いつか神を滅ぼす日のために 作:観察者X
コスモス真王国の最深部。エルフの王都より離れた場所にそれはある。
青龍イースの特殊能力によって発生している霧に包まれた特殊な空間。広さは五百坪ほどで、マジックアイテムのコテージや井戸が配置されている。庭に相応する空間には尾が蛇の頭になっている巨大な亀型魔獣、玄武のノースが番犬のように存在していた。此処は、住人以外のあらゆる生物を拒絶する。
探知特化のワールドアイテムでもなければ発見は勿論、潜入も至難の業である。真王コスモスまたは神敵ネロ・ネミートスという竜の巣。世界を滅ぼせる力を持つ災厄の化身の家として考えると随分とみすぼらしい。エルフの王城で生活しているレクス・セントラルの方がよほど王らしい生活をしていると言えるだろう。
そんな場所で、漆黒聖典番外席次『絶死絶命』アンティリーネ・ヘラン・フーシェは拉致監禁状態にあった。そもそも、彼女は表社会には出てこない秘密工作部隊群六色聖典の、死の神になぞらえて存在しないことになっている漆黒聖典において、竜王との契約に触れるために秘匿されていた神人だ。だから、彼女が囚われの身であること自体、法国上層部以外は知らないことだった。
ネロは絶死をこの空間に閉じ込めているものの、牢獄に閉じ込めることも鎖で縛りあげることも拷問で情報を絞り出すことも実験体として弄ることも女として犯すこともしなかった。エルフ王デケム・ホウガンが、絶死の母ファーインにしたことの多くをしていない。
絶死が知覚できないだけで複数のモンスターに監視されていることは理解している。その気になれば絶死を始末することだっていつでもできる。そして、ネロには絶死を大切にしたいと思う理由があるらしい。
「――おはようございます」
深い霧に覆われているにも関わらず、日の出の時間になればこの空間は明るくなる。夜も同じように、月そのものは見えないのに月明かりは入ってくる。
朝早く、部屋に日差しが入ると同時に絶死――アンは目覚める。自分の置かれている状況を思い出し、それが変化していないことを確認する。
神の敵との遭遇。己の敗北。霧に覆われた空間での監禁生活。
目は醒めたが、瞼を開けるのに少しだけ躊躇う。しかし意を決して開ければ、そこには男の寝顔があった。神と戦い、神に滅ぼされた竜ネロ・ネミートス。
目覚めると同時にその姿が近距離にあることに驚きはない。寝る前に彼の寝床に入った――即ちアンが自分の意志で同衾を求めたのだから当然だ。
彼も起きかけだったのだろう、アンの挨拶に反応があった。
「……うん、おはよう」
瞼が開かれ、黄金の瞳に絶死の姿が映る。そこに映る自分の顔を見たくなくて、反射的に顔を逸らす。ネロは姿勢を変えず、アンの背中に手を回して抱きしめるようにする。アンはそれに抵抗しない。竜からの抱擁と寵愛を受け入れる。顔を彼の首に埋めるようにする。
「何と言うか、我ながらギリギリのことしてんな……」
「あら、やめる?」
「君が嫌じゃなければ、続けさせて欲しいな。折角の役得だ。楽しみたい」
穏やかな声だった。見えないが、穏やかな顔をしているのだろう。
この竜が自分に向ける感情は、慈愛や博愛よりも寵愛か愛玩の方が相応しい。何を思っているのか、誰を思い出しているのかは分からない。だが、それを不快に思う権利さえ今の自分にはないだろう。此方も、この男の何かに亡き母を重ねているのだから。
それに、思っていた以上に強者からの寵愛というものは心地が良いものだった。相手が神の敵であっても、あるいは神の敵だからこそ、この愛情はアンの精神に染み込んでいく。
母にとっては自分を犯したエルフの子どもだった。母以外の人間にとっては哀れな娘か、混ざり物か、強大な力を持つ猛獣だった。この男にとって自分はどれでもないという認識は、アンの心を麻薬のように犯していく。
