夏休みが終わり、けれどまだまだ残暑が残るある日。
郁代は学校からの帰り道でしゃがんで棺桶の中に横たわるひとりのことを覗き込んでいた。
「後藤さん、大丈夫? というかどこから出したのその棺桶」
今日、ひとりは色々な人と相談したうえで秋にある文化祭に結束バンドで出ると決心し、学校で生徒会に対して出演依頼を出してきた。
しかし、学校から出てしばらくしてからどんな思考回路を辿ったのか突然発狂して自ら棺桶に入ってしまったのだ。
おそらく文化祭ライブというひとりにとって天敵ともいえる存在が放つそのあまりのプレッシャーにひとりのおちょこ一杯分の精神が耐えられなかったのだろう。
郁代も初めはまたいつもの奇行が始まったわと、苦笑いで棺桶に入るひとりを見ていたのだが、いつまでたってもピクリとも動かないひとりに少し心配になってきた。
「……ほんとに全然動かないわね」
いよいよ苦笑いも引っ込んで、まさかという表情をした郁代はひとりの手首に指をあてた。
「――し、死んでる……!!」
ひとりの脈拍がないことを確認した郁代は悲し気に目を伏せるとゆっくりと手を合わせた。
(文化祭、冬休み、バンド活動……これから楽しいこといっぱいあったのに、後藤さんはもう旅立ってしまったのね。……そういえば、その前に中間テストもあったわね)
郁代はその瞬間、顔色がさっと変わる。
この前、クラスで先生が今回の中間テストで赤点を取ったものは補習があると言っていたことを思い出したのだ。
補習を受けてしまえば、文化祭ライブに向けてのバンド練習も出来なくなってしまう……。
「後藤さん起きて!!」
「は、はいっ!」
仰向けに倒れていたのに近づくと突然鳴き出す蝉のように、はっと生き返ったひとりに郁代が詰め寄る。
「後藤さんって勉強できる?!」
「で、できません!!」
「いい返事ね! それなら赤点回避のためにスターリーで教えてもらいましょう。私もそんなに得意じゃないし」
「あっはい」
郁代はひとりを棺桶から引っ張り出すと、スターリーに向かって歩き始めた。その場に棺桶を残して……。
「おかーさん、あのおねーちゃんたちなにしてたの?」
「しっ、見ちゃいけません」
二人がスターリーに到着すると、そこには勉強道具を広げている2人の先輩の姿があった。
「あっ、ふたりともおはよ~」
「おはようございます! 先輩たちもテスト勉強中ですか?」
「そうだよ〜。ぼっちちゃんたちも勉強しに来たの?」
「あっ、はい。そうです」
ひとりたちにそう問いかける虹夏の手にはシャーペンが握られている一方、横のリョウはどこか余裕の表情で腕組みしながら虹夏が問題集を解くのを眺めていた。
それを見た郁代は安心した。
「江の島に行った時にリョウ先輩が勉強できないって言ってたのはやっぱり嘘だったんですね!」
「え?」
「だってほら、今も伊地知先輩だけ問題解いてるじゃないですか。リョウ先輩に教えてもらってるんですよね」
先輩も自分も出来るって意地張っちゃったんですよね、と妙に生暖かい目で見てくる後輩の言葉に虹夏は横を見て額に青筋を立てた。
「リョウ! なんでまたペン置いちゃったの! 解き方教えてっていうから中学の範囲からあたしが教えてあげてるのに!!」
「え、中学の範囲から?」
「そう、リョウはしばらくしたら全部忘れちゃうから一から教えてあげないといけないの!」
「ってことは本当にリョウ先輩って勉強が……」
「ふっ、できません!」
そういってリョウはドヤ顔でバツ印で真っ赤になったテスト用紙を見せつけた。
それを見た郁代はホラー映画張りの悲鳴を上げた。
「いやー!! 伊地知先輩が嘘ついてるだけと思ったのに、ほんとにリョウ先輩がおばかさんだなんて!! ショックだわ!!」
「……前から思ってたけど喜多ちゃんってあたしの事なめてるよね?」
「えっ?! そんなことないです!!」
