ふんわりと暖かな香りのするキッチンにアイリスが立っていた。
新しめの白いシャツワンピースが良く似合っている。この殺風景なキッチンには少々不釣合いだと思うほどに。
恐らくセンリツが調達したものなのだろう。さすが彼女が似合う服をよくわかっている。
そのアイリスの後姿に
「アイリス」
と、声をかけると、アイリスが驚いた顔をして振り向いた。
「クラピカ!? 起きて大丈夫なの!?」
「ああ、心配かけたな、もう大丈夫だ。二日以上眠っていたとは不覚だったよ」
そう言ったと同時に目が眩んだ。クラピカがそれに眉をひそめていると、心配そうな目でこちらを見るアイリスと目が合った。
「もう。全然大丈夫じゃなさそうなんだけど……」
アイリスは小さな鍋をかき混ぜている手とクラピカを交互に見ながら、手をこちらに伸ばして
「熱は……もうないみたいね」
ひんやりと冷たくなった手をクラピカの額に当てながら言った。
「まだ寝てなきゃ」
「そうもいかないよ」
クラピカはそう言って額に手を当てる彼女の手に触れると、アイリスは驚いた表情をして
「……クラピカの手……あったかい」
と、少し躊躇いがちに言った。
「アイリスの手は冷たくて心地いい」
クラピカがふっと笑ってそう言うと、アイリスは少し照れたような顔をして
「や、やだ。病み上がりだからそう感じるだけよ」
と言って、アイリスはそっと額から手を離した。
「今ね。卵粥っていうのを作ってるの、私の国では療養食としてよく食べられているのよ。もう少しでできるから、良かったら食べてみて」
「ああ、ありがとう」
部屋の中に流し台のあるワンルームの構造をした部屋。
クラピカは、その部屋の窓から街一帯を見渡した。外は既に陽が落ちかけていて、辺りをオレンジ色に照らしていた。
前髪を掻きあげながら、クラピカは鍋をかき混ぜているアイリスの後姿に目をやった。
最後にアイリスをまともに見たのはあの飛行船の中。
引き裂かれた衣服を身にまとい、柔らかな肌を痣だらけにされて──傷つけられて、今にも壊れそうだったのに。
それが今では自らキッチンに立ち、わざわざ自分の為に療養食を作っている。
「アイリス、身体は大丈夫なのか?」
食事を碗によそうアイリスが振り向いた。
「うん、大丈夫。心配かけてごめんね」
ニコッと笑って言うアイリスのその言葉に、クラピカは嘘だ、と思った。
本当は、壊れてしまいそうなくらい彼女は弱い事を知っている。
敢えて強がるその行為は、やはりオレに気を遣っているからなのか。
あの男を殺す選択が出来なかった自分にとても腹が立った。
(旅団を殺す目的が一つ増えたようなものだな)
そんな事を思って、ふと、ゴンの顔が脳裏に浮かんだ。
自分の鎖の能力を明かしたあの日、自分を信じて自分の為に献身に動いてくれた仲間。
初めて心から信じて、全てを託しても良いと思えたのはこの仲間のおかげだった。
ゴンやキルア、レオリオに復讐よりも大切なものがあると教えられた。
まずは仲間の眼を、と思えるようになったのも、彼らのおかげなのだ。
それでも、この目の前で自分の為にこうして食事を作ってくれている彼女が、旅団にあのような目に遭った事実は拭えない。
それが何よりもの怒りだった。
旅団に捕らえられたあの時、アイリスは殺されてもおかしくなかった。
あの集団は気まぐれで人を殺す。
運が良かったのだ。
でも、もし今後他の能力者や何者かに目をつけられたら?