強者としての自分は敗北した。情報を外に出す手段は限られている。女としての魅力は効果がない。ならば、故国のためにできることはこの竜の寵愛を受け入れ、少しでも時間を無駄遣いさせることだ。そんな風に、自分に言い訳をする。みっともないと自嘲するが、それも幸福感に流されるように消える。
「さて、名残惜しいけど起きますかね」
抱擁の感触と温度が離れていく。引き留めようとしたが、はしたないため止めておく。羞恥心より恋しさが勝って引き留める日もあるが。
ネロが寝室から出る。アン用の部屋も与えられいるが、其方を使うことはあまりない。「監視のため」と分かりやすい言い訳をして毎晩のように竜との同衾を願う。それを受けて、ネロは娘を育てるように、妹を守るように、猫を愛するように受け入れる。性的に抱くことはない。寝物語で六大神やユグドラシルでの話を聞く間に、意識は落ちる。
部屋から出る彼を見送りながら、まだベッドに残る彼の温度と匂いを少しだけ堪能する。いつまでもそうしているわけにもいかないため、手早く身支度をして自分も部屋を出る。
「ぷすぷす」
部屋の外には豚に似た白黒の魔獣がいた。獏という種族で、個体名はピロ。ネロを除けば、アンがこの空間に監禁されるようになってから一番接している生物だ。
「おはよう」
「ぷす、ぷすぷす」
ピロを連れ添ってリビングに向かうと、すでにいい匂いがしていた。
「まさかな、自分のズボラさに救われるとは思ってなかったよ。イベントで使うからインベントリに仕舞ったままだった全自動調理ゴーレムがこんなところで役に立つとは」
ネロの視線の先には人間の腰まである大きさの不思議な形をしたゴーレムがごわんごわんと奇怪な音を立てていた。材料さえ入れれば調理をしてくれる優れものだ。量産は難しいだろうが、是非普及させて欲しい。
ネロ曰く、かつての彼の城「コスモスウェイ」にはもっと大人数の調理も可能な大型ゴーレムもあったらしい。六大神との戦いによって、他の財宝とともに失われたらしいが。
「でもどうせズボラなら、もうちょっと役に立つアイテムも残しておいて欲しかったなあ。何で中途半端なやつばっかり残してんだ」
過去の己を褒めたり貶してたりしているネロの隣に立ち、共に料理が完成するのを待つ。監禁している犯人と人質が同じように食事をしているのは非常におかしな光景であった。
やがてゴーレムの奇怪な音が止まる。料理が完成した合図だ。頭部の蓋を開けると、そこの料理をテーブルに並べる。今朝の献立は白いパン、燻製肉と卵を焼いたもの、生野菜、コーヒーという黒く苦い飲み物だった。この組み合わせは「モーニング」と呼ばれ、ネロのお気に入りらしくよく出てくる。
「自分でも料理できればもうちょい楽しいのかもしれないけどなあ。コックじゃねえしなあ」
ネロは料理ができない。得手不得手という次元ではなく、彼は何故か料理をすると意識が飛ぶ。以前肉を焼こうとしていたが、炭化するまで焼いていた。
どういう理屈なのかは分からない。曰く、いくらかユグドラシルのルールに縛られたままなんだ、とは言っていた。もしかしてスルシャーナたちもそうだったのだろうか。
ちなみに、ネロの食事量はアンよりも圧倒的に多い。軽く五倍はある。男女や体格の差以上に、種族の差がある。彼は竜人の「ザッハーク」であり、この種族は強さと引き換えに食事量が多くなるらしい。
「そういえば、以前ぷれいやーが来ていたとか言っていたけど、あれどうなったの?」
少し前、イギョウシュドウブツエンのビックリボックスという人物が、エルフの王都を訪れたらしい。アンからすれば聞き慣れない名前程度の認識しかなかったが、ネロはその名前だけで相手がぷれいやーだと確信していた。やはりユグドラシル出身者にしか分からない何かがあるらしい。
アンからの問いに、ネロは難しい顔をした。食事の手を止めて眉を顰める。
「ぷれいやーだったよ」
