「ねぇおじさん。そこで何してるの?」
桜の木もそろそろ花開き始めた三月末の平日の昼。
市街地の小さな公園で、
寝癖なのか、元々そうなのか、鳥の巣のようにボサボサな短い黒髪をした、十歳程度の少女。
随分オーバーサイズの白いTシャツは、少し汚れが目立っている。
「何もしてないよ。うん、なにも」
二人きりの公園の中。ベンチに腰かける修司は缶コーヒーを空にした。
「君こそ、何してるの? 今日学校は?」
「春休みだよ」
「あぁ……なるほど」
空になった缶をゴミ箱に投げ入れ、修司はしみじみと空を見上げる。
そうか。学生は今春休みなのか。
卒業したのはもう何年も前の事だから、すっかり忘れていた。
「おじさんこそ、今日仕事じゃないの?」
「生憎この不景気でね……って言っても分からないか。取り敢えず、仕事クビになったんだ」
「じゃあなんでスーツ着てるの?」
「新しい仕事見つけるために就活中なんだよ」
「ふぅーん」
少女は修司の隣に腰かける。
デニムの短パンの裾から見える太ももや肩には、青くなったアザが覗いていた。
「……ねぇおじさん」
「ん?」
不意に、少女が修司に声をかける。
悪戯っぽい表情を浮かべて。
「私の体、触らせたげる。十分千円で」
「はぁ? ……はぁ」
じりじりとにじり寄って来る少女から距離を取りながら、修司は何処か納得したようにため息をついた。
「君ね、客は選ばないと駄目だぞ」
「え?」
「だって俺、無職だぜ? 金払わずに逃げる可能性だってあるわけだ」
「あっ……確かに」
「だろ? それに今は真っ昼間だ。やるんならもっと考えな」
呆れたようにそう言い終えた修司は、おもむろにスーツの内ポケットから財布を取り出す。
いつのものか分からないレシートに車の免許、効力の無くなったクレジットカードの隙間に埋もれるように、五千円札が一枚と小銭が幾らか。
なけなしの残金だが、まぁしょうがない。最悪銀行から下ろせば良い。
「君、お腹減ってる?」
「え? ……うん」
困惑しながら頷く少女を見て、修司は財布をしまって立ち上がる。
「よし、それじゃ飯行くか」
驚きと戸惑いで目を見開いた少女に、修司はそう手を差しのべた。
「でもおじさん、お金」
「まだ余裕あるから大丈夫。だから遠慮せずになんでも言いな」
「……本当に、なんでも良いの?」
「うん。流石に高級フレンチとかは無理だけど」
「じゃあ、さ。マックとかでも、良いの?」
探るような、顔色を伺うような視線。それに気付かない振りをして、修司は大きく頷いた。
無知は罪だな。本当に。
「勿論。ビッグマックだろうがなんだろうが、セットで注文しな。ドリンクもサイドもLサイズだ」
「本当に!? 本当に良いの!?」
「おう。その代わり、ちょっとおじさんの愚痴も聞いてくれ」
修司は少女を伴って、町の中へと消えた。
*
「……んっ! 美味しい! すっごく美味しい!」
「そりゃ良かった。誰も取りゃしないから、もっと落ち着いてゆっくり食いな」
公園に戻ってきた二人はベンチに再び腰かける。
少女は頬にソースをつけながら、一心不乱にビッグマックにかじりつく。よほど腹が減っていたのだろう。
年頃にしては随分と細い腕や低い背丈が、それを物語っている。
修司もチーズバーガーの封を切った。
「……うま」
久しぶりに、誰かと飯を食った気がする。
実家から就職で都会に出てきて以来、ずっと飯は一人だった。
「ナゲット、食うか?」
「良いの?」
「うん」
瞳をキラキラと輝かせながら聞き返す少女に、修司はそう頷いてソースと共にナゲットを渡す。
ある程度の歳になってくると、若者が食べる姿を見るのが好きになってくると言うのは本当らしい。
三十歳。まだまだ若いと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
「ご馳走さまでした!」
バーガーもポテトもナゲットも綺麗に平らげ、少女は満足げな表情で両手を合わせる。
既に食べ終わっていた修司もそれにならう。
気がつけば日は、少し西に傾きつつあった。
「お腹いっぱいになったか?」
「うん! でもおじさん、本当に良かったの?」
「子供がお金の心配するんじゃありません。俺は全然大丈夫だから」
「……ありがとう、おじさん。本当に」
「ううん。お礼を言うのはこっちだ」
そう言い終わるや一息ついて、修司は財布を開いた。
……今日はツイてる。財布の中には、二千円札が入っていた。
「はい。これお駄賃ね」
「えっ? そんな、貰えないよ。ご飯おごって貰ったし」
「でも君は、俺と一緒に飯を食ってくれたろ? だったら対価は払わなくちゃ」
「でも……」
なおも渋る少女と同じ視線までしゃがみこみ、修司は手のひらに札を握らせた。
