テレビから流れるA国の中継ニュース。カメラに映る元帥の、堂々とした態度で報告する姿は、電撃的に逮捕された政府と警察の上層部の件もあいまって、軍事クーデターかと視聴者に思わせただろう。だが、それについては当の元帥によって否定される。自分は本来の職務に外れた行動は一切とっていないと。
次から次に報告される逮捕された者達の汚職、その極めて詳細な全くオブラートに包まない報告に、元帥に質問する記者の顔色が白くなっているのがわかる。自国のトップが人身売買にまで手を出していたと知れば、動揺するのも当然だろう。
ついでとばかりにB国首脳陣の逮捕も報告され、露骨にそして馬鹿正直に、かつ内容を誤解されぬよう簡潔に伝える姿は、まるで軍の報告を聞いているようだ。実際に、元帥はそのつもりなのかもしれない。
軍が職務に忠実だと理解するほど、そもそもの行動する原因となった法律自体にも注目される。それを利用したB国首脳陣の、賄賂による政敵の冤罪逮捕なども、どこまで調べていたんだとばかりに朗々と話す元帥。
それをテレビ画面を通して見ていたジラード・ムスカ・ヴェスパランド公爵閣下は、お腹を押さえて上質なビロードのソファーに伏せるように転がり、僕とヒロさんはその様子を生温い目で見つめていた。
中継が始まってから既に十五分は経過しているけれど、その間ずっと彼は笑いっぱなしだ。そろそろ気管支と横隔膜は大丈夫だろうか。
「まさか、こういう手を使ってくるとは思わなかったわ。私を笑い殺す気か」
未だ口の端が笑いを引きずっているものの、何とか発作から立ち直った公爵が声を震わせて言う。僕はそれに努めて無反応を貫いた。いやまさか、元帥があそこまで全てをサッパリ解決させようと思いきるとは、僕としても思わなかったので。文官の名家に生まれたとは思えないほど即断即決の軍人とはいえ、自国の恥をこれでもかと晒すかなぁ、元帥が。上部が政治に復帰する可能性を微塵も残さないという決意は十二分に伝わるので、もう少し加減というものを覚えてほしい。部下の方々はお疲れ様です。
諸々のツッコミを面に出さずに微笑んだままの僕を眺めて、公爵は更に笑みを深めた。うわ、怖い。今度は何を企んでいるのだろうかこの人。
あの元帥は流れでB国内部の告発も同時に進めたので、お陰様でスパイを命じた上部が捕まり、B国内でも組織の再編が進んでいるようだった。あの元帥の監視下でヴェスパニア王国にちょっかいをかける余裕はもうないだろう。つまり、ミッションコンプリートである。
「今後ともヴェスパニア鉱石の取り扱いは慎重にすべきだが、第一の危険性は遠のいたと見てよいだろう」
どうにか公爵にこの結果でOKを貰えたらしい。内心安堵しつつ、僕は笑みを浮かべ続ける。
「あとは公爵閣下のお仕事ですので」
「わかっている。国を揺るがせた罪は問わねばなるまい」
僕としてはスパイの侵入元になった貴族を示したつもりだが、公爵にとっては自身も含まれているのだろう。
よくもまあ、この公爵をあそこまで無力化したものだと、B国の潜入者に感嘆する思いだ。その地道な努力を潰したのは僕なので、恨むことなく祖国の解放でどうにか手を打ってくれるとありがたいのだけど。
「──さて」
一転して、穏やかで柔らかなものから硬質なものへ声質を変えた公爵に、僕達も心持ち佇まいを正す。
真面目な話になるのはいいけれど、多分勧誘がくるだろうな。流石に数日で終わらせられる仕事内容ではないし、公爵と女王はそれを成し遂げた相手を放置するような方じゃあない。
僕は日本から出るつもりはないので、お断り一択だけど。
「これにて貴殿に依頼した仕事は完了と判断した。次は報酬の話だが、その前に一つ聞いておこう。
──我が国で仕えるつもりはないか?」
「ありませんね。僕は母国が好きなので」
予想していた問われた言葉に間を空けずに答えれば、ふ、とわずかな息を漏らすように公爵は笑った。
「即答だな」
「即答しなければ引き下がらないお積りでしょう」
「当たり前だ、可能性があるなら諦める必要がない」
ならばこちらだな、と公爵はあっさり引いて横に置いていた封筒から書類を取り出した。切り替えが早くて怖い。
表紙であろう一枚目をめくると、報酬の目録が記載されているのだけど、おかしいな、文字が認識できない。数字のゼロが増えて見える。
「まずは金銭として三百万ドル用意した。姉上や私の個人資産から用意しているので気にせず受け取るように」
「まず」
過去最大級の報酬に僕の語彙が消えた。見間違えじゃなかったというか、報酬を踏み倒されたら戦うつもりだったけれど、これは逆に多すぎるのではないだろうか?
