外壁の門に取り付けているベルが鳴ったのは、緑川さんの職場の方にメールを送ってから一時間ほど経過したときだった。
怖い時間の空き方だな、と僕は少し慄いている。十中八九、緑川さんは何らかのトラブルに巻き込まれていて、迂闊に職場の方と連絡を取ることができない状態の様子。
そんな中、ようやく来た連絡に急いで向かったとしては遅すぎるし、慎重に来たとすれば一時間で出来る準備とは何だろう。──僕の資産状況とか? むしろ、そんなこと調べてから来る人達なら、全力で記憶を奪うのも吝かではないよ。……緑川さんを対象にするのは、かなり悩むけれど。
門に設置されている監視カメラには、白い車が一台と真面目そうな眼鏡の男性が映っていた。緑川さんを抱えてモニターを確認してもらうと、職場の方で間違いないらしい。よかった、組員的な人じゃなかったと思いながら、僕は門を開けるスイッチを押した。
玄関のノック音に扉を開けば、そこには成人男性が二人佇んでいた。先ほどの眼鏡の人と、黒いキャップを被った褐色肌の金髪の人。二人とも背が高い。おかしいな、僕これでも百八十センチにギリギリ到達したのに、目線がさらに上だった。もしかして緑川さん(本家)も背が高いのかな?
そして感じ取れる雰囲気より、確実に光属性だと判断する。RSA(ロイヤルソードアカデミー)にいそう、と内心で納得しつつ、談話室へ誘導した。
まあ、でも。そこにいるのは猫なので、困惑するのは当然ですよね。
* * *
「えっと、こちらが緑川さんです」
「猫ですよね」
「猫なんですが、緑川さんなんです」
「……ふざけていますか」
「それが、大真面目なんです。本当に」
金髪の青年──安室から寄越される、眉間にしわを寄せ睨みつけるような視線をものともせず、さあ緑川さん実践ですよと悠は真面目な顔で促した。緑川はその姿を見て、この子度胸が凄いなと思わず関心する。彼は促されたままにソファーからローテーブルへ軽やかに飛び乗り、広げられたあいうえお表を全員から見えるように前足でタッチしていく。
『し、ん、ぱ、い、か、け、た、な……と、お、る』
「猫が人語を解している……」
『も、と、も、と……に、ん、げ、ん、で、す……ひ、だ、さ、ん』
「あの、安室さん。そんなに凝視しても、そこには猫の緑川さんしかいませんよ?」
テンポよく文字を踏んでいく緑川の姿を、眼鏡の男性──飛田は呆然と、また安室は真顔で見つめている。悠は、先ほどから瞬きをしていないように見える安室に、そっと声をかけた。正直怖いと思ったので。
『やっぱり難しいよなぁ、人が猫になったって信じるのは』
『僕は、緑川さんが目の前で小さくなる瞬間を見ていますからね。では、緑川さんしか知らない情報を伝えたらどうでしょう。社外秘であれば、席を外しますけれど』
『うん……お願いできるかな、本田さん家主なのにごめん』
『いえいえ』
猫になった緑川本人でさえ、受け入れるのに時間が必要だったのだから、変化した現場を見ていない同僚達が、信じかねるのは当然だ。
緑川は説得の難しさで気を落としたのか耳を伏せ、それを見かねた悠は、自身が席を外す提案をする。緑川の了承を貰って、悠は安室と飛田を振り返った。
「というわけで、僕少し席を外しますね」
「というわけの内容がわからないんですが!?」
「僕たちには、貴方と緑川らしき猫が、にゃあにゃあ鳴いていたようにしか聞こえていませんが」
「あ」
狼狽している飛田と、口調は丁寧ながらも表情の抜けた安室の姿を見て、悠はうっかり猫語で緑川と話していたことにようやく気付く。
「緑川さんが社外秘の内容を伝えるとのことなので、僕が少し席を外すという方向になりました」
「待ってください……先ほどの鳴き声で話したんですか、猫と、貴方が?」
「猫語です」
「猫語」
すみませんと謝罪し、緑川との会話内容を告げた悠に、飛田も安室も、何かを諦めたような顔をした。その常識の打ちのめされ具合を見て、悠は説得完了までもう一押しかな、と判断する。十分ほどで戻りますと伝え、キッチンへと移動した。
「もう夜だから軽い夜食でも作ろうかな」