「……それを本気で言ってそうなところがまたなぁ~」
慌てながら謝ってくる郁代をジト目で見つめていた虹夏だったが、ふっと表情を緩めて冗談だよと笑みを浮かべるとひとりのほうに顔を向けた。
「それで、ぼっちちゃんは勉強どんな感じなの?」
「あ、前のテストはこんな感じでした……」
そう言ってひとりが取り出したテスト用紙を見た虹夏と郁代は顔をひきつらせた。
((ゼ、ゼロ点……))
必死に解いた形跡はあるのにもかかわらず無慈悲に書かれたテスト用紙上で唯一のまるが悲しい。
「一応テスト前にも勉強はちゃんとしてるんですけど……」
次にひとりが出したのは、綺麗にまとめられたノート。
ギターの形をしたキャラクターと共に書かれた『ここがポイント!』という赤文字がむしろ哀愁を誘う。
((クラスに一人はいる必死に勉強してるのに要領の悪い子だ……))
「ぼっちちゃん……もしものときはあたしが養ってあげるからね……」
「えっ、あっ、ありがとうございます……?」
ダメ男を甘やかす出来るOLのようにひとりを抱きしめる虹夏を横目に郁代は気を取り直して声を上げた。
「あ、諦めないで頑張りましょう! 後藤さんはどこが苦手?」
「えっ、それが分からないです……」
「……バンドマンに学歴なんていらないですよね。私、後藤さんと先輩と一緒に高校やめます!!」
「秒で諦めた?! 正気に戻って喜多ちゃん!!」
先ほどまで自分もかなり正気を失っていた虹夏が叫ぶ。
だが、その虹夏の表情も明るいものではなかった。
「流石にぼっちちゃんもってなると手が回らないよ……。あっ、そうだお姉ちゃんも手伝ってよ!」
「はぁ?」
虹夏が声をかけたのはカウンターで暇そうにしている星歌だった。
その隣にはPAさんといつの間にかスターリーに入り込んだきくりの姿もあった。
虹夏に問題集を渡された星歌はそれを眺めていたがしばらくしてペンを放り投げた。
「なんだこれ。お前ら分かる?」
「私は高校中退なんで勉強できないです……」
「私も当然分かんなーい」
そのまま、大人たちは頭を抱えながら高校一年生用の問題を前にうんうん唸り始めた。
「大の大人が三人もいて一問も解けないなんて……絶対あんな風にはならないようにしよう……!!」
自分の姉を含めた大人たちの醜態にショックを受けつつも虹夏は決意を新たにしていた。
「というか、お姉ちゃんたちが頼りにならないなら本当にどうしよう……赤点取っちゃったら練習できなくなってそのまま文化祭ライブも出れるかどうかもあやしく……」
真剣に悩み始める虹夏を見ながらひとりは静かに呟いた。
「こ、こうなったらやっぱりお兄ちゃんに頼るしか……」
ひとりの言葉を聞きつけて虹夏が顔を明るくさせる。
「お兄ちゃんってことは藍伽さん? 藍伽さんって勉強できるの?」
「あっ、はい。お兄ちゃん○○大なので」
ひとりの口から出たのは都内の有名私立大学の名前だった。
「え、○○大?! お兄さんって勉強もできるのね!!」
「あいつ、不良のくせして勉強できんのかよ……」
藍伽が荒れていた高校時代を知る星歌がぼやく。
「お兄ちゃんには高校受験の時も勉強教えてもらったので頼めば今回も教えてくれると思います」
「あぁ。だから後藤さんもうちの高校合格できたのね!」
さらりと無意識に毒を吐く郁代に苦笑しながら虹夏は言う。
「頼めるなら、頼んだ方がいいかもね」
「迷惑じゃないなら私もお兄さんに教えてもらいたいわ!!」
虹夏やキラキラした目をした郁代に後押しされて、ひとりが藍伽に電話をかける。
数コールでつながった電話で少しやり取りするとひとりは通話を切って皆のほうを振り返った。
「い、今から家で勉強教えてくれるそうです。友達も連れてきていいって」
「やった!」
ガッツポーズをとって喜ぶ郁代。
そしてリョウもまたひとりの声を聴いて荷物を纏め始めていた。
「あれ、リョウも行くの?」