工作員の相場を知らないからわからないけど、サラリーマンの平均生涯賃金より上ということはない筈だ。
「表だって表彰するわけにもいかんからな。貴殿に適切な勲章には年金も支給される。それの一括払いと考えておけばよい。
次に我が国の不動産だな、豪邸を貰っても管理に困るだろうから、中流層向けの住宅地を合わせて二百万ドル程度用意した。新築だぞ」
「あの、投資家ビザを取らせようとなさっていらっしゃる?
個人所有はいたしませんよ、こちらは法人所有にします」
ヴェスパニア王国には、個人で百万ドル以上の不動産を所持した場合、投資家ビザを申請することが可能で、その後市民権を取得することもできる。日本と違って外国には戸籍がないため、正式に居住するには市民権が必要であると考えれば、抜け目なくこの国に僕たちを縛り付けようとしているのは明白だった。
「ふん、ちなみに五年は売買できんからな。管理会社の選定もこちらで代行してやろう。
後は、これだ」
目録に記載している最後の文。それを見て僕は不敬だとは理解しつつも、公爵に胡乱な目を向けることになった。
「本気ですか」
「ああ、姉上の許可を得た正式な許可証だ」
「任意の量のヴェスパニア鉱石を譲渡する……国外に流出させるおつもりですか」
この度の騒動の元になったヴェスパニア鉱石。それを他国の者である僕に渡そうという。
「貴殿はしないだろう。メリットがないからな」
「だとしても、私に渡す理由もないでしょう」
「なに、鉱物で語り合った記念に貰っておけ」
どこが記念なものか。僕は内心舌打ちした。正直に言えばとても欲しいけれど、自分で錬金した魔法石と比べて調査して研究対象にしたい気持ちが抑えきれないほどに存在するけれど。
でもこれは首輪だ。万が一鉱石が流出し、その行方の捜査と回収を僕に依頼するための布石である。
いざというときに真っ先に疑われるのは正式に譲渡された僕なのだから。
隣に座るヒロさんも、微かに顔を強ばらせている。だよね、これヤバイよね。どうにか断ろうと口を開きかけたその時。
「──ちなみにあくまでも冗談だが、これらを断ると姉上が王女との婚約をちらつかせると言っていた」
「謹んで受け取らせていただきます」
冗談だと言うわりには公爵の表情は真顔で、今までに培った危機察知による警鐘を受けた僕はごねることなくさっさと了承することにした。彼らが僕たちにどれ程の価値をつけているのかはわからないけれど、大抵の場合、言質は取られないに限る。
「よし業務委託契約書の確認を頼む」
「準備万端ですねえ」
僕は今年になって万屋灰猫を合同会社に法人化しておいてよかったと安堵する。これが個人事業のままだったら、報酬の半分を税金で払わなければ行けないところだったので。
***
王宮を後にして、市井に出たオレと悠君は、良さげな飲食店に足を踏み入れ、メニューから気になる食べ物を注文していた。
最初に出てきたムサカを食べながら、人々の流れをぼんやり見ていると、口の中の食べ物を飲み込み終えた悠君がこちらを向いた。
「観光がてら、物件を見に行きたいんだ。管理会社は紹介して貰ったから、挨拶もしておかないと」
「確かになぁ、オレはかまわないよ」
「でもまさか、海外の不動産投資を強制的にさせられるとは思わなかったよ」
「そりゃそうだ」
悠君が個人事業主だったら、市民権の申請権利を得ていただろうから、それ狙いだったのだろう。抜け目なく繋がりを保とうとする辺り、本当に気を抜いて相対できない方だな、公爵は。
先ほどから悠君が食べている皿の料理に興味が湧き、渦巻き上のそれにフォークを刺してかぶりつこうとしたら、悠君はハッとした顔でこっちを見た。
「あ、ヒロさんそれ」
「ん?」
「とっても甘いので覚悟して……あー」
かぶりついた菓子──バグラヴァのあまりの甘さにむせたオレは、無糖のコーヒーを慌ててすすった。なんだこれ、なんっだこれ。甘ったるいどころじゃない、衝撃ですっかり目が覚めたぞ。
