいないため、オンラインに対戦相手を求めるようになるのは当然の流れである。
その中でも、偶に対戦する『曙草』というユーザーは、それはもう強くて悠は何度もコテンパンに負けている。仕事が忙しいのか、ログイン自体ががレアなため、ひと月に一度対戦出来れば多い方であった。
「さて、次の対戦の連絡……」
『悠さん?』
嬉しそうにメールを開いた悠だったが、読み進めていくうちに段々と表情はこわばっていく。ノートPCのカメラをジャックしているノアズ・アークにもそれは分かり、不思議そうな声がスピーカーから聞こえていた。
「……いや、マジか」
また海外か、と頭を抱えて呟いた悠の声は、薪の音にかき消されることなく談話室に響いた。
* * *
息抜きのオンラインチェスアプリのメッセージタスク画面にて、送信済みのメッセージをじっと見つめる。とうとう賽を投げてしまった。自国の民でもない送信先の相手は、突然のメッセージにさぞ困惑していることだろう。
だけれど、もう時間がない。最も信頼を置くべき相手が、一番の敵になってしまった現状をなんとかしなくては、自分はおろかあの子たちも無事では済まない。
直接会ったことはない。チャットで話したことはあるけれど。
生業を聞いたこともない。知っているのは調べたから。
為人を確認したわけでもない。相談結果はすべて成功のようだけれど。
そんな相手に異国の存亡をかけた相談をする。やはり執務の疲労が溜まっているのだろう、改めて考えてもありえない選択だ。相手が依頼を受けるとも限らない。話を信じるかすらわからない。受けたとしても、今まで彼が受けた依頼とは違い、はるかに規模が大きく難易度が高い案件となる。
「でも、きっと貴方は受けるでしょう」
依頼者だからと、見知らぬ子供のためにその日のうちに出国できる、仕事に対して真摯な彼ならば。依頼が来た時点で、どうしたら良いか考え始めていることだろう。依頼してしまえば、彼はまず受けることを考えるらしいから。
「ずるいことをしてごめんなさいね。でも、もう──本当に時間がないのよ」
いつの間にか、あの子の侍女の顔触れが一部変わっていた。馴染みのあるものは姿を消し、新人ばかりが傍に控えているのに、あの子が不安に思っているのも、気づいている。そして自分の侍女も、同じく。じわじわと周囲を固められている。
全てが塗りつぶされる前に、自身についた護衛すら信じられなくなる前に、どうにかしなくてはいけない。
「だからどうか私を──この国を、助けてちょうだい。魔法使いさん」