「当然。ギターヴィランの撮影環境とか見てみたいし」
「勉強は?!」
「するよ。というか虹夏は来ないの?」
「え、でもそんな大人数で行ったら迷惑になるかもだし……」
「先輩も行きましょうよ!」
「あ、お兄ちゃんも虹夏ちゃんたちもよかったらって」
心が揺れていた虹夏だったが、行く気満々の三人の姿を見て心が決まった。
「……あたしも行く!!」
役に立たない姉の手にあった問題集をさっと奪い取ると鞄を持った。
「そういうわけだから、あたしもちょっと出てくるね」
「あっおい、虹夏」
咄嗟に呼びかけてしまったのは、姉としてのプライドのせいか。
「なに?」
「い、いや、なんていうか、ほんとにあいつが勉強できるかもわかんないのに行って意味あんのかよ」
「それは分かんないけど、すくなくともここよりは勉強になると思うよ」
そう言って虹夏はさらりとこの場にいる三人の大人を見渡した。
そのいつになく冷たい目を見て星歌は思わずうっと言葉を詰まらせる。
「伊地知せんぱーい! 早くいきましょー!」
「うん、今行く! じゃお姉ちゃん、行ってくるね!」
そう言って妙な無力感に打ちひしがれる星歌をおいて虹夏たちは慌ただしく店を出ていった。
その星歌の下がった肩にきくりとPAさんがぽんと手を置いた。
「どんまい、先輩」
「ハンカチいります?」
「……うるせぇよ。というかお前らも同類だからな」
「勉強なんてバンドマンには必要ないし」
「ですね~。私も勉強できなくて困ったことないです~」
「……(正直ちょっと分かるのが嫌だ)」
そうして、ひとり達一行が下北沢の街中を進むこと十数分、三階建てほどのマンションが見えてきた。
その目の前でひとりが足を止めた。
「ぼっちちゃんここなの? 藍伽さんが住んでるのって」
「あっはい。何度か来ているので……」
「なんだかとってもおしゃれな所ね!」
「おぉ、ここは……」
建物を見上げてリョウは感嘆の声を上げる。
「ん? リョウここ知ってるの?」
「うん、多分ここ防音がめちゃくちゃしっかりしてるとこだ。一回調べたことある」
「へー、そうなんだ」
「そんなことまで知ってるなんて! 流石リョウ先輩!」
「ふっ、バンドマンなら当然」
「こら、自分が住んでるわけでもないのに調子乗らない! というかこんなところで話しててもしかたないしそろそろ行こうよ」
「そうですね」
ひとりの先導に従ってマンションの中に入ってある部屋の前に立つ。
ひとりがインターフォンを押すと数秒でがちゃりと扉が開いた。
扉を押し開いたのはラフな格好の藍伽だった。
今まで寝ていたのかパーマのかかった髪は少し跳ねていた。
「よく来たな、ひとり」
「うん、急にごめんね。お兄ちゃん」
「ひとりのお願いならいつでも大歓迎だ。というか正直勉強に関してはもっと早く泣きついてくるかと思ってたし」
「うっ……」
図星をつかれたように俯くひとりの頭に手をのせる藍伽に郁代が元気よく声をかける。
「お兄さん! こんにちは!」
「おう喜多ちゃん。虹夏ちゃんとリョウちゃんもいらっしゃい」
「突然押しかけてすみません」
「結束バンドのみんなならいつ来てくれてもかまわないよ。みんな中に入りな」
「ありがとうございます!」
「お邪魔します」
虹夏たちはぺこりと頭を下げて中に入っていく。
部屋の中にはいると、中はシックにまとめられた部屋で統一感のある家具が配置されていた。
生活感はあっても雑多な印象はなく、清潔感のある部屋だった。
「そこの机だったらみんな座れると思うからとりあえずそこに座ってくれ。お茶くらい出すよ」
「はーい」
各々が荷物を降ろして腰を下ろす。
「にしてもすごいですね、凄く綺麗で広いですし」
郁代の言う通りこの部屋は、一般的なひとり暮らしをする男子大学生よりもかなり大きなものだった。
実際、ひとり達がいるリビングのほかにも部屋がもうひとつあるのが見えた。