口の中の甘味をコーヒーで中和しつつ、隣の皿の料理を食べる。あー、塩分にホッとする。
「コーヒーがあって本当に助かった」
「あはは……初見は驚くよね」
文化圏の違いを身をもって体験した。潜入していたころも外国に滞在してはいたが、大抵泊まるのはホテルだったからな。オレは地元の料理を食べた経験は殆どない。
「料理と一緒にデザートも頼んだからね、ごめん失敗した。こっちのキョフテもどーぞ。美味しいよ」
「ありがとう。このイマム・バユルドゥもうまいぞ」
モグモグといつもより乱雑に食べる悠君は、すっかり街の光景に紛れ込んでいる。この街中で上品に食事をする事は、良からぬ連中にカモとして狙われ易くなるためマズイのだと、彼も知っているのだろう。
それでも時折向けられる無粋な視線の元を確認しつつ、もう一口咀嚼しながら、オレは公安への報告内容について思案する。
悠君と約束した最重要黙秘事項を除いたとしても、今回の案件は大部分が国家機密だ。もはや依頼人の名前すら黙秘対象になる。出入国の履歴で推測はされるだろうが、誓約上他言できない。
さらには魔法で瞬時に移動する方法なんて、何処にも伝えられる筈がない。あらゆる完全犯罪が可能という事実を伝えたとしても、最早悠君の公安内での評価はそれほど変わりはしないが。しないけれども、情報とは漏れるものだ。悲しいことだが、古巣だとしても人間の集まり、天秤の傾きを反転させるものがいないとも限らない。例え、管理官でも。永久に同じ人物がその地位にいるとは限らないのだから。
やんごとない方の依頼で、調停を任され、成功。その他に個人的な相談を受けてそれも解決した。
うん、ものすごくぼかした、この程度しか伝えられそうもないな!
オレはできるかぎり細かく報告することを、白旗を降って早々に止めることにする。すいません風見さん、今度の差し入れは胃に優しいものにします。
また一口コーヒーを啜るオレは、目が遠くなっていることだろう。
他に伝えてもかまわない内容といえば、悠君の魔法を使用しない才能についてだろうか。
彼には高いスナイパー適正とスカウト能力がある。魔法を使用して侵入と撤収こそしたものの、それ以外の情報収集能力は勿論、身の潜め方や動き方、万が一に魔法を使用できない場合の退路の確保など。
悠君曰く、先輩に教わったらしいが……スナイパーの先輩でもいたのだろうか。
話を聞く限りその物騒な先輩は異世界の住人だろうと思い至り、魔法の世界なんだよな、と内心首を傾げながらカップをソーサーに置いた。
のんびり腹を満たしたあと、オレ達は飛行機で目的の町近くの空港へ移動し、その後バスに乗って目的の町まで進むことになった。ヴェスパニア王国の国土は広いため、遠距離であればまずは飛行機で現地近くまで移動するのが一般的のようだ。
現地近くの街から離れるにつれ、空は広く緑が多くなっていく。反対に、目的地の街に近づくにつれ、人工的なものが増えていた。
バスに揺られながら窓から移り変わる景色を眺めていると、一台の普通自動車とすれ違った。お、フィアット500だ珍しい。
窓側の席だから見える車外の黄色い外車に目をとられているオレの隣で、悠君は不意にぐっと、拳を握り込んだ。
「どうした?」
「着いたら早急に物件を確認して、戻って依頼主の所にいこう」
「いきなりどういう……」
呟くように言う悠君は、オレの返答を聞いてなどいないのだろう。目を細めた表情は冷ややかで、いつもの柔らかさは欠片も見つけられなかった。
「抜け穴は潰さないと」
そっと開けられた彼の掌の中には、見覚えのある鉱石が一つ、艶やかな赤を纏って存在していた。
* * *
昼も過ぎ太陽が影を伸ばし始めた時刻。公爵の自室で姉と弟はゆったりお茶を共にしていた。
互いの周囲に置かれていた不穏の種も排除され、ようやく一息つけるようになった二人は、久しぶりの何気ない会話を楽しんだ。