「へえ。敵だったの? 味方だったの?」
そう言いながらアンは自問自答する。今自分の口から出た言葉は、誰に対しての敵か味方を示しているのか。六大神なのか、ネロなのか。
「わからねえや」
答えが出る前に、ネロからの返答があった。
「たぶんスルシャーナたちとは無関係だよ。少なくとも接触はないだろう。引っかかる言葉をいくつか投げてみたけどほとんど無視されたし。なんか世間話だけして帰って行った」
「何、それ」
「だからわからないんだって。……所感だと、敵にも味方にも成り得るかな」
ネロも相手の正体を計りかねているようだ。それほどの相手なのか。深く考えるような事情など最初からないのか。ネロからはそれ以上何かを教えるつもりはないらしく黙って食事を再開した。この話題を深堀りできないと判断したアンもそれに倣う。
食事が終わるとネロは仕事に向かう。本人が言うところの「面白くもない周回プレイ」こと国家の運営のために。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
出かけの挨拶もそこそこに、彼は霧の空間から出ていく。魔法による転移のため、一瞬だ。書類や情報の整理程度ならばこの家で行うことが多いため、実地に出る必要があることだろう。具体的に何をしているのかは想像に任せるしかないが、エルフ王レクスやアンデッドのリバスの会話から、彼がこの数か月でエルフどころか大森林の事実上の支配者になろうとしていることは推測している。表向きにはエルフの新王レクスが動いており、ネロは正体を隠しているようだが。
ひとりになったアンは家の外に出る。大亀のノースは寝ている。空間を覆う霧は晴れない。試したことは何度もあるが、この霧の外には通常の手段で出ることはできない。
「今日も助けは来そうにないわね」
「ぷすぷすぷす」
ネロがいない間、時間の過ごし方は限られる。ピロの毛繕いをしたり、ノースと戦闘訓練をしたり、部屋に置かれた映像作品を見たり、寝物語で聞いた逸話を紙に書き留めたり、たまに訪れるリバスやレクスと話し合ったり。書物もあるが、此処にあるのはどれも神の世界の言葉で書かれているため、アンには読めない。
洗濯や掃除などの家事は料理と同じようにゴーレムや魔獣が済ませてくれる。その点に関してだけは至れり尽くせりだ。
法国にいた頃、神殿の最奥でいつ来るかも知れない侵入者を待つ生活よりも自由度は低い。神殿からろくに出れないとしても、金にあかして新しい飲食やファッションを確かめられた分、あちらの方が自由ではあった。
だが、この生活の何かに満ち足りているものを感じていることも事実だ。今日だけでも何度目かになる自問自答を開始する。
あの男、神の敵たるネロ・ネミートスに対して考える。
あの男と自分の関係は何なのか。
「神のシモベと、神の敵。つまりは敵同士。勝った竜と負けた女。つまり、あの男にとって私は捕虜で人質。それ以上でもそれ以下でもないでしょう?」
我ながら見え透いた嘘だ。それ以外の感情を向けられていると自覚しているのに。愛玩と寵愛と庇護の対象であると、朝起きてから夜寝るまで自認しているというのに。そして、それだけでは足りないと、もっと特別になりたいという欲望がある。
ピロが気遣うように擦り寄ってくる。
「ぷすぷす」
「……ええ、きっと私はあなたのご主人様のことが……好きなんでしょうね」
身体が熱くなるのを感じる。悶えて唸りたくなるほど熱いのに、身を委ねてしまうほど気分がいい。
周囲に知的生命ならぬ魔獣しかいないからこそ出てくる本音だ。法国の人間どころか、レクスやリバスにさえ聞かれたら困る本心だ。ネロ本人には知られたら恥ずかしいという思いと、相反するように、知って応えて欲しいという願いが沸き上がる。