「お兄さん、あの部屋はなんですか?」
「あぁ、そこは俺が配信とか録音をしてる部屋だ。もし気になるなら入ってもいいよ。ただ、パソコンには触らないでくれ」
部屋はかなり大きかった。
初めに目に入ってきたのはデスクトップパソコンにゲーミングチェアだったが、それ以上に彼女たちの気を引いたのは数多くの音楽関係の機器だった。
ギターやマイクは勿論、ベースやキーボード、ドラム一式までも置いてあった。
「すごい、スタジオみたいだわ!!」
「えっ、ここドラムも出来るの?!」
「あ、このベース欲しかったやつ」
「お兄ちゃんまた新しいやつ買ってる……。これで#my new gearしたい……」
「ひとり聞こえてるぞ。それは自分のお金で買ったやつでやりなさい」
個人スタジオと言っても差し支えない部屋に虹夏たちが興奮しているといつの間にか近づいてきた藍伽がひとりの頭に軽くチョップする。
藍伽に気づいた虹夏や郁代がはしゃいでいたことに顔を赤くする。
一方、そんなこと気にせずリョウはべースに見入っていた。
「これ、弾いてみたい。ここの防音室がどんな感じなのかも気になるし」
「別に構わない、って言いたいところなんだがそれはまた別の機会にな。今日は勉強しに来たんだろ」
「あっ、そうだった! ほら、リョウも行くよ!」
「ぐえ」
本来の目的を思い出した虹夏が、動こうとしないリョウを引きずりながら出ていく。
その後を追って藍伽たちもリビングに戻る。
そして、ようやくひとりたちは勉強道具を広げ始めた。
「よし、それじゃあとりあえず今回のテスト範囲見せてくれるか? それからひとりはノートも」
藍伽は初めに全員分のテスト範囲や、授業中にとったノートや教科書、過去のテストの結果などを見始めた。
そして許可を取った後、教科書に付箋やマーカーをつけていく。
「よし、じゃあ喜多ちゃんとひとりは俺が印をつけた所の教科書を読んで、終わったら教えてくれ。その間にどの問題解けばいいか考えとくから」
同じように虹夏とリョウにも指示をだす。
それに従ってひとりたちは勉強を始めた。
しばらくして郁代が声を上げる。
「あの、疑う訳じゃないんですけど教科書読んでるだけでいいんですかね……? 教科書はもう一回は読んでますし何か他のこともした方がいいんじゃ」
「まぁ言いたいことは分かるけど、これだけでも効果はあるさ」
「そうなんですか?」
「特にひとりなんかは、授業はちゃんと聞いてるのに、どこが重要か、なんてことを気にせず全部を同じ濃度で頭にいれようとするからすぐ頭がパンクするんだ。単元ごとに重要なところは決まっていて、そこを教師が問題にしないわけがない。だから、ある程度どの範囲がテストに出るか予想はつくし、そこの対策に教科書や問題集をやってテストができなければそれはそれで問題だろ。だから、俺が予想した問題解けるようになれば赤点とることはまずないと思うよ」
藍伽の説明に郁代や虹夏が納得の声を上げる。
「おー、確かにそうかも」
「藍伽さん、先生もできるんじゃないですか?」
「いや、俺は教師には向いてないよ」
「え、何でですか? 勉強もできるのに」
「俺は正直、分からないと言われても分からないってのが分からないから自分の思考プロセスを説明しても理解してくれないともうどうしようもなくなる。だから、俺が精々できるのは重要な場所の教科書を読ませて、そこの問題の解き方を解説するくらいだから、教師は無理だろ」
藍伽は前世という下駄を履いているとはいえ、高校までの授業を聞いて理解できないということがなかったので、分からないと言われてもそのことがいまいち理解できないのだ。
ひとりの勉強はずっと見てきたが、ひとりは綺麗にノートをとるので教師の出しそうな問題を予測することは難しくなかったので、そうして対策を取っていて、高校受験の時も重要な箇所だけを必死に覚え込ませることで何とか合格までこぎつけたのだ。