「もう、貴方の流した噂のせいで、わたくしは殆どガルネーレと話せなかったのですよ?」
「それについては申し訳なく。しかし、国のトップが易々と他国の一般市民と応対するのは如何なものかと」
子供のようにすねて見せる姉に、弟は困ったように眉を下げて笑う。
「わかっています。でも、チェスについて何もお話できなかったのは残念です」
「なに、これから機会もあるでしょう。その為のヴェスパニア鉱石ですから」
サクラ女王を宥める公爵は、恩人である青年を思い浮かべる。
日本人の気質というものなのか公爵にはわからないが、静謐で嫋やかな印象の青年は、見た目を裏切る度胸と行動力の持ち主だった。
洗脳されていた身で流した、偽造した姉の醜聞を刺激しないために、性別不詳の容姿に扮して王宮へと乗り込んでくるとは思わなかった。
其ならばと対面してからは、青年が仕出かすそれらが愉快で仕方がなく、公爵はその能力を含めて取り込もうとしたが、断られてしまった。
未だ公爵と青年は依頼者と雇われ人でしかないため、当然と言えばそうなのだが、公爵は全く諦めるつもりはなかった。まずは仕事で会う事を重ねて知人に、プライベートで会う機会を経て友人に。親しくなればなるほど、青年の助力は受けやすくなるだろう。
譲ったヴェスパニア鉱石はその布石、まずは機会を作るためのもの。
そこまで思考して、公爵はふとその時の青年のにこやかすぎる笑顔を思い出した。確か、姉の冗談を告げたときだったか、淡く微笑んでいるだけだった表情が一変し、内心を想像するだけで愉快だったが。
「あの冗談はどこまで本気だったのですか?」
ヴェスパニア鉱石を受け取らないのならば、王女との婚姻を進める──そんな冗談を言うように指示したのは、サクラ女王だった。自国民でも、他国の重鎮でもなく一般市民の青年に告げるには、あまりに不相応な内容。
公爵は青年に受け取らせるための圧力と考えていたが、国主たる姉は何故そんな冗談を口にしたのか。
弟の問いに、姉は穏やかな笑みを浮かべた。統治する女王としての笑みを。
「英雄を取り込む方法として、ポピュラーな方法でしょう。それに偶然ですが、反対する筆頭はそれどころではありませんもの」
件のスパイ引き込みの処罰と引き換えに、最も王位に近い貴族と言われていた彼の一族は当主を交代されることになった。本来ならば元当主の長男が継承者であったが、『近年の視野の狭さ』を理由に次男が継いだため、諸々の根回しに一族は大忙しだろう。
「彼が貴方の養子になり、あの子と婚姻を結ぶなら、それ程難しいことでもありません。身内に優しい子のようですから、あの子自身も生まれたこの国も気にかけてくれるでしょう」
女王は青年の横に佇む『助手』を思い浮かべる。華やかな印象の青年に隠されるように、無難な色合いで特徴を消した姿は目立たない。そこに込められた青年の思惑は、わかりやすいほど助手を庇っていた。
自ら弱点を晒すような行為ではあるが、青年の『能力』を深く知るものほど示された警告に気づく。虎の尾を踏みにいくような真似をすれば、青年の助力は今後得られない。
だからこそ女王は青年を王家に引き入れても良いと考えた。青年との繋がりを最大にする機会を示すため、冗談の形で公爵を経由して伝えた。
「非常に残念ですが、振られてしまっては仕方ありません。おとなしく諦めます」
「そうしていただきたいものです」
「あら」
結果は断られたが、一般であろうとする人となりは把握出来たため、女王はそれで良しとした。姉がまだ何かちょっかいをかけようとしているのかと、少しばかり警戒していた弟は、息を吐くように言う。
女王は公爵の様子に眉尻を下げた。青年を呼び寄せる際のお願い方法や、そのまま次の無茶な依頼を押し付けたことは、彼女自身でも申し訳ないと思っている。弟は彼女よりも青年に接しているため、大分情が移っているようだった。