腹の虫が鳴ったおなかをさすり、悠は冷蔵庫からいくつか野菜を取り出す。細かく刻めば手早くスープくらいは作れるだろうと、ざるを取り出してキャベツの葉を水で洗い始めた。
* * *
僕がキッチンに入り込んでから十分が過ぎ、スープもあとは煮込むだけとなったので、そろそろ様子見に行ってもいいだろう。冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を二本と水を一本持って、談話室へ続く扉を開いた。
『待って待ってゼロ待って! 悪かった! バラしたのはごめんって!』
「ふ、安室さん! 自分見なかったことにしますから安室さん! 落ち着いてください、相手は猫ですよそれ以上は!」
「わあ、修羅場かな?」
──扉の先は何やらトラブルが発生していたけれど。
焦った様子の緑川さんの首をつまみあげ、憤怒の形相をしている安室さんと、少々腰が引き気味でそれを宥める飛田さん。話の内容を聞く限り、緑川さんが安室さんの隠しておきたかった、プライベートな内容を暴露したというところだろう。
そして緑川さんの猫語は安室さんには通じないため、全く謝罪が伝わらない悲しい状態だった。僕が止めるか、安室さんの気が済むまで止まりそうにない。
『あ、本田さん来たから! 落ち着けゼ、透……って通じないなコレ!』
「悪かったと緑川さんが謝罪されていますよ」
「──もうやらないでください……ね?」
テーブルにペットボトルを置き、緑川さんを両手で持ち上げながら僕が通訳をすると、安室さんは緑川さんに笑顔で念を押していた。ね、の圧力が凄い。緑川さんはぎこちなくコクコクと頷いていた。いたずらもほどほどにした方がいいですよ。
ペットボトルのお茶を二人に手渡しし、一息ついたところで落ち着かれましたか、と聞いてみたところ、騒いでしまい申し訳ありませんでした、と謝罪された。わちゃわちゃした光景がとても面白かったので大丈夫です。
「今でも目を疑う現実ですが……この猫が緑川ということは納得しました」
「よかった、第一段階突破ですね」
安室さんが頭が痛そうにこめかみを揉むのを笑顔で流して、次々行きましょうと僕は話を促した。まだ説明の途中だから、リタイアされると大変困った事態になるため、本当に良かった。
主に、僕が取る手段がこの場の全員から、僕に関する記憶を消す方向に固定されるから。緑川さんのフォローをしたい僕としては、取りたくない手段だからね。
「次は、緑川を猫にした薬品が……こちらの試験管に?」
「中身は、殆ど残ってませんね」
「一応、元にしたレシピがこれです。ただ、僕にはどうしても猫になる成分があるようには思えなくて」
回収した栓付きの試験管とレシピが書かれたルーズリーフをローデスクに並べる。試験管の中には、数滴ほどの薬品が残っているが、すでに魔力を抜いているので魔法薬ではない。レシピだって渡しても問題はない。錬金窯にて錬成しない限り、魔法薬として成り立たないからね。緑川さんに説明した、髪に良い成分が入った薬品というだけだ。
「この試験管とレシピ、僕たちが回収してもかまいませんか」
「だめです」
僕がきっぱり断ると、ピタリと三人の動きが止まった。駄目ですよ、問題ないとはいえ渡すと後々面倒なことになりそうだから。僕はレシピが書かれたルーズリーフを丸め、マッチで火をつける。また、試験管はキッチンに持っていき、水で洗い流した。僕の後をついてキッチンを覗き込んでいた三人は、しょうがないかというような顔をしている。はい、諦めてください。
「被害の拡大する可能性は抹消するに限ります」
『一切の躊躇がながっだ、んんっ、なんがごえが……』
「どうしました緑川さん、痰が絡んだような声になって」
おや、それまで流暢に猫語を話していた緑川さんの声が、風邪を引いた時のように濁音多めの発音になっている。
水を飲みますか、とミネラルウォーターを見せるが、緑川さんは首を横に振った。なんか、身体が熱い。そう訴えた直後、彼の身体から目に見えるほど蒸気が放出された。
小さかった身体の輪郭は、徐々にその大きさを増していく。全身黒の毛皮に覆われたそれが、次第にライトオレンジの肌が見えてくる。数十秒後には黒猫の面影が一切ない、成人男性がそこにいた。