ただ、ひとりの記憶の容量はかなり少ないので、この方法で高校の定期試験くらいはどうにかなっても大学受験は……ギター頑張ろうな、という感じなのだ。
「でも、それが出来るだけでもすごいですよね。やっぱりお兄さんって頭いいんですね!」
「た、たしかになんでお兄ちゃんだけこんなに頭いいんだろう。昔から勉強してるとこほとんど見たことないのに気付いたら大学入ってたし。……お父さんとか全然なのに」
「こらひとり、お父さんに全然とか言うな」
藍伽の説明にやる気を出した郁代たちは勉強を再開する。
「お兄さん、ここが分かんないんですけど……」
「あぁ、ここは……」
「お兄ちゃん、教科書読んだけどこの問題解けない……」
「この範囲の問題はここのポイントを覚えておけばいい。ちゃんと把握できてなかっただろ」
虹夏は流石普段から勉強しているだけあって、藍伽の出した問題はすぐに解けてしまった。
「虹夏ちゃんは応用問題も解いてみたら? 分からなかったら俺が解説するし」
「すみません、結局あたしも面倒も見てもらっちゃって」
「気にしなくていいよ。思ってたよりリョウちゃんに手がかからなかったから手は空いてるんだ」
リョウは、把握すべき内容と問題を提示すれば藍伽に説明を求めることなくすらすらと問題を解き続けていた。
本当に記憶が長続きしないだけで地頭は良いらしく、すぐに内容を理解し問題を詰まらず解くことができていた。
「やっぱリョウはやればできる子なんだよな~」
「勉強楽しい」
調子のいいことを言うリョウに虹夏がツッコミを入れたりしながらも、順調に勉強会は進んでいった。
ひとり達が勉強に集中している間に、気付けば日は落ちていた。
そんな時、ひとりのおなかが小さく鳴った。ひとりが恥ずかしそうにお腹を抑える。
藍伽が時間を確認すると勉強を始めてからかなりの時間が経っていた。
「ひとり、今日はここでご飯も食べていくか?」
「いいの?」
「たまには良いだろ。何が食べたい? ひとりが好きなやつ作ってやるよ」
「久しぶりにお兄ちゃんのハンバーグ食べたい」
「分かった。うでによりをかけて作ってやる」
はえー、料理も出来るんだ、と言う顔をしている虹夏たちに向き直る。
「良かったら今日はみんなも食べてくか?」
「え、いいんですか? 迷惑なんじゃ……」
「それくらい迷惑なんかじゃないさ。それにひとりが世話になってるし、みんなには何かお礼がしたいと思ってたんだ」
藍伽の言葉に虹夏たちが顔を見合わせるが、応えは決まっていた。
三人は口をそろえて言う。
「「「お願いします!」」」
「よし、じゃあ勉強も一段落ついたしみんなでご飯食べるか!」
いの一番にリョウがノートを仕舞い始め、それを笑ってみながら藍伽も席を立って腰を伸ばす。
「でもさすがに材料がないから悪いけどちょっと材料買ってきてくれないか? その間に下準備しとくから」
「うん、分かった」
「あ、ならあたしは藍伽さん手伝います!」
普段から料理をしている虹夏がぴょんと手を上げた。
「ありがとう。じゃあ、カウンターに財布置いてるから三人は買い出しに行ってくれ。デザートにアイスとかも買っていいぞ」
「わーい」
「ふふ、なんだかお兄さんといるときの後藤さんいつもよりかわいいわ」
「ぼっち、その財布の管理は私に任せてほしい」
そんなことを言い合いながらひとりたち三人が、外に出ていった。
彼女たちを見送った藍伽と虹夏はキッチンに入る。
そこには、何種類もの包丁やお玉、鍋など多くのキッチン用品が収納されていた。
「うわー、いっぱい料理道具がありますね! 普段からよく使うんですか?」
「ん、いや、一人で食べるときに凝った料理は作らないから俺はそんなに使わないな」
(俺は? ぼっちちゃんのお母さんとかが料理しにくるのかな……?)