気を取り直すように、彼女はティーカップのつるに指を添える。
持ち上げたカップのデザインには、彼女の名前の由来になった花が描かれている。
彼女がじっとそれを見つめていれば、浮かぶのは遠い日の記憶。
『そいつは出来ねぇ相談だ』
強い日差しも、打ち付ける雨も知らない若葉だった頃。確定していた自身の道に抗い、形振り構わず重い柵を外そうと躍起になっていた。この桜が満開になった木の下で、少し困ったように笑うあの人。
「──振られるのは二回目ですね」
「以前にも何かアクションを行われたのですか」
「ガルネーレにではありませんけれど」
『この国がアンタのおかげでいい国になったら』
『そんな時はまた盗みに来てやっから』
「また会いたいものです」
もう、あの頃とは考えも大切にしたいものも違ってしまい、盗まれるわけにはいかなくなってしまったけれど。
ひょっこり盗みに来た彼をつかまえて、お茶に誘ったら驚いてくれるかしら。
想像上の再会は楽しく、ふふっと声を漏らして笑う彼女は、少女のように可憐であった。
数時間後、重要な情報を引っ提げて王宮に戻ってきたガルネーレ達を、姉弟がにこやかな笑顔で確保する姿が目撃されたのだった。
***
ヴェスパニア王国は広大な国土を持つ。都市部から離れた郊外であるほど、農地の関係上、家と家の間隔が広くなっていく。そんな郊外の民家のひとつに、ゆっくりと近づくヘッドライトの光があった。
家の隣に停車したクラシックカーから出てきた男は、鼻歌交じりに玄関のドアを潜る。
パチリ、と壁にあるスイッチを押せば、明るさを抑えた照明が部屋を照らした。
男は、今回の目的である鉱石の入った小箱を、懐から取り出す。最近話題の新しく見つかった未知の鉱石であるそれの、隠された性能を『耳にした』とき男は、昔の古い約束をひとつ思い出した。
『お願い……クラウンと一緒にわたしも盗んで!』
世間知らずな王女様の、無茶無謀な願い事。泥棒に盗んでほしいと言うなんてと、あまりに面食らって柄にもなく道を諭してしまった程だ。そんな若造だった頃の約束は、今まで生きていく中ですっかり記憶の底に仕舞いこまれていた。
今では見違えるほど立派な女王となった彼女だが、約束を果たすのなら在位中にしなくてはと、男はいそいそと準備を始めていたのだった。
盗みの足がかりとしてステキな性能の鉱石を手に入れられたのは、男の運も良かった。厳重なセキュリティが敷かれる前に流出したらしく、これ以降手にするためには盗掘しかないだろう。
「先ずは色々試さねえとな……あら~?」
小箱の蓋を開けたところで、男は目を細めた。この小箱を受け取ったときに確認した石の形と違っていたからだ。
男は机の引き出しからいくつかの器具を取り出し、慎重に鉱石を確認していった。
「──こりゃ、スピネルだな。イミテーションでもねぇ……」
結果は本物のスピネルの原石。すり替えられたとしては、あまりに透明度が高い。大きさは17カラット前後で、色もレッドな上に濃いとくれば、これ単独で相応の値段が付く。
まあ、それは良いと男は唸る。希少性はヴェスパニア鉱石の方が遥かに上だ。問題は、男には小箱をすり替えられるタイミングの覚えが全くないことだった。
「どういうこった……?」
男はしばらくうんうんと唸って考え込んでいたが、そのうちに額を手で押さえて大きな声で笑いだした。
「いやー、どこのどなたさんか知らねぇが、俺から盗むたぁ良い腕してんじゃあないの」
とても愉快な気持ちだった。天下の大泥棒を自負していた自分が、よりにもよっていつの間にか盗まれているのだから。
男の腕がなまった?──馬鹿を言うな、心当たりがないほどに鮮やかに盗まれたことは言い訳のしようもないが、男の腕よりはるかに上手の誰かがいるということ。
そして泥棒の男から盗む──つまり、喧嘩を売られたということだ。
「必ずその面拝んでやっから、待ってろよ?」