何処が好きなのかと問われたら、口では強さと答えるだろう。それも間違いではない。法国時代、確かに強者との子どもを望んでいた。絶対的強者たる自分よりも強い男との子どもを。しかし、アンがネロに望んでいるものは子種だけではない。ネロに向ける感情は、彼の強さ以外にも由来する。
いつから好きなのかと訊ねられたら、いつの間にかとしか言えない。はっきりと恋慕や好意と認識したのがいつからかは自分でも判断できない。敗北を教えられた時かもしれない。この空間で過ごしている間かもしれない。先程の独白の瞬間かもしれない。一目惚れでないことだけは明らかだ。
どのくらい好きなのかと疑問を向けられたら、答えられない。どう表現すればいいかわからない。初めての経験なのだ。寿命が長いため大半は亡くなっているが、法国にも気に入った人間は大勢いた。しかし、それらが男性として興味を持ったかと言われたらそうではない。
神の世界にいた頃の六大神を知る者であり、旧友であり仇敵だ。法国にとっては敵対者だ。六大神の末裔であり八欲王の孫である自分を倒した男だ。母親の仇同然であるエルフ王を殺した竜だ。何をどう考えても意識しないわけにはいかない。それらが好意に転じるなど通常なら有り得ないのだろう。何を考えているのだ、敗北を経験したせいで狂ったのかと、自分自身を激しく罵ることがある。
では好きではないのかと質問されたら、否定は易しい。
「…………困ったわね」
恋というものがこれほど心地よいものだとは知らなかった。自分はきっと助けが来ることを、この時間が終わることを望んでいない。自由ではなくとも、歪だとしても。この願いが六大神の背信や祖国の裏切りなのだとしても。
アンティリーネ・ヘラン・フーシェはネロ・ネミートスを愛している。
「一線は守っているわ。そうよね?」
「ぷす?」
フルネームは告げていない。六大神の不在を始めとした法国の情報は教えていない。王国や帝国の基本情報さえ教えていない。本来はスルシャーナの御業である確殺コンボを使える理由が生まれながらの異能によるものとも明かしていない。
だから、自分は故国も神も裏切っていない。今だけはそういうことにして欲しい。
「でも、そろそろ、本名くらいはいいかもしれないわね? また手紙を出したいし、交換条件として教えようかしら」
多感な年頃なのだ。初恋の相手なのだ。好きな相手に名前を呼んで欲しいくらいの我が儘は許されるべきだ。……知り合いが聞けば「今、何歳でしたっけ?」という突っ込みが入るのだが。
「私ね、敗北を知りたかったのよ」
「ぷす?」
「実際に負けてみると、知りたくなかったって思ったけどね。あのヒト、理不尽すぎない? 全然本気を出してないのに、負けちゃった。まあ、六大神様全員で挑むような男なんですもの。私じゃ勝てなくて当然かもしれないけど」
人語を理解できる程度の知性があるとはいえ、魔獣相手に自分語りを始めることに自嘲する。しかし、自問自答のようなものだから別にいいだろうと結論を出す。それは皮肉にも、レクスやリバスを相手にする時のネロに似ていた。
「私に勝てる相手の子どもが欲しかった。私より強い男の子どもなんですもの。どんな子どもが生まれるか楽しみじゃない?」
今更ながらに思う。これは本音だったのだろうか。建前ではなかったのだろうか。自分より強い相手ということは、自分を守れるような存在ということだ。国や人類を守る自分を、守ってくれる誰かを欲していたのではないか。
「竜王国の王家は竜王の血筋だし、あのヒトと私の間にも子どもができるかもしれないわね」
侵入者の来ない神殿の守護にも暇など有り余っていたはずだが、この場所で生活するようになってから妙に頭が冴える。
「ぷーすぷーす」
「身籠ったら助けが来たりしないかしら。母が、そうだったように」
「ぷすぷす!」
「冗談よ」
特異な生涯を送ることを生まれる前から約束された少女は、まるで普通の女のように愛しい男の帰宅を待つのであった。