「気になるなら自由に使ってくれて構わないよ」
「あっはい、ありがとうございます!」
不思議に思いつつも、気を取り直して虹夏は藍伽と共に下準備を行う。
とはいえ、メインの材料もない状態なので出来ることはすぐに終わってしまった。
すると虹夏がシンクに残る食器に目を移す。
藍伽が後で片付けようと思って放置していた分だ。
「あ、お皿洗いとかあたしやっておきますね!」
「いやいや、そこまでやらせるわけにはいかないって。虹夏ちゃんはお客さんなんだし」
「いえ、逆にご飯も頂くんだからこれくらいはさせてくれないと申し訳ないくらいです! 勉強も教えてもらっちゃったし、藍伽さんはゆっくりしててください」
一歩も引かない虹夏の目を見て藍伽が折れた。
「なら、甘えさせてもらおうかな」
「はい! 任せてください!」
その後虹夏は気合を入れて、食器洗いをすぐに終わらせるとキッチンから出てきた。
しかし部屋の中に藍伽の姿は見えなかった。
どこに行ったんだろうと視線を巡らせると窓越しに、ベランダに立っている藍伽を見つけた。
彼は柵に腕をのせ、煙草を吸っているようだった。
虹夏がベランダにでると、それに気づいた藍伽がタバコの火を消そうとしたので虹夏はそれを慌てて止めた。
「消さなくても大丈夫ですよ! あたしが勝手に出てきちゃっただけだし煙草の匂いはそんなに嫌いじゃないから……」
「そうか? なら遠慮なく」
そういいながらも虹夏の方に煙がいかないように煙草を吸う藍伽の横顔を眺める。
日は暮れ、電気がともる街並みをバックに煙草を吸う藍伽はやたらと様になっていた。
どこか甘い煙草の香りが虹夏の鼻をくすぐり、遠くから町の喧騒が小さく聞こえてくる。
そんなどうでもいいことが頭の中を占拠して、気付けば虹夏はぼーっと藍伽の姿を見ていた。
だから、藍伽が話しかけてきたとき、肩が跳ねてしまった。
「皿洗いありがとうな。助かったよ」
「……えっ! あっ、全然大丈夫です! いつもやってることだし……」
「そうか、偉いな。虹夏ちゃんは」
「そ、そんなこと、ない、です」
そんなやり取りをしていると、虹夏は急に自分の置かれた状況を自覚してなんだか緊張してきた。
ひとりの兄とはいえ、殆ど話したこともない男性と二人っきりで話しているのだ。
「……」
「それで、何か用だったか?」
虹夏が緊張で口を閉ざしていると、藍伽が外に視線を向けたままそう声をかけてきた。
それでようやく虹夏は緊張から解かれ藍伽に聞きたいと思っていたことを思い出した。
それは、先日のライブで藍伽がドラムを演奏をしている時から聞きたかったことだった。
「あっそうだ。ドラムについて聞きたかったんです。この間のライブでのドラム演奏凄かったし、どこで習ったのかなって」
「ああ、それか。実はな、虹夏ちゃんも知ってる人に教えてもらったんだよ。星歌さんから聞いてないか?」
「え、誰ですか?!」
虹夏の良いリアクションに笑みを浮かべながら藍伽は勿体ぶってゆっくりと煙草を吸ってから口を開いた。
「俺がドラム教わったのは、リナさんだ」
藍伽がそう言うと虹夏は驚いたように口をパカリと開いた。
「リ、リナさん……! って誰でしたっけ……?」
その反応を聞いて藍伽はずっこけそうになる。
昔、星歌の妹ちゃんにもドラム教えたんだぜ、と自慢していた彼女の姿が藍伽の脳裏を駆ける。
