「交換ってことにしようよ」
夏の日のことだった。
喜多郁代は吸い込まれそうな感覚を覚えていた。眼前の古びたベンチに座る山田リョウの、この世の全てを捉えているかと錯覚するような深い瞳孔が、虹彩に射した僅かな光沢で渦を描きながら、彼女の視界の中央で、ただ、存在していた。存在し続けていた。
あるいは、この瞳が『この世の全てを捉えている』というのは錯覚ではないのかもしれない――郁代の意識にそんな思い付きが浮上する。実際のところそんなはずはなかったのに、それでも郁代は精神のどこかを萎縮させ、額の
恐らく、暑かったのがよくなかった。
リョウは郁代の汗に気付いていた。逆説的に言えば、郁代はリョウの汗に気付いていなかった。それが不均衡を生み出した。
脱水症状に陥っているわけでもない以上、どんな人間でも暑ければ汗をかく。郁代はそんな事実をすっかり忘れて、まるで汗をかいているのは自分だけであるかのように錯覚して、リョウが持つ"余裕"を自分の中で勝手に増幅した。震えなき視線はさらに冷静さを増していき、震える視線はさらに動揺を重ねた。
それがなおさら良くなかった。
「いいかな郁代」
とリョウが聞いて、それが灼熱をも凍らす氷の吐息のように感じられたから、
「は、はい……リョウ、先輩」
炎天の下で蝉の鳴き声に曝され続け、本名呼びをされるたびに生じる羞恥心すら忘れてしまった郁代には、ただぼんやりとリョウの話を聞くほかに無かった。
「バンドマンたちに伝わる伝説を知ってる?」
そう語りかけるリョウの服には、ベンチの背もたれが落とした濃ゆい影が、斜めに下ろすようにして落ちていた。
「し……知らないです」
郁代にはその影が、ストラップで肩から吊り下げられたベースに見えた。そんなわけがなかった。しかし見えた。それが彼女の敗因だった。
「じゃあ教えてあげるよ」
そう告げる落ち着きに満ちた表情の奥底に、
そこには瑞々しい緑草が握られていた。
「――雑草を食べたボーカルにしか、出せない歌声があるんだ」
嘘だった。
けれども、この一瞬だけ――郁代が若干の畏怖と共に向けた視線の先で、陽光を受けた緑が青々と輝いた一瞬だけ。夏に歪められた大気の中に、どこからか真実が降臨した。郁代にとって、その言葉は既に嘘ではなくなっていて――。ツッコミを入れることもせず、赤髪の少女は目を輝かせた。
「……本当、ですか」
その問いに、リョウは真顔で頷いた。口を開かずして嘘を吐いた。
恐らく、暑かったのがよくなかった。
◆
郁代は嘘を吐いた。
「ギターですか? えっと……はい、弾けます!」
傑出する者への憧れからだった。
◆
郁代は嘘を吐いた。
「後藤さん間違えて用紙捨てちゃってるんだもん! 文化祭ライブ頑張りましょうね!」
傑出する者を輝かせるためだった。
◆
郁代は――。
◆
という回想は、既に郁代の脳味噌から消えつつあった。
恐らく、暑かったのがよくなかった。
「だって、雑草を食べるのってロックじゃん」
リョウは炎天下で諸々の詭弁を弄したが、要約すると、彼女が言いたいのはそういうことだった。
「……なるほど!」
郁代はその説明に納得した。
彼女の溶け始めた脳味噌はいろいろなことを考えていたのだが、何せ溶け始めていたので、途中で思考は放棄された。現在、その脳裏に残されているのは残骸に過ぎない――『リョウ先輩の顔が良い』という残骸。それだけが、郁代の意識に屹立していた。
「わかりましたリョウ先輩! 試してみます!」
そういう結論を述べたとき、郁代は何も考えていなかった。ただ待ってましたとばかりに手渡された雑草を受け取って、ちいさく開いた口でその端っこを齧り取るだけだった。自分の手中に存在する確かな
「交換成立だね」
そういう結論を述べたとき、リョウは何も考えていなかった。いや、考えてはいた。雑草を手放して空いた右手をそのまま恐るべき素早さで動かして、郁代の弁当箱からおにぎりを抜き取り、ラップを剥がして齧り付く、というのは……考えていないとできない行為だった。しかし、それだけだった。自分が郁代に渡したものは本当は何なのかを知らないまま、口内に広がった旨味に夢中になった。
「「…………」」
おもむろに――二人の嘘つきが、青空を見上げる。
何も考えずに、見上げるという結論に行き付くのだ。