今回のように運よく事は運ばないだろう。
やはり、アイリスは普通の生活を送り、この世界から遠ざかるべきなのだと感じた。
「何を考えてるの?」
向こうで器をテーブルの上に乗せるアイリスと目が合った。
心配そうな目つきでじっとこちらを見ている。
「いや、何も」
咄嗟にそう嘘をついた。
じっとこちらを見ていたアイリスがゆっくりと近づいてきたかと思うと、腰に手を回しぎゅっと抱きしめられた。
「お願い。どこにも行かないで」
柔らかいアイリスの体の感触に戸惑いを覚える。
「……アイリス?」
アイリスはぎゅっと頭をクラピカの胸に埋める。
「もう、旅団を追わないで」
そう言ったアイリスの声は涙声だった。
「こんな事言う資格なんてないってわかってる。私が負った傷なんて、クラピカが受けた傷に比べてどうってことないし」
「馬鹿。受けた傷に重いも軽いもないだろ」
顔を上げたアイリスの瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「アイリス、君は旅団が憎くないのか?」
「憎い、憎いわよ。でも……」
アイリスの瞳が僅かに揺れた。
「クラピカがこれ以上傷ついて、苦しい思いをする方がよっぽど嫌なの」
あれほどの恐怖と屈辱を味わっても尚、そう言い放つアイリスをとても馬鹿だと思った。馬鹿だと思うと同時に、とても愛しくて、彼女を守りたいと強く感じた。
──アイリスを悲しませることだけは、して欲しくない
ふとゴンの言葉が脳内に響く。
心の中で張り詰めていた何かが解き放たれた気がして、ぎゅっとアイリスを抱きしめ返した。
「オレは大丈夫だから、何も心配するな」
思わず一人称が崩れた。優しく髪を撫でると、大粒の涙をぱらぱらと零しながらこちらを見る彼女が、何故かとても魅力的だった。
そんな彼女にオレは支えられているのだと思うと、心を覆っていた黒い影が和らいでいくのを感じた。
それと同時に、ずっと避けていた決断を──ここで下す事を決意した。
「アイリス。私は明日、ここを発つ。だから──」
一呼吸置いて、
「アイリスはもう、家に帰ったほうがいい」
と言うと、抱きしめるアイリスの腕の力が少し弱くなった。
「もしかして……例の護衛の……仕事が?」
「ああ」
アイリスが自分を救おうとしてくれたように、自分も彼女を救いたいと思った。
そのためには、まずは自分から彼女を離れさせるほかないと思った。
「アイリス、君には君の生活があるはずだ。この業界はこの通り非常に危険で、君のいる場所じゃない」
生きるか死ぬかの瀬戸際を生きるのは、自分たちのような人間だけでいい。
「だからもう……二度と関わるな」
アイリスの腕の力がするりと抜けるのがわかった。
しばらく沈黙があく。
「……そう、ね。クラピカの言う通りね。元々オークションが終わるまでの約束だったし、私は……普通の人に戻るわ。またあんな思いごめんだもの」
そう言って腕を放し、目を逸らしてアイリスは小さな声で呟いて、クラピカから一歩、二歩──と、後ずさりをして離れた。
「今日で最後……なのかな。これが」
目線をこちらに戻したアイリスがふっと笑った。
そんな顔をするな、と思った。
ふっと笑ったアイリスの笑顔が少し悲しげな事を、見て見ぬふりをするつもりだった。
本当は連れて行きたいのは誰よりも
自分だと言うのに──
胸の奥が痛んでたまらなくて、気付けばアイリスの腕を掴み、彼女の身体を胸に引き寄せていた。
アイリスの頬を右手で触れて上に向かせると、瞳にためていた涙が流れ落ちてクラピカの指を濡らす。
その目がたまらなく愛おしくて、護りたくて──胸の奥底を刺激するのだ。
クラピカはその涙を指で拭って──アイリスのその涙の跡にそっと口付けをした。
本当に、そっと。優しく。
顔を離すと、涙を溜めた瞳を驚かせながら、アイリスがこちらを見ている。
「もう泣かないでくれ。オレの覚悟が揺らいでしまうから」
クラピカは眉をひそめ、きつく瞳を閉じた。
過去、同じ仲間を失った時のように、彼女を失う事は絶対にしたくない。
もうそんな思いをするのは──絶対に嫌だ。