「なら、これは約束料だ。もう金輪際、自分の体を安売りなんてしないって約束。どうだ?」
「……うん。分かった」
「よし。あぁそれと、知らん大人にホイホイついていくのも駄目だ。何言われてもな。世の中俺みたいなのばっかりとは限らないからな」
「うん」
修司は少女の頭をぽんぽんと撫でると、最後に先程調べた
「もし何か困ったことがあったら、迷わず上の番号か110番に電話しな。それでも駄目だったら、下の方に掛けてくれ。修司の知り合いだって言えば取り次いでくれる」
これから就職で何処に引っ越すか分からない自分の番号より、その方が確実だ。
「君に何があったか俺は知らない。でも、何かあったのは分かる。世の中一人ぼっちってことは無いんだ。頼れる大人を、正しく頼りな」
「……うん!」
その後修司は、日が落ちる寸前まで公園で少女と二人でいた。
他愛の無い身の上話や、下らない冗談に花を咲かせながら。
それからおよそ、八年の月日が経った。
「おーい、修司ー!」
「あぁー? なんじゃいなぁー」
家の方から、老いた父の叫ぶ声が響いてくる。
畑仕事の手を止めて振り返った修司に父は言う。
「お前に客じゃー」
「客ぅー?」
都会での再就職を諦め、実家の畑を継いで八年。
狭い集落だから普通なら名前で呼ぶはずなのだから、そうでないなら外の人なのだろう。
農具を端の方に置き、修司は長靴を履いたまま家の方に駆けていく。わざわざこんな山奥までやって来る外の知り合いなど居ただろうか?
「修司、お前もやり手になったなぁ」
「なにがよ?」
「いやいや、なんでもねぇ。それよりほら、早よ行ってこい。家ん中で待って貰ってっから」
気持ちの悪いニヤニヤ顔で老父が修司の背を叩く。
蝉時雨降り注ぐ八月。麦わら帽と汗の染みたタオルを玄関に置き、修司は居間へ上がっていった。
女物の靴が置かれていることなど、遂に気が付かないままで。
「お待たせしましたぁー」
そう良いながら顔を覗かせた修司は、ピクリと体を硬直させる。そこにいたのは、
「お久し振りです。修司おじさん」
真っ白なノースリーブのワンピースを着た、艶やか長い黒髪の少女が一人、畳の上で正座して待っていた。
「もっ、申し訳ない……どちら様で?」
歳は十八歳頃に見える。
修司の妹夫婦には娘が居るがまだ四つだし、従兄弟の子供は同じ歳位だが軒並み男。
近所の幼馴染みにも、こんな娘はいなかったはずだ。
困惑しながらも、おずおずと居間に入り正面に座る修司に、彼女は「覚えていないのも無理ありません」と、少し寂しそうに呟く。
修司の心は申し訳なさでいっぱいだ。誰だ誰だと頭を回転させながら、なんとか過去の記憶を漁る。そんな風にしていると……
「この紙、覚えていますか?」
少女は静かに、傍らのバッグから小さな古い紙切れを一枚取り出して見せる。
そこには確かに自分の字で、実家の電話番号と住所の他に、もう二つほど番号が書いていた。
瞬間、弾けるように脳裏に少女の姿が浮かぶ。
八年前、失職したての頃に公園で出会ったあの少女の姿が。
「も、もしかしてあの公園の……?」
「そうですそうです! 思い出して下さったんですね!」
少女はパッと明るい表情で前のめりにそう修司に言う。
修司の方は、未だに信じられないような心地でいた。
「あぁ、それじゃあやっぱりあのときの……こんなに大きくなって」
綺麗な服と髪に、アザ一つない白い肌。身長も肉付きも、あの頃とは比べるべくもないほどだ。
少女はこの八年の間にあったことを、落ち着いた口調で教えてくれた。
やはり彼女は、実の親から虐待を受けていたらしい。
修司と出会った後もそれは続き、結局渡した二千円も奪われてしまった。
それでもこの紙切れが生きる希望になったのだと、嬉しそうに話してくれた。
転機が訪れたのは今から六年前。
小学六年のときに実の父が酔った勢いで警官を殴って逮捕されたとき、修司の言葉を信じて警察に虐待されていることを訴えたそうだ。
結果として彼女は親元から離れることが出来、そして今に至るのだと言う。
「今の私があるのは、修司おじさんのお陰なんです……本当にありがとうございました!」
少女は三つ指を立てて頭を下げる。
「いやいやそんな大層な! 取り敢えず顔上げて、な?」
修司は慌てて顔を上げさせる。八年前とは、立場が逆転しているようにすら思えた。
「もしかして、わざわざその事を伝えにこんな山奥まで来たの?」
「あ、いえいえ! 実はもう一つお伝えしたいことがありまして」
夏風に風鈴が揺れる。
テーブルに置かれた麦茶の入ったコップの氷が、カランと音を響かせる。
少女は背筋を伸ばしてこう言った。
――修司さん。私と結婚してください!!
「……はぁ?」
セミ達すら熱中症になる猛暑の八月。
修司の受難は、この日から始まった。