(名前も覚えてもらってないとは……哀れリナさん)
「昔、星歌さんと同じバンドでドラムやってたリナさんだよ。虹夏ちゃんもドラム教わったって聞いたぜ」
「あっ、そうだ! あのお姉さん!! お姉ちゃんのライブ初めて見た後、ドラム教えてもらうようになったんだった」
「思い出したか。まぁ小さい頃だって話だし覚えてなくても無理はないか」
「あ、あはは」
気恥ずかし気に頬を掻く虹夏だったが、小学生くらいの話らしいのでリナさんの名前を忘れているのも当たり前かもしれない。
でも彼女の名誉のためにもこのことは黙っていよう。
「でもそうだったんだ! もしかしてお姉ちゃんとはそれで知り合ったり?」
「そうそう、リナさんに会いに来た星歌さんとあったのが初めての出会い」
あの時藍伽はかなり焦った。
原作キャラに会うつもりなんてなかったのに、お世話になっていたドラマーが伊地知星歌のバンド仲間だなんて思わなかったから。
「へー、そのリナさんとどうやって出会ったんですか?」
「……まぁ、それは色々とな」
咄嗟に誤魔化したが、本当は藍伽が高校生の時、ギターをやめて家にも帰らなくなっていたころに声をかけてくれて、そのまま家にいてくれていいと言ってくれたのがリナさんだった。
最も荒れていた時に出会った人だったので色々と醜態をさらしたし、リナさんにも星歌さんにも凄く迷惑をかけた。
とはいえ思い出したくないような記憶ではない。
当時ギターを弾く気は起きなかった俺にリナさんが気まぐれにドラムを教えてくれたおかげで今ドラムもやれるようになっているし、他にもいろいろとお世話になったので彼女たちにはいまだに頭が上がらない。
「でもそっかー、藍伽さんもリナさんに教えてもらってドラム始めたのか」
虹夏がぽつりと言ったその口調は偶然を面白がっているようだったのに、顔は何故か暗かった。
藍伽が何も言わずに黙っているとしばらくすると、虹夏は決意を込めた表情で藍伽に向き直った。
「あの」
「どうした?」
「あたしは藍伽さんよりもドラムが上手いと思っています。でも、あのライブの時のドラムはあたしが比べ物にならないくらい凄かった!」
藍伽は目線で続きを促す。
「お姉ちゃんにもお前のドラムは上手いだけだっていわれたことがあります。でも、それじゃああたしの夢は叶えられない……! だから、あたしに凄いドラムを叩く方法を教えてください!!」
お願いします! と決意を込めた表情で虹夏は頭を下げる。
実は最近、虹夏は焦っていた。
この前、ひとりがギターヒーローだということが判明した。憧れの人とバンドを組めるのは嬉しかったが、ひとりが本来の実力を発揮できるようになれば自分では足手まといにしかならないのでは、という思いがあったのだ。
それにひとりだけではない。
リョウのベースは元々高校生の中では飛び抜けて上手かったし作曲だってできる。郁代も今はまだまだとはいえ凄まじいスピードでギターも歌も上達している。メンバーの中でも成長速度という面ではピカイチだった。
そんなメンバーに囲まれて、虹夏はドラマーとしての自信が揺らいでしまっていた。
上手いが、上手いだけと評されるようなドラムのままでは皆において行かれてしまう……。それは絶対に嫌だった。
だから虹夏は、あの人の意識を引き込むようなドラムを叩いた藍伽に教えを乞うたのだ。