──ただし、全裸だが。猫だったからね、しょうがないよね。
「緑川、今すぐ尻に引いているブランケットでまず前を隠してください」
「へ、うあっ!?」
安室さんに指摘されて、慌てて体を隠す緑川さん。暖炉で室温が暖められているとはいえ、今の季節は冬。緑川さんの服は魔力は抜いたけど濡れているままだから、僕の服を一時的に着てもらった方がいいかな。
「僕の服でよければお貸しします。緑川さんが着ていた服は、薬品がしみ込んでいるかもしれませんから」
「よろしくお願いします!」
元気なお返事と深々とした礼を貰った僕はくすっと笑みがこぼれた。確か、未使用のトランクスがあったはずだから、それも提供しよう。少しお待ちくださいね、と声をかけて、僕は自室へ向かった。
* * *
「戻ったぁー……」
「災難だったな」
ぐったりとソファーの背もたれに寄りかかる緑川──諸伏を、労わるように声をかける安室──もとい降谷。諸伏は肩を回したり、手を握ったり開いたりして動きを確かめている。何処も不調がなく、その事実が凄く違和感があるが、見慣れた人間の彼の手だった。
「しっぽとか残ってないか?」
「大丈夫みたいです、飛田さん」
「耳もちゃんと横についているぞ」
パタパタと体中を叩きながら確かめて、猫成分が残っていないことを確認し、全員そろって安堵した。諸伏に至っては、一時はどうなることかと気が遠くなったため、よかったと呟きながら少しばかり涙目になっている。
ポスポスと諸伏が飛田──風見に頭を軽く叩かれていると、小走りで悠が戻ってきた。その手にはミカン箱ほどの大きさの籠が抱えられている。
「──とりあえず、未使用の下着と長袖のティーシャツにジャージ上下です」
「ありがとうございます」
ちょうどそこが通路なので着替えるのによいかと、と諸伏の足元にスリッパを置いて、悠は中に入った着替えを籠ごと渡した。軽く会釈した諸伏が受け取り、いそいそと通路に入っていくのを確認して、悠はローテーブルの傍のスツールに腰を下ろした。
「突然戻りましたね……」
「ええ、驚きました。彼が猫になった時もあんな感じだったんですか?」
「いえ、もっと一瞬でした。あまりの早さに人が溶けて消えたかと思いましたから」
あれはちょっとトラウマです、と青ざめた表情の悠に、降谷と風見はそれはトラウマになるだろうと少し同情する。ある意味元凶は悠の作成した薬品とはいえ、育毛剤を作ったつもりが人が溶けたなど、もはやホラーだった。
「いま、夜食にスープを作っているのですが、召し上がれますか? まあ、猫化する謎の薬品を作った人間の手料理は、怪しいと思われるでしょうが」
「返事に困りますねぇ」
「事実ですし。どちらにせよ、僕は食べますからね。飯テロご注意です」
そう言うなり、にかっと笑った悠は、先ほどまでの年齢不相応な静謐とした雰囲気がまったくなく。年相応の、悪戯っぽい顔をしたこの青年が、今まで緊張状態に置かれていたことを、降谷は理解した。
偶然、人間が猫になる薬品を作ってしまって、一番恐怖を感じていたのは悠だった。たとえ薬の効果が永続的なものであろうとも、必ず諸伏(緑川)を元に戻すと決意していたが、魔法がバレる可能性への恐怖は、それとは別に膨らんでいた。あの四年間で培った技能を駆使して、自身の反応を抑え、微かな相手の表情の動きから次を予測し、対処する。──その出来は、悠の先輩たちが見ていれば、褒めてくれるほどの完成度だった。
降谷たちは、悠が何かを隠していることには薄々気づいている。内容はわからず、本人の製薬技術も詳細不明で、放置する判断ができない人物。元より彼らは他人が調理したものを飲食することはしない。ここは、断るのが当然の判断だろう。
「──では、僕はいただきます」
「はい、スープ一人前ですね。飛田さんはいかがなさいますか?」
「え、では……自分もいただきます」
「二名様ご注文ですね。緑川さーん、スープ食べますかー? 二人は食べるそうでーす」
「じゃあオレも食べまーす」
だが、少なくとも誰かを好んで傷つける為人ではないとは確認できたと、楽し気にキッチンに向かう後ろ姿を眺めながら、今後の対応を考えるのだった。