藍伽は元々ドラマーでもなくドラム歴は自分の方が長かったが、彼に頭を下げるのにも躊躇はなかった。
そんなことに躊躇うほど、彼女の夢は安くはないのだ。
言葉にせずとも、そんな虹夏の覚悟を感じ取った藍伽は、大きく煙を吐き出すと、まだ長い煙草を灰皿に押し付けてもみ消した。
そして未だに頭を下げている虹夏に向くと、口を開いた。
「正直俺はなにか特別なことをやってるわけじゃないから、虹夏ちゃんの言うすごい演奏のやり方は分からないから教えられない。勉強の時と一緒だな。だから出来るのは思ってることを言うだけだ。それが君の求めるものかも分からない」
「それでもいいです。教えてください!」
ふぅと一息つくと藍伽は口を開く。
「虹夏ちゃんはさ、いい子だよな。普段からひとりもお世話になってるし、個性的なメンバーをよく支えて、まとめてると思う。そんなに優しくてしっかりしてる虹夏ちゃんだからこそみんなは虹夏ちゃんを頼りにしてるし、ひとりもバンドを続けられてるんだと思う」
ドラムの話かと思ったら突然、全然関係のない話が始まって虹夏は困惑して頭を上げるが、それにかかわらず藍伽は続ける。
「多分それは演奏中でも同じなんじゃないかな。一番後ろからみんなの様子がよく見えるから、自分が支えてあげなきゃ、って思って皆に合わせながらドラムを叩いてる。違うか?」
思い当たる節は多くあったので虹夏は素直に頷く。
「それは正しいドラムの在り方の一つだと思う。そんな頼りにできるドラムが後ろにいるからこそ皆のびのび演奏できるしな。でもだからって、ドラムをみんなを支えるためだけに叩く必要はないんだよ」
「だって
「だから、俺のできるアドバイスとしてはもっと身勝手にわがままに楽しくドラムを叩け! ってことくらいかな」
そしたらきっとそれに虹夏ちゃんを頼りにしてるひとりたちも応えてくれるはずだ、と続けた藍伽の言葉が虹夏の心にすっと入ってゆく。
「……そっか、あたしももっと楽しんで演奏してもいいんだ。どんな時もあたしについてこいってみんなを引っ張るような! そんなかっこいいドラムを目指せばいいんだ……!」
そう言ってこぶしを握り込む虹夏の表情は晴れ晴れしたもので、笑顔を浮かべながら虹夏は再度藍伽に頭を下げた。
「藍伽さんありがとうございました! おかげで目標が決まったような気がします」
「そうか。なにか力に慣れたならなによりだ」
「はい、とっても助かりました!」
「これからも頑張ってな。結束バンドには期待してる」
「勿論です! 胸を張って凄いバンドになれたっていえるように頑張りますね!」
そんな前向きに目標を語る笑顔の虹夏を藍伽はなぜか見てられなくなってふいに虹夏から目をそらしてしまう。
そしてそんな自分に戸惑っているようだった。
その時、玄関の扉が開いてひとり達が帰ってきた。
かすかに開いた窓から、郁代たちの声が聞こえてくる。
「――みんな帰ってきたみたいだな。そろそろ戻ろうか」
「? はい」
妙な態度の藍伽に首をかしげながら虹夏は藍伽に続いて部屋に戻って三人と合流した。
その後、藍伽は皆に料理を振舞った。
金欠でここに来るまでにも野草まで食べていたリョウがハンバーグを食べた途端、その美味しさに滂沱の涙をながすというハプニングもあったが、楽しく食事を終え、急に始まった勉強会は幕を閉じた。